2010年10月29日金曜日

貨幣博物館、Mujiミールでお茶

営団地下鉄三越前駅から徒歩5分の貨幣博物館に行ってまいりました。入場料は無料。個人情報も提出する必要なし。展示はかなり充実しています。そこかしこに警備員の方が立っておられるのも物々しくて雰囲気があります。おお。そうか。大判小判を展示してるんだもんな。すなわち警備員さんは不可欠のオブジェとなるわけ。貨幣に興味がない人がナニゲに入っても楽しめる場所です。



上の子は金貨や小判に興味深々。GOLDが好きなのね。やっぱり綺麗だからか。それとも高価だからか。他にもいろいろ興味が向くらしく、クイズにチャレンジしたり、紙幣の細かい作り込みに感心したり。下の子は例によって早々に飽きてましたけどね。アカデミックなコンテンツにはまだ早いようで。

それなりに楽しんだ後、銀座にご用事のあった妻と有楽町Mujiで合流です。無印良品というブランドにはわりとスルドイ目線を向けるわたくしですが、ムジのフラッグシップ店たる有楽町Mujiはワリと好きですね。考えてみればMujiの文房具とかは普通に愛用しているもんな。やはりいろいろとモノがあって楽しい場所です。



Mujiのレストランでカフェ。味はまあまあ。学食をちょっとだけオシャレにしたって感じで、気を使う雰囲気はまったくなし。子供連れでも問題ないところがポイント高いですね。

2010年10月28日木曜日

ファッションについての考察

うさとで買った服を着るのが楽しい今日この頃です。30台半ばを過ぎてファッションに目が覚めてしまった。いや、そんな大げさなもんじゃないか。むしろ、30台半ばを過ぎてユニクロ(※)から脱しつつある。主体的に服を選びつつある。そんなところ。

(※)「ユニクロ」は固有名詞ではありますが「普通のそこそこ安くて質が良くてデザインのよい服」の代名詞としてお考え下さい。

そりゃあユニクロだって気に入らなかったわけではありませんでしたが、いかんせんユニクロ。何というか、チノパンかくあるべし。シャツかくあるべし。ゆえに、Don't think.そんな感じですな。楽しくて着るんじゃない。まあ、こんなもんか、と思って着る。服なんかこだわってないもんね、という主張が却って必要となる。それがユニクロ。

でも、今は違います。気に入った服を選んで、買って、着る。楽しいじゃん。ということで、これまで「ファッションが趣味」だとか「服に金を使う」という感覚が理解できなかったのが、ようやく分かってきました。しょせん、おじさん。ファッションに金を使うなど、客観的費用対効果が疑問である、と思っていたんですけど、いやいや楽しいんだから費用対効果なんかどうでもいいよ、という感じです。(ま、しかしファッション雑誌にあるようなジャケット一着10万とかオカシイと思いますけどね。)

さて、自分の気に入った楽しい服を着るとどうなるか。まず、銀座、渋谷、あるいは吉祥寺などというソレっぽい場所に行くときに気後れがしなくなった。前はどこかに「ユニクロですみません」という意識があったようです。おしゃれなおじさんを見ると、ユニクロ上下のおじさんよりもやはり「正しいおじさん」であるなあ、と思えるんですね。そりゃそうですよね。近所のスーパーや秋葉原に買い物に行くならともかく、銀座に行くのに「オレ、ファッションには興味ないもんね」というのはいささか力んだ考え方と言わざるを得ない。「ファッションやぶさかではない」という服装と態度の方がしっくりくる場所が世の中にはあるわけ。

若さ由来の反骨精神、あるいは「服なんかどうだってええよ」という気概の現れとして、敢えてユニクロ、無印というのはアリだと思いますけど、そんな主張も年を取ってくるとなかなか厳しくなってくる。若くてスタイルのいい若者の「敢えてユニクロ」は鑑賞に耐えるとともに、そこに主張を感じられるわけですが、おじさんの「敢えてユニクロ」は見た目がそもそもいかがなものか、ということになるし、仮に主張を感じたとして「はた迷惑」ということになる。

後はやはり気に入ったものをまとうってのは何といっても気分がいい。いきなり一般化しますが、気に入ったモノが手近にあると、人間って落ち着くものですよね。居心地がいいんです。例えば道具。鍋なんかでも、安いペラペラの鍋で焦げつかせながら調理するのと、いい鍋を正しく使って調理するのとでは料理の楽しさが違う。包丁だってそうですね。DIYが趣味の人なら、よい工具を買うと幸せになれるでしょう。装飾品だってそうです。気に入った絵のレプリカを部屋に掛ける。なかなか気分がいいものです。つまり、人間ってモノに囲まれて生きているし、そのモノたちとは何らかのメンタルな交流があるわけ。交流じゃなくて、一方的なのかもしれないけれど、やっぱりいい道具を大事に使えば、道具だってそれに応えてくれるとか、そういうことはありますよね。

だから、気に入った服を着て過ごすのが気分がいいのは当然のことですね。人は服を着て生きているんだから、そこに気を配れば少し生活が変わってくる。気分が変わってくる。ファッションにちょっとこだわってみると、微妙に世界が変わってくるわけで、それはそれでなかなか楽しいことである、と思いながら過ごす昨今です。

2010年10月27日水曜日

カレーを手で食べてみました

カレーを手で食べる。一度やってみたかったんですよね。

「よし。今日のカレーは手で食べよう!」と言ってみたら子供も喜んでました。普段手で食べて怒られている下の子も、上の子も喜んでる。手で食べるのが楽しみらしい。まあ分からなくもありませんが、不思議といえば不思議。人間って「手で食べたい」欲望でもあるのでしょうかね。あるいは「下品は楽しい」という倒錯した喜びなのか。(もちろん「手で食べる=下品」というのはあくまで日本的尺度に過ぎないわけですが)

ということでさっそく料理に入ります。まずは玉ねぎを炒めます。ワリとしっかり炒めたら、しょうが、にんにく、にんじんといった野菜群を投入。



挽き肉大量。ピーマンも投入。



なすとトマト缶を入れてグツグツ。



仕上げにルーを入れました。ルーはカレーの壷とS&Bゴールデンカレーのブレンド。



ご飯とカレーを冷ましてから、不退転の決意を持ってカレーに手を突っ込みます。これがですね、思った以上に楽しかった。



まず、カレーを手ですくってご飯にまぶすんですが、これがヌメヌメして楽しい。ねっちゃねっちゃとご飯とカレーをこねる。というか、まぶす。んで、カレーとご飯を一口分まとめて、シャベルのイメージで親指除く四本の指の上に乗せる。これを口元に運び、親指で口に押しやるわけです。美味しい。楽しい。子供たちも夢中で食べてました。ま、小さい方はカレーで汚れた手を、思いっきり服で拭いてたけどね。

手でカレー。結構おすすめです。

2010年10月25日月曜日

西田幾多郎メモ(無と意識)

最近、西田幾多郎論文集を読んでますが、この人は凄いですね。なぜ日本の思想家としてもっと広まらないか。ま、そりゃ難解だからだな。あるいは禅の宗教体験が前提されてるからか。そうだとすれば「生きる哲学」が扱えていないのが、日本の哲学研究じゃなかろうか。

しかし日本人哲学者たるもの、西洋哲学を有り難がって、細かい文献採集してるばかりじゃなくて、日本人らしい思想をぶち上げるべきなのでしょうが、ダメなんでしょうな。日本人の生真面目さが裏目に出ているのか。硬直化した学者世間の中で、異端が排斥され、エスタブリッシュな体制が安穏としているのか。

ま、関係ねーや。

ということで最近西田幾多郎を読んでますが、かなりシビれます。

「有に対する無が一つの類概念としてすべてを包摂する時、無は一つの潜在的有となる。如何なる有をも否定し果てしなきの立場に立つ時、即ち有に対して無その物が独立する時、意識の立場という如きものが現れる」(岩波論文集1、79ページ)

西洋の意識ってのはキリスト教の不死の霊魂、つまり神という「汝」に対する「我」が暗黙のうちに立てられているわけですが、西田幾多郎は東洋的「無」の直感からスタートすることで、完璧に西洋思想を相対化してるワケ。

おもしろいっすよ。