2008年11月28日金曜日

偽善とか自己満足という言葉が気になっていた

気になりますよね。え?気にしたことなんかないって?そうか・・・私だけか。時々妙に「自己満足?偽善?」って考えこんじゃうんだけどな。

確かに青臭い同士学生の議論じゃあるまいし、大人になってしまえば「それはお前の自己満足だ」とか「偽善だ」などと決め付けられる機会も滅多にありませんね。それにたとえ他人から決め付けられるても「それがどーした」「ほっとけ」で済みます。オレが満足しようがしまいがお前の知ったことか。2ちゃんかどこかの標語にありましたが「しない善よりする偽善」。客観的な成果がでればいいじゃないか。だいたいお前には善が分かっているのか。お前はブッシュ大統領か、と。

そもそも、「自己満足」と「偽善」という言葉を平然と並べているが、関係あるのか、と。一括りにして語る意味があるのか。そんな声も聞こえてきそうです。

う~ん。そのとおりかもしれません。でも引っかかる。昔から幾度か反芻させられてきた言葉なんです。非難と若干の責める側の優越感を漂わせたこの言葉。「自己満足で終わってないか?」「それは偽善じゃないのか?」

なぜそれほどまでにこの言葉に引っかかるんだろう。ちょっと考えてみました。

両者の共通点って何だろう。

それはこれらの言葉が二つとも、その程度で満足していいのか、それでいいと思っているのか、と人に根底的に問いかける意図を持って発せられる、まずはそこが共通する点であるように思えます(言葉の裏にひそむ悪意や揶揄は考えないことにしましょう。ストレートに問いかけられたとします)。

お前の人生それでいいのか?大きなお世話だといえばその通りですが、私はふと足を止めて考えてしまう。俺はこれまで正しいことをしてきたのだろうか。これでよかったのか?でも次の瞬間にその問いを忘れてしまう。今日中に完了しなければならない仕事がある。あるいは子供が呼んでいる。一時的に私はその問いを忘れてしまう。でも忘れたつもりでもその問いは心の奥深くに沈殿し、再び浮かび上がる機会をじっと待っている。

お前の人生それでいいのか?実に青臭い問いかけです。あるいは人生を知らない浅い問いなのかもしれません。昔は常に自問していたような気がします。これでいいんだろうか。俺は何をしたいんだろうか。何をすべきなんだろうか。でも年を取るにつれてそんな問いは忘れていった。仕事も収入もあり、養うべき家族もいる。いまさら根本的に反省する必要などない。それより日々働いて家族と暮らすので精一杯。

希望や挫折や将来の不安で押しつぶされそうになりつつ、何ごとかを成し遂げたいと考えていたかつての自分。むやみに焦り、イライラとしながら周りを軽蔑し、でも何が出来るわけでもなく独り悶々と過ごしていた昔の"俺"。そんな"俺"が今の私を見たら何と言うだろうか。今の人生でいいのか。それでお前は本当に良かったのか。そんなふうに厳しく問い詰めてくるのかもしれません。

昔の自分と今の自分が顔を見合わせたとき、恥ずかしそうに去って行くのは今の"私"の方なのでしょうか。それとも昔の"俺"?

「自己満足」とか「偽善」という言葉を聞くと、かつての青臭い自分を思い出すような気がする。それがこの言葉が引っかかる理由なのかも知れません。

生きて行くために失われるもの。それは失われる必然性があったのか、それとも失われるべきではなかったのか。

死ぬときに自分の人生を肯定できれば、それでいい。そんな気がします。
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