2010年7月23日金曜日

「ルミンA」四日後

慎重に体調を見てます。

酒の量は変えていません。夜。350mlの缶ビール(基本は第三)を一缶。次に冷酒を0.5合程度。それから極めて薄いウィスキーのお湯割りを、とめどなく飲む。おなかが膨れるまで飲む。11時か12時に就寝。

朝六時。起床してお釈迦さまを拝み、ルミンAを一錠、水でいただいています。その後甘いアイスコーヒーを一カップ。七時までにピアノとバイオリンを練習。家族で朝食。出社。

服用三日目。深夜。足がやたら痒くなりました。

かゆみで目が覚めた。猛烈に掻いて、掻いても掻いても痒くて、藁をもつかむような思いで妻が買ってきた薬を太ももにぬったくって何とかかゆみを沈め、朝までうとうとと過ごしました。朝見てみると発疹みたいなのがあって、掻き壊して荒れた肌が赤くなっていた。

服用四日目。腕のかゆみがなくなった気がする。腕は痒くない。太ももは荒れています。

本日の夜。太ももの荒れは安定状態。腕のかゆみもない。

どうなんですかね。慎重に皮膚の具合を見ているがために、その観察行為が皮膚にいい方向に働いているのかもしれない。すなわち腕のかゆみが減ったのはルミンAが原因ではなく、観察が原因である。皮膚、体は閉鎖系ではない。計測、数値化のために実験用に孤立させた環境ではない。観察するものも、観察されるものも、同じ一つの身体である。すなわち相互作用があり得る。慎重に経過を見つめることで変わることがあるやもしれぬ。

ま、ドラスティックな変化は訪れていないものの、少なくとも(服用3日目を除き)悪い結果は出ておりません。今後注視でございます。

「自我=私=オレ=自分・・・」とは

常に遅れてきた何かなのか!

自分が何かするのではない。何かした後に自分が付いてくる。無位の真人と後付け認識とのハザマに「自我=私=・・・」が存在しているのだ!!おお!何か大事なことに気がついた気がする!

カントの、フッサールの超越論的主観は、ズレを埋めるためのファンタジーであった!カント、フッサールが考えた超越論的主観とは、無位の真人なのだ。すなわち身体!!!ニーチェの超人の入り口もそこにあるじゃないか!

河合隼雄/鷲田清一「臨床と言葉」TBSブリタニカ

★★★★★★:シビれた

河合隼雄さんの講演に行ったことがあります。旧丸善本店の別館でした。懐かしい。それだけ。

個人的に敬愛するお二方の対談ですが、そのようなバイアス抜きで素晴らしいと思いました。傑作対談です。

内田樹「街場の現代思想」文春文庫

★★★☆☆☆:おもしろい

楽しいエッセイです。うむむ、なるほどと思ったり吹き出したり。ちゃんと暇つぶし系知的エンタテインメントになり得てるのがスゴイ。

2010年7月21日水曜日

ひろさちや「お葬式をどうするか 日本人の宗教と習俗」PHP新書

★★★☆☆☆:よく分かるお葬式

今のいわゆるお葬式のしきたりや作法を、歴史的に解説し、葬式どうあるべきか柔らかく語った本です。あまりラディカルではありません。現行の葬式仏教に依存するお寺の方にあまりキツイことは言えないのでしょう。とはいいつつ、これからの時代、葬式仏教は生き残れないよというはっきりしたメッセージは送ってます。

そりゃそうだよね。葬式に数百万つかうか?そんな金あったら子供に使うぜ。うちの両親も(幸いまだ存命ですが)納得してくれると思うな。残念がるおじおばはいるかもしれないけれど、説得できないとは思わない。儀式としての葬式を軽んじたとしても、そこにちゃんとした思いがあればいいと思う。親は子孫を思い、子孫は親祖父母を思う。それこそ金銭の絡みようのない世界だと思うし。

キルケゴール「死に至る病」岩波文庫

★★★☆☆☆:学生時代の感動に敬意を評して星三つ

昔は感動したんですけどね。自己とは関係に関係するところの関係である。おお!絶望の究極のところに救いがある。そうか!

今読むとダメでした。私の頭が仏教に浸食されて来た模様です。まず「自我」と西洋人が言った途端アヤシイと思ってしまう。お前の言ってる自我ってのは救済の対象としての魂だろ?そんなものはないっての。

主客のパラダイムも人間中心主義もそこから来てる。今の欲望資本主義、自然破壊もそこから来ている。と言ったら言いすぎか。

以上。

2010年7月20日火曜日

これは怪しい

みそ煮込みうどんで接待容疑 民主・安井派運動員を逮捕

いや、普通は負けた方が逮捕されるでしょう。違うのかな。そんな印象があるのだが。非自民系なら問答無用で刺されるのか。しかも一人当たり千数百円と来た。どうにも信用ならぬ警察の動き。却って気になるみんなの党の存在感。怪しい怪しい。

2010年7月19日月曜日

かゆい季節です

かゆい季節がやってきました。とにかくかゆい。しかし「かゆい」という平仮名は悠長な雰囲気ですね。平安時代の貴族が「かゆすwww」などといってマッタリしてる、みたいな。ちょっと違うか。漢字で書くと痒い。ヤマイダレの中の羊。途端にオドロオドロしくなります。スクレイピーか。

それはともかく、さすがに余りに痒いので、かゆいなあ、と思って妻にそう言ったらちょっと漢方系の薬局に相談したら?との指摘。そうだなあ。ちょっとトータルな観点から病を考える方向の人に話を聞いてもらおうかしら、ということで妻に紹介された薬局に行ってまいりました。さすがに妻は地元の情報には強い。

で、自分の母親くらいの薬剤師さんに相談。全身がもう痒いんですよ。

最近、日焼け止め付けずに強い日差しを浴びましたか?

  ->おととい子供たちとプールに行きました

何か食べ物に心当たりは?さしみとか。

  ->自家製さしみ漬け丼食べました

酒は?

  ->毎日飲んでます

何だか指摘が鋭かったんですね。自分の心の柔らかいところを、甘いところを、エグるかのごとくに。

薬剤師さんのファーストインプレッションでは日焼けアレルギーじゃないかしらねえ(んなキーワード生まれてはじめて聞いた)。ということで、かゆみの直接原因を止めるような薬を2,3個紹介して頂いたのですが、ええっと、そんなんじゃなくて、対症療法だときりがないので、体質改善系の薬はありませんか?と聞いてみたらすごい食いつかれました。これ、いいですよ。この薬。私も飲んでますけど。いえね、少々お高いし、直接効くタイプの薬じゃないから、お勧めできなかったんですけど、体質改善ならこれ。イイですよ。と強烈に「ルミンA」をプッシュされました。ヴェテランの薬剤師さんらしく、直接的な煽情的宣伝文句はおっしゃりませんでしたが、かなりのお勧めとのこと。ほほう。ということで購入。

今調べてみても毀誉褒貶。アヤシイ薬のような気がしないでもありませんが、プラシーボ効果ということもあり、評価の割れる薬の方が面白いんじゃないかということで、ちょっと継続して飲んでみようかな、と思っております。仮説を立てて実験し、仮説を検証するというのは科学的態度ですからな。試してみよう。

2010年7月18日日曜日

釈迦仏購入

思い立って有楽町の大江戸骨董市に仏像を探しに行きました。

最近マジで仏教づいていて毎朝般若心経唱えてるぐらいですから、仏像くらいあった方がいいだろうと。気分も出るしね。

手ごろな仏像でもありゃしないかと思って見回ったんですが、思ったより、というか、思った通り、というか、適当なのはなかったです。やたら古色蒼然としたものだったり、首だけのガンダーラ仏(というのかしら)だったり。ちょっと部屋に飾って拝もうか、という対象ではない。お値段も安いのは安いけど、高いのは高い。「なあに古きゃいいんだよ。古きゃ」と、落語の火焔太鼓を彷彿とさせるような感じで、ちょいと仏像でもショッピングってなわけにはいきませんでしたね。

子供は「あのブッダ買おうよ」「あのブッダいいじゃん」などとなぜだか興奮状態で押し売りモード(聖☆おにいさんを読んでるせいで、ブッダに親近感がある模様)。なぜお前が買わせようとする。こっちはイライラモード。仏像買いに来て子供にイライラしてるようじゃいけない。それが凡夫の悲しさよ。

ざっと見回って収穫なし。有楽町無印で家族とランチ。私はビールを軸にさっさとパン単品に決定。家族はランチセットをあれこれと検討中。

せっかく仏像買いに来たんだけどなあ。ふと思い出す。丸善で仏像展示即売会やってたな、と。

で、有楽町から東京のOAZO丸善に行きまして、買いました。釈迦仏。18,900円也。

予算の二倍だけど、骨董屋で見たものより顔立ちもいいし、安っぽくないし(骨董屋で見たのは古くて何だか安っぽかった)、まあ、いいだろうと。

阿弥陀仏と迷ったんですが、なぜか子供は釈迦仏がいい、と主張。

阿弥陀仏にも未練があって、阿弥陀様はどうしてダメなの?と子供に聞くと、阿弥陀仏と釈迦仏って何が違うの?と逆に質問されました。

阿弥陀仏は極楽浄土の仏様で、釈迦仏は実在の人だよ、と答えるとだったら実在の人がいい、と。

ま、いっか。ということで釈迦仏に決定。

そう。極楽浄土の思想は有難いのですけど、正直100%身に馴染んでいないんですよ。嘘偽りないところで南無阿弥陀仏。と本心で感謝できるのですが、偶像化された阿弥陀様には違和感がまだ若干のこっている。その辺もまだ私が凡夫たるゆえんなのでしょうけど。ということで、まだ実際に受肉されたお釈迦様の方が入りやすいかしらん、などと思ったりして、お釈迦様でいいじゃないか、と。子供には、お釈迦さまには、南無阿弥陀仏ではなく南無釈迦牟尼仏と唱えるのだよ、と一応注意して、お釈迦様。南無。

早速ソーメンをお供え。子供がやたら盛り上がってて楽しいですわ。なんとなく部屋の空気も締まる感じ。

面白いもので、2,500年前に修行され、涅槃に入られた方の像が部屋にあるだけで違うものです。

ちなみに夕食はソーメンとトマトとオクラの刻んだのとゴーヤチャンプルーでした。(私が作った)

ごちそうさまでした。合掌。


ハウルの動く城見た(二回目)

見たの二回目なんですけどね。新たな発見がありました。もう、これからは、ハウルを宮崎駿の最高傑作の一つに挙げますね。

まとまってないですが、解釈メモ。

ハウル=宮崎駿さん

カルシファー=鈴木敏夫さん

動く城=ジブリ

ハウルはカルシファーと契約し、二人三脚で仕事をしている。

師匠や国王は、顧客のエライさんでしょうな。

ハウルには、どこか「本当にやりたいことはこんなことじゃないんだ」という葛藤がある。宮崎さんしかり。

しかし、宮崎さんもカルシファー(=鈴木さん)と契約し、仲良くやっていて、その現実は100%否定できない。それはそれでうまく行っているという面もある。

つまり「ハウルの動く城」=ジブリである。ジブリはカルシファー=宮崎さんと鈴木敏夫さんの二人三脚で動いているのである。

しかし、ジブリを運営することは、資本主義の社会で戦うことでもある。本当は戦いたくない。しんどいのはゴメンだ。

その葛藤が「戦争」という形で映画に表れる。生きることは、仕事は、戦争じゃない。もう戦争はもうやめなさい。ハウルの闘いは宮崎駿の社会に対する闘いである。

ジブリ=「城」は、ボケかけた魔法使いの老女によって結果的に破壊される。その老女は宮崎駿さんの母ではなかろうか。もう、やめなさい。あなたの心臓をもっと大事にしなさい。母はエゴとともに息子の心臓を抱え、いたわろうとする。

しかし、ソフィーは母から心臓を取り戻す。お母さんの役目は終わったのです。ハウル=宮崎駿はもう小さな子供ではない。女性を愛し、社会とかかわる大人なのです。そしてソフィーはハウルを愛するわけです。

最後にハウルとカルシファーの心臓はソフィーによって分けられる。ここで二人とも一旦死に、即座に再生することによって、自由になる。

自由になった二人の魂は、再び二人三脚で城=ジブリを動かす。これは二通りの解釈が可能。

  一つ目の解釈:やっぱり、しんどくてもジブリをなんとか動かしていかなければならない、という宮崎さんの覚悟。

  二つ目の解釈:二人は分けられて一旦自由になり、解放される。その後でジブリを引き継ぐのは実は別人(であって欲しい)。たとえ宮崎さんと鈴木さんがいなくなってジブリが困難な状況になっても、復活して欲しい、という宮崎さんの願い。

ソフィーとはだれか。宮崎さんを100%理解し、受け止めてくれる永遠の女性なんでしょうねえ。

って書くと身も蓋もない解釈ですけどね。野暮だったかねぇ。

でも、宮崎さんの強烈な葛藤があるからこそ、あの映画が普遍的・夢幻的傑作になりえていると思いますよ。最高傑作の一つです。