2010年6月28日月曜日

冷蔵庫のない世界を想像してみよう

冷蔵庫のない世界を想像してみた。

まず、肉が余ると腐って臭い。

だから今日食べるだけの肉しか買えない。

だから食べられるだけの生き物(牛、豚、鶏、魚、貝)しか殺せない。

味噌、梅干しが有難い。しょっぱいけど。

トマト、キュウリ、スイカ、ナスが有難い。だって、毎日畑に成ってるし。しかも嬉しい。みずみずしい。

冷えてなくても水はおいしい。

冷えてる必要があるかしら。冷えてなくても、いいんじゃないか。

トマト、キュウリ、そのままでいいんじゃないか。

冷蔵庫が無くたって、暮らしていける。

ありがたいな、と感謝ができる。

そりゃ、冷蔵庫があればいいことがある。

保存ができる。保存ができれば計画が立てられる。今安いイワシを買って、干物にして冷蔵庫に入れておこう。肉も魚も手に入らないとき、冷やしたイワシの干物を食べられる。

それはそれでありがたい。

でも、冷蔵庫が機能するためには、誰かの犠牲が、喜捨が、お布施が必要だ。電力会社の人が働けばいい?でも、石油が、石炭がなければ電気は起こせない。石油、石炭は昔の生き物からできている。昔の生き物のお布施が、石炭石油になっている。

その冷たさ、そのイワシの干物は、昔生きた生き物のおかげというわけ。

でもひるがえって、私たちの快楽「冷えたトマトはおいしいな」と思う、その快楽は、昔の植物のお布施に値するのだろうか。

もちろん、自分の子供には少しでも心地よい食べ物を楽しんで欲しい。でも、それと同時に、食べ物の成り立ちを、その食べ物がどれほど有難いかを、知ってもらってもいいんじゃないか。そんなことを思うわけです。


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