2010年2月11日木曜日

BBS作ってみました

BBSを作ってみました。いかんせん訪問者が少ないこともあり、ブログのコメント/トラックバックにはほとんどフィードバックがなく、せっかくコメントいただいても埋もれてしまうからです。いっそ集約してしまえ、と。また、ブログの方は承認制にしてありますが、BBSは自由に匿名で投稿できます。緩い感じで管理しようと思っています。ご意見、ご感想を書き込んでやってください。

2010年2月10日水曜日

高山岩男「世界史の哲学」こぶし文庫

★☆☆☆☆☆:ある意味面白いと言えなくはないものの、読む価値はない

引用6割、一般論2割という象牙の搭にいる人特有の論攷です。すなわち、いまいち。

人文系学者が何かを書くにあたっては、叙述の客観性を重視せざるを得ず、また人文系学問の客観性とは、取りもなおさず昔のえらい人がどこで(どの本の何ページで)何を書いたかということになるのは仕方がないのかもしれませんが、退屈だし内容も薄くなってしょうがない。哲学を語るに当たって客観性にとらわれるのもまた皮肉な話しです。結局哲学学者には自分の哲学は語れないということか。

気を取り直して続けますが基本的に内容が浅い気がします。

「単なる時間ならば自然界にも存在する」。故に時間それすなわち歴史ではなく「歴史はひとり我々人間にのみ存する事柄で」あり「単なる時間性から区別せられるべき歴史性の本質が(略)人間的なる物に求められるのは当然である」。

小難しい言い回しだけれども、あきれるほどの一般論。歴史は人間的なものです、と。あったりまえじゃん。

「歴史は理想主義的精神を俟って初めて成立するものである」

そうか?なんか素朴な思い込みっぽいぞ。そうじゃない歴史も考えられるんじゃないか?

そしてこの人は時間性に加えて空間性が歴史に影響を与える、と続けます。まあそれはいいとして、「日本人は地理的条件の影響を受け、民族憎悪の感情を持たず、好戦的でない」などと言い出すんですね。朝鮮の人が聞いたら呆れるんじゃないか?

それから「内的・主観的な時間と、物理的・客観的時間の根拠として歴史的時間がある」といってるのですが、一見もっともらしいものの、これもまた安直な考えだなあ、と思います。だから何だ?系のフレームワーク認識です。

田邊元などは「過ぎ去り必然と化して行く過去が流出し、未だ来ぬ未来が流入するという矛盾の成立する絶対無の場。それが時間の成り立つ現在である」旨のことを言っています。人間の実存と歴史性両者に開かれた優れた時間洞察だと思います。これに比べればこの本は浅い浅い。

以上。

ライプニッツ「単子論」岩波文庫

★★★☆☆☆:短いしね

究極の微小単位である単子(モナド)から始まり、論理を突き詰めて世界を説明したものです。哲学書といえば長くてひたすら難解であると相場は決まっていますが、これは比較的平易な言葉で短く要点を書いているので読みやすい。

モナドには窓がないとか、予定調和とか、「千の風になって」思想に親しみを持つ日本人にも比較的感情移入しやすい理論だと思います。でも神の宇宙論的存在証明とかあるし、やっぱ少し厳しいかな。哲学ファンタジーだと割り切れば面白いと思います。

森孝一「宗教から読む「アメリカ」」講談社選書メチエ

★★★★☆☆:読む価値あり。タイトルどおりの、良質な情報が得られます

初詣、お盆、葬式仏教などのテキトーでゆるい宗教的態度しかもたない平均的日本人である私からすると、キリスト教がアメリカ社会と個人へ与えてきた影響の大きさにはけっこう驚かされます。

もちろん、諸外国では宗教がシリアスな存在感を持っていることは知っていました。例えばアメリカの大統領は敬虔なクリスチャンであることが好まれるとか、無宗教者は警戒される(だからとりあえず外国人に宗教を聞かれたらブッダと答えておけ)とか、神が世界を創造したと本気で信じているアメリカ人は結構多いとか。

しかし、そんなトリビアなレベルの話ではありません。アメリカのアイデンティティ、アメリカの未来と過去、政治、人種問題、全てにキリスト教が深く関係しているのです。そのことがよく分かりました。実際驚いた。無知でした。

意外だったのは、全米ライフル協会ってのがありますね。ライフルを持つ自由を保証せよという日本人からすれば恐ろしい集団なわけですが、あの協会はキリスト教的にはコンサバティブで、政治的にも古き良きアメリカを志向するコンサバティブ。そしてアメリカ流強欲資本主義には反対しているのだそうな。へぇ。

なぜそんなことに私が驚いたかというと、わたくしの勝手な思い込みがありまして、強欲資本主義とライフル協会というのは私の中で一枚岩だったのです。ともにアメリカの資本主義と自由を代表する存在と思ってたのがひっくり返された。まあ私の認識が浅すぎた、それだけの話なんですけどね。

それに一言でキリスト教といっても、プロテスタントありカソリックありバプテストありアーミッシュありモルモン教あり、ホンネとしての人種差別もあったり、さらにリベラルだコンサバだのがあって実に大変なようです。

アメリカというのはつくづく金と宗教が動かしている国なのだなあ、と感心することしきりでした。

2010年2月8日月曜日

「田邊元全集8 歴史的現実 他」筑摩書房

★★★★☆☆:戦犯的哲学者という位置付けが残念だけど、力のある人。懺悔する必要はなかったのではないか

田邊元というのは旧京都帝国大学の哲学の教授です。西田幾多郎の教え子でそれなりに有名な人です。この講演は、佐藤優氏によれば、戦時中「お国のために死ね」と学生を鼓舞したものであり、学生たちもこの本を抱えて死地に赴いたとのことです。

そうだったのか田邊元。そんな戦犯すれすれの思想家だったのか。と思って読んでみました。

「歴史的現実」

歴史に関する考察に始まり、歴史の前提となる時間とは何か、という議論。そして時間性と否応なく関わる個人と種族(民族)、人類の関係についての論攷。論旨は明確。思考は強靭。迫力もある。安直な戦争賛美の思想ではないな、と思いながら読み進めると、以下の箇所に出くわしました。

個体はそれを否定するにせよ肯定するにせよ、種族(民族)と離れては生きていけない。そして種族に関わることで個体は永遠的な理念たる人類と関わることができる。すなわち「個体が間にはいって種族を人類に高める大切な働きをする」のであり、「個人は種族を媒介にしてその中で死ぬことによって却って生きている。その限り個人がなし得る所は種族のために死ぬことである」。出た。本当だ。文字通り「国のために死ね」と言ってる。国のために死ぬことによって、個体は却って生きることができるのだ、と。こりゃあ完全にアウトだなあと思いながら読み進めると、最後の最後にこんな叙述がありました。

今日我々の置かれて居る非常時に於いては、多くの人が平生忘れてゐた死の問題にどうしても現実に直面しなければならぬ。皆さんのやうに一朝召される時は銃をとつて戦場に立たねばならぬ若い人々はもとより、私共のやうな銃後の非戦闘民と雖も、今日の戦争に於いては生命の危険を免れる事が出来ない。死は考へまいとしても考へざるを得ない真剣な問題となる。

解説によると、旧京都帝国大学の学生たちは非常な感動と緊張の面持ちでこの講演を聞いたそうです。つまりこの講演は死に直面してその死の意味を問い続けなければならなかった若い学生たちに向けられていたのです。

若者たちの悲壮な空気を想像すると、この講演の意味も分かるような気がします。単に若者たちを鼓舞した無責任な講演ではない。死に向かう学生たちに、君たちが死ぬとしても、その死は決して無駄ではないのだと彼らを励ます講演だった。そして明らかに彼もまた死を覚悟している。この講演は、戦争下で行われた優れた哲学者の真摯な思索であることには間違いない。そう考えると何かしら胸に迫るものがありました。

「史学の意味」

いい小論です。歴史について考えていたことが整理できて、私としては非常な時間の節約になりました。私は、歴史が何らかの必然的な終局に向かっているといった、キリスト教的、あるいは唯物史観的考え方は直感的に間違っている気がしてならなかったのですが、それが理論的に裏打ちできたような気がしてスッキリでした。

つまり、物質的なあり方や、経済のあり方が歴史と人間を規定することもあろう。あるいはそれよりは弱い仕方かもしれないけれど、理念や思想が歴史と人間を規定することもあるだろう。でも、どちらかが一方的に歴史と人間を必然的に定めてしまうと考えると、それは間違いである。史学というのは、それが既に定まってしまったという意味で必然でありながらもダイナミックに変遷しうる過去を、本当の姿で捉えようとする努力に他ならず、それに当たっては過去という必然をベースに、未来という未だ来たらぬものに向かって行くという自由が前提になければならぬ、と。全くその通りだなあ、と思いました。この人はやはり本物ですね。

「政治哲学の急務」

自分より立場の下にある者を利用して甘い汁を吸おうと考える者がいる限り、プロレタリア独裁はありえないだろう。人間の欲望や矮小さへの洞察が欠けているところがマルクシズムの致命的な点である。

あはは。それだ。その通り。サラリーマンやってると分かります。資本家、リーダーに唯唯諾諾と従う人間の多いこと。社長が白だといえば黒いものも白くするのがプロレタリアートではなかろうか。だとすればプロレタリア独裁など夢のまた夢。

もちろん全てのプロレタリアがそうだとは思わない。しかし人は風向きによって声の大小が変わるもの。生き延びたければリーダーに追従するのが安全。戦いのさなかでリーダーに背くことはチームの崩壊を意味する。とすれば集団生活を通て生存競争に勝ち抜いてきた人間には、リーダーに従うという性向が備わっているのではなかろうか。

あるいはかつての日本会社家族主義のように、資本主義的な価値観をベースに富の公平な再配分を考えるリーダーもいるでしょう。

ならばプロレタリア独裁を期待してもしょうがない。現状圧倒的な支配力を持つ資本主義をベースに考えるのがよほど現実的であろう。日本社会に着実に食い込みつつあるアメリカ流強欲資本主義をいかになだめるか。いかに社会全体を利する方向に持って行くかが重要でしょう。今こそマルクシズムだとのたまう学者連中のナイーブなこと。四十代以前の人間にはマルクシズムという言葉にほとんどリアリティは感じないのではなかろうか。

「死生」

敗戦の色濃い昭和十八年頃の講演です。死への恐怖をどう克服するか。かつての西洋思想には二通りの死についての態度がみられる。一つはストア哲学の考え方。死は生と同じ自然の延長であり、恐れを抱くような対象ではない。もう一つはハイデガーの考え方。人はそもそも死に臨んだ存在であり、死を意識、覚悟しながら生きるべきである(スゴい端折って要約してしまった)。だが、その両者いずれも死から解放してくれる考え方とは思われない。第三の道として、死を決意し、もはや自分の命はないものと考える立場がある。もし本当にこの境地に立つことができれば、死が怖くなくなるのではないか。

とまあ乱暴に要約すると、大したことないように見える主張なのですが、原文は非常に迫力がありますね。やはりあの時代、誰しもが死を覚悟していたことが伝わってきます。ただごとではないですね。今の時代から振り返ると。ああヤダヤダ。特攻の精神。軍国主義。怖い怖い。と思えるかもしれませんが、もし自分があの時代に生きていたらどうだったろうかと想像せざるをえません。やはり悩みながらも祖国のために死を決意していたのではなかろうか。そして自分の死の意味を、苦しみながらも考えていたのではなかろうか。吉本隆明だったか養老猛司だったか、敗戦を知った時になんだ俺が戦争に行く前に負けやがってと悔しく思った、という文章を読んだ記憶があります。多少なりとも闘争的な性格を持った若い男であればそう考えていたのではないでしょうか。

まあこの辺で。ずいぶん私の思考にヒントを与えてくれました。この手の本では珍しく知的興奮を感じることができた。田邊元はやはり優れた思想家です。現在この人の本がほとんど刊行されてないのは損失だと思いますね。

世界SF全集10「ハックスリー/オーウェル」早川書房(2)「1984」

★★★★★☆:ハラハラドキドキの傑作

有名な作品ですが今回初めて読みました。これは凄い小説です。アゴタ・クリストフの「悪童日記」以来の衝撃がありました。

極度の監視・洗脳社会を描いています。最後までハラハラしどおし。読後の余韻もかなりのものでした。象徴的、悪夢的な社会を描いたSFということで、語ろうと思えばいろいろ語れるのでしょうが、まあさしあたりしばらくは私はあの世界をそのまま受け入れて、心の中で反芻したいと思います。

世界SF全集10「ハックスリー/オーウェル」早川書房(1)「すばらしい新世界」

★★★☆☆☆:それなり

人間を人工的に生産することが可能となった社会を描いた近未来SF小説です。生産する人間の身体的特徴と階級をあらかじめ決定し、その後に徹底して思想を刷り込むことによって階級社会を固定化し、平和と幸福を実現したユートピア。そこに異端的な人が上流階級の血を引く野蛮人を連れて来て一騒動。とこう書くとドタバタSFみたいですがそうではなく、いたってシリアスな作品です。

現実にはあり得ないユートピアを描きながら、人間はどう生きたら幸福なのか。人間の社会はどうあるべきなのかを小説は問いかけているのです。ですがいまいちピンとこなかったです。正直。

なぜだろう。一つは小説としてのパワーの問題ですね。確かによくできた小説だとは思いましたが、1984と比べれば迫力が違う。それから価値観も違いますね。ドン・キ・ホーテじゃないけれど、いつの話だというような中世ヨーロピアンな肉欲否定とキリスト教的受難の発想。東洋の私には感情移入は厳しい。まあ面白かったんですけどね。