枝豆にビール。素晴らしい組み合わせですよ。
若いころは揚げものにビールだった。口を熱い脂(肉汁)でギトギトにしてウグウグいくビールが最高だ、と思っていた。でも、年を取るとそうでもないのよね。脂はしんどい。それが真理となる。
むしろ旬の枝豆を美味い美味いと夢中で食べて、なんとなく口がボソボソしだして、水分を補給したくなる、そんな次の瞬間にゴクゴクと飲むビールは、また格別であることだなあ、と夏になると思いますね。うん。
モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
ヤゴを飼ってみたのですわ。
こういうペット(?)ってのはいいです。パートタイムペット。人生(虫生)の一生涯の責任を持たされることもなく、一時的に面倒をみればそれでいい、そんな(比較的)気楽な生き物飼い。気楽で楽しい。それでいいのか、という問題はありつつも。
で、数週間赤虫とか食わせてたんですわ。まずは冷凍赤虫。当然死んでるやつ。ピンセットで摘まんでピロピロやってるとヤゴがパクッって食べるんですわ。楽しい。でもじきにそれが面倒になるもんだから、勝手にピロピロしている生の赤虫に切り替えるわけです。でも冷凍から生に切り替えたらどれほど食べるかと思えば、そんなに変わらないんですな。冷凍をぴろぴろやってたころとヤゴの食欲は変わらぬ。そうだったか。うぬぬ。などと思いながら赤虫が力なくウニョウニョする水槽をにらむ。
赤虫って昔は汚れたドブ川にいたやつですけど、最近はどうなのかね。見ない気がするけど。ドブ川に行く機会すらなくなったのか。赤虫すら住めないドブ川になったのか。前者であると思いたい。
ヤゴはヤゴで共食いしてましたね。狭い場所に詰め込まれると、お互いお布施合戦になるらしい。こんなにいっぱいいるなら、僕は不要だから、僕の体を食べて。どうせ全員生き延びることはできない。だから、僕の体を食べて少しでも長生きして欲しい。いや、赤虫はあるから。共食いしなくても大丈夫だから。そんな祈りも空しく、今日も共食いするヤゴを恨めしく眺める。
そんなこんなでヤゴからトンボへ。かなり感動しましたよ。すごいね。生命ってのは。どうしてこんなことになるのか。以下写真を連ねます。
これで一時間経ってないんだからね。人間に比べるとその時間の進み方の早いこと。0歳から18歳までを1時間で済ませるわけ。18歳(多分)のトンボを、羽が固まるのを待って外に離しました。いやあすごいね。ホント感動したよ。地味な感動だけどね。
ある日妻が小バエを叩き殺してふと言いました。「あの愛おしかったトンボも、この憎たらしい小バエも、同じ虫だよね。何が違うんだろう」。心が違うんだよね。ほとけの心か凡夫の心か。それによって命の見え方が違うのだ。
手塚ブッダすげーって思いましたよ。あれは面白い。素晴らしい。
うろ覚えですが、しかるべきキリスト教の権威(ローマ法王とか?カソリックのトップとか?)から、手塚治虫に聖書の漫画化の依頼があったとかなかったとか。むべなるかなと思います。手塚治虫の聖書。読みたかったな。だって聖書って長いですから。マンガでなきゃ到底付き合えないですよ。ってワリと冒涜的か?教養として押さえたいと思いつつ、速読しにくいもので・・・
そんなことより手塚ブッダ。傑作ですね。感動しました。・・・それしかでてこねーや。ま、傑作の感想としては、それでいいんでしょう。
そうだ。違和感が一つありました。ブッダが教団の人に残した言葉。教団を存続させなさい(という旨)。これは違うでしょう。「自灯明法灯明」でしょう。自らを光として、真理を光として生きなさい。ブッダが教団の存続にこだわっていたわけがない。そこだけ違和感ありました。他はOK。
火の鳥。まだ途中ですが、これも素晴らしいですね。とにかく日本のマンガはすごいですよ。
これ読むと、嫌韓だとかそんなことはどうでもよくなりますね。著者は日本人の中で育った朝鮮人であり、その出自からずいぶん苦しいご経験をされたようです。しかし、決して日本人を一般化して攻撃することもなく、朝鮮人であることに卑下するわけでもなく、あくまで独り悩み、苦しむ存在として状況と対峙している。
凄まじい貧困、暴力。悲惨な自叙伝の合間に親鸞の言葉が引用されているのが胸を打つ。傑作ですよ。
ぶっちゃけ体罰についてです。実際に手を振るわなくても、怒鳴りつけるとか、怒り狂って説教するとかそういうのも含めます。そういうのも体罰の一種だ、と聞いたことがある。磯野家の波平さんも正座させて説教する。それも体罰ということになる。そう定義しておきます。
というわけで、体罰について反省してみる。反省する前に世間の意見を思い起こしてみると、体罰はさすがにダメじゃないか。いや、体罰くらい良いんだ。と二極に分かれるわけです。
私は基本的に体罰はいかんと思ってました。その理由は二つ。
一つ目の理由は、一旦体罰を許可すると暴力が正当化されてしまう。それは恐ろしいことだ、という実感を伴った拒否感。(中学生の自分の記憶に基づく。)
それから、なんといっても暴力を正当化するわけにはいくまい、という非暴力原理主義。これはむしろ頭で考えた方。
そうやって体罰=悪という図式を絶対視して一人目を育てていると、なかなか悩ましい局面に遭遇するわけですよ。二人目になるとまた違うのだろう。でも、一人目はどうしても神経を使ってしまう。こうあるべきだ!というのが前面に出てしまう。ピリピリ育てて怒ってしまう。哀れなり長男長女。
子育てで頭に来る局面。たとえば食事の手伝いをしない。いくら言ってもしない。「手伝いをしろ」と10回も言ってみて、「ああ?」などと生返事されてマンガを読み続ける。さすがに怒鳴りつけたくなる。つーか怒鳴りつけてしまう。
そして。あああ。また怒鳴ってしまった。後悔する。
しかし、じゃあ体罰は絶対ダメとして、どうすればええんや、と。家族として食事の手伝いはさせたい。しかるに、我が子は馬耳東風。糠に釘。暖簾に腕押し。(こんなことわざがあるところをみると、昔から子供と言うのは親の言うことを聞かなかったに違いない)
さすがに怒るべきじゃないのか。いやいや、やはり怒るにしても怒鳴りつけるのはいかがなものか。でも、完全に頭に来てしまっている。で、いかんいかんと思いながら怒鳴りつけてしまう。
日々悩んでおったら、ある本を見て「やはり体罰に目くじら立てる必要はない」という尊敬すべき筋からの意見を見ました。
でも、いやいや。やはり如何に愛を以てするとは言え、暴力は暴力。体罰はいかんでしょうが。と思う。暴力を是認してはいかんのではないか。
そうは思ってみるものの、体罰を受けてなお、まあ、そういうのもアリじゃないか、と思う人間がいることは理解できる。私も父親の(記憶に残っている)唯一のビンタを思い出すが決して恨んではいない。
でも、その人には「体罰も愛があればよい」と思えた。しかし、皆が皆体罰を受けて、いやあ、あの体罰は愛の鞭であった。先生の愛であった、感謝感謝。と思うことはないであろう。
だからなるたけ怒りたくはない。しかし親にとってしてみれば、止むにやまれず子を怒鳴りつけることがある。それは、愛故にというよりも、先生が、親が、不完全な存在だからなのだ。
子供が、そういうことを、大きくなって気がついてくれれば、心にもなく怒鳴り、手を上げたあの時を許してくれるかしら。でも、それを期待してはいかんなあと思いつつ、
暴力は絶対に正当化されてはならぬ、と思いつつ、
こう言った矛盾が包摂されるのが、仏教的態度なのではなかろうか、と思います。
なぜって「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」ですから。
われわれはみな、不完全な存在。凡夫なのですから。
阿弥陀様は「しょうがないなあ」と考えられつつも、ちゃんと見ていただいているのかも知れません。
あるいは私の中の無位の真人は、情けない、とわれわれに怒っているかもしれません。
とにかくこの娑婆世界では救われることがない、それこそが凡夫が凡夫たるゆえんではないか、と。
合掌。
前は結構感動したんですけどね。星6つつけたし。
どこに感動したか。仏教は無神論だ!悟りだ!という言葉に感動した。そうなんか!って。特に前半は今読んでもワリといいと思う。
でも今読むとやや鼻についてしまいました。禅は優れた師につかなければ絶対に分からない!いや、そりゃそうかもしれないけどね。鈴木大拙に師事した人に言われたくありません。だったら俺は禅には縁が無いってことじゃん?師なんか探してる暇はないもの。近所には居そうにないしさ。
ちょっと残念な感じで読んでしまいました。
何でまたこうしてマメにブログに書くかということをたまに自問します。自分でもその理由はよく分かりません。
心でうごめくマグマがその出口を探していると、たまたまブログという穴があって、そこからドロドロと噴出しているような、そんなイメージがしっくりきます。
すなわち自然(じねん)に、spontaneousに何だかどりどろりと出て行く、それがブログなんだと。
ハタ迷惑なもんです。
このようなマイナーなブログであっても、こうしてbloggerのディスクの一部を消費しておる。たまたま目に留まって読んでしまった方のお時間を頂いておる。大変な迷惑をお掛けしてるんだなあ、恥ずかしいことであるなあ、と思いながらこうしてどろどろと記述しているわけで。
そんな風に反省しながら記述するわけですが、記述するにしてもエネルギーがいるものです。
そのエネルギーの源泉は何かと言えば、ストレスなり怒りなり、何らかのネガティブな感情ではないか、とそのようなことを思います。そういうモチベーションがないと、そもそも書こうという気にならない、というか。
あるいは逆に愛とか感動とか、そういうポジティブな感情でも書けるかもしれません。しかし私はあまりポジティブな感情で物を書くことは少ない、というかポジティブな感情だと余り量が書けません。「とてもよかった!」「すごかった!」「必見(必読)!」で終わっちゃうんです。ということで、ネガティブな感情の方が、現れる時のパワーが強い。
何の因果か、と思います。
考えてみれば、お釈迦様もイエス・キリストも、敢えて自ら書いて残すということはしなかった。
多分、お釈迦様もイエス・キリストも自分で書く必要などなかったんだろうな、と愚考します。
何かしら書きつけ、つらつらと訴えるのは凡夫の仕業である。充ち足りないから書くのだ。
ゆえに、表現には、何かしら邪悪な、こすっからい、言い訳じみた、人をだますような、そういうニュアンスがどうしても付きまとう。
無心坦懐、ストレートに書く文章など、存在しないんじゃないか。というか、たまに手帳に思いついた感動をそのまま殴り書きすることがあるんですが、使い物にならんです。その時の、極めて個人的、限定的な、一時の感情ですからね。それが、一時的にどれほど高まったとしても、ただ書き殴っていては普遍性は持ちえない。普遍性を持たせるためには、客観化し、口当たりよくする必要がある。そのためにはエネルギーがいる。そのエネルギーをまかなうためには、何らかのモチベーションが必要。そのモチベーションは、何らかのネガティブな感情(怒り、ストレス)から生まれやすい。
何を言っておるのか。最近、私は仏教によってなんとなく救われた感があるんですよ。
仏教に救われた、なんて2年前の私からは想像もできない。
しかしながら、本当に救われてしまった。この辺、どうにも人に説明しにくい。でも、本当に心が少しだけ安らかになった。このことは伝えたい。
そんな風に思いつつ、数ヶ月間書けなかった。
何で私は救われたか。救われてしまうと、そんなもん、どうでもええやんけ。書くことないやんけ。と思っちゃう。
人から迫害されれば、なんとなく「私はこんなひどい目にあった!!!」と怒りにまかせて書くのでしょうが、救われた、という話はなかなか書けない。
だって、書いてしまうと怪しいじゃないですか。なんでこいつこんなこと書くんや、と。何か企んでるんちゃうか、と。
ま、そんなこともあって、仏教に出会って人生観が変わったということは、なかなか書きにくいんだなあ、とそんな風に思うこともあります。
自称「凡人」による牽強付会気味の論語解説。好き勝手に読んだっていいじゃないか、という意見には賛成。内容は…まあまあ、かな?
ちょっと凡人ぶりに引いたかも。