2010年12月3日金曜日

西田哲学の「一般者」

西田さんの哲学論文を読んでつまづくところはいろいろあって、それはもちろん理解できてないから、という理由が大きいのですが、その中に「一般者」なる概念があります。

普通に読んでいると、まず個がある。そして一般がある。個とは、つまり各々の人生を生きている人間と考えてよいかと思います。それに対して普遍的一般者というものが立てられる。最初わたくしは、この一般者を「普遍的意識」のようなものと解釈してみたんですな。カント、フッサールの超越論的意識と言ってもいい。要するになぜだか皆が持っている共通の意識構造、それが西田哲学の普遍的一般者なのではないか、と。

しかし、そうじゃない。その解釈だとすぐに行き詰まってしまいます。ここが西田哲学の難しいところ。どうやらこの普遍的一般者なるもの、キリスト教の神とか禅の無とか、その辺に抵触する概念のようです。とは言いつつも、一神教の神と禅がどうやって折り合うか。西田哲学の一般者とは、スピノザ的汎神論とも違うし、当然ハイデガーの「存在」概念とも違う。東洋的無が入っている。また「一即多多即一」といった即非の論理も入ってくる。非常に難解です。

最近少し分かってきたのが絶対矛盾的自己同一。考えてみれば当たり前なんですね。われわれの存在とは、普遍と個という矛盾の中にある。生命って存在と無の矛盾なんです。刻一刻細胞は入れ替わり、意識も移り変わっている。それを「生きるために必要な誤謬」としての「自己」が統一している。生命とは生滅と不生不滅との絶対矛盾的自己同一なわけ。ということはすなわち、般若心経なわけ。なかなかおもしろいでしょう?

そんな感じで一歩一歩のんびりと読み進んでいます。

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