2010年11月13日土曜日

表現としてのファッションの考察

またしてもファッションに関する考察です。このブログで「ファッションとは表現である」旨のことを度々言ってるわけですが、ファッションが表現である以上、その表現を受け取る人に配慮せざるを得ないということはあります。具体的には「お客さんに寒々しい印象を与えないためのファッション」とか「まわりの人に失礼にならないためのファッション」といったものが存在するわけです。

表現は他者を前提とした活動です。他者がいて始めて表現が成立するワケ。だから表現としてのファッションを意識したとき、そのファッションが他者に与える印象を考慮せざるを得ない。いくら「ランボー」「コマンドー」スタイルに憧れているといっても、上半身裸でアーミーナイフをぶら下げて街中を歩くわけにはいきません。確かにそれもまた表現の一つでしょう。しかし、そこには他者の考慮が漏れている。他者を考慮しない表現は、いわゆる「イタイ」表現になってしまう。

ただ、受け取る人の感性もさまざまです。「イタイ」服装であったとしても、それをちゃんと評価する人もいないとは言えない。あるいは逆に「穏健で品の良い」服装であったとしても、それを鼻で笑う人がいるかもしれない。

でも、おそらくは「中庸」というものがあって、8割の人間が不快感を持たないラインというものがあるに違いない。だから、ファッションとは批判的である(と想定した)他者の目を意識しつつ、6~8割の人間が許容するであろうラインを狙って、なおかつ個性を表現するものである、と定義できるかもしれませんね。

表現と対象、自分、他者は、必然的にズレていくものです。環境、時間が移り変わるとともに、表現はズレていく。発信する側も変わっていくし、受け取る側も変わっていく。そのズレを意図的に裏切ったり、見事に裏切られたりしながら、表現と意味とのズレを楽しむのがファッションのあり方なのかもしれません。

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