蝉の声を全身に浴びていると、蝉の声がなんだか物質化してソリッドな長い針金と化して周囲を編んで行く。それを眺めていると次第に意識が遠のいて行くような気がします。
いや、意識が遠のくと言うよりは、むしろ自我の中心が拡散すると言った方が正しいかもしれません。その証拠に蝉の声は薄まるどころかかえって私を強く包み込み、公園の木々はその実在感を強めるばかり。
ベンチにゆったりと腰掛け、晩夏の高い空を眺めてながら木々のざわめきと蝉の鳴き声に体を沈めてゆく。密でいてしかもゆったりした時が意識を圧倒します。そこにあるのはまぎれもない私の意識であって、肩書きもなく、人間関係もなく、もちろん何の先入観もない、ただひたすら存在している私です。ゆったりした時間のみが私の意識を充実している。
夏の公園
ベンチから見上げる空。空に届かぬ蝉の声。空のあまりの美しさ故に虫の賛美歌が届かないのだ。
あー。もうビール飲むしか。ビール飲んで蝉を祝福だ。7年間土の中で過した後、1週間だけ地上に出て、世界の美しさに歓喜の歌を喚き続ける哀れな虫どもめ。空はあまりに美しすぎて、お前たちにまるで無関心じゃないか。だったら、俺はビールを飲むしか、しょうがないじゃないか。
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