2010年10月14日木曜日

ナイフ欲しー

先日「最近物欲がないのよねー」などと言っていましたが、昨日、また新たな物欲にとらわれてしまいました。すなわちナイフです。

昨夜、呑み終えた「のものも」紙パックをリサイクルのために解体していたんです。愛用の安物フィッシングナイフ(上州屋で800円)を使っていてしみじみ思った。やっぱこの手の作業にはナイフがふさわしいなあ、と。

ハサミだとちょっと力不足。無駄に握力が必要。カッターナイフもダメ。下手をすれば刃が欠けますからね。包丁でもいいのですが、食品を切るのが本業の包丁で紙を扱うのは軽く違和感があります。やっぱりナイフでザクザク切るのがふさわしい。

それから村上春樹の昔読んだエッセイ(確か「遠い太鼓」)で、バスの車掌がナイフでチーズを切って、乗客に分け与えるシーンがありました。うーん。自然だ。やっぱナイフはいるよねえ。ラピュタでも「ナイフーランプかばーんにつーめーこーんーでー」って言うからね。男子には必須のアイテムであろう。

それに一年に数回は、何気に「何か刃物ないか」という状況があるんですね。別に刃傷沙汰に及ぼうというわけではない。ちょっと紐とかタグを切りたかったり、りんごをむいたり、食べ物を切り分けたり、というシチュエーションです。

そうつらつらと考えていると、どうもナイフが欲しくなってくる。500円の肥後の守と、800円のフィッシングナイフはあるけれど、せっかくだからいいナイフが欲しいなあ。予算5、000円くらいで。

Webで調査開始。あまりギラギラした感じのナイフとか、見るからに「アブナイ」ナイフはさすがにアレだよなあ、と。やっぱりスイス・アーミーナイフかな。おもちゃっぽいところがいい。可愛げもある。そんなに高くもないし。などと思った訳です。ちゃんと研げばそれなりに使えるんじゃないか。そうそう。思い返せば、小学生の頃に安物のアーミーナイフ持ってました。鉛筆を削ろうと思ってもロクに切れないインチキナイフだったけど、持ってるだけで楽しかった。

ナイフで何かするってプリミティブな喜びがありますね。道具というものがすべからく身体や脳の延長であるとすれば、ナイフはさしずめ「親指の爪」や「歯」の延長ではなかろうか、などと考えたり。剥いたり、ひっぱがしたり、切ったりという機能ですからね。

想像するに、古代の人はこの手のスルドイ金属や石片を操って、木でいろんな工具を作ったり、動物をしとめたり、動物を解体したり、果物や木の実の皮を剥いたり、家や家具を作ったり、生きるためのもろもろの作業をしていたに違いないわけで。すなわち、昔の人にとっては、ナイフ的なものを扱うということは、何よりもまず生きるために必須のスキルであったはず。ナイフが今の男子を惹きつける理由もそこにあるのではなかろうか。

子供時代を思い返せば、ナイフで鉛筆を削るとか、ナイフで木片を加工するというのはとても楽しい経験でありました。ナイフで木を削っていると、妙に心が落ち着きますが、あれは原始の時代から脈々と引き継がれたナイフ関連DNAに由来する「俺は歴史的に正しいことをしているんだ」という確信に違いなかろう。(そうかな?)

しかし、まあアレなんですよね。昨今の法律事情によって、正当な目的なしにナイフを持ってると、それだけで罪になるんですな。野暮だよねえ。ナイフったっていろいろあるでしょうが。

というわけで、スイスアーミーナイフは欲しいのですが、ちょっと買うのはためらっている今日この頃です。ま、買わないかなあ。そんな気がするなあ。買うとしたら、まさに今必要なシチュエーションになって、そこにナイフが売ってたら買うでしょうけどね。そんなシチュエーション滅多にないしね。あるいは山道具屋で衝動買い。これはありそうだな。

ま、そんなところです。

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