2008年10月21日火曜日

格差について(2)

スポーツ選手を例に取ってみれば、相当なリスクを抱えながら(ケガ、不調、不人気、短い選手生命)、自己を鍛練し、報酬を得るわけですから、まああんたらスゲーよ、としか言いようがないというか、多少高額な報酬を貰っていてもしょうがないかな、という気がしないでもありません。

才能があり、厳しい競争を勝ち抜いてきた人が多額の報酬を受け取る。そのこと自体は当然のことだと思います。

しかし、話をビジネスに持ってくるとまた違うんじゃないか、という気がします。

なぜならいかに優れた人でも一人では何もできないからです。

人が成功するためには多くの要素が必要です。アイデアの質。ビジネスのスキームを作り出す才能。チャンスがあること。人を集め、動かす才能。人脈。そして幸運。純粋にその人の才能だけで成功するのは難しいといっていいでしょう。

そのように大きな成功というのは非常に稀ですから、誰かが一旦成功するとそこに偶像が作られることになる。その偶像はしばしば強いオーラを放っています。あの人なら大丈夫だろう。あの人に投資すれば利潤が上がる。人と金の集まるオーラです。そしてその人の周りに新たなチャンス、資本、協力者が増えて行く。いい循環が作られます。

裏を返せば、どんなカリスマでもその人をカリスマたらしめる大勢の人たちが支えているという訳です。

しかし、経営者が莫大な報酬を取る会社では、結果としてカリスマの周りで循環する金は、あまり広い範囲には落ちてこないように見える。私の想像ですが、金は恐らく狭い世界で動いているに違いない。その世界にいるのは投資した大株主、別のカリスマたちでしょうか。地道に支えるサラリーマンには多くは回って来ないように見える。

20対80の法則からすれば、会社には8割の利潤を上げる2割の人と2割の利潤しか上げない8割の人がいる。莫大な報酬を得る経営者にとっては、そしてその8割の人はリストラ対象としてしか見られないでしょうし、ひょっとしたら上位2割のうちの8割すらもリストラ対象かもしれません。実際アメリカのレイオフってすさまじい印象があります。数字のためには労働者の人生を狂わせることもいとわない、という訳です。また、恐ろしいことにそれが市場から評価されさえもする。(市場=大株主/投機家)

確かに使えない奴はいるし、使える奴もいる。でも使える/使えないだけで人を判断すべきではないのです。

イタタ。何を青臭いことを言っているんだ。使えない奴は要らない。そんな奴はこの社会で生き延びることはできない。当たり前じゃないか。

でも、仕事で使えないかもしれないけど、何かの役に立つかもしれないじゃないですか。その人がダメでも、その子供が何とかするかもしれない。人の価値・無価値は一概には言い切れないはずです。残念ながら今の社会は使えない人を生かす余裕が完全に失われてしまっています。

「夜と霧」のフランクルが嘆いたように、今の社会/会社では人は単なる利潤を上げる手段となってしまった。しかもそのことが疑われることもない。

人には格差がある。それは事実です。でも、だからといって法外なほど賃金に格差があったり、チャンスに格差があるのは間違っています。

放っておけば確実に格差は拡大します。古い付き合いの友人にはどうしたって手を差し伸べる。成功者たちは成功者たちと付き会うことを望むでしょう。それに誰だって自分の子供はかわいい。そして成功者とその一族のコミュニティで金が循環するのです。

残念ながらわれわれ一般人には、格差を縮小させることは難しいように思います。でも少なくともカリスマとされている人をよく見ることはできる。その人が言ったとされる言葉について考えることができる。二世だから、マスコミから褒められているから、という理由で無批判にあがめる必要もありません。ある程度は地位が人を作る。しかしその人自身の徳や才能があるはず。本当に素晴らしい人かもしれないし、実は中身空っぽかもしれない。あるいは強欲で冷徹な人間かも知れません。

高額な報酬を貰っているからといって、その人をあがめる必要はない。当たり前のことですが、そう考えると少しは余裕が出てきます。所詮は強欲なにいちゃんじゃないか。二世だけが看板で、大した人間じゃないな。見極めることが出来たらその人から離れて行けばいい。支持しなければいい。そうすればカリスマはカリスマでなくなる。

格差を作り、助長しているのは実はわれわれ一般人なのかもしれませんね。

(続く)
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