2010年11月24日水曜日

西田幾多郎哲学論集

最近、岩波は西田幾多郎の哲学論集を熱心に読んでいます。大変むつかしいけれど、大変おもしろい。

何がむつかしいかと言えば、まずは論理ですな。一即多かつ多即一とか一般存在即特殊存在かつ特殊存在即一般存在。何せ絶対矛盾的自己同一ですから、通常の論理ではない。この辺り、ぱっと読んだだけでは分かりまへん。

それから何が言いたいかを直感的に把握するのが難しい。この手のむつかしい本を読むときは、大体最初に「あたり」を付けて読むのがコツなんです。こんなことを言おうとしているんじゃなかろうか。そう決めつけて読んでみる。やはり。と思うこともあるし、どうも違うな、ということもある。そうやって試行錯誤しながら読んでいく。しかしこの西田幾多郎さんについては「あたり」が外れてばかり。

だもんで、読み返してみるわけですな。んでいろいろ考えてみる。こうやって読み返そうと思える本、考えさせる本は大抵の場合良い本です。

まず「意識」とか「我」とかという言葉を、デカルト、カント、フッサール的な「意識」と考えてみる。すると当初は何となく分かる気がするんですけど、読み進めるとだんだんつじつまが合わなくなってくる。意識の意味が全然違う。こりゃなんだ。と思って考えてみると、むしろインドのアートマンに近いんじゃないか、と思いつく。とすれば、こりゃあ仏教だ。禅だ。なるほど、そっちの方面だったのか。

しかし「善の研究」あたりはまだそれで読めていけるんですけど、それ以降の哲学論集はさらに一筋縄では行かない。西洋のさまざまな思想と西田幾多郎の思想がぶつかって、新たな展開を見せてくる。

で、現在その辺りの西田さんと格闘しているのですが、どうも本当にむつかしい。

最近思っているのは、西田さんがやってるのは西洋的論理の克服じゃないか、と。西洋的同一律に対して矛盾を包含する即非の論理(これは大拙さんだったかな)を立て、そこからいろいろと基礎付けようとしている。

むむむ。

ということで、ちょっとあまりにも手強いのでこの辺で。また西田さんについてはじっくり考えてみたいと思います。

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