人が宗教に走る理由。いろいろあるでしょうが、お釈迦様は簡単に、それは生きるのが苦だからだ、とおっしゃるわけです。まあ、そりゃあそうですわな。生きる上ではいろんな苦しみがあります。生老病死四苦八苦。愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦。愛する人の死に耐えられるか。死への恐怖に耐えられるか。自分の生きる意味の虚しさに耐えられるか。世の中には死よりも恐ろしく、苦しいものすらある。そのような恐怖の前に、人はただ孤独に震えながら、何かに祈るしかない。すがりつくしかない。そんな事態がある。まことに生きることは苦しみである。
ところが逆は必ずしも真ならず。日頃生きるのがしんどいなあ、苦しいなあと思いつつ、信仰を持たない人もいる。そのような人はどうなっているかというと、これは日本人に特徴的な態度じゃないかと思うんですが、現世のサムシングにすがります。例えば仕事。成功体験。自分磨き。死後の世界に期待するのではなく、現世の成果を目的とし、生き甲斐とする。人生の苦をハードワークに転嫁し、敢えてそこに飛び込むことで克服を目指す。あるいは気晴らしのための刹那的な快楽イベント。あるいは家族や物への愛。これら現世のリアルが「意味のある」人生をかたち作る。そんな「充実した」人生を目標とする人は多いと思う。
逆にいえば、それがある種の日本人の宗教だったりするんじゃないか。そんな風にも思えます。つまり、リアル(恋愛、趣味、家族、仕事)に充実した人生が理想としてあって、それを目指して生きる。それが生きる指針となり意味となる。仮にこれをリア充教としましょう。なんだか台無しなネーミングな気もしますけど。
リア充教。ある意味ではよほど宗教よりも健全に思える。キリスト教なんかは下手をすると、金持ちを恨みながら来世に期待しながら、淡々と日々を過ごすことになりかねない。それよりも、学生ライフや就職、仕事、人間関係といった人生に不可避なイベントや事象に生きる意味を求めるほうが正しいのではないか。特に会社経営者や、国家の運営にとってはこれほど都合良い思想はない。なぜなら現世での成功がコンセンサスとなり、結果として人が共通の目的に即して均質化され、ハードワークと消費が正当化されるわけですから。
またアンチ・リア充教も忘れてはなりません。心のどこかでリア充教に憧れの念と劣等感を覚えつつ敢えてこれを見下し、俺は違うぜ、とニッチな趣味やライフスタイルを目指す生き方です。これはもはや宗教とは言えない。あまりに批判的だし、こういう人は自らの生きる意味に対しても懐疑的なケースがある。アンチ・リア充。はたして宗教からは遠い立場なのか、それとも近いのか。
なんだか話がずれてきました。
話を戻して、なぜ人は宗教に走るのか。
短絡的なパターンは除外することにします。死ぬのが怖いから来世を期待したいとか、祖先にたたられているから、とかその手のやつ。あるいはニーチェがルサンチマンと名付け、ドストエフスキーが登場人物(確かカラマーゾフのアリョーシャ)に要請させたような、善と悪の根拠としての神も除外。
お釈迦様の考えに追加する、私が考えた理由。
やはり自分が生きているという神秘に気がついた時、それを合理的に解釈する手がないんですな。そこに宗教的な態度の下地があると思われる。
もちろん、人類というものが増殖している以上、誰かが生まれるわけで、それ自体は不思議でもなんでもない。誰かが生まれることになった。それがたまたま私だった。そこに問を投げかける余地はない。
でも、人は生きる理由を問う存在です。ある種の人間は問わざるを得ない。なぜ他ならぬ私が生まれたのか。その問にはもはや合理的な説明が出来ない。数億の精子がいて、そのどれがどの卵子に突入できたかによって、生まれる子が変わってくる。天文学的な確率を積み重ねて、この一人の存在となる。
そして人間の存在とは、石か何かのように単にそこにある、というだけではない。五感を持ち、受動的かつ能動的に世界と相互関係を持つことができるような存在である。
ストレスですさんだ心にはそんなこと関係ねーよ。となるかもしれませんが、まあとにかく、自分と世界が存在しているというその奇跡を、驚きと畏敬の念を持って眺めたときに、宗教的な感覚が生まれるのだと思う。
その感覚がわかると、どうも世の中の細かいことがどうでもよくなってしまってイカンのですが、そこを敢えて煩悩の世界に踏みとどまり、汚れ、汚されながら生きるほかはないのが、悲しいサラリーマン生活なのだなあ、と思うしだいであります。サラリーマンは修羅の道。
強引にまとめたところで以上。