2010年2月8日月曜日

「田邊元全集8 歴史的現実 他」筑摩書房

★★★★☆☆:戦犯的哲学者という位置付けが残念だけど、力のある人。懺悔する必要はなかったのではないか

田邊元というのは旧京都帝国大学の哲学の教授です。西田幾多郎の教え子でそれなりに有名な人です。この講演は、佐藤優氏によれば、戦時中「お国のために死ね」と学生を鼓舞したものであり、学生たちもこの本を抱えて死地に赴いたとのことです。

そうだったのか田邊元。そんな戦犯すれすれの思想家だったのか。と思って読んでみました。

「歴史的現実」

歴史に関する考察に始まり、歴史の前提となる時間とは何か、という議論。そして時間性と否応なく関わる個人と種族(民族)、人類の関係についての論攷。論旨は明確。思考は強靭。迫力もある。安直な戦争賛美の思想ではないな、と思いながら読み進めると、以下の箇所に出くわしました。

個体はそれを否定するにせよ肯定するにせよ、種族(民族)と離れては生きていけない。そして種族に関わることで個体は永遠的な理念たる人類と関わることができる。すなわち「個体が間にはいって種族を人類に高める大切な働きをする」のであり、「個人は種族を媒介にしてその中で死ぬことによって却って生きている。その限り個人がなし得る所は種族のために死ぬことである」。出た。本当だ。文字通り「国のために死ね」と言ってる。国のために死ぬことによって、個体は却って生きることができるのだ、と。こりゃあ完全にアウトだなあと思いながら読み進めると、最後の最後にこんな叙述がありました。

今日我々の置かれて居る非常時に於いては、多くの人が平生忘れてゐた死の問題にどうしても現実に直面しなければならぬ。皆さんのやうに一朝召される時は銃をとつて戦場に立たねばならぬ若い人々はもとより、私共のやうな銃後の非戦闘民と雖も、今日の戦争に於いては生命の危険を免れる事が出来ない。死は考へまいとしても考へざるを得ない真剣な問題となる。

解説によると、旧京都帝国大学の学生たちは非常な感動と緊張の面持ちでこの講演を聞いたそうです。つまりこの講演は死に直面してその死の意味を問い続けなければならなかった若い学生たちに向けられていたのです。

若者たちの悲壮な空気を想像すると、この講演の意味も分かるような気がします。単に若者たちを鼓舞した無責任な講演ではない。死に向かう学生たちに、君たちが死ぬとしても、その死は決して無駄ではないのだと彼らを励ます講演だった。そして明らかに彼もまた死を覚悟している。この講演は、戦争下で行われた優れた哲学者の真摯な思索であることには間違いない。そう考えると何かしら胸に迫るものがありました。

「史学の意味」

いい小論です。歴史について考えていたことが整理できて、私としては非常な時間の節約になりました。私は、歴史が何らかの必然的な終局に向かっているといった、キリスト教的、あるいは唯物史観的考え方は直感的に間違っている気がしてならなかったのですが、それが理論的に裏打ちできたような気がしてスッキリでした。

つまり、物質的なあり方や、経済のあり方が歴史と人間を規定することもあろう。あるいはそれよりは弱い仕方かもしれないけれど、理念や思想が歴史と人間を規定することもあるだろう。でも、どちらかが一方的に歴史と人間を必然的に定めてしまうと考えると、それは間違いである。史学というのは、それが既に定まってしまったという意味で必然でありながらもダイナミックに変遷しうる過去を、本当の姿で捉えようとする努力に他ならず、それに当たっては過去という必然をベースに、未来という未だ来たらぬものに向かって行くという自由が前提になければならぬ、と。全くその通りだなあ、と思いました。この人はやはり本物ですね。

「政治哲学の急務」

自分より立場の下にある者を利用して甘い汁を吸おうと考える者がいる限り、プロレタリア独裁はありえないだろう。人間の欲望や矮小さへの洞察が欠けているところがマルクシズムの致命的な点である。

あはは。それだ。その通り。サラリーマンやってると分かります。資本家、リーダーに唯唯諾諾と従う人間の多いこと。社長が白だといえば黒いものも白くするのがプロレタリアートではなかろうか。だとすればプロレタリア独裁など夢のまた夢。

もちろん全てのプロレタリアがそうだとは思わない。しかし人は風向きによって声の大小が変わるもの。生き延びたければリーダーに追従するのが安全。戦いのさなかでリーダーに背くことはチームの崩壊を意味する。とすれば集団生活を通て生存競争に勝ち抜いてきた人間には、リーダーに従うという性向が備わっているのではなかろうか。

あるいはかつての日本会社家族主義のように、資本主義的な価値観をベースに富の公平な再配分を考えるリーダーもいるでしょう。

ならばプロレタリア独裁を期待してもしょうがない。現状圧倒的な支配力を持つ資本主義をベースに考えるのがよほど現実的であろう。日本社会に着実に食い込みつつあるアメリカ流強欲資本主義をいかになだめるか。いかに社会全体を利する方向に持って行くかが重要でしょう。今こそマルクシズムだとのたまう学者連中のナイーブなこと。四十代以前の人間にはマルクシズムという言葉にほとんどリアリティは感じないのではなかろうか。

「死生」

敗戦の色濃い昭和十八年頃の講演です。死への恐怖をどう克服するか。かつての西洋思想には二通りの死についての態度がみられる。一つはストア哲学の考え方。死は生と同じ自然の延長であり、恐れを抱くような対象ではない。もう一つはハイデガーの考え方。人はそもそも死に臨んだ存在であり、死を意識、覚悟しながら生きるべきである(スゴい端折って要約してしまった)。だが、その両者いずれも死から解放してくれる考え方とは思われない。第三の道として、死を決意し、もはや自分の命はないものと考える立場がある。もし本当にこの境地に立つことができれば、死が怖くなくなるのではないか。

とまあ乱暴に要約すると、大したことないように見える主張なのですが、原文は非常に迫力がありますね。やはりあの時代、誰しもが死を覚悟していたことが伝わってきます。ただごとではないですね。今の時代から振り返ると。ああヤダヤダ。特攻の精神。軍国主義。怖い怖い。と思えるかもしれませんが、もし自分があの時代に生きていたらどうだったろうかと想像せざるをえません。やはり悩みながらも祖国のために死を決意していたのではなかろうか。そして自分の死の意味を、苦しみながらも考えていたのではなかろうか。吉本隆明だったか養老猛司だったか、敗戦を知った時になんだ俺が戦争に行く前に負けやがってと悔しく思った、という文章を読んだ記憶があります。多少なりとも闘争的な性格を持った若い男であればそう考えていたのではないでしょうか。

まあこの辺で。ずいぶん私の思考にヒントを与えてくれました。この手の本では珍しく知的興奮を感じることができた。田邊元はやはり優れた思想家です。現在この人の本がほとんど刊行されてないのは損失だと思いますね。

0 件のコメント:

コメントを投稿