楽しい手帳の季節がやってきました。どの会社も商品の差別化を頑張ってますね。結局のところ手帳なんかどれも大した違いはないわけで、「うちの手帳こそ!」という売り文句を考えるのは難しいはず。要はカレンダーとメモでしょう。そこを無理矢理頑張って「夢が現実化する手帳」とか「成功する手帳術」とか見ていてとても楽しい。んなアホなって感じで。
いや、まあそんな馬鹿にしているとか、そういうのも少しはありますが、やっぱり手帳やシステム手帳って魅力的な商品ですね。手帳に予定を書くとか、メモを取る、なんてその行為だけでうっとりする。昔のメモに書いたアイデアが膨らんで、今素晴らしい結果を出すようなことがあるかもしれない。うん。素晴らしい。手帳は必要だ。
私も昔はシステム手帳に憧れがありました。試しに安いペラペラのシステム手帳を買ってみたりもしたんですが、結局ほとんど使わなかった(使えなかった)。若い頃は記憶力もあったし、何より暇で予定なんかなかったから。それからも幾度か「ひょっとして高いシステム手帳を買ったら頑張って使うんじゃなかろうか」と血迷って高いのを買いそうになっては、しかしどうせ使いこなせないんだろうな、と踏みとどまったものです。
というわけで手帳なんかここ7,8年は買ったことないです。私はノートと携帯のカレンダーで済ませてます。(何だそりゃ)
(以上)
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モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
2008年10月23日木曜日
格差について(3)
前回「格差を作っているのは実はわれわれかもしれない」という終わり方をしたのですが、どうも気になってしばらく考えてしましました。
確かにわれわれには成功者になりたい、という欲望がある。そして誰かが社会で成功すれば、一方で敗者が生まれます。もちろん共存共栄の場合もあるでしょう。しかしながら、むしろ誰かが多く取れば誰かの取り分が無くなるというゼロサムゲームであるというのが現実でしょう。
つまりわれわれ一人一人が成功しようと努力したり、その成功の結果を享受しようとすれば、必然的に格差が生まれるわけです。人が努力し才能を生かすことは明らかに正しいことだと思います。従って格差自体は悪ではない。
しかし、格差は悪ではないとしても、法外な報酬を取っておきながら社員を大量にレイオフするなんてことは倫理的に許されるはずがない。
ではどうすればいいか。われわれが格差を作り出しているとすれば、たとえ効果は少なくとも格差を生まない行動を選択し続ければよい。例えばビル・ゲイツが気に入らないならLinuxを使うとか。ウォルマートでは買い物をしないとか。
ところがこの考え方には限界があります。日雇いや派遣社員と正社員との格差がそうです。この場合、いくら格差が気に入らないといっても希望すれば派遣社員から正社員になれるわけではありません。派遣を辞めれば収入が途絶える。正社員の口はない。いくら間違っていると思っても、動けないのです。もはや派遣ビジネスというシステムに組み込まれてしまっている。自分の力ではどうしようもない、そんなところまで追い詰められている人も少なくないのではないでしょうか。
恐らく共産主義が理想的に機能すれば経済的な格差はなくなるでしょう。ですがソビエトや中国の例を見れば話はそう簡単ではないことは誰にでも分かると思います。ソビエト連邦や東ドイツが崩壊した時「今こそマルクスを見直そう」と(極めて狭い範囲で)批評家や哲学者が言いましたが、もはやマルクシズにリアリティを感じる人は誰もいないと思います。
どうすればいいのか。今のところ私にも答えはありません。
(以上)
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確かにわれわれには成功者になりたい、という欲望がある。そして誰かが社会で成功すれば、一方で敗者が生まれます。もちろん共存共栄の場合もあるでしょう。しかしながら、むしろ誰かが多く取れば誰かの取り分が無くなるというゼロサムゲームであるというのが現実でしょう。
つまりわれわれ一人一人が成功しようと努力したり、その成功の結果を享受しようとすれば、必然的に格差が生まれるわけです。人が努力し才能を生かすことは明らかに正しいことだと思います。従って格差自体は悪ではない。
しかし、格差は悪ではないとしても、法外な報酬を取っておきながら社員を大量にレイオフするなんてことは倫理的に許されるはずがない。
ではどうすればいいか。われわれが格差を作り出しているとすれば、たとえ効果は少なくとも格差を生まない行動を選択し続ければよい。例えばビル・ゲイツが気に入らないならLinuxを使うとか。ウォルマートでは買い物をしないとか。
ところがこの考え方には限界があります。日雇いや派遣社員と正社員との格差がそうです。この場合、いくら格差が気に入らないといっても希望すれば派遣社員から正社員になれるわけではありません。派遣を辞めれば収入が途絶える。正社員の口はない。いくら間違っていると思っても、動けないのです。もはや派遣ビジネスというシステムに組み込まれてしまっている。自分の力ではどうしようもない、そんなところまで追い詰められている人も少なくないのではないでしょうか。
恐らく共産主義が理想的に機能すれば経済的な格差はなくなるでしょう。ですがソビエトや中国の例を見れば話はそう簡単ではないことは誰にでも分かると思います。ソビエト連邦や東ドイツが崩壊した時「今こそマルクスを見直そう」と(極めて狭い範囲で)批評家や哲学者が言いましたが、もはやマルクシズにリアリティを感じる人は誰もいないと思います。
どうすればいいのか。今のところ私にも答えはありません。
(以上)
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2008年10月22日水曜日
RAD7.5(Rational Application Developer v7.5)でJSFを試す
RAD7.5の試用版を半日がかりでダウンロードしました。WebSphere Applicaition Server v7.0一式が含まれているせいでむちゃくちゃサイズ大きいです。インストールは思ったよりも早く出来たかな。2時間はかかってないように思います。
例のJSFのチュートリアルを試しました。最初のところだけですけどね。しかし意外や意外。全く問題なし。少しは引っ掛かってくれないと記事にならないんですが。
さすが標準仕様の威力でしょうか。MyFacesと全く同じコードが動いています。素晴らしい。
以下メモです。
▽ JSFプロジェクトとかにする必要はありません。素の動的Webプロジェクトでも問題ありません。
▽ JSFの実装はWASのj2ee.jarに含まれています。つまり*.jarをlibに入れる必要はありません。
▽ "java.lang.Object を解決できません"というエラー発生。
プロジェクトの「プロパティ」>「Javaのビルド・パス」-ライブラリー(L)タブ>「JREシステム・ライブラリー」を選択して「編集(E)」ボタンをクリック>「代替JRE WAS v7.0なんとか」ラジオボタンが選択されているので「ワークスペースのデフォルト JRE(D)」を選択で解決しました。
以上。
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例のJSFのチュートリアルを試しました。最初のところだけですけどね。しかし意外や意外。全く問題なし。少しは引っ掛かってくれないと記事にならないんですが。
さすが標準仕様の威力でしょうか。MyFacesと全く同じコードが動いています。素晴らしい。
以下メモです。
▽ JSFプロジェクトとかにする必要はありません。素の動的Webプロジェクトでも問題ありません。
▽ JSFの実装はWASのj2ee.jarに含まれています。つまり*.jarをlibに入れる必要はありません。
▽ "java.lang.Object を解決できません"というエラー発生。
プロジェクトの「プロパティ」>「Javaのビルド・パス」-ライブラリー(L)タブ>「JREシステム・ライブラリー」を選択して「編集(E)」ボタンをクリック>「代替JRE WAS v7.0なんとか」ラジオボタンが選択されているので「ワークスペースのデフォルト JRE(D)」を選択で解決しました。
以上。
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2008年10月21日火曜日
格差について(2)
スポーツ選手を例に取ってみれば、相当なリスクを抱えながら(ケガ、不調、不人気、短い選手生命)、自己を鍛練し、報酬を得るわけですから、まああんたらスゲーよ、としか言いようがないというか、多少高額な報酬を貰っていてもしょうがないかな、という気がしないでもありません。
才能があり、厳しい競争を勝ち抜いてきた人が多額の報酬を受け取る。そのこと自体は当然のことだと思います。
しかし、話をビジネスに持ってくるとまた違うんじゃないか、という気がします。
なぜならいかに優れた人でも一人では何もできないからです。
人が成功するためには多くの要素が必要です。アイデアの質。ビジネスのスキームを作り出す才能。チャンスがあること。人を集め、動かす才能。人脈。そして幸運。純粋にその人の才能だけで成功するのは難しいといっていいでしょう。
そのように大きな成功というのは非常に稀ですから、誰かが一旦成功するとそこに偶像が作られることになる。その偶像はしばしば強いオーラを放っています。あの人なら大丈夫だろう。あの人に投資すれば利潤が上がる。人と金の集まるオーラです。そしてその人の周りに新たなチャンス、資本、協力者が増えて行く。いい循環が作られます。
裏を返せば、どんなカリスマでもその人をカリスマたらしめる大勢の人たちが支えているという訳です。
しかし、経営者が莫大な報酬を取る会社では、結果としてカリスマの周りで循環する金は、あまり広い範囲には落ちてこないように見える。私の想像ですが、金は恐らく狭い世界で動いているに違いない。その世界にいるのは投資した大株主、別のカリスマたちでしょうか。地道に支えるサラリーマンには多くは回って来ないように見える。
20対80の法則からすれば、会社には8割の利潤を上げる2割の人と2割の利潤しか上げない8割の人がいる。莫大な報酬を得る経営者にとっては、そしてその8割の人はリストラ対象としてしか見られないでしょうし、ひょっとしたら上位2割のうちの8割すらもリストラ対象かもしれません。実際アメリカのレイオフってすさまじい印象があります。数字のためには労働者の人生を狂わせることもいとわない、という訳です。また、恐ろしいことにそれが市場から評価されさえもする。(市場=大株主/投機家)
確かに使えない奴はいるし、使える奴もいる。でも使える/使えないだけで人を判断すべきではないのです。
イタタ。何を青臭いことを言っているんだ。使えない奴は要らない。そんな奴はこの社会で生き延びることはできない。当たり前じゃないか。
でも、仕事で使えないかもしれないけど、何かの役に立つかもしれないじゃないですか。その人がダメでも、その子供が何とかするかもしれない。人の価値・無価値は一概には言い切れないはずです。残念ながら今の社会は使えない人を生かす余裕が完全に失われてしまっています。
「夜と霧」のフランクルが嘆いたように、今の社会/会社では人は単なる利潤を上げる手段となってしまった。しかもそのことが疑われることもない。
人には格差がある。それは事実です。でも、だからといって法外なほど賃金に格差があったり、チャンスに格差があるのは間違っています。
放っておけば確実に格差は拡大します。古い付き合いの友人にはどうしたって手を差し伸べる。成功者たちは成功者たちと付き会うことを望むでしょう。それに誰だって自分の子供はかわいい。そして成功者とその一族のコミュニティで金が循環するのです。
残念ながらわれわれ一般人には、格差を縮小させることは難しいように思います。でも少なくともカリスマとされている人をよく見ることはできる。その人が言ったとされる言葉について考えることができる。二世だから、マスコミから褒められているから、という理由で無批判にあがめる必要もありません。ある程度は地位が人を作る。しかしその人自身の徳や才能があるはず。本当に素晴らしい人かもしれないし、実は中身空っぽかもしれない。あるいは強欲で冷徹な人間かも知れません。
高額な報酬を貰っているからといって、その人をあがめる必要はない。当たり前のことですが、そう考えると少しは余裕が出てきます。所詮は強欲なにいちゃんじゃないか。二世だけが看板で、大した人間じゃないな。見極めることが出来たらその人から離れて行けばいい。支持しなければいい。そうすればカリスマはカリスマでなくなる。
格差を作り、助長しているのは実はわれわれ一般人なのかもしれませんね。
(続く)
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才能があり、厳しい競争を勝ち抜いてきた人が多額の報酬を受け取る。そのこと自体は当然のことだと思います。
しかし、話をビジネスに持ってくるとまた違うんじゃないか、という気がします。
なぜならいかに優れた人でも一人では何もできないからです。
人が成功するためには多くの要素が必要です。アイデアの質。ビジネスのスキームを作り出す才能。チャンスがあること。人を集め、動かす才能。人脈。そして幸運。純粋にその人の才能だけで成功するのは難しいといっていいでしょう。
そのように大きな成功というのは非常に稀ですから、誰かが一旦成功するとそこに偶像が作られることになる。その偶像はしばしば強いオーラを放っています。あの人なら大丈夫だろう。あの人に投資すれば利潤が上がる。人と金の集まるオーラです。そしてその人の周りに新たなチャンス、資本、協力者が増えて行く。いい循環が作られます。
裏を返せば、どんなカリスマでもその人をカリスマたらしめる大勢の人たちが支えているという訳です。
しかし、経営者が莫大な報酬を取る会社では、結果としてカリスマの周りで循環する金は、あまり広い範囲には落ちてこないように見える。私の想像ですが、金は恐らく狭い世界で動いているに違いない。その世界にいるのは投資した大株主、別のカリスマたちでしょうか。地道に支えるサラリーマンには多くは回って来ないように見える。
20対80の法則からすれば、会社には8割の利潤を上げる2割の人と2割の利潤しか上げない8割の人がいる。莫大な報酬を得る経営者にとっては、そしてその8割の人はリストラ対象としてしか見られないでしょうし、ひょっとしたら上位2割のうちの8割すらもリストラ対象かもしれません。実際アメリカのレイオフってすさまじい印象があります。数字のためには労働者の人生を狂わせることもいとわない、という訳です。また、恐ろしいことにそれが市場から評価されさえもする。(市場=大株主/投機家)
確かに使えない奴はいるし、使える奴もいる。でも使える/使えないだけで人を判断すべきではないのです。
イタタ。何を青臭いことを言っているんだ。使えない奴は要らない。そんな奴はこの社会で生き延びることはできない。当たり前じゃないか。
でも、仕事で使えないかもしれないけど、何かの役に立つかもしれないじゃないですか。その人がダメでも、その子供が何とかするかもしれない。人の価値・無価値は一概には言い切れないはずです。残念ながら今の社会は使えない人を生かす余裕が完全に失われてしまっています。
「夜と霧」のフランクルが嘆いたように、今の社会/会社では人は単なる利潤を上げる手段となってしまった。しかもそのことが疑われることもない。
人には格差がある。それは事実です。でも、だからといって法外なほど賃金に格差があったり、チャンスに格差があるのは間違っています。
放っておけば確実に格差は拡大します。古い付き合いの友人にはどうしたって手を差し伸べる。成功者たちは成功者たちと付き会うことを望むでしょう。それに誰だって自分の子供はかわいい。そして成功者とその一族のコミュニティで金が循環するのです。
残念ながらわれわれ一般人には、格差を縮小させることは難しいように思います。でも少なくともカリスマとされている人をよく見ることはできる。その人が言ったとされる言葉について考えることができる。二世だから、マスコミから褒められているから、という理由で無批判にあがめる必要もありません。ある程度は地位が人を作る。しかしその人自身の徳や才能があるはず。本当に素晴らしい人かもしれないし、実は中身空っぽかもしれない。あるいは強欲で冷徹な人間かも知れません。
高額な報酬を貰っているからといって、その人をあがめる必要はない。当たり前のことですが、そう考えると少しは余裕が出てきます。所詮は強欲なにいちゃんじゃないか。二世だけが看板で、大した人間じゃないな。見極めることが出来たらその人から離れて行けばいい。支持しなければいい。そうすればカリスマはカリスマでなくなる。
格差を作り、助長しているのは実はわれわれ一般人なのかもしれませんね。
(続く)
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格差について(1)
asahi.comの「物価高を実感? 首相がスーパー視察、夕食は帝国ホテル」(http://www.asahi.com/politics/update/1019/TKY200810190137.html)という記事はよくできてますね。麻生が物価高を実感するためにスーパーに行ってトンチンカンなやり取り(記事からはそう受けとれる)をした後、帝国ホテルで夕食を取った、という内容。記事のヘッダーが実に的確です。そして政界のサラブレッド、お金持ち麻生のキャラクターが見事に揶揄されています。
さて、それはさておいて、もはや政治的に落ち着いてきたと思われる「格差」というキーワードについて今更ながら考えてみたいと思います。
「格差」という事象の扱いについては、世間・マスコミではほぼ一定のコンセンサスが出来てきたように思います。
日雇い/派遣/契約社員の問題。下流(中下流)と上流階級という図式(asahi.com)。格差先進国のアメリカを元に警告するもの。そして教育の格差から不安を煽るもの(ダイヤモンド社)。
私の見解も大したものではありません。格差はよくない。法外な給与(日本の一部の経営者、アメリカの経営者、マネーゲームの勝者)もいかがなものか。そんなところでしょうか。
しかし考えてみれば、格差やむなし、と思う自分のどこかにある。といっても給与の格差を是認しているわけではありません。ドラッカーもどこかで「経営者の給料は社員の20倍(だったかな?)を超えたらいけない。倫理的に許されない。今のアメリカの社会はおかしい」と言っていたと思います。常識的に考えてもやっぱり法外な報酬はいかんと思う。そうではなくて才能や能力の格差です。他には残念ながら家柄の格差もある。
スポーツ界では残酷なほどその格差が出ます。イチローや松井と一般人との違いは驚異的です。150kの硬球を打てる一般人はそうはいません。もちろん彼らは相当な努力をしている訳ですけど。
ビジネス界ではコネの格差が効いてきます。そこそこの会社の社長の息子であればいろいろと便宜が図られるのは間違いないでしょう。数億、数十億のビジネスを動かせる人を知っているかどうか。その人から目を掛けられているか。いるといないとでは大きな違いです。
伝統芸能は言うまでもありませんし、芸能人としてデビューする際にもコネの格差は効いてきます(二世というだけで生き延びられるほど甘い社会じゃないとは思いますが)。
戦後の教育(人は平等・差別はだめよ)によって覆い隠されてはいますが、日本社会では二世とか家柄というのが実に好まれるようです。また残念ながら負のベクトルにもそれは向かってます。
プロジェクトに入っていれば人によって生産性の格差があることがすぐに分かります。5倍、10倍の差だって珍しくありません。努力でカバーできることもありますが、努力もまた才能でしょう。やはりデキる人はデキるし、ダメな人はダメなのです。考えてみれば残酷で夢のない話です。でもありていに言ってしまえばそれが人生なのでしょう。
(続く)
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さて、それはさておいて、もはや政治的に落ち着いてきたと思われる「格差」というキーワードについて今更ながら考えてみたいと思います。
「格差」という事象の扱いについては、世間・マスコミではほぼ一定のコンセンサスが出来てきたように思います。
日雇い/派遣/契約社員の問題。下流(中下流)と上流階級という図式(asahi.com)。格差先進国のアメリカを元に警告するもの。そして教育の格差から不安を煽るもの(ダイヤモンド社)。
私の見解も大したものではありません。格差はよくない。法外な給与(日本の一部の経営者、アメリカの経営者、マネーゲームの勝者)もいかがなものか。そんなところでしょうか。
しかし考えてみれば、格差やむなし、と思う自分のどこかにある。といっても給与の格差を是認しているわけではありません。ドラッカーもどこかで「経営者の給料は社員の20倍(だったかな?)を超えたらいけない。倫理的に許されない。今のアメリカの社会はおかしい」と言っていたと思います。常識的に考えてもやっぱり法外な報酬はいかんと思う。そうではなくて才能や能力の格差です。他には残念ながら家柄の格差もある。
スポーツ界では残酷なほどその格差が出ます。イチローや松井と一般人との違いは驚異的です。150kの硬球を打てる一般人はそうはいません。もちろん彼らは相当な努力をしている訳ですけど。
ビジネス界ではコネの格差が効いてきます。そこそこの会社の社長の息子であればいろいろと便宜が図られるのは間違いないでしょう。数億、数十億のビジネスを動かせる人を知っているかどうか。その人から目を掛けられているか。いるといないとでは大きな違いです。
伝統芸能は言うまでもありませんし、芸能人としてデビューする際にもコネの格差は効いてきます(二世というだけで生き延びられるほど甘い社会じゃないとは思いますが)。
戦後の教育(人は平等・差別はだめよ)によって覆い隠されてはいますが、日本社会では二世とか家柄というのが実に好まれるようです。また残念ながら負のベクトルにもそれは向かってます。
プロジェクトに入っていれば人によって生産性の格差があることがすぐに分かります。5倍、10倍の差だって珍しくありません。努力でカバーできることもありますが、努力もまた才能でしょう。やはりデキる人はデキるし、ダメな人はダメなのです。考えてみれば残酷で夢のない話です。でもありていに言ってしまえばそれが人生なのでしょう。
(続く)
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