2010年1月4日月曜日

岩波文庫「金枝篇」フレイザー著 永橋卓介訳一巻目

★★★★☆☆:祈る人間

これは深い。いわゆる非科学的な、迷信といわれる行為が、どれだけ深く人々の生活に根ざしているかを気づかせてくれます。

迷信的行為の数多くの例が示されます。例えば、漁に出た夫が一匹も獲物をとれなかった原因は妻が浮気をしたからだとか、夫が戦いにいったら、妻は決して油に手を触れないとか。まさに非合理。まさに迷信。しかし、このような例は世界中で見つけられるわけです。

別に未開民族の専売特許ではない。明治時代の日本然り、ルネサンスを終えた近世ヨーロッパしかり。怪しげな民間信仰はどこにでも見つかります。すなわち、アハハなどといって笑っていられない。私だってその時代に生まれていれば、半信半疑だったかもしれないけれど、風習=迷信に従っていたに違いない。あるいはそのような迷信を利用して、何かコトをおこしていたかもしれない。

迷信だって神秘主義だってバカにしたもんじゃありません。人間ってのはややもすれば見たくないものから目をそらし、見たいもの、聞きたいことだけを見聞きする存在なわけです。聞けども聞こえず。見れども見られず。信じたいことだけを信じる。だから、人を騙すことは難しいことではないのです。たとえ嘘であっても、何かを信じたい。愛する父や息子、兄弟が漁や戦に出かけたら、残された家族もできるだけのことはしたい。恐らくは届かないかもしれない必死の祈りの気持ちが、客観的にみれば非合理的な行為に人を駆り立てるのだと思います。

フィクションが力を持つのは人間が未熟だからではなく、無力な人間の、必死の祈りがフィクションを呼び寄せるからじゃないかと。オレオレ詐欺の犠牲者が減らないのも、ある種の人々が宗教にハマるのも(一緒にしちゃいけませんがね)、人間の本性からして仕方がないことなのでしょう。

迷信を嗤うまっとうな常識人だと自負する人でも、何らかの迷信的なストーリーを生きているはずです。それは社会的成功という迷信かもしれませんし、金持ちになりたいという迷信かもしれません。われわれが迷信と呼ぶところの風習に従って幸福に生きる人たちが、金だの地位だのに執着し、時間の余裕も心の余裕もなくあくせく働くわれわれをみたら、どう思うでしょうか。日本人というのは何という殺伐とした迷信を生きているのだろう。ひょっとしたら、そんな風に思うかもしれません。

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