久しぶりに肉じゃが作りました。レシピはCookPad。
「吉田類の酒場放浪記」見てると、どうも和食が食べたくなる。関係ないけどこの間放送された「吉田類の今日は始球式」はかなり良かったですね。家族で楽しみました。
レシピについては、ま、特筆することはありませんや。
ジャガイモ、にんじんを色が変わるまで炒めて、しらたき入れて、だし汁、砂糖、みりん、酒、醤油(第一段は少なめ)をざばっと投入。最後に醤油で調味して完成。
かなり、美味かったです。
モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか」NHKライブラリー
★★★★☆☆:ファッションを巡る優雅な省察
最近服に興味を持ち始めたということもあって、久しぶりにこの手の本を読んでみました。鷲田さんは哲学系の人ですが、普通の文献収集哲学学者とは違って自ら考えて発信する貴重な方です。また、その思想には温かみがあるんですな。いわゆる文化人、学者たちの中では好きな人です。
ということで期待して読んで見ましたが、正直ピンと来なかったですね。見ればどうやらファッション系の雑誌に連載されていた、とのこと。なるほど。レベルが違うわけだ。つまり、最近お気に入りの服を見つけたただけのただのおじさん(私のこと)とファッションについて最新のモードを追いながら精緻に考えた人との違いです。ここ5、6年ほどきちんと鏡を見たことがなく、少し前までは服装なんか本当にどうでもよかった私には、ちょっと入れなかったですね。ま、本自体ははっとさせられるような考察も多くて、悪くなかったのですが。
もう一つ違和感があったのは、この本で流行と不可分のものとしてファッションが扱われているという点です。これはどうやら時代の違いもありそうです。この本が書かれたのはおそらくバブル期。ブランド指向やら逆に清貧の思想(ありましたね)やら、ファッションやスタイルにいろんな流行が現れては消えて行った時代です。今のわたしは心の底から流行に興味がありませんが、それはひょっとしたら、中学、高校時代にバブル期の雰囲気を感じたせいで「流行」すなわち「消費させるために意図的に仕組まれた欲望のターゲット」に不信感を持ったのかもしれません。
当時は、何でも売り込め、流行を作って消費を引っ張れ、という時代だったのではないでしょうか。
今はそんな雰囲気はまったくありません。バブリーな雰囲気は当然ありませんし、ひょっとしたらファッションのターゲットが細分化されたおかげで、ファッションというものにあまり頭を使わなくてもよくなったということがあるかもしれません。つまり、服に興味が興味がなければユニクロ、無印に行けばいいわけです。そこそこの服がお手頃価格で手に入る。またそれらを着るのに「敢えてユニクロで統一してるんだ。俺は服なんかどうでもいいんだ」という主張もほとんどいらなくなった。興味がないんだったら、安心してユニクロ、無印を着ていればいいんですよ。そんなありがたいご提案があるわけ。
もちろん、金をかけたいならかければいい。ブランド品だってあるし、古着という選択肢だってある。いろんなスタイルを選べるわけですね。このような社会では、つまり「私は古着が好き」「オレはユニクロでいいよ」と自然体で話せる社会では、おそらく流行=刹那的な欲望のメインストリームは強い力を持ち得ない。だから、流行に振り回される雰囲気がなくなったんじゃなかろうか。
逆に言えば、流行に左右されず、好きな服を好きなように着てもいいのが今の時代と言えるかもしれません。
さて、ファッションに対して人がどういう態度を取るかというと、大きく3パターンに分けることができるのではないかと思います。
一つは本当にファッションに興味がない人。「ファッションに興味がない」というスタイルをまとっているのではなくて、本当に興味がない人です。(かつての私)
次に、好むと好まざるとに関わらずファッションに気を遣っている人。仕方ないと思いながらそれなりに楽しんで(あるいは本当はイヤだけど)服装に気をつける人。
最後に、ファッションが本当に好きな人。
上記で言えば、二番目に該当する人が多いのではないかと愚考します。わたしの妻なんかも「化粧はまわりの人に対する礼儀だ」という旨のことを言ってました。彼女が化粧を好んでしているのか、それともいやいやしているのかは分かりません。おそらく両方ではないかと思います。また、周囲に不快感を与えないためにファッションに気を遣うのだ、という考えも聞いたことがあります。それは裏を返せば、ファッションに気を遣わないと不快感を表明する仲間がいる。だから服装に気を遣わないと仲間に入れないということにもなりそうです。仲間外れにされないために、いじめられないためにファッションに気を使う。さほど悲壮感はありませんが、人間関係においてファッションがシビアな役割を担っている、ということはありそうです。
わたしはと言えば、かつては「はた迷惑上等。ファッションに掛ける金などない!」という立場でしたが、今は何となく「ファッション」というキーワードが理解できてきた、という状況です。気に入った服を着ることは嬉しい。素直にそう楽しめるようになりました。もちろん流行はまったく意識しません。気に入った布地で織られた気に入った型の服。それを着て出かけると、なかなかハッピー。それだけのことです。「ファッション」という大仰な言葉は似合いそうにない。しかし、それだけのこととはいえ、気に入った服を着るのは実に楽しい。
気に入ったモノに囲まれるのはなかなか幸せなものです。しかし、服のもたらす幸福感はやはり良い道具がもたらすそれとは違ってくる。お気に入りの道具がもたらす幸福感は、徐々に自分の手に馴染んで、ついには身体と一体化するものではないでしょうか。息の合ったパートナーのような、空気のような必要不可欠の存在。
服がもたらす幸福はやはり少し違う。いわゆる道具(料理道具、工具)と服は、何が違うか。まず服は「何のために」という問いが二次的となっているモノです。単に暖を取るためではない。単に隠すためではない。心地よいというのは重要ですが、それだけが目的でもない。服とは多かれ少なかれ、その人のスタイルとなるものです。好むと好まざるとに関わらず、服装はそれを着る人の表現になる。若い男がレギンスに半ズボンを着るのも表現ですし、ユニクロ上下を着るのも、あるいはサラリーマンが紺のスーツを着るのもまた「没個性」の表現です。だから制服=表現という構造からは誰も逃げられない。
でも、そのような表現としての服も、決して押し付けがましいものではありません。見るだけで圧倒されるような服も、不愉快になる服も少ないし、気に入らなければ目を逸らせばいい。それに、そもそも他人の服装などあまり気にしない。とすると、服装とは何よりもまず自分に対する表現ではないかと思われます。
気に入った服を着ていると、姿勢がピンとします。当然、テンションも上がる。すると、服というのは身体を覆い隠すだけではなく、身体と同一化することによって、精神までをも高めるような、そんなモノなのではないかと思います。
何か長くなってしまったので中途半端ですがこの辺で。
最近服に興味を持ち始めたということもあって、久しぶりにこの手の本を読んでみました。鷲田さんは哲学系の人ですが、普通の文献収集哲学学者とは違って自ら考えて発信する貴重な方です。また、その思想には温かみがあるんですな。いわゆる文化人、学者たちの中では好きな人です。
ということで期待して読んで見ましたが、正直ピンと来なかったですね。見ればどうやらファッション系の雑誌に連載されていた、とのこと。なるほど。レベルが違うわけだ。つまり、最近お気に入りの服を見つけたただけのただのおじさん(私のこと)とファッションについて最新のモードを追いながら精緻に考えた人との違いです。ここ5、6年ほどきちんと鏡を見たことがなく、少し前までは服装なんか本当にどうでもよかった私には、ちょっと入れなかったですね。ま、本自体ははっとさせられるような考察も多くて、悪くなかったのですが。
もう一つ違和感があったのは、この本で流行と不可分のものとしてファッションが扱われているという点です。これはどうやら時代の違いもありそうです。この本が書かれたのはおそらくバブル期。ブランド指向やら逆に清貧の思想(ありましたね)やら、ファッションやスタイルにいろんな流行が現れては消えて行った時代です。今のわたしは心の底から流行に興味がありませんが、それはひょっとしたら、中学、高校時代にバブル期の雰囲気を感じたせいで「流行」すなわち「消費させるために意図的に仕組まれた欲望のターゲット」に不信感を持ったのかもしれません。
当時は、何でも売り込め、流行を作って消費を引っ張れ、という時代だったのではないでしょうか。
今はそんな雰囲気はまったくありません。バブリーな雰囲気は当然ありませんし、ひょっとしたらファッションのターゲットが細分化されたおかげで、ファッションというものにあまり頭を使わなくてもよくなったということがあるかもしれません。つまり、服に興味が興味がなければユニクロ、無印に行けばいいわけです。そこそこの服がお手頃価格で手に入る。またそれらを着るのに「敢えてユニクロで統一してるんだ。俺は服なんかどうでもいいんだ」という主張もほとんどいらなくなった。興味がないんだったら、安心してユニクロ、無印を着ていればいいんですよ。そんなありがたいご提案があるわけ。
もちろん、金をかけたいならかければいい。ブランド品だってあるし、古着という選択肢だってある。いろんなスタイルを選べるわけですね。このような社会では、つまり「私は古着が好き」「オレはユニクロでいいよ」と自然体で話せる社会では、おそらく流行=刹那的な欲望のメインストリームは強い力を持ち得ない。だから、流行に振り回される雰囲気がなくなったんじゃなかろうか。
逆に言えば、流行に左右されず、好きな服を好きなように着てもいいのが今の時代と言えるかもしれません。
さて、ファッションに対して人がどういう態度を取るかというと、大きく3パターンに分けることができるのではないかと思います。
一つは本当にファッションに興味がない人。「ファッションに興味がない」というスタイルをまとっているのではなくて、本当に興味がない人です。(かつての私)
次に、好むと好まざるとに関わらずファッションに気を遣っている人。仕方ないと思いながらそれなりに楽しんで(あるいは本当はイヤだけど)服装に気をつける人。
最後に、ファッションが本当に好きな人。
上記で言えば、二番目に該当する人が多いのではないかと愚考します。わたしの妻なんかも「化粧はまわりの人に対する礼儀だ」という旨のことを言ってました。彼女が化粧を好んでしているのか、それともいやいやしているのかは分かりません。おそらく両方ではないかと思います。また、周囲に不快感を与えないためにファッションに気を遣うのだ、という考えも聞いたことがあります。それは裏を返せば、ファッションに気を遣わないと不快感を表明する仲間がいる。だから服装に気を遣わないと仲間に入れないということにもなりそうです。仲間外れにされないために、いじめられないためにファッションに気を使う。さほど悲壮感はありませんが、人間関係においてファッションがシビアな役割を担っている、ということはありそうです。
わたしはと言えば、かつては「はた迷惑上等。ファッションに掛ける金などない!」という立場でしたが、今は何となく「ファッション」というキーワードが理解できてきた、という状況です。気に入った服を着ることは嬉しい。素直にそう楽しめるようになりました。もちろん流行はまったく意識しません。気に入った布地で織られた気に入った型の服。それを着て出かけると、なかなかハッピー。それだけのことです。「ファッション」という大仰な言葉は似合いそうにない。しかし、それだけのこととはいえ、気に入った服を着るのは実に楽しい。
気に入ったモノに囲まれるのはなかなか幸せなものです。しかし、服のもたらす幸福感はやはり良い道具がもたらすそれとは違ってくる。お気に入りの道具がもたらす幸福感は、徐々に自分の手に馴染んで、ついには身体と一体化するものではないでしょうか。息の合ったパートナーのような、空気のような必要不可欠の存在。
服がもたらす幸福はやはり少し違う。いわゆる道具(料理道具、工具)と服は、何が違うか。まず服は「何のために」という問いが二次的となっているモノです。単に暖を取るためではない。単に隠すためではない。心地よいというのは重要ですが、それだけが目的でもない。服とは多かれ少なかれ、その人のスタイルとなるものです。好むと好まざるとに関わらず、服装はそれを着る人の表現になる。若い男がレギンスに半ズボンを着るのも表現ですし、ユニクロ上下を着るのも、あるいはサラリーマンが紺のスーツを着るのもまた「没個性」の表現です。だから制服=表現という構造からは誰も逃げられない。
でも、そのような表現としての服も、決して押し付けがましいものではありません。見るだけで圧倒されるような服も、不愉快になる服も少ないし、気に入らなければ目を逸らせばいい。それに、そもそも他人の服装などあまり気にしない。とすると、服装とは何よりもまず自分に対する表現ではないかと思われます。
気に入った服を着ていると、姿勢がピンとします。当然、テンションも上がる。すると、服というのは身体を覆い隠すだけではなく、身体と同一化することによって、精神までをも高めるような、そんなモノなのではないかと思います。
何か長くなってしまったので中途半端ですがこの辺で。
偉いぞ新潟県警
ひき逃げ事件放置 被害者妻が証拠発掘 新潟県警ミス
ミスが偉いってんじゃありませんよ。誤りを認めたこと。
誤りを認めるってなかなかできませんからね。
そりゃ当り前のことですけどね。でも、当り前のことができないのが人間です。ましてや官僚組織。誤りを認めるなんて大したもんだ。礒野宏三副署長さんですか。相当な誠実さを感じます。褒めすぎか。でも、組織の中に誠実な人間がいなければ、絶対できないと思うな。何かあってもみんな及び腰になってさ。心の中では「おかしい」思っていても、声を上げることができない。結局うやむやにしてしまう。なかったことにしてしまう。それが組織。それが組織に属す人間。
ま、なかなかいい話だと思いました。
ミスが偉いってんじゃありませんよ。誤りを認めたこと。
誤りを認めるってなかなかできませんからね。
そりゃ当り前のことですけどね。でも、当り前のことができないのが人間です。ましてや官僚組織。誤りを認めるなんて大したもんだ。礒野宏三副署長さんですか。相当な誠実さを感じます。褒めすぎか。でも、組織の中に誠実な人間がいなければ、絶対できないと思うな。何かあってもみんな及び腰になってさ。心の中では「おかしい」思っていても、声を上げることができない。結局うやむやにしてしまう。なかったことにしてしまう。それが組織。それが組織に属す人間。
ま、なかなかいい話だと思いました。
2010年11月3日水曜日
暴力について考えた
暴力について。
んなこと考えたくはないんだけど、少しばかり集中して考えてしまった。
普段、われわれは暴力とは縁遠い世界で平穏に暮らしているわけですが、時には日常に暴力性がむき出しになって現れることもあります。たとえば酒場でのおっちゃん同士のケンカとか、誰かに因縁つけてる若い衆とか、あるいは殺気を漂わせているヤクザを見かけるとか。そんな人間の暴力性を見ると、あちゃー、ヤベーって思うわけです。まず巻き込まれないようにしなきゃ、とか、警察呼ばなきゃとか。
「国家の本質は暴力である」と言ったのは確かルカーチ。かなり怪しい記憶ですが。しかし、近所のおっきな赤い国を眺めていると、言い得て妙としか言えませんな。翻って我が国はどうか。一応近隣諸国よりは少しはマシな法治国家ではあるようですが、なかなかキワドイところがあるんじゃないか。よくよく見れば冷や汗ものの事件は少なくない。軽犯罪法なんかヤバいっすよ。誰だって警察に引っ張ることができますからね。しつこいですが、植草一秀さんの件しかり、最近あった検察の証拠でっち上げ事件然り、冤罪事件の多いこと、多いこと。油断はできません。
なんでこんなことになるかっていうことを考えると、組織の「本来の目的」の「転倒」が原因の一つじゃないか、と思います。つまり、本来は「国民の安全を守るための」警察が「自らの組織を守るために」活動している。例えば政治家や権力者に色目を使うとか。あるいは検挙率だとか警察組織内部の数字を上げるために、無害なオタクを軽犯罪法で挙げるとか。自分の組織を維持するのが第一の目的となっている。
毎度警察ばかり例に挙げていて、わが子の登下校を見守っていただいている近所の駐在さんには申し訳ないとは思いますが、警察ばかりではなく、わたしはやはり組織というものは本来危険だと思うんですな。組織に組み込まれた人間は多かれ少なかれ無思考になる。敢えて問うてみることがなくなる。ウザがられるだけだから。それからもちろん自分の生活を考えなきゃいけない。家族を食わせなきゃいけない。ということは、組織が繁栄、持続してもらわないと困る。だから組織のために頑張るしかない。そこまではいいんですが、そんな組織がいったん暴力性を帯び始めると、普通のオジサン、オバサンが実に非人間的なことをやり始める。そこが組織の怖いところです。
人間は本来暴力性を帯びている生き物であるから、必然的に国家は暴力的にならざるを得ないのでしょう。そして集団的暴力を以って個人の暴力性を抑圧するのが国家である、と。ルカーチがそう言ったかどうかは知りませんけど。
そう考えると、あまり油断して生きるとマズイことになるよな、と思いながら生きざるを得ないわけですが、それはそれでスリリングで楽しいと言えなくもない、と思える我が国は、まだまだずいぶんマシな国であると思いますし、今の状態を悪くしないためにも、国家という暴力的存在が変な方向に走らないように、しっかり監視しなければいかん、と思う昨今です。
んなこと考えたくはないんだけど、少しばかり集中して考えてしまった。
普段、われわれは暴力とは縁遠い世界で平穏に暮らしているわけですが、時には日常に暴力性がむき出しになって現れることもあります。たとえば酒場でのおっちゃん同士のケンカとか、誰かに因縁つけてる若い衆とか、あるいは殺気を漂わせているヤクザを見かけるとか。そんな人間の暴力性を見ると、あちゃー、ヤベーって思うわけです。まず巻き込まれないようにしなきゃ、とか、警察呼ばなきゃとか。
「国家の本質は暴力である」と言ったのは確かルカーチ。かなり怪しい記憶ですが。しかし、近所のおっきな赤い国を眺めていると、言い得て妙としか言えませんな。翻って我が国はどうか。一応近隣諸国よりは少しはマシな法治国家ではあるようですが、なかなかキワドイところがあるんじゃないか。よくよく見れば冷や汗ものの事件は少なくない。軽犯罪法なんかヤバいっすよ。誰だって警察に引っ張ることができますからね。しつこいですが、植草一秀さんの件しかり、最近あった検察の証拠でっち上げ事件然り、冤罪事件の多いこと、多いこと。油断はできません。
なんでこんなことになるかっていうことを考えると、組織の「本来の目的」の「転倒」が原因の一つじゃないか、と思います。つまり、本来は「国民の安全を守るための」警察が「自らの組織を守るために」活動している。例えば政治家や権力者に色目を使うとか。あるいは検挙率だとか警察組織内部の数字を上げるために、無害なオタクを軽犯罪法で挙げるとか。自分の組織を維持するのが第一の目的となっている。
毎度警察ばかり例に挙げていて、わが子の登下校を見守っていただいている近所の駐在さんには申し訳ないとは思いますが、警察ばかりではなく、わたしはやはり組織というものは本来危険だと思うんですな。組織に組み込まれた人間は多かれ少なかれ無思考になる。敢えて問うてみることがなくなる。ウザがられるだけだから。それからもちろん自分の生活を考えなきゃいけない。家族を食わせなきゃいけない。ということは、組織が繁栄、持続してもらわないと困る。だから組織のために頑張るしかない。そこまではいいんですが、そんな組織がいったん暴力性を帯び始めると、普通のオジサン、オバサンが実に非人間的なことをやり始める。そこが組織の怖いところです。
人間は本来暴力性を帯びている生き物であるから、必然的に国家は暴力的にならざるを得ないのでしょう。そして集団的暴力を以って個人の暴力性を抑圧するのが国家である、と。ルカーチがそう言ったかどうかは知りませんけど。
そう考えると、あまり油断して生きるとマズイことになるよな、と思いながら生きざるを得ないわけですが、それはそれでスリリングで楽しいと言えなくもない、と思える我が国は、まだまだずいぶんマシな国であると思いますし、今の状態を悪くしないためにも、国家という暴力的存在が変な方向に走らないように、しっかり監視しなければいかん、と思う昨今です。
2010年11月2日火曜日
卵あと混ぜケチャップチャーハン
2010年11月1日月曜日
卵ご飯先混ぜケチャップチャーハン
ご飯先混ぜ方式でケチャップチャーハンを作ってみました。
火を通した具と卵、ライスを混ぜます。この時点では軽く塩コショウ。最後に調味しないと、味が馴染んで塩分過多になりがちなのです。
その後、ビタクラフトをカンカンに熱して、オリーブ油を多めに引いて炒めます。焦げ付くことなく無事完成。
出来はややしっとりした感じ。パラパラにはなりませんでした。おそらくは卵が多すぎた。後はテフロン加工ではないので、長時間炒めるのに抵抗があったのも理由かもしれません。
ケチャップと粉チーズを塩梅して頂きます。
味はまあまあでしたが、子供にはオリーブオイルの風味が気に入らなかったとのことです。
うちはやはり卵ご飯後混ぜ方式で確定かな。
火を通した具と卵、ライスを混ぜます。この時点では軽く塩コショウ。最後に調味しないと、味が馴染んで塩分過多になりがちなのです。
その後、ビタクラフトをカンカンに熱して、オリーブ油を多めに引いて炒めます。焦げ付くことなく無事完成。
出来はややしっとりした感じ。パラパラにはなりませんでした。おそらくは卵が多すぎた。後はテフロン加工ではないので、長時間炒めるのに抵抗があったのも理由かもしれません。
ケチャップと粉チーズを塩梅して頂きます。
味はまあまあでしたが、子供にはオリーブオイルの風味が気に入らなかったとのことです。
うちはやはり卵ご飯後混ぜ方式で確定かな。
2010年10月31日日曜日
第二回 聖地大泉祭り
カメラ忘れたので文章だけ。わたくしがカメラを忘れたとしても、恐らくはその模様は次々にBlogにアップされるでしょうから、よしとしましょう。
しかし凄いですわ。正直、祭り自体のコンテンツは特にどうということもない。しかし観客(子連れや大友[おおきなお友だち])の熱気、それから(恐らくは)東映関係の社員の方の「ここはいっちょう頑張ったろう」という心意気。そして何よりものすごい人の数。すべてがプリキュア、ゴセイジャー目的ですよ。凄いね。子連れが6割。大友の男女、女女、男男(だんじょじょじょだんだん)関連が4割。それが否応なくお祭り気分を盛り上げる。
塗り絵、スタンプラリー(西武でやってたのと同じ)、フレッシュプリキュア、ハートキャッチプリキュアの撮影会(11時から15時くらいまでやってましたね。中の人、本当に御苦労さまです)、さまざまな展示。
プリキュア3D上映会は、あと一歩のところで整理券が切れて、子供たちと涙をのみました。「プリキュア3D良かったよ」という大友の声を耳にはさんで、このわたくしもぜひ見たかったんだけどなあ。ま、次の映画は恐らく3Dだろうから、少なくとも子供は3Dプリキュアを見られるであろう。しかし時代は変わるよ。The Times They Are a-Changin'
とにかく、みんなで作ろう、盛り上げようという手作り感覚が良かった。それからプリキュアと戦隊モノのコンテンツとしての強さに驚いた一日でした。力をもらった気がします。
しかし凄いですわ。正直、祭り自体のコンテンツは特にどうということもない。しかし観客(子連れや大友[おおきなお友だち])の熱気、それから(恐らくは)東映関係の社員の方の「ここはいっちょう頑張ったろう」という心意気。そして何よりものすごい人の数。すべてがプリキュア、ゴセイジャー目的ですよ。凄いね。子連れが6割。大友の男女、女女、男男(だんじょじょじょだんだん)関連が4割。それが否応なくお祭り気分を盛り上げる。
塗り絵、スタンプラリー(西武でやってたのと同じ)、フレッシュプリキュア、ハートキャッチプリキュアの撮影会(11時から15時くらいまでやってましたね。中の人、本当に御苦労さまです)、さまざまな展示。
プリキュア3D上映会は、あと一歩のところで整理券が切れて、子供たちと涙をのみました。「プリキュア3D良かったよ」という大友の声を耳にはさんで、このわたくしもぜひ見たかったんだけどなあ。ま、次の映画は恐らく3Dだろうから、少なくとも子供は3Dプリキュアを見られるであろう。しかし時代は変わるよ。The Times They Are a-Changin'
とにかく、みんなで作ろう、盛り上げようという手作り感覚が良かった。それからプリキュアと戦隊モノのコンテンツとしての強さに驚いた一日でした。力をもらった気がします。