2009年7月4日土曜日

子供用ラーメン、フォト、肉団子、サラダ

子供はサッポロ一番塩ラーメンが大好きです。濃いめに味付けした野菜炒めをのっけて子供に供します。

確かに美味いわな。でも、インスタントラーメンってそのプロセスを見るとまっとうな食べ物とは思えないわけで。ええと、偏見です。確かに美味いんですわ。でも、こんなにおいしいものが麺を茹でて粉を追加しただけでできるっつーのはどうしても納得いかないのです。とういわけで、大人は朝食の残りのアボカド・シュリンプサンド

午後は独りでフォト散歩。

L 神社。L 祭りの準備。
L 川沿い散歩。
L L 川です。
ディスク容量を微妙に節約するためにモノクロ写真にしてみました。

写真を撮りながら思った。哲学的な思考に惹かれるのは、結局自分がそれ系の素質を持っているからだな、と。いや、普通はそんなこと考えないんですけど、体調が悪かったり(多分イコールだけど)鬱気味になったりすると抽象的な思索にどうしようもなく引き込まれてしまう。ありのままのそれ自体に憧れながら、リアリティから乖離する自分。うがが。今日も若干飲み過ぎた。ダメだなあ。

  
ドレッシングです。レシピ本をアレンジしてみました。ゴマとしょうゆを追加。美味かったす。ブラウンのブレンダーがここでも大活躍。いや、ブレンダーとかミルとかミルサーとかミキサーとか、関係ないね。もうブレンダーで何でもやっちゃうよ。なあ。ええやんけ。ようやくドレッシングの別バリエーションができました。これまでゴマドレッシングしかなかったし。よかったよかった。

あとは肉団子。好評だったので先週に引き続いて作成です。
  
いやあ、手抜きで片栗粉(小麦粉というレシピもあり)をまぶさずに揚げたんですね。味変わるわけじゃねーし。とか思って。確かに味は変わらない(気がする)けど、表面が焦げるのが早い気がします。つけた方が美味そうに見えますね。

  
甘酢あん。今回はちゃんとオイスターソースを投入。前回は甘みと酸味が強い気がしたので(恐らくケチャップと酢と砂糖のバランスが問題)、今回はその辺も計算しましたよ。

結果はまずまず。まあ相当美味いと言ってもいいですが(自画自賛)、中華料理店の甘酢の深い味は出ませんでした。う~ん。何が違うんだろうな。
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アボカド・シュリンプサンド

久しぶりの夜間一時発酵。
(写真の横に"L"とあるのはやや大きめサイズです)

  
一枚目が夜。二枚目が朝。いい感じです。全粒粉は1kg使い切ってからは購入してません。個人的にはビタミンとか食物繊維が取れそうで嬉しいんですが、テクスチャ(=食感)が悪くなるからか全粒粉パンは不評なのです。

 
成型して焼きます。OK。

  
次はアボカドディップ。子供の大嫌いなアボカドじゃ。それからエビを茹でてキュウリを切ります。あとツナディップを作成。エビは安物を購入。


オシャレなカフェメシ(哂)って感じですか。ネタ元は「サンドイッチノート」柴田書店です。いろんなレシピがあって楽しい。

 L L
妻がエビを見たとたん残念な顔をしてたんですよ。ああ。おいしくないの買っちゃったねえ。そのときはカチンと来たけど、妻が正しかったよ。えびかに系がさほど好きじゃないので、こだわりもなかったし、知識もなかった。安いエビがこれほど美味くないとは。不味い!とまではいいませんが美味くない。

それ以外は上出来でした。アボカドは青みが感じられる野菜系油脂の、サラリヌメリとした不思議な味わい。ツナディップと合いました。パンも美味かった。ごちそうさま。

昼追記)
ちゃんとしたエビ(それでも安いやつ)を妻が買ってきたので、残りのパンとアボカドディップで食べました。歯ごたえも味もぜんぜん違いました。ムキエビは買っちゃダメだね。
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2009年7月2日木曜日

澁澤龍彦翻訳集第13巻「エロティシズム」ジョルジュ・バタイユ 河出書房新社

★★★★☆☆:東洋に近い気がする

図書館から借りてきたのでいつかは返却する必要あり。すなわち「デカルト的省察」より優先して着手。おもしろいです。この本。生と死。性と聖の対比が絶妙。読んでて唸ってしまいます。そうだよなあ。理性一辺倒じゃダメなんだよなあ。ダメというか理性じゃ人間は分からない。エロティシズムと死というのはかくもスリリングなテーマであったか。

生それ自体は死なない。死ぬのは個別の存在である。生は生殖と死というサイクルを通じて存在し続ける。太陽が赤色巨星となり地球を焼き尽くすまでは。

生殖行為と死が、禁忌(タブー)を引き起こす。

宗教とエロティシズムの裏に、禁忌との緊張関係、すなわち禁止と違反がある。禁止と違反を通して人は陶酔を経験する。陶酔とは臨死でありオルガスムである。

うう。深い。面白い。これについてはまたの機会に。

しかし、酒井健氏の翻訳と澁澤龍彦の翻訳は力量の差が歴然ですな。澁澤龍彦って何となく偽悪的・衒学的イメージがあってあまり好きじゃなかったんですが、酒井氏と比較するとその力量は認めざるを得ないかな。

酒井訳

生殖をおこなう存在は互いに異なっている。生み出された存在も相互に異なっているし、彼らを生み出した存在とも異なっている。各存在は自分以外のすべての存在と異なっている。各存在の誕生、死、そして生涯におけるさまざまな出来事は、他の存在たちに対し利害を及ぼしうるが、直接的に利害が及ぶのは当の存在だけなのだ。この存在だけが生まれ、この存在だけが死んでゆくのである。一個の存在と他の存在とのあいだには深淵があり、不連続性があるのだ。
この深淵は、たとえば、私の話を聞いているあなたがたとあなたがたに話しかけている私とのあいだにも横たわっている。私たちは交流しようと試みるが、私たちのあいだのいかなる交流も本源的な相違を消し去ることはできないだろう。あなたが死につつある場合でも、死につつあるのは私ではないのだ。私たち、すなわちあなたと私は、不連続な存在なのだ。

澁澤訳
生殖する存在は、互いに他とは別のものであり、生まれてきた存在は、彼らが彼らを生み出した存在とは別のものであるように、彼らたちのあいだでも互いに別のものである。個々の存在は、他の一切の存在と別のものである。その誕生も、その死も、その生きているあいだの出来事も、他の存在にとって何らかの利害関係はあるにせよ、直接にはその存在のみに関係のあることである。個々の存在はひとりで生まれ、ひとりで死ぬのである。ある存在と他の存在とのあいだには深淵があり、非連続性がある。
この深淵は、たとえば私の話を聞いているあなた方と、あなた方に話をしている私との間にも在るのである。私たちは交流しようとする。しかし、私たちのあいだのどんな交流も、ある根本的な差異を除き去ることは不可能であろう。あなたが死ぬとしても、死ぬのは私ではないのだ。私たちは、あなたも私も、非連続の存在なのである。
迫力が違いますよ。酒井氏の訳はうつろだ。死ぬのはお前だ。一生懸命話をしたって、個の存在の壁は乗り越えられない。お前は一人で生まれて、一人で死ぬんだ。生命それ自体は生き続ける。個々の存在は生殖し、そして死ぬ。そして生殖の結果は必然的に死だ。だが生それ自体は決して死ぬことがない。

エロティシズムと死がそこでつながる。永遠の生を志向する陶酔において。

まあ、この本はかなり面白いので、また取り上げたいと思います。
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そうだ。投票に行こう

模範的なタイトルですな。まあ、でもどんなにばかばかしくても、投票には行くべきじゃないかってそんな気がしたんですよ。きっかけは鳩山献金疑惑。匿名の献金が多いとか故人献金だとか。

まず思ったのは、これでも国策捜査はないと言い張るのか、と。この時期に鳩山の献金が騒がれてさ。国民をバカだと思ってるだろ。はい。バカでした。まあ、たとえ相手が利口であってもネガティブキャンペーンってのは有効なんですよね。アメリカの大統領選で悪口合戦になるのはそれが有効だからです。日本にはイヤなことわざもあります。「火のない所に煙は立たず」。

それから献金疑惑の裏でうごめいているであろう人々(恐らくは既得権益層ですかね。少なくとも民主の施策が気に入らない人たち)が透けて見えるのも気分が悪い。どんな大物が動かしているんですかね。おー怖い。

繰り返しますが、私は民主党を支持しているわけではありません。ただ夢がないだけ。現実は醜いというバイアスを持っているだけ。胡散臭い献金なんて当たり前だろうと思います。政治って金がかかるんでしょう。当たり前じゃないの?金がかかるから寄付が必要。寄付されれば見返りを期待する。多額の寄付をした誰かさんの見返りのおかげで健全な一般市民がイタい目に会うかもしれない。汚い話ですか。そうかも知れません。でもそれが現実でしょうよ。自民党だって大なり小なりそんなものでしょう。

まあ、それが最初の理由。すなわちブログを書いたモチベーション。

ではなぜ投票に行った方がいいか。

政治家の皆さんがわれわれ一般庶民を気にする理由はただ一つ。庶民が投票権を持っているからです。それ以外のことはもうどうでもよろしい。いやまあ中には庶民を幸福にしたいとか、そういう崇高な動機もあるかもしれぬ。じゃあこう言い換えましょう。政治家にとっては投票権を行使しない国民は存在しないに等しい。

だから「投票をしない」という選択は、政治的には全く何も意味がありません。本当にどうでもいいなら別ですけどね。「オレは投票をしないという行為によって意思表示をしてる」。うん。そんなのは無です。投票を忘れてる人と一緒。政治的にはそんな人は存在しないのといっしょ。0です。アラスカの奥地で木が倒れました。周囲100kmに人は存在しません。果たして木の倒れる音はしたでしょうか。答え:どうでもいい。うそ。本当は「音っつーのは人の尺度だから、聞く人がいない以上人間的な尺度としての音は発生しない」。投票しない国民なんて、シベリアの奥地で人知れず倒れる木や、月面に転がる小石ほどの価値もありゃしません。政治家にとっては。それって悔しくね?

それから、これは理由にはならないかもしれませんが、少なくとも現職の政治家の人たちは選挙なんてもうなくてもいいと思ってるはず。ずっとこのまま現職でいさせてくれ、と。相当ヒヤヒヤしてると思うんです。普段億単位の金を動かして、国の行方を視野に入れようかという意思決定をしている人が、われわれの一票にストレスを感じるわけです。どうすか。面白くないですか。森前首相がいみじくも言いました。投票率が低ければ低いほどありがたい、と。いやあ、素晴らしい本音ですね。

もうひとつの理由。これも理由としては弱いかもしれませんけどね。変わりたくない、今の状態が嬉しい人こそが積極的に投票すると思うんです。ということは、今の生活にブツブツ言いながらも我慢していて、政治に期待しない人が投票しないと、当然現状維持の政治家が選ばれる可能性が高くなる。まあ自民党ですわな。民主もどうか分かりませんがね。今の仕組みに安住するアッパーミドルクラスの支持を受けて、現状維持に努めるわけです。

変える変えないと言えば思い出すのは小泉さん。改革なくして景気回復なし。自民党をぶっ壊す。上手いパフォーマンスでした。フリーター、契約社員が一生懸命墓穴掘ったみたいだしね。その辺は見極めなきゃいけませんね。

民主も自民もダメだ、と思ったら弱小政党でもいいがな。変なところでいいがな。それで既得権益層に冷や水浴びせられるんだったらさ。それだけでも楽しくないすか?個人的には北朝鮮が煽るチキンレースに乗るようなタカ派以外だったらかまへんがな。

そんな無責任なこと言って日本共産党が政権取ったらどうするんだ。幸福実現党が。いや、ありえませんって。どんなに騒がれても、民主と自民が強いに決まってる。あなたのように無難なセンスを持っている大多数の方は民主か自民に投票する。だから、安心して弱小政党に投票したらいいと思いますね。

投票すなわちプチテロル。それだけでいいんじゃないですか。どすか?ダメだったらまた自民党に投票すりゃあいいですし。

では、Let's冷や水。
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「現象学」J.Fリオタール クセジュ文庫(白水社) 「デカルト的省察」E.フッサール 岩波文庫(読みだした)

★☆☆☆☆☆:分かりにくい

まずはクセジュ文庫の方。現象学を他の思想と比較させて際立てようという趣旨の入門書だけど、分かりにくかったの一言。現象学と超越論的主観主義の差異。経験的心理学との差異。超越論的観念論との差異。現象学とマルクス主義の関係。社会学。歴史云々。いやあ、そもそも比較対象がよーわからんというのと、比較対象に時代の制約というか著者のバイアスがかかってるんじゃね?と思わせる箇所もあって、いまいち肝心の現象学とは?という問いには答えていない感じです。言語には差異しかない。でもあからさまにネガティブな規定(~ではない)を繰り返されても肝のところが浮かび上がってこない。エイヤで読み切ったけど、結局のところよく分かりませんでした。というわけで本尊にアタック。
「デカルト的省察」です。まだ読みだしたばかりですけど。しかし現象学って分かりにくいです。なぜ難しいか。まずはひたすら意識の構造を記述している、その記述内容が難しい。何のためにそこまでやっているのか、よく分からない。

それから、そもそも現象学で求めるところの「事象そのもの」が、現象学的方法論(あるいはいかなるものであれ「方法論」なるもの)で辿りつけるんですかい?という根本的な疑念があって、その辺が分かりにくさの原因になっているのではないかな?などと考えてみたり。従来の哲学や科学を乗り越えようとしてるのは分かるんですが、結局西洋哲学の言葉で語らざるを得ないところが厳しいのかも。

しかし意識の構造をあくまで記述することによって、人間の持っている豊かさが開けていることが何となく分かる。フッサールの現象学がハイデガー、メルロ・ポンティ、デリダに受け継がれたのもむべなるかな、という気がします。あるいは木村敏とかの現象学的方法を使った精神病理学とかね。

以下はほとんどたわごとなんですけど、現象学はブルース・リーの名言(?)「Don't think! Feeeeel!!」も、葉っぱ隊の「水飲んだらうめー!」というフレーズもその射程に収めているような気がします。すなわち、あーだこーだ言う前に食えよ、と。食って美味かったらサイコーだろ?頭で理解するもんじゃねーだろ?と。理性的な(あくまで理性的な)方法論としては究極のものかとは思います。

言葉なんて所詮カオスを力技で仕切ってる差異に過ぎないじゃねえか。所詮生きるための誤謬としての真理。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意云々。と悟ってしまってもしょうがない。事象そのものへ向かうことで、人間がありのままに生きている世界が開かれる可能性はあるんだ、と。

一朝一夕で理解できる対象ではないので、じわじわ読み進めようと思ってます。
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プロジェクト試論(アフォリズムによる)

病それ自体は存在しない。従って病一般を治癒することはできない。治るのはあくまで個別の患者である。同様のことがプロジェクトにも言える。プロジェクト一般など存在せず、個々のプロジェクトが存在する。従ってプロジェクト運営に関する一般論は無能である。

プロジェクトの臨床知が必要である。しかもそれは表面的な症例であってはならない。単なる症例からは何も学ぶことができない。その原因が重要なのだ。

行為の原因は常に人間である。したがって人間がもっとも重要である。

人間は必ずミスをする。

人間は感情と気分に大きく作用される。プロジェクトの方向性を決めるのはマネージャーの気分と感情である。

したがってプロジェクトに必要なのは質の良いコミュニケーションである。コミュニケーションが感情と気分を決定するから。

コミュニケーションの偏重が技術の軽視に結びつくことがあるが、それは間違っている。コミュニケーションは成果物の品質を上げるが、それ自体が成果物を生み出すことはないのだから。

2009年6月28日日曜日

ほうれん草のおひたし、トマトと卵のスープ、肉団子甘酢あん

こういう鬱気味の時は体調管理が重要ですな。病は気から?否。病は体から。体が資本ですよ。すなわち酒を控えめに。この一杯で止める。本日はもう閉店。

まずはほうれん草。なんてことはありません。茹でておひたしに。
  
それからタマネギとトマトを煮て、仕上げに粉末鶏がらスープを入れて、溶き卵を流し入れます。

次は肉団子。大変と言えば大変。
  
しょうがをすりおろしてタマネギ刻んでニンジン刻んで、豚挽き肉投入して小麦粉と卵を入れて、粘りが出るまで捏ねます。

  
丸めて小麦粉つけて、揚げます。

  
揚げたらあんを付けて絡めます。甘酢系の味が苦手な長女に配慮して、6つだけ残しておきました。オイスターソースがなかったので、代わりに生協の牡蠣味調味料を。牡蠣味調味料は強火で炒めるのを忘れずに。さもないと生臭く(ryさらにケチャップによるドーピング。ビミョウな代用加減。レシピの材料漏れと思われる、ひき肉への塩一つまみとしょうゆひと振り(大匙一杯程度?)。仕上げに溶いた片栗粉も追加。

出来上がった甘酢。まずまずでしたね。そこそこ(゚д゚)ウマー。長女が拒否しなかっただけマシっつーか。

今日も早く寝るべし。
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スコーン、サラダ、ウィンナー

昨夜も仕込む余裕なし。まずは体力の復活が必要そう。

発酵不要のスコーンを作りました。薄力粉とベーキングパウダーと多めの砂糖とバターと卵と牛乳と・・・
  超やる気のない形してますね。

でも焼くとちゃんとスコーンになりました。それから生野菜をゴマドレッシング、ウィンナーをマスタードで。
 

朝食後にチビども連れて買い物に行った後、2時間ほど昼寝しました。
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