2009年6月19日金曜日

文章を書くということ 「言葉と無意識」丸山圭三郎 講談社学術新書「ソシュール」J.カラー著 川本茂雄訳 岩波同時代ライブラリー

★★★★★☆:一点突破の思想は大好き

実はこうやってブログを書いている動機が自分にもよく分かっていません。変な話ですが。でも何か意識的な動機がないっつのも自分でも落ち着かないので、自己慰安のためという便宜的なモチベーションを看板にしています。あとは文章を書く訓練という位置づけもありますね。ブログにアップされた文章は、当り前ですが誰かに読まれている可能性がある。あまり拙い文章を書くのは恥ずかしいという緊張感がある。それとは別に、やむにやまれず、とにかく文章をものしていると思うこともあります。それも本心。

シンプルに考えてみると、何かを書こうと思う時、その直接的な動機は「ネタがあった」ということになりますけどね。ネタがあったから書いた。それだけ。真理は単純である、と。

そのネタにも当然いろいろあって、たとえば腹が立った系のネタとか、面白い出来事があった系のネタとか悲しかった系のネタとか。もちろんこんなに楽しいことがあった、心温まることがあった、とそういうことばかり書きたいのですが、世の中そう甘くはないわけで、腹が立ったから書くってことがよくあります。残念ながら。でも怒りを直接ブログにぶちまけるのはみっともないし、そんなもの読み返したくもないし、ある程度は怒りを昇華させてから書くことになります。なぜ自分は怒りを感じたのか。どうあるべきなのか。とかとか。するとやっぱり少しはすっきりする。不安の対象を明確にすれば不安が消えるのと同じで、怒りの対象を明確にすればある程度は怒りを消すことができます。

まあそんなことはさておいて、文章を書いて楽しいのは「よく書けたな」と思える文章が書けたときなわけですが、「よく書けた文章」ってどこか私自身を超え出ているんですよ。具体的には自分の言いたいことを超えて、別の効果を生み出している。

いや、別の言い方もできるな。つまり、文章を*使って*言いたかったことを100%ストレートにそのまま伝えることはできない。逆に全く意図しない印象を与えてしまうことの方がよくある。いや違うな。そうじゃなくて最終的に文章が与えるであろう印象って完全にコントロールできないと言った方が正確ですね。で、そもそも文章っていうのはそういうものだ、と。文章を書くってのは能動的な行動な訳ですが、その結果を全てコントロールできるわけではない。そのコントロール困難なプラスアルファがたまたまよい印象を生みだすとき、それはよい文章になる。

つまり、文章を書くってのは、何か伝えたいことがそのままソリッドな実体として存在していて、それを100%正確に写し取る作業なんかではない。言葉以前のソリッドな実体なんてないんです。言いかえれば言葉にならない対象が明確にあらかじめ存在していて「それ」を後付けで表現するのではない。言葉にするまで「それ」は存在しない。言葉が生まれ育つのとパラレルに「それ」が生まれ育ってゆく。言葉が「それ」であり「それ」が言葉である。文章を書くという行為は、言葉を制御する作業であり、言葉に翻弄される作業であり、あるいは言葉が自力で展開するのを手助けする作業でもある。以上が文章を書き連ねていて気がついたことの一つ。

それから文章を書いていて論理の無力さを感じることがよくあります。Aである。Bである。ゆえにCでなければならない。こう書くことが非常に空しい。胡散臭い。文章を書いていると、論理なんてのは常識的で理解が容易な文章を書くために必要な一つの規約に過ぎないのではないか、そんな気すらしてきます。まあ、このあたりのことはまた別の機会に。

で、ソシュールなわけですよ。

▽「言葉と無意識」丸山圭三郎 講談社学術新書

▽「ソシュール」J.カラー著 川本茂雄訳 岩波同時代ライブラリー

とは言いつつ、ソシュールについてはまたいつか書きます。所詮言葉だぜ。で、言葉ってのは差異から成り立ってるんだぜ。同一性ってのは、言葉が反復可能である、そこから来ているに過ぎないんだぜ。ってスゲーこと言ってるんですよね。このソシュールって人は。ニーチェよりもイッっちゃってる。あまりにもスゴイので半分酔った頭では何も書けませんので。これにて失礼。
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