■「使える現象学」 レスター・エンブリー ちくま学芸文庫
★★☆☆☆☆:実践的ではあるが・・・
そこまで精緻に考えるか。ついて行けない。体力的にムリ。やはり食べているものが違うからか。ゴボウとか食べてたら現象学的な思考にはついて行けないんだ。肉食わないと。
現象学的方法論で周りを見ていると、自分の周りの世界が認識の習慣で成り立っていることが分かるかもしれない。それはそれで面白いでしょうが、それに気がつくプロセスとしては現象学は大仰過ぎるし遠回りすぎかな。まあ適当に方法論をつまみ食いして簡便なフレームワークとして利用するあたりが要領がよくて賢いと思われます。アカデミックな方面から反発がきそうだけど。でも人生は短い。誤解でもいいから適当に利用した方が効率がいい。煩瑣な議論は学者の皆さんにお任せ。
何とか読了。でも後半はほとんど流し読み。
※ 2009/7/14に再読しました。
■「差異と反復(上)」 ジル・ドゥルーズ 河出文庫
☆☆☆☆☆☆:デリダ、ドゥルーズをありがたがる必要はない
何言っているかさっぱり分からない。でも何か興味深いことを言っているような気はする。読んでて小難しいけどありがたい話が載っているような気がする。すなわち読む自分に自己満足するような感じ。それだけでも貴重かな。
同一性と差異という根本的な問題意識を徹底的に考えている感じ。時折(50行あたり1行くらい)ハッとするような箇所がある。それを手がかりにやみくもに読んでいる。到底理解できるとも思えないけど、読了すれば何かが得られそうな予感はありつつ・・・。あああ。やっぱダメ。ついて行けない。これもまた食べているものが違うからか。(安直な理由付け)
養老猛司氏が「要するに同一性なんて脳の機能だろ」というところで片づけているところをものすごい体力かけて分析し、哲学史を再構築してる感じ。付き合ってられなくなって挫折。ムリっす。
■「龍樹」 中村元 講談社学術文庫
★★☆☆☆☆:あまり心に響かない
東洋の思想はまたわけわからんですね。一切のものは空である。そしてまさにそうであるがゆえに一切のものは空ではない。みたいな。確か金剛般若経も全面的にそんな感じ。どうみても矛盾だろ。でもあまりに明らかに矛盾してるので、なんか考えてみなきゃならんのかな、と思わせる。
西洋と比べて言葉に対する思い入れ度が全く違うのがよく分かります。まあ、あっちのロゴスは神の作りたもうたものだしな。反対に、東洋では言葉に対する不信感というか言葉に限界を感じている様子。
ちょっと気になったのは、法=ダルマに関する叙述。
般若心経に「不生不滅不垢不浄不増不減」などとあって「生まれることもなければ滅することもない。汚いということもなければ清いということもない。増えることもなければ減ることもない」などと普通訳されます。東洋的でアタマではいまいちよく分からないわけですよ。対立概念を出して、両方とも違うんだと。何となく聞くと、はあそういうもんですか、と思いますが、少し考えてみるとおかしい。
で、この「龍樹」を読んでみると、仏教思想史上、法=ダルマってのが実在的に捉えられたことがあったらしいんですね。どういうことかというと、確かに個別の存在は無常ではかない。でも、極端を言えばすべての実在は無常であるかもしれないが「無常」という*コト*は普遍的に存在するんじゃないか。そうじゃなきゃ、すべては無常だなどと言えないわけですよね。言い換えると無常が常に存在しなけりゃあ「一切は無常である」という命題が真理であるとは言いえない。この無常ってのは個々のモノではないわけです。すなわち個々の実在の上にあるような存在。すなわち法。だから法ってのは個別の案件を超えて実在するんじゃないか、そういう思想です。(と私は理解しました。便宜的に。)
そう考えると、逆に「不生不滅」ってのが面白くなってくる。つまり、法なんて実在的にとらえるんじゃないよ、そういう観点ですね。(一応時代的には逆転してるんですけどね。法=ダルマ=実在、という発想はゴーダマ・ブッダ以降の解釈なので。まあその辺の細かいことはええやないか)。
つまり「生まれるということそれ自体=法」も、「滅するということそれ自体=法」も存在しないのです。ただ生まれ、滅するのは、他ならないあなたという存在なのですよ。あなたはあなたであり、生まれたとか滅するとか、汚れているとかききれいだとか、増えるとか減るとか、そういう風に簡単に一般化できない存在なのです。
だから世界の中には、色彩などというものもないし、何かを受け入れるということもないし、想うこともなければ、行動するということもない。認識することもありません。眼もなく耳もない。鼻も舌も身体も意識もない。・・・ とかと続くわけですが、これは一体何をいってるんでせうね。言葉の否定か。うむむ。
やはり般若心経は面白い。単なる言葉遊びじゃない気がする。でも仏教って論理的にシステマティックじゃないので、勉強すれば分かるっていうものでもなく、そういうあたりがまた興味深いのかもしれません。
■まとめ
やはりその50%以上を「誰それはこう言った。一方誰それはこう言った」という引用が占めている書籍は信用なりませんし、読むのは時間の無駄ですな。昔から何となく思っていたことだけど。
すなわち批評とか評論とかのほとんど99.9%以上は読むに値しない。断言しとく。ジル・ドゥルーズもそうだったよ。すみませんね。ブタに真珠で。でもこのブタも一応考えるブタでして。
中村元。仏教系の原点を当たろうとするとどうしようもない権威なわけですけど、やっぱりアカデミックな文献クリティークがメインな人のようで、はっきり言って読んでてどうかなって感じです。哲学的読解力にも疑問符がありますよ。ええ。言いますよ。ブタに真珠のブタの方かもしれませんけどね。アカデミックに評価されているからといって、その書物が私にとってどうかというのは別問題です。
やっぱり、他人の言葉に頼らず、自分の言葉をコツコツ積み上げる人の方が好きだな。ジル・ドゥルーズが凄いってのは分かるけど、衒学的な匂いが鼻につく。市井の人間には時間の無駄という気もしてしまう。ハイデガーの方がずいぶん上だと思うもの。
ああ、言ってみてすっきりした。権威は一度疑ってみるべし。
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