仏教。
どうなんですかね。
仏教。現実逃避か、アブナイか、どっちかだなあ。
とか思うのが普通の感覚でしょうか。
わたしの母がそうですね。
母の知人のお子さんが新興宗教にハマって、財産吸い上げられて一家離散。
「宗教はダメじゃ」。というのが母のスタンス。
ええと。念のため。
わたくしの知り合いに宗教関係者はいませんし、親類縁者にもいません。
何となくひろさちやとか臨済録とか西田幾多郎とかを読んで仏教にハマってしまっただけ。
ただの、素人。
ま、んなこたどうでもいいか。(akagiレバー@絶賛アルコール分解中)
でもま、仏教ってなんでもアリっすよ。
うん。
さて、本題。
臨済録を何度も読み返すんですけど、やっぱりこれって既存仏教の否定だなーと。
ほとけとは 尓(なんじ)面前聴法底是なり。
あなたがそのまんまほとけだよ、と。
どこか別の場所に求めちゃいけない。まさに、あんたがほとけなんだ。足元をごらん。
しっかり二の足で立って、なーんも考えずにのほほんと生きなさい、と。
お経だのおエライ坊主の言うことに騙されちゃいけんよ。
そんなはずはない。禅の真理が「のほほん」なんてことがあるもんかい。素人が。
しかしまあ、どう読んでも、この通り。
臨済録に書いてあるんだからしょうがない。
のほほん。
ほっとけ。なんつって。ほとけだけに。
さてさて。
ほとけは「ブッダ」の漢訳です。
んでブッダってのはお釈迦様の固有名詞ではなくて「悟った人」という一般名詞です。
シャカムニ・ブッダは「釈迦族の悟った人」。
ブッダ・ゴータマは「悟った人ゴータマ」って意味。
お釈迦様についてった人たちが教団になって、組織化され、小乗仏教が出来た。
その教団では「とっても厳しい修行して、出家して、ようやく悟れるんだ。ブッダ(悟った人)になるのは、とっても大変なんだ。だから修行してる僧はとっても偉い。ぜひ尊敬しなさいね。それから、ご飯とかお金を僧に寄付しなさい」ってことになっていた。
その500年後。大乗仏教が出てきて小乗仏教を否定。
「そんな出家して厳しい修行してようやく悟って救われるようなもんじゃない。普通の人だってちゃんと救われるんだ」と。
般若心経とかそうです。無無明。無苦集滅道。無知亦無得。無明も苦集滅道(いずれも小乗仏教の真理)も無い。知ることもないし、得るものもない。
なーんもない。
ただ彼岸の世界を信じて「ぎゃーてーぎゃーてー」とうなっておきなさい。これ、とっても大事な秘密の呪文よ。ぎゃーてーぎゃーてー言ってれば、なんの思いわずらうこともない、のほほんの境地(阿耨多羅三藐三菩提)になれるよ。
これが般若心経。
え?般若心経ってそんな内容なの?ウソだろ?
ウソじゃないよウソじゃないよ。ウソだと思ったら岩波読んでみて。
それ以外にも、いろんなお経が作られたみたいで。
この辺、わたし的には分かりますね。
こっちはしんどい思いして生活して大変なのに、なんだ。働きもせずに心やすく修行してる坊主だけが救われるんかい。そんなん、やっとれんわ。
で、わたしが傾倒してる臨済録。
自分の頭を探すようなことはやめて、ただのほほんと生きてなさい、と。それが仏教。
仏教に用功の處なし。朝起きたら着替えて、ご飯食べて、トイレ行って、疲れたら寝る。これが仏教だ。
(臨済録にホントにこう書いてあるからね)
それが仏教だったら、お寺で袈裟着て念仏唱えてるお坊さんって何?
いや、あの人たちはあの人たちで存在意義があってですね。
職務があるんですね。きっと。
わたしも詳しくは知りませんけど。
まあ考えてみれば、日本最高の宗教家である親鸞さんも、教団飛び出して肉食妻帯して飢餓と戦争の修羅の現実に飛び込みましたしね。
南無阿弥陀仏。これだけで、いいんだよって。
親鸞さんも教団の維持とか組織化なんか、全然考えてなかったろうなー。「親鸞は弟子は一人も持たずにそうろう」でしたっけ。
そう言えばお釈迦様も「自灯明法灯明」と言っておられた。「自分」と「ほんとう」を頼りにして進みなさい、と。教団とか固定化した教えなどにこだわってはいけないよ。これがお釈迦様の教えじゃないかとわたしは信じますね。
そうじゃない!禅や仏教ってのはもっと高尚なもんであって、
素人が本を読んだだけでどうこう言うもんじゃない!
しかし、まあ、この年になってくると権威とか学者のコケ脅しにもね。
簡単に騙されなくなってきますしね。
(お偉いとされる先生だけど、変なこと言っとるのう。とか)
まあ、自分に対する懐疑は必要ですけどね。
酔っ払いの繰り言。
風呂入って寝るべし。>自分
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