2010年10月25日月曜日

西田幾多郎メモ(無と意識)

最近、西田幾多郎論文集を読んでますが、この人は凄いですね。なぜ日本の思想家としてもっと広まらないか。ま、そりゃ難解だからだな。あるいは禅の宗教体験が前提されてるからか。そうだとすれば「生きる哲学」が扱えていないのが、日本の哲学研究じゃなかろうか。

しかし日本人哲学者たるもの、西洋哲学を有り難がって、細かい文献採集してるばかりじゃなくて、日本人らしい思想をぶち上げるべきなのでしょうが、ダメなんでしょうな。日本人の生真面目さが裏目に出ているのか。硬直化した学者世間の中で、異端が排斥され、エスタブリッシュな体制が安穏としているのか。

ま、関係ねーや。

ということで最近西田幾多郎を読んでますが、かなりシビれます。

「有に対する無が一つの類概念としてすべてを包摂する時、無は一つの潜在的有となる。如何なる有をも否定し果てしなきの立場に立つ時、即ち有に対して無その物が独立する時、意識の立場という如きものが現れる」(岩波論文集1、79ページ)

西洋の意識ってのはキリスト教の不死の霊魂、つまり神という「汝」に対する「我」が暗黙のうちに立てられているわけですが、西田幾多郎は東洋的「無」の直感からスタートすることで、完璧に西洋思想を相対化してるワケ。

おもしろいっすよ。

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