2008年5月22日木曜日

「同じ」と「違う」(5)~ 本質を見極める

抽象化とアナロジー、そして「同じ」によって人が物事を理解します。しかし、その理解は具体的な差異(「違う」ということ)を捨象して得られたものです。つまりその理解からは具体的な何かが失われている。ありのままの「物事それ自体」は理解されていないのです。

(補足)ここでは別にカントの「物自体」のような大げさなことを言っている訳ではありません。多分に牽強付会ではありますが、むしろフッサールの言う(「自然的態度」と対比させた上での)事象それ自体に近いという思いはあります。

誤解なのか、それとも本質を見抜いた理解なのか。どのようにして人は本質を見抜くことができるのか。

そもそも本質ってなんだよ、と思ったあなたは鋭いですね。ですが、ここでは「本質とは」という議論には踏み込みません。誤解ではなく、妥当な理解という定義に留めます。

では、抽象化しアナロジーによって把握した上でなおかつ誤解に至らないようにするには、どのようにしたらよいのでしょうか。

別にあっと驚くような意外な方法論があるわけではありません。本質に近づくためには、まず抽象化して削ぎ落とす前に、十分に具象を把握することが必要なのです。それからアナロジーによって把握すると同時に、そのアナロジーが取りこぼした差異をできるだけ把握しておくことです。

その努力を怠れば、粗雑な抽象化による乱暴な認識に留まってしまいます。

当たり前のことですね。

例を上げればきりがありません。
ブラックバスだろうがフナだろうが魚は魚。同じだろう。在来種だろうが外来種だろうが木は木だ。草は草だ。その認識が生態系の破壊をもたらします。自然界は微妙なバランスの上に成り立っている。放っておけば(あるいは粗雑な理解で介入すれば)荒れるばかりです。

あるいはシステムの理解もそうですね。OracleもDB2も同じだろう。要は同じRDBMSだ。安ければいい。ある意味では本質的な意見ではあります。例えば経営層などであれば、SQLの方言だとか細かい使い勝手の差異を気にする必要はありません。しかし「OracleもDB2も同じだ」という認識ではプロジェクトは回りません。発生する障害の種類がまるで違う。互換性が違う。サポートが違う。個々の機能の名前と実装が違う。

そのように同じ物を別のレベルで抽象化して見てしまっている両者が話をする時は、お互いに垣根を乗り越える必要があります。残念ながらその垣根を越えさせられるのは、大抵弱い立場の人間(ベンダーや現場の人間)であるわけですが。

偉い人も含めて、われわれが普段周りの世界を乱暴に認識していることにも気がつくべきでしょう。世の中はそんなに単純ではない。自然にしてもシステムにしても、単純に抽象化して割り切れるようなものではないのです。

(一旦終了)

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