ただ「否定」と提示されると、論理的には単に肯定の反転であるわけです。
しかし、現実的には
否定=嫌い
ってのが近い。否定ってのは意志の力だ。全力でするものだ。机上の論理じゃない。頭でこねくり回したコトバじゃない。心から嫌いと思う、それが否定。
そうでしょ?
最初に戻る。
A=Aってのが肯定だ。
A=非Aは否定。
論理的にはそうなる。
そして、
「A=AかつA=非A」とは、論理的には矛盾となる。
さて、否定は憎しみ。否定は嫌い。また、肯定は是認であり、肯定は好意である。
その常識的な、情動的な理解を、論理に持ち込んでみる。つまり、肯定とは「好き」であり、否定とは「嫌い」である。これを論理の世界に持ち込む。
かつ、ここで、西田哲学の、絶対矛盾的自己同一を考えてみる。
しかるに、
絶対矛盾的自己同一とは、絶対に否定しつつ、絶対に肯定する、ということである。
ということは、
絶対に嫌いだけど、絶対に好きだ、それが絶対矛盾的自己同一ってことになるじゃないか。
なんだか凄く良よく分かる気がしてしまうなあ。
要するに西田哲学ってのはダイナミックなんですよ。固定してない。取り澄ましてない。うごめいている。全力で、生きている。
12/24後記
と酔っ払って書いたようですが、まあ、当たらずとも遠からずってとこですかね。
エロスとタナトスとの矛盾とか、愛と憎しみの矛盾とか、そういうモメントは西田哲学に含まれるとは思うのですけどね。
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