2010年3月26日金曜日

小確幸2010/03/26

こういうのいいですね。懐かしの「よかった探し」です。

というわけで私の「よかった探し」。

 ・顧客にズバッ!と当たり前のことを言ったら、チームメンバーからチラッと尊敬のまなざしで見られた(気がする)。夕方。信頼関係について。

 ・数学系の書物を読了。一皮むけた気分。

 ・サブウェイのサンドウィッチが安かったのでチーズポテトと一緒に昼に食べた。おいしかった。

 ・夕食が寿司(スーパーのだけどね)。しかも第三のビール付き。

 ・上の娘が楽しそうにピアノの練習をした。

 ・下の娘が、あぐらをかいた私の足をガンガン踏んできた。痛かった。

 ・風呂に入って歯を磨いた後に酒を飲みながら、録画した「Mr. and Mrs. スミス」見た。しかもそのあとにポニョを少し見た。アンジェリーナ・ジョリーいい。ポニョ幸せ。

 ・そして何より、明日は休み!

こうしてみると、いっぱいあるんだなあ。私の「よかった」こと。

マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著 マハリシ総合研究所監訳「永遠の真理の書 バガヴァッド・ギーターの注釈 超越瞑想と悟り」読売新聞社

★★★★☆☆:ワリとイケてる

かなりキワモノな本なのですが、結構感心しました。インド思想やるじゃん。思想というより宗教か。

ええと、どこが面白かったか。やはり非西洋思想の面白さですね。厄介な主観客観フレームワークもないし、病的なまでのロジック信仰もない。存在の神秘を、なんのてらいもなく書いている。西洋哲学なら超越論的主観とかややこしいことを言い出して果てしない議論に突入するところを、純粋意識とか宇宙意識とかサラッと書いてるし。

おいおい。超越論的主観と宗教的意識を一緒にしていいんかい。いいんですよ。そんなもん。はっきり言って似たようなもんだよ。

後は怒りについての記述とか、世界を成り立たしめるいろんな動的エレメントの記述がいいですね。ダルマとかグナとか。

宗教だからこその恣意的かつ空想的世界観です。結構いい線行ってるなあと思いました。実践面でいっても、キリスト教の道徳よりよほど大人な感じがします。

やはり、西洋宗教よりも身体に立脚してる気がしますね。足が地についてる。ここは大きな違いだと思うな。

小乗仏教と似た感じもありますね。まあ、ブッディズムもインド思想の一つだから、当たり前か。

なかなか興味深い本でした。

2010年3月24日水曜日

ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」エンターブレイン社

★★★★★☆:ストレス解消です。お風呂に入りたくなる

出勤前に、あわただしくWebをチェックしていたところ、古代ローマ人が日本の浴場にタイムスリップして云々する漫画がマ ンガ大賞を取った旨の記事を見ました。ほほう。これは期待できそうだな、と。こういう現実離れした設定は聖☆おにいさんという成功例もあり期待が持てる。ぜひ買ってみよう。

というわけで昼休み。職場の近くの書店巡りです。まずは一軒目。設定の印象が強烈過ぎて本のタイトルとか作者名とか出版社とかすっかり忘れています。当然探しても見つからない。

「すみません」

「はい」

「ええと、ローマ人が風呂に入ってどうこうするマンガってありますか」

「・・・あ!はいはい。ちょっと待ってください」

(探しに行って戻ってきた)

「すみません、切らしてるみたいで」

「そうですか。ありがとうございます」

これで通じるんだ。ははは。と二軒目。ざっと探しても見当たらない。

「すみません。ローマ人が風呂に入るマンガってありますか」

「え!?ローマ人?風呂?ちょっとそれだけでは・・・。作者とか分りませんか?」と人の良さそうな(おそらく)店長さんが困ったように。

「分らないんですよ。すみません」とこっちも苦笑。仕事場に戻りました。

その後Docomo M-ZoneのWiFiを使ってiPodで作者、タイトル、出版社を調査。結局近所の書店にはないことが判明。帰宅途中、最寄り駅の書店で「テルマエ・ロマエ」を購入しました。書店のおばさんに「カバーかけますか?」と聞かれて、何でわざわざマンガにカバーかけるよ?とスゴい違和感。「はい?なんとおっしゃいました?いえいえ。要りません」と嫌な感じで断りましたが、改めて表紙を見るとおばちゃんには気になったんだろうな、と得心。別にいいのに。

内容。ウィスキーをすすりながら楽しく読みました。癒された。こういうマンガは好きです。

ってよく考えると、私の好きなマンガ家って女性が多いんですな。「テルマエ・ロマエ」しかり「聖☆おにいさん」しかり西原理恵子しかり大島弓子しかり。男の漫画家はドキツイか仕掛けがキツかったりして最近はあまり好まない。子供の頃は好きだったんですけどね。ドラゴン・ボール、北斗の拳、魔少年ビーティー。ああいくらでも出てくるな。ジャンプ黄金時代。なつかしや、なつかしや。

2010年3月23日火曜日

M・ブーバー著 野口啓祐訳「孤独と愛〜我と汝の問題」創文社

★★★☆☆☆:名著の品格が漂います。私は批判的に読んだけど。汎神論的キリスト教や神秘主義的キリスト教に興味がある人にお勧め。といってもその枠には収まりません

「我と汝」「我とそれ」という二つのキーワードをベースに、人間の実存を語った宗教的哲学書です。

学生時代に岩波文庫版を流し読みしたことがあって、何となくよい本だったイメージがありました。木との対話のところとか、客観主義や唯物論を超えた神秘思想っぽい雰囲気が気に入ったのだと思います。

しかし今回ナニゲに読み返してみたら一筋縄ではいかない難解な著作であることが分かりました。まず、そもそも、何でまた「我と汝」なのか。そこに違和感。学生時代には引っかからなかったところです。

我とか汝とか、そんな言葉を日常的に使いますか。普通の日本人は絶対使わないと思うな。私。わたくし。小職。僕。オレ。自分。おのれ。手前。拙者。余。日本語にはいろんな一人称があるけれど、「我」は使わないでしょう。あ、関西の人が「なにしとんじゃワレ」というのは別ですよ。だいたいこれ、二人称だしね。

では原題はどうなっているかと言えば「Ich und Du」。英語で言えば「I and you」。すなわち、奴らは始終 "Ich" とか "I" がどうするこうする言ってるわけです。常に主語としての一人称が文章や話し言葉について回る。

一方日本ではどうか。時と場合によって一人称がコロコロ変わります。友人にはオレ。対等あるいは目上の人には私。仕事では小職。一人称がない文章も珍しくはない。先ほどの関西人じゃないけど、二人称にワレとかジブンを使うことすらある。つまり、日本語の一人称には以下の二つの特徴がある。

1.一人称を決めるのは、相手との関係あるいは言葉の文脈である。(例え友人と話していても、上司がいれば私。)

2.一人称と二人称が入れ替わることがある。我(ワレ)。手前(テメー)。己(おのれ)。自分(ジブン。関西で)。(世界でこんな言語があるのかしら)

ブーバーさんに戻ります。彼は「我と汝」を根源語とか言ってるんですが、日本人の私にはすんなり入れない。「我」なんて堅苦しい文語の一人称でしょう。あるいは関西におけるいささか品に欠ける二人称。「私」だってそりゃあ大事な言葉だけど、根源語とも思えない。仕事では私でも、家に帰ればオレになる。娘の友だちと話す時は「オジサン」さ。

いやいや、そんな皮相な理解じゃダメですね。あなたと私という構造は普遍的なものであって、言語が違うとか呼び方がどうだとかは本質的な話ではない。

そんなあなたにはソシュールをお勧めします。人間の意識、思考、世界には言語の構造が大きく関わっている。確かに抽象化されアナロジーと化した「私」と「Ich」は同じように見える。しかし、その実体は大きく異なる可能性がある。例えば「私生活」の「私」とか「公私」の「私」というニュアンスが「Ich」にあるか。あるいは逆に「なにしとんじゃワレ」の「ワレ」をドイツ語に適切に訳せるか。そこにはやはり断絶があると思われる。言語体系を相関付けた時、私と"Ich"が対応すろのは確かだけれども、そこに差違があるのは間違いない。

そしてブーバーさんの「汝」は人間や自然の神性(汎神的概念であるブラフマンまで出てくる)であるわけですが、究極的にはそれはユダヤ・キリスト教の神と結びついている。

一日中 "Ich" だの "I" だの "Je" だの言って、不滅の霊魂としての自我と人格神という思想を持つキリスト教を信仰している西欧人が、「我と汝」が根源的言葉であって、汝ってのは究極的には神だと言う。どうですか。ついていけます?頭では理解できる。でも、得心はいかない。話半分でしか聞けません。我と汝が根源語で、汝は神である、と。最初から結論が出ていたようにしか思えない。

というわけで、興味深くはありますが、いまいちピンとこない本でした。

2010年3月22日月曜日

とある田舎へ

妻の用事に付き合って、家族全員でかなりの山奥に一泊することになりました。

行ったのは妻が小学生時代に育った場所。滅茶苦茶不便なところではありませんが、相当田舎の方です。

こだまに乗って到着。バスに揺られること40分。

到着。上の写真は妻の育った家。もはや人は住んでおらず、荒れてしまっています。

ご覧の通りの山の中。

沢がきれいです。

ここからしばらく集落はなし。人が住んでいない区間に続いています。

不思議に落ち着く感じがしました。決して過疎化しているわけではありませんが、やはり人口密度は相当薄い。すぐそばにいくつもの山がどっしりと構えていて、谷間にはきれいな水が流れています。山遊びも川遊びもできる。登山の途中にバスで通り過ぎるような荒れた山林ではなく、人が住んでいる山という感じがします。ところどころ、現役で林業をしているスペースも見られる。平地ではありませんが、決して険しい土地ではありません。

妻は懐かしい懐かしいといってそこかしこを歩いていました。まさに「私の山、私の川」という感覚だそうです。「小学校に通うとき、宿題を忘れたことに気がついてここであわててやってたのよね」と妻が指差したのは大きな丸太。その丸太はここ数日のうちに切られたものでした。昔から林業が行われていたということでしょう。

この日、一家で私の義理の父が借りている家に泊まりました。トイレは工事現場に置いてあるタイプのもの。水道は山水。電気は通じていますがガスはカセットコンロです。テレビは映らない。風呂は焚き木+ドラム缶風呂。さすがに4人家族では入れないので、下の温泉で風呂は済ませています。

家は古い平屋。たまたま暖かい日で、冬眠していたらしいカメムシやらテントウムシが這い出して子供たちに踏みつけられていました。わざとではありませんけどね。子供たちは虫を見て大騒ぎ。

窓からは当たり前ですが山が見えました。普通に窓から山の見える生活。ああ。これはいいな。いいもんだな。と思いました。東京で妻が、窓に映る家の影に何とか山とか名前を付けて喜んでいる気持ちがよく分かりました。このあたりで育った彼女にとっては窓から山が見える生活がルーツなのです。

私はといえば、小さい頃にそれなりの田舎に居たことはありましたが、そこはあっという間に工業団地として整備されてしまいました。ということで、いわゆるド田舎で育った経験はありません。周りの田んぼは広かったけれど。そんな私ですが、山に囲まれた、虫の這い出る工事現場のトイレ付きの平屋で食事をしていると、なんだかとても自然な落ち着いた気持ちになりました。理屈を越えた落ち着きです。なんだか田舎暮らしに惹かれる人が多いのも分かるような気がしました。

夜はとにかく暗くて静か。懐中電灯を持って子供と夜の散歩に行きましたが、早々に子供は怖がってしまい、すぐに家に戻るハメに。近所に熊だのいのししだのが出るそうです。狸くらいには会えるかと思ったのですが。

家に戻って歯を磨いて布団へ。疲れていた私はすぐに眠り込みました。

夜中のこと。ふと目が覚めました。激しい雨が屋根を叩き、風が吹き荒れる音。雷も聞こえます。枕もとのiPodをみると午前3時ちょうど。

明らかに都会とは異なる世界にいる、という気持ちがしました。慣れの問題でしょう。落ち着かない悪夢とイメージとともにウトウトしつつ、ドビュッシーを聴きながら、半分目覚め、半分眠りながら朝を迎えました。朝は晴れ。

不思議と楽しい一泊旅行でした。これといったイベントがなかったにも関わらず、子供たちも大満足。これはもう一度行かねばなるまい。まだ何か大事なことを見逃している。理解していないものが、まだある。何となくそんな気がしています。

追記: 考えてみれば毎日がキャンプ。毎日が山遊び、川遊びです。これは楽しい。DNAレベルで私の心に響いたのも分かります。