「我と汝」「我とそれ」という二つのキーワードをベースに、人間の実存を語った宗教的哲学書です。
学生時代に岩波文庫版を流し読みしたことがあって、何となくよい本だったイメージがありました。木との対話のところとか、客観主義や唯物論を超えた神秘思想っぽい雰囲気が気に入ったのだと思います。
しかし今回ナニゲに読み返してみたら一筋縄ではいかない難解な著作であることが分かりました。まず、そもそも、何でまた「我と汝」なのか。そこに違和感。学生時代には引っかからなかったところです。
我とか汝とか、そんな言葉を日常的に使いますか。普通の日本人は絶対使わないと思うな。私。わたくし。小職。僕。オレ。自分。おのれ。手前。拙者。余。日本語にはいろんな一人称があるけれど、「我」は使わないでしょう。あ、関西の人が「なにしとんじゃワレ」というのは別ですよ。だいたいこれ、二人称だしね。
では原題はどうなっているかと言えば「Ich und Du」。英語で言えば「I and you」。すなわち、奴らは始終 "Ich" とか "I" がどうするこうする言ってるわけです。常に主語としての一人称が文章や話し言葉について回る。
一方日本ではどうか。時と場合によって一人称がコロコロ変わります。友人にはオレ。対等あるいは目上の人には私。仕事では小職。一人称がない文章も珍しくはない。先ほどの関西人じゃないけど、二人称にワレとかジブンを使うことすらある。つまり、日本語の一人称には以下の二つの特徴がある。
1.一人称を決めるのは、相手との関係あるいは言葉の文脈である。(例え友人と話していても、上司がいれば私。)
2.一人称と二人称が入れ替わることがある。我(ワレ)。手前(テメー)。己(おのれ)。自分(ジブン。関西で)。(世界でこんな言語があるのかしら)
ブーバーさんに戻ります。彼は「我と汝」を根源語とか言ってるんですが、日本人の私にはすんなり入れない。「我」なんて堅苦しい文語の一人称でしょう。あるいは関西におけるいささか品に欠ける二人称。「私」だってそりゃあ大事な言葉だけど、根源語とも思えない。仕事では私でも、家に帰ればオレになる。娘の友だちと話す時は「オジサン」さ。
いやいや、そんな皮相な理解じゃダメですね。あなたと私という構造は普遍的なものであって、言語が違うとか呼び方がどうだとかは本質的な話ではない。
そんなあなたにはソシュールをお勧めします。人間の意識、思考、世界には言語の構造が大きく関わっている。確かに抽象化されアナロジーと化した「私」と「Ich」は同じように見える。しかし、その実体は大きく異なる可能性がある。例えば「私生活」の「私」とか「公私」の「私」というニュアンスが「Ich」にあるか。あるいは逆に「なにしとんじゃワレ」の「ワレ」をドイツ語に適切に訳せるか。そこにはやはり断絶があると思われる。言語体系を相関付けた時、私と"Ich"が対応すろのは確かだけれども、そこに差違があるのは間違いない。
そしてブーバーさんの「汝」は人間や自然の神性(汎神的概念であるブラフマンまで出てくる)であるわけですが、究極的にはそれはユダヤ・キリスト教の神と結びついている。
一日中 "Ich" だの "I" だの "Je" だの言って、不滅の霊魂としての自我と人格神という思想を持つキリスト教を信仰している西欧人が、「我と汝」が根源的言葉であって、汝ってのは究極的には神だと言う。どうですか。ついていけます?頭では理解できる。でも、得心はいかない。話半分でしか聞けません。我と汝が根源語で、汝は神である、と。最初から結論が出ていたようにしか思えない。
というわけで、興味深くはありますが、いまいちピンとこない本でした。
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