2010年10月28日木曜日

ファッションについての考察

うさとで買った服を着るのが楽しい今日この頃です。30台半ばを過ぎてファッションに目が覚めてしまった。いや、そんな大げさなもんじゃないか。むしろ、30台半ばを過ぎてユニクロ(※)から脱しつつある。主体的に服を選びつつある。そんなところ。

(※)「ユニクロ」は固有名詞ではありますが「普通のそこそこ安くて質が良くてデザインのよい服」の代名詞としてお考え下さい。

そりゃあユニクロだって気に入らなかったわけではありませんでしたが、いかんせんユニクロ。何というか、チノパンかくあるべし。シャツかくあるべし。ゆえに、Don't think.そんな感じですな。楽しくて着るんじゃない。まあ、こんなもんか、と思って着る。服なんかこだわってないもんね、という主張が却って必要となる。それがユニクロ。

でも、今は違います。気に入った服を選んで、買って、着る。楽しいじゃん。ということで、これまで「ファッションが趣味」だとか「服に金を使う」という感覚が理解できなかったのが、ようやく分かってきました。しょせん、おじさん。ファッションに金を使うなど、客観的費用対効果が疑問である、と思っていたんですけど、いやいや楽しいんだから費用対効果なんかどうでもいいよ、という感じです。(ま、しかしファッション雑誌にあるようなジャケット一着10万とかオカシイと思いますけどね。)

さて、自分の気に入った楽しい服を着るとどうなるか。まず、銀座、渋谷、あるいは吉祥寺などというソレっぽい場所に行くときに気後れがしなくなった。前はどこかに「ユニクロですみません」という意識があったようです。おしゃれなおじさんを見ると、ユニクロ上下のおじさんよりもやはり「正しいおじさん」であるなあ、と思えるんですね。そりゃそうですよね。近所のスーパーや秋葉原に買い物に行くならともかく、銀座に行くのに「オレ、ファッションには興味ないもんね」というのはいささか力んだ考え方と言わざるを得ない。「ファッションやぶさかではない」という服装と態度の方がしっくりくる場所が世の中にはあるわけ。

若さ由来の反骨精神、あるいは「服なんかどうだってええよ」という気概の現れとして、敢えてユニクロ、無印というのはアリだと思いますけど、そんな主張も年を取ってくるとなかなか厳しくなってくる。若くてスタイルのいい若者の「敢えてユニクロ」は鑑賞に耐えるとともに、そこに主張を感じられるわけですが、おじさんの「敢えてユニクロ」は見た目がそもそもいかがなものか、ということになるし、仮に主張を感じたとして「はた迷惑」ということになる。

後はやはり気に入ったものをまとうってのは何といっても気分がいい。いきなり一般化しますが、気に入ったモノが手近にあると、人間って落ち着くものですよね。居心地がいいんです。例えば道具。鍋なんかでも、安いペラペラの鍋で焦げつかせながら調理するのと、いい鍋を正しく使って調理するのとでは料理の楽しさが違う。包丁だってそうですね。DIYが趣味の人なら、よい工具を買うと幸せになれるでしょう。装飾品だってそうです。気に入った絵のレプリカを部屋に掛ける。なかなか気分がいいものです。つまり、人間ってモノに囲まれて生きているし、そのモノたちとは何らかのメンタルな交流があるわけ。交流じゃなくて、一方的なのかもしれないけれど、やっぱりいい道具を大事に使えば、道具だってそれに応えてくれるとか、そういうことはありますよね。

だから、気に入った服を着て過ごすのが気分がいいのは当然のことですね。人は服を着て生きているんだから、そこに気を配れば少し生活が変わってくる。気分が変わってくる。ファッションにちょっとこだわってみると、微妙に世界が変わってくるわけで、それはそれでなかなか楽しいことである、と思いながら過ごす昨今です。

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