2009年4月25日土曜日

パン、ツナフィリング、ウィンナ、アスパラ・レタスサラダ、肉うどん、カレー

朝から雨でした。結局どこにも行きませんでした。本日のイベントは妻の衝動的大掃除。畳をひっくり返して掃除しました。

では淡々と。

  
夜間一次発酵します。最近は低温でも発酵が進んでしまうので、イーストの量を減らしました。およそ3分の2くらい。いい感じです。起床して生地を切り分け二次発酵。ちょっと行き過ぎたかも。

  
焼いてる間にツナフィリングを作り、ウィンナとアスパラを茹で、レタスを刻みます。

  
あまり手が込んでないメシは当たり前に美味いんですな。NHKおさるのジョージを見た後に朝食を取りました。


昼は肉うどん。昆布と削り節から出汁を取ってかえしを混ぜて調味します。茹でたうどんを水で洗ってから出汁に投入して暖め、牛肉の薄切りを投入して軽く火を通します。美味かったー。うどんが美味いとハッピーですよ。


夜は塩豚カレー。突発的・衝動的に大掃除をしたので、市販のルー「バーモントカレー甘口」を使った手抜きのカレーです。塩豚美味いっすね。使いどころを間違えなければいい食材です。なかなか使いどころが見えないですけどね。ただ焼く、煮るだけでも美味いんですが、私にとってはなかなか御しがたい、難しい食材です。何でかな。理由は良く分からない。独特の匂い?塩味の調整?その変が難しいのかも。

まあ、以上ですわ。
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2009年4月23日木曜日

いちおう時事ネタということで

草なぎ剛氏が逮捕されました。最初にかわいそうだなと思いました。酒飲んで深夜に裸になってわめくなんて悲しすぎる。

それを「最低の男だ」とか言う官僚とか大臣とかって、人生の暗い面をまったく理解できない情けないヤローだな、と思います。

所詮はいいとこのおぼっちゃんどもか身内と保身だけを考える小心者どもの集まりか。おまえらキレイゴトばかり言ってんじゃねーよ。
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節酒の抑止力となるのは

前にちょっと体がしんどくなって節酒を試みたことがありました。

今の状況はと言えば・・・微妙。昔ほどガバガバ飲んではいませんが、間違いなく3合以上は飲んでますな。

やはりモチベーション維持が難しい。節酒をすると確かに目に見えていいことはあるのですが(体調がよくなる、小遣いがあまり減らない)、それ以上に「呑みたい」欲望が強すぎます。体調ごときが。ケッ(あざけり)くらいの勢いで呑むわけすね。

酒を呑んで酔っぱらうという行為は自分の意識を弱め、最終的には意識を失わせる行為に他ならないわけで、そういう意味では自らの死の周りで遊ぶようなものだと思います。つまり、飲酒には死への欲望(タナトス)が隠れている、というのが私の説です(マジで)。とすれば健康不安もそして死すらも飲酒への欲望を押しとどめるものではありません。

とすれば、節酒するために何が必要かと言えば、死よりも怖いものが必要ということになります。死よりも怖いものがあるか。

ここで話は突然下世話なハナシになります。

中島らもがどこかで昼夜酒を飲んでると腹が始終緩くなると書いていました。要するに早い話がしばしばウンコがもれそうになって困る、ということです。

実は私も例外ではありません。通勤電車に乗っていてそんな目にあうともう本当に地獄です。あともう少しで・・・ということがしばしばある。ギリギリの状態で駅についてもまだ気は抜けない。トイレに長い行列ができていたり、あと一歩のところでもう誰も個室から出てこない、ということがよくあります。もう冷や汗ダラダラ、心臓バクバクで死にそう。これは本当に死ぬよりもツラい状況なのです。

それから、一線を越えてしまうともう大変であろうことは容易に想像できるわけで。空にまで突き刺さるほどの薫り高い存在になって、その後は考えるだに恐ろしい状況となるはず(タクシーなんてつかまえられないだろうし、徒歩で帰れないし・・・ああ怖い。もうやめた)。ということで、何のために節酒をするかと言えば、やはり通勤中に大変なことにならないためですよ。この抑止力はスゴイ。よく分からない投稿ですが以上。
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2009年4月22日水曜日

司法は信用できないのかも

民主党小沢代表秘書の逮捕のニュースを聞いて以来、どうも日本の司法が怪しいような気がしてなりません。って遅かりし?あまりにナイーブだった?>自分

その他 参考記事)

堀江貴文氏の逮捕後初の会見

植草一秀ブログ

裁判員をバカにしてませんか(1/4)

特にホリエモン逮捕。私も当初は以下のようなストーリーでとらえていました。

→ ネットバブルに乗じて成り上がり最終的にはマネーゲームで金を儲けることに走った拝金主義の若者の逮捕。

何となく胡散臭い(見せしめ?庶民のルサンチマンを官憲が利用して出る杭を打った?単なる大向こう受けを狙った?)とは思いつつも、まあ逮捕も仕方がないかな、と考えていました。

しかし、ホリエモンのインタビューを見る限り若さ、ナイーブさ(拝金主義を未だに正当化している。いまさら別にどうでもええよ。出る杭は打たれる、といまさらしみじみ振り返っている)があるのはさておいて、やっばりそれほどの悪事はやってないんじゃないか。むしろ詐欺的だったのは宮内のほうじゃないかな。という印象を受けました。すなわちホリエモン逮捕はやはり社会の流れに乗じた司法のパフォーマンスであり、その標的にされたホリエモン、という構図が透けて見えた気がしました。

小沢秘書も植草一秀も、大衆受け(むしろ政治家受けか)を狙ってる逮捕という側面があるように思えて仕方がありません。

いずれにせよ怖いのは、解釈の余地のある法が、司法によって柔軟に解釈され、別の理由(大向こう受けするから、ある有力者がウザがってるから)で逮捕され、マスコミも単純な図式で悪玉論を発表し、何となく世間的にも「悪い」という印象が浸透してしまうという事実です。

このように一度警察や司法を疑いだすと、非常にこの国の居心地が悪くなります。有名人である、とかあるいは「普段有力者に文句を言っている」とかいう理由で些細な法律に抵触する行為をあげつらわれ、マスコミぐるみで一方的に悪人にされることもある(※)ってことですよね。まあ、100%そうかは分かんないですけど。

※ こういう構造って会社でもありませんか?リストラとかね。だからこそ官憲がこのように動いても不思議じゃない気がします。

政治的な要素はありませんが、京都舞鶴で起こった殺人事件。これも今のところ状況証拠だけですよね。それとも物証を上げる自信があるのだろうか。どうも怪しい(警察が)。いや、もちろん分からないですよ。本当のところは。千葉の事件では最初は「怪しい(警察が)」と言われていましたが、どうやら真犯人だったらしいですし(あの事件では目撃者もいたそうなので事情は違うと思いますが)。

少なくともこういう「犯人探し」活動について私は大衆を信用する気にはなれません。世間は自分と違うものをパージしたがりますし、犯人を早く見つけて安心したがる。疑わしきは罰せずという世論が形成されるなど、あまり期待できない気がします。

そうなってくるとこれって北朝鮮?って気すらしてきます。あっちは「国家」、こっちは「世間」「大衆」「上流階級のお仲間」「政治家」という違いだけで、やっていることは変わらないんじゃないか。

まあ、北朝鮮に比べれば比較的自由にやっていけるのは間違いはないわけで、あんまり極端なことを言うのもオカシイとは思います。しかし(強迫観念かもしれませんが)私にとって怖るべきは大衆+マスコミによる思考停止です。やっぱり私は集団(=自分が属する組織を「ウチ」と思っている個人の集まり)を信用することはできない。官憲、司法、会社、チーム、それを代弁しようとする人にはまず疑念を持ってしまう。こんな私に誰がした。そりゃ集団ですがな。個人的にはある意味で悪循環の状況に陥っているのかもしれませんが、やはり「何が正しか」を考えないと私は納得できないのです。因果なものです。疑心暗鬼にはなりたくないですが。

以上。
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2009年4月21日火曜日

一個人として語らない人たち

人の話や判断を聞いて「?」と思うことがよくあります。その人がどう考えているのか。その人がある人に対して、どうしたいのか。何を与え、何を期待するのか。それが見えない。つまり「会社としては」とか「世間的に」とかいう枕詞をつけないと語れない人たちです。

そんな人から「わが社としては、昨今の事情を踏まえてこのように行きたいと考えます」という感じで言われることがたまにあるわけですが、それに対して「会社の意向は分かりました。ではあなたはどう考えるんですか?」と聞いてみると反応は通りに分かれるように思います。「個人的には」とすらすら語る人と、口ごもってしまう人です

以上より、

■「個人的には」と語れる人は、自分の意見を持っている人

■口ごもる人は、自分の意見を持たない人

と結論付けてしまうのはほとんど思考停止なので、もう少し立ち入って考えてみます。


【会社と個人の関係】

会社の見解に対する個人の見解には、大きく言って以下の9パターンの関係があるでしょう。そして下記のように分類したとき、個人的な意見を言いやすい状況と、言いにくい状況があることが分かります。

(1) 会社としての見解がポジティブ かつ 個人的にはネガティブ
→ 個人的には「そんなことやりたくないよ」「いやだな」と思っているので、個人の意見が言いにくい。

(2) 会社としての見解がポジティブ かつ 個人的には無関心
→ どうでもよいので個人の見解が言いにくい

(3) 会社としての見解がポジティブ かつ 個人的にもポジティブ
→ 自分としての意見を堂々と語れる

(4) 会社としての見解がネガティブ かつ 個人的にもネガティブ
→ 個人的にも同感なのだがネガティブな自分の意見は言いにくい

(5) 会社としての見解がネガティブ かつ 個人的には無関心
→ どうでもよいので個人の見解が言いにくい

(6) 会社としての見解がネガティブ かつ 個人的にはポジティブ
→ 個人的にはポジティブなんですが・・・という形で自分の意見を言いやすい

(7) 会社としての見解が無関心 かつ 個人的にはネガティブ
→ ネガティブな自分の意見は言いにくい

(8) 会社としての見解が無関心 かつ 個人的にも無関心
→ どうでもよいので個人の見解が言いにくい(どうでもいいです、とは言いにくい)

(9) 会社としての見解が無関心 かつ 個人的にはポジティブ
→ 個人的にはポジティブなんですが・・・という形で自分の意見を言いやすい

整理すると

自分の意見をはっきり言えるパターン → (3)、(6)
歯切れが悪くなるパターン → それ以外

ということで、必ずしも自分の意見があれば言える、というものではありません。

【「会社の見解」なるもの】

もうひとつ、会社の見解単体で「?」というものはよくあります。判断の真意や基準がよく分からない場合です。表には見えない会社の都合(「売上/利益」といった数字重視あるいは「会社共同体の保身」)が背景となっていることが多いように思います。別にマスコミ向けの公式見解に限りません。

また「会社として」という枕詞の裏にその人のルサンチマンやネガティブな感情が隠れていることもよくあることです。利己的な判断が「会社として」という枕詞とともに出てくるケースもある。

【まとめ】

そもそも会社に属する一個人というのは、完全に会社と自分を同一視できる奇特な人を除いては、アンビバレンツな状況に違いありません。

一概に「会社として」「個人として」切り分けることはできませんし、上司や顧客などとの具体的な関係もあり、割り切れるものではありません。

そのような状況において、「会社」という抽象的存在に容易に同一化し、居心地よく身を預けることのできる人と、自分で考え、自分で行動することに重きを置く人との間に、違和感が生じるのは無理のないことだと思います。

と無難かつ曖昧に収束させたところでホンネ。

組織や仲間のウチに属すると日本人は強い。個人で考えて行動する人にとっては、生きにくい世の中です。私としては、一個人として語る人がもっと増えることによって、もう少し風遠しのよい社会が広がることを願っています。
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2009年4月20日月曜日

クラウドとか

日本IBM、大量リストラの背景 究極の「業界中抜き」が到来する

将来を予測しようとする記事はまず的中しません。大外れ=予測の逆を行く、ってこともあまりありませんが、記事が煽るほど劇的に社会が変わることもあまりない。アジられてあせって動く人を食い物にする人が勝つ。

例えばインターネットが与えるインパクトの予測。15年前には様々な未来予想図が描かれました。確かに「変わる」「変わる」という声は大きかったし、実際に変わりました。しかし、このような世界になると誰が予測したでしょうか。つーか、このような世界ってのはどのような世界?切り口によって見え方は全然違います。どのような予測も部分的には当たって、部分的には外れて、部分的には完全にアサッテの方向に行く。そんなもんだと思います。後は程度の大小です。

もちろん明らかに未来が変わる前触れってのはありますが、どれほど注意していても常に正しい予測を立てて動くことは難しい将来リストラされる事業部や倒産する会社に勤めていると何とかなく「怪しい」なと思うことはあります。しかし、そこで「近いうちにリストラされる/倒産する」という予測の元に次の手を打つことは難しい。実際には*事後的に*あー。やっぱりリストラされた/倒産したよ、と思うのが関の山です。

まあそれはさておき本題に戻ります。

引用先の記事を非常に乱暴にまとめると、IBMと富士通のリストラという事象から、IT業界の今後の変化が不可避である旨を述べ、その後最近よく聞くジャーゴンである「クラウド」を出して今後は「クラウドコンピューティングの台頭が予測される」、「クラウドの本質が「中抜き」と「グローバル化」であるとすれば、日本のIT業界に上流工程以外未来はない」と結論付ける内容となってます。

まあ、論理のステップが乱暴だったり、仮定に仮定を積み上げたりしているわけで、大したアレではありませんが、重箱の隅をつついてもしょうがないので何となくクラウドコンピューティングについて考えてみました。

クラウド・コンピューティング。乱暴に言ってしまえばGmailとかGoogle Appsとかでしょうね。

つーことは、いわゆるASP+データセンターの大規模なモノってところですかね。そうなるとなんか別に新しくないな。ま、ジャーゴンってそんなものだね。

ってことは、どうもそんな仕組みがIT業界全体を席巻するとは思えない、というのが正直な感想です。セキュリティの問題もあるし。Google Docsで業務回す会社ってあるの?個人でそんなことしてたらむしろ会社に怒られますよね。それから業務ったっていろいろあるし、すべてがクラウド化できるわけじゃないのは自明。

今後サーバの統合や仮想化が進んでいくことは実感としてあって、その流れてIT系の人員が不要になると言われれば、それはそうかもしれない、とは思います。でもだからと言って人員が半分に削減されるとも思えないですね(5年、10年のスパンではそうなるのかもしれませんが、そこはもう無責任予想の範囲)。ASP、グリッド、クラウド、いずれも空しいジャーゴンに過ぎないように思います。

エンジニアの必要知識を考えてみても、実は10年前とそんなには変わらないですね。UNIXアドミ、TCP/IP(ネットワーク)、C(C++)、Java(10年以上現役ですね。素晴らしい)、スクリプト言語(Perl、awk、sedなど)。

プロマネだとかITILだとかUMLだとか、エンジニアの眼を紛らわすような怪しいTipsがあふれて来ていますが、私見ですがそんなものは浅薄な技術(「なんとかHack(笑)」とか「Tips(笑)」)を売り込んで業界での主導権を握りたい大企業の下手くそな陰謀です。普遍的かつ有用な知識とは思えません。一定の経験とそれを反省して抽象化して頭の中で組み直す力があれば、そんなメタレベルの知識を頭で理解するのなんて不要。むしろ下手に頭でっかちな人間が出来上がるだけ、害悪とすら思います。そういう意味ではクラウドがどうこうするから上流工程が重要になる、というのも私に言わせれば全くのナンセンスです。「ソリューション営業」向けの記事らしいので、乱暴なのもむべなるかな、といったところでしょうか。

まあ、流行を押さえるのは重要でありつつ、でも普遍的なもの(5年~10年一線で使える知識)の方が重要なんだ、ってことですね。

以上。

2009年4月19日日曜日

葛西臨海公園、ソバ、塩豚・シメジ・ピーマン・きくらげの中華炒め、フキと厚揚げの煮物

葛西臨海公園にハゼ釣りに行きました。釣れなかったなー。ホントに。朝起きて、釣りに行くといってハイになった子供たちを脅したりスカしたりしながら着替えさせ、電車に長時間乗って葛西臨海公園へ。それだけでも結構疲れる。海に着いてからリールを竿に装着し、仕掛けを付けます。アオイソメを一匹つまみ出し、心の中で謝りながらも、自らを貫こうとする針に二本の歯を延ばしてか弱く抵抗するアオイソメを、心を鬼にして針に引っ掛けて、ぴゅーんと海に投入。この瞬間は楽しい。

前回11月に行った時は晩秋ということで、落ちハゼが釣れればラッキー、くらいのボウズ覚悟だったので、一匹も釣れなくても全然応えなかったんですけど、春になってそろそろハゼも出てくるしさすがに釣れるだろうと思って期待していったところ、全然釣れなかったのでガッカリ。人間、期待するから失望するのであって、期待しなければ失望することもない。期待したアタシがバカだった。年を取るほどに身に染むこの言葉。まあ子供たちは砂遊びして楽しそうだったのでよしとしよう。
  
昼前に撤収。昼は町のラーメン屋でラーメンを食べました。まあ不味くはなかった。美味いと言ってもいいかもしれない。目を吊り上げて、期待して食べに行ったらガッカリしたかもしれない。でもナニゲに食べた町のラーメン屋のラーメン。ナニゲに美味かった。そんなところです。やはり期待しちゃあいけないっつーことで。

  
帰宅して夕食の支度。そばをメインとすることに。昨日削り節を買ったので、そばつゆは自作です。「門外不出!?美味しいそばつゆの作り方」を参考にしました。鰹節がなかったのでイワシ・ムロアジ系の安い削り節でダイヨウしましたが、それでも「おお?!」と言えるくらいの味。これは美味い。そしてフキと厚揚げの煮 物。子供にはフキの苦味が不人気でしたが、大人にとってはしみじみと美味しかった。

  

それから塩豚ときくらげとシメジ、ピーマンのオイスター炒め(生協の牡蠣風味調味料とトウチ入り)。アレンジ系のメニューです。昨日残しておいた たけのこの先端付近を使おうと思ったのですが、一口食べたらエグみが強烈だったので断念。塩豚かなりイケる。全体にちょっとしょっぱいけど美味かったです。葉っぱ系緑黄色野菜の補足として小松菜を茹でました。別途適宜煮物に投入。これはまあ煮物に投入した小松菜って感じの味ですね。

いやあ、疲れた一日でした。でもまあよい休日だったと言うことにやぶさかではない。
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