自分は自分である
ゴキブリはゴキブリだ
以上は「AはAである」という構造を持っています。言い換えればAとAは同じだ、ということです。
では
自分は自分ではない
ゴキブリはゴキブリではない
はどうでしょう。AとAが違う、ということでこれはほとんど論理的には矛盾していますね。
以上より、A=Aは真だし、A≠Aは偽だということが一般に言えます。
(何をつまらんことを言っているんだ、という声が聞こえてきそうです。もう少々お付き合い下さい)
しかし、実はここに大きな問題があるのです。
具体的に考えて見ましょう。具体的に、というのは実際に存在する事物についてです。ここでは事物を空間的に位置を占め、重さを持つものとします。
すると、どうなるか。
目の前に缶コーヒーが二本あるとします。同じメーカーの、同じ種類の缶コーヒーです。同じ自動販売機で、午前と午後に一本ずつ購入したものです。
この二本の缶コーヒーは「同じ」なのでしょうか。
ブランドが同じ。種類が同じ。価格が同じ。同じに決まっている。
果たしてそうでしょうか。
「同じ」としている主語に注目して下さい。「同じ」としているのは缶コーヒーではありませんね。すべて缶コーヒーの言わば属性とも言うべきものです。缶コーヒーそれ自体ではない。もう少し言えばその属性も先ほど定義した「事物」ではない。
缶コーヒーそれぞれは、同じではないのです。なぜなら空間的に別の位置を占めているからです。座標が違うものは同一ではありえません。つまり、世の中に存在する事物に、同じ物は一つとして存在しないのです。
「同じ」は実体=事物的な存在ではありません。「同じ」とは価値評価に過ぎません。
言い換えれば「同じ」は人間の頭に存在する概念でしかありません。
ところがあたりを見れば「同じ」事物があふれているように見える。それは頭が周りの事物を「同じだ」「同じだ」と強制的にラベリングしているからなのです。
(続く)
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