2010年7月1日木曜日

続けたもんが勝ちだって思う

何につけても、続けた方が最後に勝つ。ってなことを思いますね。

学生時代、どれほど優れたスポーツ選手だったとしても、サラリーマンになった途端ストレスと過食でデブデブになって、体壊したりしてね。

ま、勝ち負けなんてのは、修羅道、地獄なわけで、仏教的には推奨されるようなもんじゃないですけど。

でも、続けてると見えてくるものがある。

ひたすら続けていると、不思議なもんで、空しさが見える。ああ。これほど努力したって空しいんだなあ。バカバカしい。そういうことがわかる。最初からバカバカしいと思ってやらないのと、一生懸命やって挙句にやっぱりバカバカしいと思うのとは少し重みが違う。バカバカしさこそが人生だよ。ありのまま。それこそがバカバカしさ。それこそが人生。だったら、ひたすら何かをやってみたらどうか。

バカバカしい。心底そう思いながら続けてみると、ストイックとでも言いましょうか。何やら清い心持が得られる。空しいと思いつつ、私は今日もこれ(ジョギング、腕立て伏せ、大人になって始めた楽器の練習、資格の勉強)を成した。そこには空しさとともに生きるために最低限の満足がある。反復できることに救いがある。明日も多分大丈夫だ。そう思えることが、無上の幸せなんだ。

そう。反復の裏に、奇跡がある。戦争がない。明日も仕事がある。それが奇跡なんだ。


いや、なんだか説教くさいな。むやみと現状肯定な感じになってきましたが、それは本意ではありませぬ。

ブログね。言いたかったのはブログ。

誰もコメントしなくても、どれだけの人が見ているかわからなくても、ひたすら更新してみる。

更新するほどに、これはこれで味のあるものなんだなあ、と思うわけです。

たとえるなら腕立て伏せ。バカと言いたければ言え。今週は100回。来週は101回。どこまで続けられるか分からぬ。続けたってボディービルダーになれるわけでもなし。お金をもらえるわけでもなし。でも、続けてみよう。そこに妙味があるんじゃないか。

ただひたすら続けてみる。そこに仏性があるのかもしれない。ただひたすら続ける、というそのことに。

  念仏とは、修行でもなく善でもない。

  なぜなら、阿弥陀様のはからいによって凡夫が念仏を唱えることができるわけであって、凡夫が自分の意思で念仏を唱えるわけではないのだ。

  同様に、念仏は善ではない。単なる阿弥陀様のはからいなのだ。(以上うろおぼえの「嘆異抄」)

とすれば、私がこうしてブログを書くことだって、阿弥陀様のはからいなんじゃないか、と。そりゃあ、地味なはからいかもしれない。でも、ブログを書いていなければ、私は仏教者にはならなかった(少なくとも、もっと後に仏教者になっていた)。だとすれば、こうしてくだらないブログを書くために頭をひねる毎日だって、また阿弥陀如来のはからいかもしれない、とそんなことを思ったりもします。

0 件のコメント:

コメントを投稿