今日は臨済録で締めようかな。
危機の時に読む臨済録もいいですが、落ち着きつつある時もまたよし。
我れ見るに、諸法は空相にして、変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無。三界唯心、万法唯識なり。所以に夢幻空花、何ぞ把捉を労せん。
(現代訳)わしから見ると、すべての存在は空相であって、外的な条件で有となり、その条件がなければ無となる。三界はただ心の生成であり、一切はただ識の現成(げんじょう)であるからだ。だから『夢や幻や空花のようなものをわざわざ把えようとするな』というわけだ。(岩波文庫より)
併記したのは、若干現代語訳に意訳が入ってるから。
以下、漢文読み下しベースで進めます。
諸法空相。般若心経にもまんま出てきますね。
法ってのは、仏教の真理ですね。ダルマ(達磨じゃないよ)の漢訳です。物理法則もここに含めてしまおうか。生成流転。地球は回る。りんごは落ちる。日は昇り、日は沈む。それが法。客観的真理としての法。
宇宙は法則に従ってる。スゲー!どうして!?などと思うまもなく、いやいや興奮なさるな。そんなものは空だ。法則なんか、空しいんだ、と仏教はおっしゃる。
そんな諸々の法則って、結局「空」なんだ。空しいんだよ。と。
存在するものであれば変化するんだ。変化しないものなどないんだ、と。
しょせんは、変化を説明しているだけ。それが法則なんだ。
誰がいつ見てもこうなる。これこそ客観的真理だ!などと騒いでいるけど、そんなものはつきつめれば空しいことだよ。
三界唯心。
心はまんま「こころ」ですね。普段感じている、いわゆる心。三界=この世界は心なんだ。苦しみも、平穏も、幸せも、心だ。
万法唯識。
識。これは理性でいいかな。客観的法則なんてのは、ただ理性が生み出したもの。
世界は心が構成している。そして法則は理性が構成しているに過ぎないんだ。
しょせんは、人がナニしたものに過ぎない。実体は空なのだよ。夢幻を、空の花を追い求めるようなもの。一生懸命人がアレしたところで、空しいのだよ。
仏教スゲー!とわたしなどは思いますね。
さて。寝るか。うむ。
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