2010年12月24日金曜日

朝からオムライス

朝からオムライスを作ってみました。いやあ、大変だった。作り初めて5分で後悔したけれど、途中で辞めるわけにも行かなかったので、作り通しました。

何が大変かっていったら材料を切るあたりです。面倒くさいのなんの。朝起きてやる最初の仕事がコレか。と。やはり、夕方にしっかり腰を据えて作る料理だわ。まあ、淡々と刻みましたけどね。


ま、なんとか完成。卵が柔らかくなりすぎましたけど、ケチャップライスの味自体は美味かったので、まあ及第点です。

ファッションの効用

この間、古着屋がその辺りにあるということで池袋の繁華街に行ったんです。北口の怪しいあたり。

で、地図を片手にブラブラ探していて思った。やはりちゃんとした身なり、おしゃれをしていない人をあそこで見かけると、ハッキリ言って身の危険を感じますな。だらしないカッコした人がふらふら歩いてくるだけで怖いよ。マジでヤ●ザさんじゃないかしら、と思います。いわんや、いわゆるヤンキーファッションをおいてをや。ビビるよ。親子でヤンキースタイルかよ。殺気に満ちた池袋北口。勘弁してください。ホントに。

結局古着屋さんはなかったし。いやはや。

ま、ともかく、ファッションには、やはり相手にリラックスしてもらうという明らかな効用があるようです。身をもって知りましたわ。

2010年12月23日木曜日

西田哲学めも

ただ「否定」と提示されると、論理的には単に肯定の反転であるわけです。

しかし、現実的には

否定=嫌い

ってのが近い。否定ってのは意志の力だ。全力でするものだ。机上の論理じゃない。頭でこねくり回したコトバじゃない。心から嫌いと思う、それが否定。

そうでしょ?

最初に戻る。

A=Aってのが肯定だ。

A=非Aは否定。

論理的にはそうなる。

そして、

「A=AかつA=非A」とは、論理的には矛盾となる。

さて、否定は憎しみ。否定は嫌い。また、肯定は是認であり、肯定は好意である。

その常識的な、情動的な理解を、論理に持ち込んでみる。つまり、肯定とは「好き」であり、否定とは「嫌い」である。これを論理の世界に持ち込む。

かつ、ここで、西田哲学の、絶対矛盾的自己同一を考えてみる。

しかるに、

絶対矛盾的自己同一とは、絶対に否定しつつ、絶対に肯定する、ということである。

ということは、

絶対に嫌いだけど、絶対に好きだ、それが絶対矛盾的自己同一ってことになるじゃないか。

なんだか凄く良よく分かる気がしてしまうなあ。

要するに西田哲学ってのはダイナミックなんですよ。固定してない。取り澄ましてない。うごめいている。全力で、生きている。

12/24後記
と酔っ払って書いたようですが、まあ、当たらずとも遠からずってとこですかね。

エロスとタナトスとの矛盾とか、愛と憎しみの矛盾とか、そういうモメントは西田哲学に含まれるとは思うのですけどね。

2010年12月22日水曜日

鳥牛豚つみれ鍋、タコのやわらか煮、タコ飯

鳥挽き肉ベースに牛豚挽き肉を少々入れてみました。単なる思いつき。


昆布と出汁パックで出汁を取ります。あとは野菜を投入して薄めに醤油、塩して煮るだけ。



手が空いたらタコのやわらか煮に取りかかります。比較的安かったので前回固くなってしまった件のリベンジ。しっかり20分圧力を掛けました。今回はなかなか柔らかく仕上がりました。無事成功です。やれやれ。


鍋は相変わらず簡単ウマー。ただ、牛豚入りのつくねは若干臭みがありましたね。美味かったけど。次回は鳥100%で行こう。



残ったタコは、出汁ごとタコ飯として翌朝頂きました。思ったよりも薄味になりましたが、なかなかウマーでした。

2010年12月21日火曜日

タア菜のにんにく炒め、きのこクリームパスタ

きのこをバターと菜種油で炒めて、香りが出てきたら小麦粉を馴染ませておいた牛乳を300ml程度投入。あとは水とスープの元を入れます。軽く煮立ったら薄切りにした鳥胸肉を入れてふたをして火を通します。塩コショウで味付けしたら完成。


それから生協の近郊野菜パックに入っていたタア菜。にんにくと生協の牡蠣味調味料で炒めてもう一品。


なかなか美味かったです。

作るものと作られるもの

難解な西田哲学ですが少ーしずつ分かってきた気がします。

例えば作るものと作られるものについて。作られたものが作るものになる。

そう言われると、例えばわたしという存在は親によって作られた存在なわけですが、これがまた親になると子を作るようになる。つまり、作られた存在としてのわたしが、作る存在になる、とまあ簡単に解釈していたんですが、この解釈はミスリードなことが分かってきた。

そうじゃなくて、むしろ人間には環境を改変する力があり、その改変された環境によって人間も作られる、そんなダイナミックな関係があるのだ、と解釈したいですね。

また、作られたものというのは、必然的に過去のものですね。「作られた」もの、つまり過去形なんですから。その過去が「作られた」ものとして現在を限定しにくるわけ。でも、過去ってのは「ない」わけ。あるのは「現在」しかないから。じゃあ、その「ない」はずの過去がどうやって現在を限定しに来るのか。実は、ここにある「過去」ってのはすでに現在なわけですね。作られたものとして、現在にある「過去」。その過去(=現在としての)が現在を限定する。つまり、現在が現在自身を限定する、という絶対矛盾的関係がそこにある。

そして、そのような存在は必然的に表現的たらざるを得ない、と西田さんは続けます。どうしてかというと、過去はあくまで潜在なわけですね。その「潜在」としての過去が、現れる。現在とは表現の場所である。

過去が現在として現在を限定する。そんなダイナミックなあり方を西田哲学は語るんですけど、これって凄いじゃありませんか。フッサールの時間の考え方にしても、やはりどうも直線的な考え方に近い。沈殿とかね。しかし、西田哲学の語る時間は、本当に生きられる時間だと思う。

おもしろいっすよ。

2010年12月20日月曜日

今更ながら 猫の恩返し 見た

いいですね。楽しみました。ジブリも二世とかじゃなくて、こんないい映画を撮った人を使えないのかしら。うーむ。

確かにアリッティも悪くなかった。でも、正直凄くはなかったよ。猫の恩返しの方が「凄い」。二世より、力のある人に金をつぎ込むべきですよ!!

再びおでん


おでんです。今回はちょっと薄かったなあ。オイスターソース入れるから、と油断した。

やはり出汁はしっかり取るのが正解のようです。美味かったけどね。