ラベル 哲学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 哲学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年6月7日金曜日

怒ったらいかん、のか?

何だか「怒ったらいけません」とか「怒る人はバカです」とか、そういう話があります。

分からんでもありませんけどね。

人を呪わば穴二つ。

怒りを燃やすと、自分もその怒りに焼かれてしまう。

分かりますねー。

でも、怒るべきときはあるよね。

圧倒的に、理不尽に、やられたとき。

セクハラ、パワハラ、モラハラ。

いや、俺だってね。人間だよ。そんな風に扱われるべきじゃないんだよ。ってね。

とにかく、人を簡単に馬鹿にしたり、利用しようとしたりするヤツとか。

人の尊厳を、ナニゲに、軽く踏みにじるヤツがいるからね。

怒るべきときはある。

怒るべき時は、怒らなきゃいけない。

大事なことだよ。と思います。

宗教家には言えないことだろうな。ざまぁ。

ってよく分かりませんが。そんなキレイな社会じゃないですわな。

以上。

2013年3月15日金曜日

人を馬鹿にしたい人たち

「この人から馬鹿にされる理由は全く思い当たらないのに、何故だかしらないけど馬鹿にされる」というのはどうやら普遍的な経験らしい。

などと「マウントポジションを取りたがる人の話」を読んで思ったのでした。

以前に引用した記事もそうでしたが、「他人を馬鹿にする」人の通底には、「ハイレベルなセルフイメージ」と「現実の自己」とのギャップに薄々気が付き、苦しんでいる。あるいは焦りを感じている、ということがありそうです。

だって、素晴らしい容姿やら才能やらに恵まれて「あー。自分は恵まれているよな。ありがたいな」と思っている人が、他人をコキおろすってのは考えにくいですからね。

何かしら不満があるから、他人をバカにするワケ。オレはこんなに素晴らしいのに。にもかかわらず、こんなに苦しんでいるのに。そのことに気が付かないこいつはバカかと。

人を馬鹿にする人の基本的な思考回路って、そんな感じ。

そこに、人によっていろんな風味が入ってきます。

高い濃度の「自己陶酔」が入ってくる。

「器が小さい」感がブレンドされる。あるいは「時折ヒステリーを伴う」とかね。

あー。やだやだ。疲れますな。人生って。

でも、黙ってたらやられるばかりだけど、状況が変わることもあります。

理路整然と口答えしたらば、それ以降は黙ったとかね。

子供がいて仕事があるとあまり波風は立てたくないワケですが、時折はそんな反応も必要になるのかな、と。上手くやらないとトゲが立つから、慎重にやらねばなりませんけど。

思い返してみれば、わたしも若い頃はかなり人を馬鹿にしてたなあと。高校生~大学生くらいが山だったかな。

ナルシズムもあったし、自己の能力を信じる!オレは出来る!という焦燥感もあったし、でも、結果が出なくてピリピリと追い詰められていた。のほほんと生きているヤツが、バカに見えるワケ。

正直、イヤなヤツだったですよ。あのころの振る舞いを思い出して「ぎゃー!」叫ぶこともしょっちゅうっすわ。ぎゃー。

年取るに従って徐々に落ち着いてきましたね。

自己過信が減ってきた。自分の能力に幻想を持たなくなってきた。理想と現実の折り合いがついてきた。総合的な自信もついてきた。

総合的な自信って何かというと、人生観と現実生活の折り合いとでもいいますかね。オレもそれなりに頑張ってきたじゃないかと。100%満足ではないけれど、それなりに自分を肯定できる。オレ、頑張ってるぞ。それが総合的な自信。

「東大出だから、オレは偉い」「年収3千万だから、オレは偉い」こういうのって指標自体は確かに客観的だけれど、総合的な自信じゃない。むしろ、総合的に自信がないから、そんな指標にすがりつくワケ。

逆に言えば、他人を否定して何とかセルフイメージを維持している人たちって、理想と現実の折り合いも付いてないし、総合的な自信もないってことでしょうね。

こういう人たちって、高飛車なんだけど案外もろかったり、弱かったりするので、しっかり言い返すことは重要だよな。などと思うのです。

ブツブツ

2010年12月21日火曜日

作るものと作られるもの

難解な西田哲学ですが少ーしずつ分かってきた気がします。

例えば作るものと作られるものについて。作られたものが作るものになる。

そう言われると、例えばわたしという存在は親によって作られた存在なわけですが、これがまた親になると子を作るようになる。つまり、作られた存在としてのわたしが、作る存在になる、とまあ簡単に解釈していたんですが、この解釈はミスリードなことが分かってきた。

そうじゃなくて、むしろ人間には環境を改変する力があり、その改変された環境によって人間も作られる、そんなダイナミックな関係があるのだ、と解釈したいですね。

また、作られたものというのは、必然的に過去のものですね。「作られた」もの、つまり過去形なんですから。その過去が「作られた」ものとして現在を限定しにくるわけ。でも、過去ってのは「ない」わけ。あるのは「現在」しかないから。じゃあ、その「ない」はずの過去がどうやって現在を限定しに来るのか。実は、ここにある「過去」ってのはすでに現在なわけですね。作られたものとして、現在にある「過去」。その過去(=現在としての)が現在を限定する。つまり、現在が現在自身を限定する、という絶対矛盾的関係がそこにある。

そして、そのような存在は必然的に表現的たらざるを得ない、と西田さんは続けます。どうしてかというと、過去はあくまで潜在なわけですね。その「潜在」としての過去が、現れる。現在とは表現の場所である。

過去が現在として現在を限定する。そんなダイナミックなあり方を西田哲学は語るんですけど、これって凄いじゃありませんか。フッサールの時間の考え方にしても、やはりどうも直線的な考え方に近い。沈殿とかね。しかし、西田哲学の語る時間は、本当に生きられる時間だと思う。

おもしろいっすよ。

2010年10月25日月曜日

西田幾多郎メモ(無と意識)

最近、西田幾多郎論文集を読んでますが、この人は凄いですね。なぜ日本の思想家としてもっと広まらないか。ま、そりゃ難解だからだな。あるいは禅の宗教体験が前提されてるからか。そうだとすれば「生きる哲学」が扱えていないのが、日本の哲学研究じゃなかろうか。

しかし日本人哲学者たるもの、西洋哲学を有り難がって、細かい文献採集してるばかりじゃなくて、日本人らしい思想をぶち上げるべきなのでしょうが、ダメなんでしょうな。日本人の生真面目さが裏目に出ているのか。硬直化した学者世間の中で、異端が排斥され、エスタブリッシュな体制が安穏としているのか。

ま、関係ねーや。

ということで最近西田幾多郎を読んでますが、かなりシビれます。

「有に対する無が一つの類概念としてすべてを包摂する時、無は一つの潜在的有となる。如何なる有をも否定し果てしなきの立場に立つ時、即ち有に対して無その物が独立する時、意識の立場という如きものが現れる」(岩波論文集1、79ページ)

西洋の意識ってのはキリスト教の不死の霊魂、つまり神という「汝」に対する「我」が暗黙のうちに立てられているわけですが、西田幾多郎は東洋的「無」の直感からスタートすることで、完璧に西洋思想を相対化してるワケ。

おもしろいっすよ。

2010年7月28日水曜日

超越論的主観

カント。他人事。ああすればこうなるんでしょ?結局どうすればいいわけ?と問う主観。

フッサール。生活世界。間主観性。超越論的主観とは自分自身なのだということに気がつく。

仏教。超越論的主観=アートマン(存在理由、存在を可能ならしめる真の自己)など無い。空だ。問いにすらならぬ。← 今ここ。

2009年6月27日土曜日

鬱に関する考察、冷シャブ(豚肉、牛肉、水菜、レタス、オクラ、キュウリ、キャベツ)、ソバ

やっぱり最近鬱っぽかったのかもしれません。鬱が哲学方面の思索を呼び込んだのか、あるいはその逆か。

正しいことって何だ?と考え始めるとだんだんヤバい方面に向かいますね。これはやはり正しいことってのはもう身も蓋もない真実っていうか、どうしようもないっていうか、それよりも刹那的な現在を楽しむことの方が大事じゃないのかな、そんな気すらしたりして。いやあ、ソシュールがアナグラム研究に向かったのも分からんでもない。人間的なるあらゆる価値を乗り越える超人(by ニーチェ)が必要なのは間違いないのではないか。

だってそりゃあ美味いマズいも所詮は差異としてのシーニュかもしれませんよ。でも、美味いものを食ったときの幸福感とマズいものを食ったときのがっかり感ってのは重要だよね。食べ物ですらこれほどまでの多様性を持つのか、という感動っていうか。一切は無である。そんなニヒリズムに向かう前に、存在そのものを享受すべきではありませんか!コトバ以前のリアルが、実は普通に目の前に広がっているんじゃないか。無意識って、本当に無意識なのかな。逆に意識がある時間ってどんだけあるっけ?すなわち無意識=ボケーっとしている時間の方が多いんじゃないの?そして、無意識は存在という奇跡を大いに楽しんでるんじゃないかな。ってことは、ラングもパロールもランガージュもなく、生きるための誤謬としての真理もなく、ありのままにボケーっと存在し、時を生きている自分がいるんじゃないの?そんな風に思うこともなきにしもあらず。論理的な意識のみが人にあらず。現象学が面白いのはその辺への射程も含んでいるところ。おっと。哲学系の話題はしばらくは意識的に避けてみるか。

というわけで(どういうわけだ(ってありがちな話題展開だな))、冷シャブとかソバとか。

冷シャブははなまるなんとかを参考にして、片栗粉まぶしでいきました。ツルンとした食感が悪くないっす。

写真にしてみれば緑一色ですが野菜関係は結構仕事してます。レタスをちぎってキャベツを千切りにしてキュウリを薄切りにしてオクラを刻んで水菜を切って。定番のゴマドレッシングも作成。
 

後はソバ。例によってちゃんと出汁を取りますよ。市販のもいいツユが出てますけどね。化学系材料不使用とか。味も悪くない。でも自分で作ると香りが全然ちがいます。しかもそんなに大変じゃないし。
 

私は納豆ソバで頂きます。青ネギもたっぷり刻んでます。

美味かった。しかも低カロリーです。
.

2009年5月8日金曜日

認識論とか存在論とか

哲学系です。

歩きながらつらつらと考えごとをしていて、ふと、なぜ認識論なのかな、という問いが浮かびました。

認識論ってのは「そもそも認識とは」「分かるとはどういうことか」を問う哲学の1ジャンルです。アリストテレス、デカルト、ヒューム、カント、フッサールあたりでその問題意識が濃厚ですが、基本的にはほとんどの思想家、哲学者が少なくともかすって通る領域です。言語学やら論理学も微妙に絡んでるといっていいでしょう。といっても「何で認識論なんだ?」という問題意識は普通は分かりにくい。ぐだぐだ考えてないで食ってみればいいじゃねーか。頭で考えたってしょうがない。

昔ハイデガーを論じたなんかの本で、認識論とはすなわち存在論だから・・・という一節があって、よく分からないなりに自分への回答としていたのですが、やっぱり消化しきれていなかったようで、今更ながら「なぜに認識論か」という問いが浮かんだようです。

私的には認識論は(生半可な理解ですが)現象学にとどめを刺す、と思ってまして、実際に普段も現象学的な方法を使ってます。といっても別にわけのわからないこざかしいフレームワークを使うわけではありません。平易な言葉にすれば、何かに取り組む時に「どうして私はそのように考えたのか」「どうして私はそう理解しているのか」という問いを立てていったん反省して時系列に事象を整理してみるってこってす(※)。

つまり認識論って別に形而上的・衒学的・特殊な趣味の世界な訳ではなくて、私にとっては結構実践的な方法に利用できる実学だと思ってます。認識論を念頭に置いていったん反省しないと、偏見やら誤解から抜け出すのが難しい。すなわち認識論を踏まえるってことは「正しい認識に近づく」近道なわけで、そういう意味で認識論が大事なのは間違いがない。ということで「認識論は大事である」という結論はいったん出ました。うん。自分で納得してどうする。

そろそろウルトラマンが帰る時間になってきたので中止します。本当はこれから認識の枠組みとしての5W1Hについて述べて、Whyという問いの重要性に向かい、アリストテレスの四因説を述べて「理由」を理解することの大事さを確認し、いわゆる学校の5教科では「理由」への問いが封じられているのではないか、いや、学校の勉強だけじゃなくて、普段の生活からWhyという問いが失われていないか、という線で書きたかったのですが、時間がないので。

(※2009/7/10追記)
今思えばこれは現象学的方法ではありませんね。
いったん対象(この場合は想念)を保留して、それが経験的妥当性(しかも個人的な妥当性)を持つかどうかを反省していますが、現象学は個々の経験を問題にすることはないので、せいぜい足掻いて「経験的現象学」とでも言いましょうか。

以上。
.