2011年4月19日火曜日

今日の臨済録(4/19)

光陰は過ぎ易い。一念一念の間も死への一寸刻みだ。大にしてはこの身を作る地水火風[の変調]に、小にしては一瞬一瞬が生往異滅の転変に追い立てられているのだ。諸君、即今ただいま、これら四種の変化が相(かたち)なき世界であると見て取って、外境に振りまわされぬようにせねばならぬ

外の境。客観的対象ですね。それに振り回されちゃいかん、と。

分かってはいるんですけどね。

ニュースを見れば、何かと腹がたち、悲しみが沸き立つ昨今。怒りや不安は正しく扱わないといけません。無闇に怒りや不安をぶつけても、何も解決しない。ま、東電バッシングは正しいと思うけどな。正直言って。ありゃ人災だ。福島の現在の放射線量は、東電の無能さの何よりの証。どう責任取るんだ。取れるのか。コラ。っとっとっと。ここでストップ。

そういう心のざわめきも、この身を作る火の現れだと、昔の人は考えたんでしょうね。カッカッカするから熱だ。火だ、とか、じっとり思いが残るから水だ、とか。人は、この身を作る地水火風に一瞬一瞬追い立てられているんだ、と。そんなに変な例えではないですよね。現代の生物学を踏まえても、アナロジーとして通用しますし。体には60兆の細胞が含まれていて、その各々が日々生滅しているわけですから。

人の心では、一念一念思いが移ろい、入れ替わっている。
人の肉体では、一瞬一瞬に細胞が移ろい、入れ替わっている。

だから、そんなのは無相だ。形がないんだ。と。

例えば、みるみる間に崩れていく砂山。これって形があるんでしょうか。どうでしょう。何らかのプロセスは見て取れる。しかし、そこに形を見て取ることは難しい。一瞬後には、砂山は別の形になっているわけですから。

ちょいと乱暴ですが、人間だってまたそんなもんか、と。

われわれは普通、昨日のわたしと今日のわたしは「同じ」だということで人生を送っていますが、実際には細胞が入れ替わっている。思いが変わっている。形も、中身も異なっている。

人間だって、思いと細胞が一瞬一瞬で生成流転しているプロセスだ。形のない存在なんだ、と。

ちょっと実感とは合わないですかね。

しかしまあ、そういうもんだと了解してしまえば、それはそれで楽かな、という気がします。一瞬一瞬でうつろう、死へのプロセスとしての人間存在。だからこそ、外の対象に振り回されてしまう。でも、いちいちマスコミだの2chだのに振り回されているようじゃあ、キリがないよ。自分の二本の足でしっかり立って、一人前の人間として生きたまえ、と臨済さんがおっしゃってるんじゃないか。そんなふうに思ったりもします。

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