2010年11月13日土曜日

スティーブ・マクイーン「ブリット」見た

今BSでスティーブ・マクイーン特集やってるんですが、カッコいいですなあ。高校生からカッコいいと思っていたなあと思い出す。私の若いころのオジサンアイドルは、デ・ニーロ、イーストウッドとこの人でした。

今の時代に出現したらダサダサのあり得ない恰好なんですけど、なんかカッコいい。存在感がある。山本監督も言ってましたが演技に見えないんですな。

また映画も微妙にB級っぽくて素敵。60~70年代アメリカン映画の王道。結構好きです。

表現としてのファッションの考察

またしてもファッションに関する考察です。このブログで「ファッションとは表現である」旨のことを度々言ってるわけですが、ファッションが表現である以上、その表現を受け取る人に配慮せざるを得ないということはあります。具体的には「お客さんに寒々しい印象を与えないためのファッション」とか「まわりの人に失礼にならないためのファッション」といったものが存在するわけです。

表現は他者を前提とした活動です。他者がいて始めて表現が成立するワケ。だから表現としてのファッションを意識したとき、そのファッションが他者に与える印象を考慮せざるを得ない。いくら「ランボー」「コマンドー」スタイルに憧れているといっても、上半身裸でアーミーナイフをぶら下げて街中を歩くわけにはいきません。確かにそれもまた表現の一つでしょう。しかし、そこには他者の考慮が漏れている。他者を考慮しない表現は、いわゆる「イタイ」表現になってしまう。

ただ、受け取る人の感性もさまざまです。「イタイ」服装であったとしても、それをちゃんと評価する人もいないとは言えない。あるいは逆に「穏健で品の良い」服装であったとしても、それを鼻で笑う人がいるかもしれない。

でも、おそらくは「中庸」というものがあって、8割の人間が不快感を持たないラインというものがあるに違いない。だから、ファッションとは批判的である(と想定した)他者の目を意識しつつ、6~8割の人間が許容するであろうラインを狙って、なおかつ個性を表現するものである、と定義できるかもしれませんね。

表現と対象、自分、他者は、必然的にズレていくものです。環境、時間が移り変わるとともに、表現はズレていく。発信する側も変わっていくし、受け取る側も変わっていく。そのズレを意図的に裏切ったり、見事に裏切られたりしながら、表現と意味とのズレを楽しむのがファッションのあり方なのかもしれません。

2010年11月12日金曜日

剣先イカトマトパスタ、チキンクリームスープ、イワシのオリーブオイル焼き

トマトソースを作ります。オリーブオイルとにんにくを温め、トマト缶を二つ、塩少々。これだけ。ひたすら弱火でくつくつと煮ていきます。



その間に野菜を刻んでおきます。赤ピーマン、緑ピーマン、玉ねぎ。



トマトソースの様子を見計らって野菜投入。



次に頑張ってイカを捌いて、投入。鍋を移し替えます。



次に頑張ってイカを捌いて、投入。ビタクラフトは後で使うので、ペラペラ鍋にソースを移し替えます。



トマトソースと平行して手羽元を圧力鍋で調理しておりました。手羽元17分、白菜を投入してさらに3分。仕上げに、例によって小麦粉を寝かせた牛乳を混ぜただけ。



それからイワシです。子供は食べないだろうと思って親の分だけ。



頑張って手開きにしたのを、



オリーブオイルとにんにくで焼き蒸ししました。→レシピ

美味かったっす。最近冒険しないせいか外れがない。ふふふ。

2010年11月11日木曜日

尖閣ビデオ流出問題

マスゴミの反中をあおる報道には警戒しつつも、われわれに見る権利はあるはず。

ビデオについては、一人ひとりがその内容を判断すればいいことであって、政府(具体的には誰だよ)が「ヤバい」と判断して、しかも隠そうとするのはオカしい。

情報を隠すって判断は、そもそも健全じゃない。

2010年11月10日水曜日

冷えに効くのは

冷えに効くのは、スクワットとズボンの重ね着だということを思う昨今です。人間たるもの、足腰が基本なのだ。

白菜スープ、イワシ梅煮、じゃこチャーハン

寒さを増すとともに気合が入ってきた料理です。でも、一時期あんなにハマっていたパン作りはやらなくなったなあ。やっぱり大変だし時間がかかるもんな。また気が向いたらやるかもしれませんけど。

さて、今回は白菜スープ、イワシ梅煮、じゃこチャーハンです。最近うまそうなイワシと出会う機会が多かったため、ぜひ食べたかった。子供の嫌いなイワシ。わたしは大好き。

まずは白菜スープです。水少なめ、白菜山盛り、塩少々で、圧力鍋はイワシに占領されているので普通の鍋でぐつぐつ茹でます。白菜がくたっとしたら豚肉を刻んだのを入れて再びぐつぐつ。



仕上げる15分ほど前にスープの素と醤油で調味で完成。



次に梅煮です。レシピはクックパッドを参照。結果的に当たりレシピということが判明しています。梅を刻んで、



酒、醤油、砂糖を入れて、



不退転の決意でイワシを捌いて筒切り。鍋に放り込んで、



二十分加圧。中骨はまだ固いですが、小骨はサクサク。



次にじゃこチャーハンです。ネギとピーマンを刻んでじゃこと混ぜて、



卵を入れて混ぜます。(画像は2人前)



あとは中華鍋をカンカンに熱して一気呵成に仕上げるだけ。



小確幸な夕食でした。

iPadでゲームですか

最近電車やカフェでiPadを見かけることが多くなりました。大体あれですね。産経新聞見たり、何か(本?Web?)読んでたりそんな使い方が目に留まります。後はマンガとかゲーム。そんなに熱心に観察しているわけではないけれど。

しかし、マンガとゲームに偏見はありませんが、iPad+マンガ・ゲームには違和感を持ってしまうのは私だけでしょうか?多分(面白くはないけれど)適切な比喩として、電車でノートPC広げてソリティアやるか?みたいな。バッテリーもったいなくね?みたいな。使い方間違っているとまでは言わない(わたしには言えない)けれど、違和感からは逃れがたい。

電車でゲームするのは分かります。退屈だからゲームしよう。そりゃそうだ。PSP、DS、iPhoneだったら違和感もありません。しかし、これがiPadだと変ですよ。だって、デカイもの。隣でパリッと決めたリーマンが、立派な皮ケースに入ったiPad取り出して、画面を指で縦横無尽にコスってました。何やってるかと思えばゲーム。なんだかなあ、と思ってしまう。

繰り返しますが、わたしはマンガ・ゲームをバカにするタイプではありません。日本のマンガは本当に凄いと思う(関係ないけれど、クリエーターさんたちがちゃんと報われているのか、及ばずながら心配もしている)。ゲームだってファミコン、スーファミの時代にお世話になったし、今でも強力なコンテンツだと思う。しかし、iPadでするとなると・・・ねぇ・・

なんつーか、オーバースペックな感じです。あーモッタイナイっちゅうか。

でもね、確かに「じゃあ何に使うんだよ」と言われたら困っちゃいますね。(わたしはiPadは持ってませんが)

無線LANサービスと契約してWebでも見たらどうか。ブログの更新。産経新聞。情報収集。電子書籍。へ。なんだ。偉そうなこと言って大した使い方できないじゃないか。そう言われてしまうと、わたしもうつむいて画面のasahi.comをコスるしかない。(iPad持ってないけど)

だってしょうがないじゃないか。使えないんだもの。

実はiPadはこと文章のインプットデバイスとしては、かなりイマイチなんですな。操作感は確かに凄い。革新的だ。でも、文章打てなきゃしょうがないよね。ってこれは私の感想。Bluetoothのキーボード持ち歩くくらいなら、ノーパソ買う。Linuxノートがあれば情報収集はもちろん、OpenOfficeで簡単な報告書の草稿が作れる。ブログの更新だってできる。プログラミングだってできる(本当にやってます)。iPadじゃ、ムリ。

じゃあ、あのiPadは何に向いたインプットデバイスなのか。

やっぱ、ゲームじゃん?

ははあ。そういうことだったのか。

だったら冒頭のリーマンお兄さんにはあやまらなければいけません。あなたは正しいお兄さんでした。大変失礼しました。

ということで、もしiPadでゲームしている人に違和感を持ったとしても、それは正しいことをしているのですから、ちゃんと「正しいことをしているんだなあ」と思いましょう、とそういうことですかね。

2010年11月8日月曜日

自由が丘に行ってみた

何を血迷ったか自由が丘に行ってまいりました。



何でかっていえば、自由が丘ならおもしろい服でもないかしらと思ったので。いやあ、変わったな>自分。

実はわたくし、「自由が丘」というブランドがある(「吉祥寺」とか「秋葉原」と同じ意味で)ことすら知らなかったんですね。妻に自由が丘でも行ってみたら?と言われたとき、何それ?食えるの?ってなもんでした。月並みな表現ですが。で、行ってみた。どうだったか。



はい。ダメでした。若い女性(MAXで幼児ママさん)ターゲットがほとんどと見た。男性用の服は大して面白いものはなかったように思います。といっても、全店見たわけじゃありませんがね。散歩した限りでの話。それからもちろん、わたしのお財布&好み基準での話です。

しかしまあ、興味を引いたのは「自由が丘」という存在です。さすがに「光が丘@練馬」とは違うぜ。当たり前か。しかし「なんだなんだこのおしゃれスポットは!」って感じですね。こんな世界があったのか。住宅街と多数のファッション系店舗が共存している。デパートのフロアを全部地上に展開して、店舗ごとに解体して、住宅街に楽しそうにちりばめた感じ。散歩すると、あるわあるわ、オシャレなお店、カフェ、レストラン。流行りの服を来た若い子が嬉しそうにショップ・カフェ巡りしている模様。まさに「オシャレ女子のためのテーマパーク」とでも言いましょうか。ちなみにバカにしているわけではない。しかしまあ、自由が丘、どうしてこうなった。と感心しきりでした。



ナニゲに不動産の店を覗くと(ハッキリとは覚えていませんが)3LDKで家賃が40~50万しよる。どうなっているのか。一体どこから金が出てるんだ。

結局、もの凄い金額の資本が投下された街なのだ、ということでしょう。

さて、この街を「吉祥寺」と比べると興味深い気がします。あんまり吉祥寺に詳しいわけじゃないけど。どちらも「おしゃれ」というブランドなわけですけど、吉祥寺の方が猥雑な感じがあります。生活感もある。やや人生に疲れた系のオッサンも普通に歩いてる。自由が丘にも飲み屋街がありましたが、吉祥寺ほど猥雑な感じは無さげ。また、自由が丘を歩く人生に疲れた系のオッサンは、吉祥寺にいるよりももっと疲れているように見える。昼間っから呑むとしたら吉祥寺だよね。という感じがします。ホロ酔いオジサンはちょっと自由が丘歩けない気がするから。

ま、ハッキリ言って好みじゃありませんがね。作られた感、うすっぺらい感があって、味わいがないっつーか。どうせご縁がない街だからいいんですけど。でも、おもしろい街だとは思いました。一度行ってみる価値はありますね。

2010年11月7日日曜日

再びファッションについての考察

メンズ・ノンノを眺めながら美容師さんにカットしてもらっていた時のこと。「お。XXさんもファッションに興味が出てきましたか」などと揶揄されつつ、とりとめもなく会話していたら、七部袖のシャツについて印象に残るコメントがありました。美容師をしていると、長袖の服ではどうしても袖に毛が付いてしまう。いちいち袖をまくるのも大変だし、暖房も効いてるから、本当は冬でも半袖で問題ないのだけど、それではお客さんから見てあまりに寒々しいと思われるので、七部袖が便利なのである、でも、冬だと七部袖でも何だか寒々しい印象を与えるんじゃないかと少し気にしている。ということでした。それを聞いて私は、なるほど服装というのは、やはりそれを見る他人に対する思いやりということなのか、と思ったのですが、ひるがえってメンズ・ノンノのモデルさんたちを眺めていると、どうもそればかりではないなあ、とも思われました。

前にこのブログで「好むと好まざるとに関わらず、服装とはそれを着る人の表現なのだ」と書きましたが、さしずめ美容師さんのスタンスは「お客さんに対する気配りの表現」としての服装になるでしょうし、メンズ・ノンノのモデルさんのスタンスは「今、これを着るべし」という流行の先端の表現に、またコスプレなどというのも、ある種のターゲットに向けて特化された独特の表現ということになるでしょうか。

「表現としてのファッション」と通常の「言葉による表現」との違いを考えてみると、表現と自分との「距離感」と「持続」にポイントがありそうな気がします。

まず「距離感」とは何か。言葉による表現は、さまざまなものが対象となりえます。例えば客観的な事象の表現。この場合、ほとんどが自分とはあまり関係のないことについての表現になります。その表現とは普通、意見であったり、評価であったりしますが、その表現(意見、評価)は決して自分そのものではない。つまり「自分」と対象の表現とが離れている。

もちろんその人なりの対象の表現=意見、評価を通じて、その人が露わになるということはありそうですが、普通は、言葉による表現とは、まず自分がいて、その自分とあい対するものとしての対象についての表現です。

それに対して、服による表現はまさに肉体としての自分と密着しているわけです。確かに「自己」とは「対象化された身体」ではありません(それはすでに自己にあい対している)。しかし、肉体そのものは、働き、動く自分に他なりません。表現としてのファッションは、それを「働き、かつ動く自己がまとっている」という意味では、今、ここを生きている自分に密着した表現であると言えると思います。自分のまとった何かが表現しているわけで、そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとファッションは案外近いのかもしれません。

それから「持続」。ファッションによる表現は、その衣をまとっている限り続きます。つまりファッションとは、それをまとったら脱ぐまで持続する表現である、ということが言えます。

ということで、表現としてのファッションにどう関わるのか。否応なく、その態度が問われてしまう。んなもの、どうだってええよ。という人から、服カモン。とジャブジャブと金と時間を使う人までさまざまでしょう。このように、服があって、服をまとう人がいる以上、服とそれを着る人に何かしらの関係が生じてしまうのです。

まず、ファッションとは誰か(主体=生きる意志)の表現であり、その表現は、その誰かが服を着ている間持続しているものであるから、不可避的に表現(=服)と表現する人(服を着ている人)との間にズレが生じてしまう。例えば、ファッションによって人が値踏みされてしまうという状況があったときに、そこにどうしてもズレが生まれてしまう。つまり、みっともない服をボサッと着ているからこいつはダメだと思われたとしても、実は知恵のある高潔な人かもしれません。逆もまた然り。

そういう意味では、表現としてのファッションが、常に「自分」を裏切るとすれば、ファッションとは自己の否定である、と言えそうです。われわれはファッションを通じて自己を否定しながら、あるいは他者から否定されながら生きているのです。

カッコいい服、好きな服を着ることによって、否応なく自分を否定することになる。逆に、どうでもいいよ、と服を着ることによって、それはそれで自分を否定することになる。

しかし、好きな服を着て自分を否定することと、しょうがなく服を着て自分を否定するのとでは、その後が違ってくる。

どういうことか。

好きな服を着て自らを否定した後では、さらにその服に似合う自分になりたい、なろうという意志(表現=服と同一化したいという意志)が働くことになる。すなわち、好きな服を着るということは、好きな服(好きな表現)に追いつこうとする自分がいることになる。そういった意志は、やはり自分を高める方に働く。つまり、好きな服を着ることによって、自分が高められる。

一方、どうでもいい服を着ることによて否定される自分とは、どうでもいい服よりもマシな自分である。つまり、どうでもいい服によって、自分が貶められることになるんですね。残念ながら。どうでもいい服を着るということは、まず最初に相手に見くびられることを覚悟していることになる。最初からナメられることになる。ということは、相手に見くびられることを覚悟して他者に臨むことになる。

ということは、最初からハンデを背負って、そのハンデに闘争心(あるいはコンプレクス)を持って向かう人と、最初から「この人やるんじゃない?」と思われながら向かう人とに分かれることになる。

となると、ですね。最初から「ひょっとして出来る人?」と思われると、最初から「大丈夫?」と思われる人とでは、全然その後の評価が違うんですね。同じ事をしても、最初に好印象だった人は「さすが」と思われるし、最初に「?」な印象だった人は「やっぱりね」と思われる。

この構図って、要するに「肩書き」がある人とか「二世」とかが自然に評価されるって構図と同じなんです。

残念ながら、見た目は大事、というのが結論ですな。

はい。疲れたので、おしまい。

コロッケ大成功

「んまかったなー」といまだに思い起こす、普通のコロッケ(肉多め)です。しかし美味かった。また作ろう。

材料です。玉ねぎ、にんじん(細かく刻んだもの)、クリームスープ用の牛乳です。ホワイトソースは使いません。事前に30分ほど小麦粉を牛乳に馴染ませておいて使えばダマにもならず、脂っぽくなくてヘルシーなのです。



合挽き肉200グラムと炒めて、軽く塩コショウ、ナツメグ多めで。



別茹でしたジャガイモと混ぜます。



子供に丸めてもらったものにパン粉を付けます。



少なめの油でフライに。



これは付け合わせのカキのクリームスープ。



完成したコロッケ。うまかったっす。