2009年7月2日木曜日

澁澤龍彦翻訳集第13巻「エロティシズム」ジョルジュ・バタイユ 河出書房新社

★★★★☆☆:東洋に近い気がする

図書館から借りてきたのでいつかは返却する必要あり。すなわち「デカルト的省察」より優先して着手。おもしろいです。この本。生と死。性と聖の対比が絶妙。読んでて唸ってしまいます。そうだよなあ。理性一辺倒じゃダメなんだよなあ。ダメというか理性じゃ人間は分からない。エロティシズムと死というのはかくもスリリングなテーマであったか。

生それ自体は死なない。死ぬのは個別の存在である。生は生殖と死というサイクルを通じて存在し続ける。太陽が赤色巨星となり地球を焼き尽くすまでは。

生殖行為と死が、禁忌(タブー)を引き起こす。

宗教とエロティシズムの裏に、禁忌との緊張関係、すなわち禁止と違反がある。禁止と違反を通して人は陶酔を経験する。陶酔とは臨死でありオルガスムである。

うう。深い。面白い。これについてはまたの機会に。

しかし、酒井健氏の翻訳と澁澤龍彦の翻訳は力量の差が歴然ですな。澁澤龍彦って何となく偽悪的・衒学的イメージがあってあまり好きじゃなかったんですが、酒井氏と比較するとその力量は認めざるを得ないかな。

酒井訳

生殖をおこなう存在は互いに異なっている。生み出された存在も相互に異なっているし、彼らを生み出した存在とも異なっている。各存在は自分以外のすべての存在と異なっている。各存在の誕生、死、そして生涯におけるさまざまな出来事は、他の存在たちに対し利害を及ぼしうるが、直接的に利害が及ぶのは当の存在だけなのだ。この存在だけが生まれ、この存在だけが死んでゆくのである。一個の存在と他の存在とのあいだには深淵があり、不連続性があるのだ。
この深淵は、たとえば、私の話を聞いているあなたがたとあなたがたに話しかけている私とのあいだにも横たわっている。私たちは交流しようと試みるが、私たちのあいだのいかなる交流も本源的な相違を消し去ることはできないだろう。あなたが死につつある場合でも、死につつあるのは私ではないのだ。私たち、すなわちあなたと私は、不連続な存在なのだ。

澁澤訳
生殖する存在は、互いに他とは別のものであり、生まれてきた存在は、彼らが彼らを生み出した存在とは別のものであるように、彼らたちのあいだでも互いに別のものである。個々の存在は、他の一切の存在と別のものである。その誕生も、その死も、その生きているあいだの出来事も、他の存在にとって何らかの利害関係はあるにせよ、直接にはその存在のみに関係のあることである。個々の存在はひとりで生まれ、ひとりで死ぬのである。ある存在と他の存在とのあいだには深淵があり、非連続性がある。
この深淵は、たとえば私の話を聞いているあなた方と、あなた方に話をしている私との間にも在るのである。私たちは交流しようとする。しかし、私たちのあいだのどんな交流も、ある根本的な差異を除き去ることは不可能であろう。あなたが死ぬとしても、死ぬのは私ではないのだ。私たちは、あなたも私も、非連続の存在なのである。
迫力が違いますよ。酒井氏の訳はうつろだ。死ぬのはお前だ。一生懸命話をしたって、個の存在の壁は乗り越えられない。お前は一人で生まれて、一人で死ぬんだ。生命それ自体は生き続ける。個々の存在は生殖し、そして死ぬ。そして生殖の結果は必然的に死だ。だが生それ自体は決して死ぬことがない。

エロティシズムと死がそこでつながる。永遠の生を志向する陶酔において。

まあ、この本はかなり面白いので、また取り上げたいと思います。
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