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2012年4月8日日曜日

ピチレモン・・・

なんじゃこりゃー!!と叫んでしまうピチレモンは、女子中学生向けの雑誌でございます。



上の子が、さすがにコテコテ小学生服が似合わなくなってきて、大泉、西東京のLIVINあたりなら大丈夫だけど、豊洲ららぽーとだとか池袋行ったときに「同世代(同じ体格の女子)よりもおしゃれじゃない・・・」ことに気が付き始めたので、全員参加で真摯に小学生ファッションを研究しているのですな。わたくしもしたり顔で「やっぱりボーダーロンTは一着抑えとく?」などとコメントしたり。変わったなー>オレ。

で、最初に戻って。

なんで叫んでしまうかってーと、服のお値段。

ユニクロ(1,000~4,000円)、シマムラ(500~3,000円)は全面的に支持。GAP Kids(3,000~5,000円)もまあ、勘弁してやろう。(括弧内はテキトーな印象です)

酷いのが他のブランド系の服ね。メゾピアノ、バーバリー等々。Tシャツが5,000円から、シャツが10,000円から、スカート、ワンピースが20,000円、カーディガン、ブルゾンが30,000円。さすがにこれは如何なものか。

いや、価値観は人それぞれでしょ?ってことで終わらしてもいいんですけどね。

しかし、こういう高価な服の価格設定には、やはり押しつけがましさというか、煽って来てるな感を受けてしまうのですな。

どう?買える?みたいな。

いや、買えませんね。ってことでウチは済ませてるんですけど、中には見栄っ張りなおウチがあって、宅は年収1,000万ざんすから、このくらいの服娘に買うざんす!(怒)ってなママさんがいるんじゃないかと。

わたしの金銭感覚では年間の所得2,000万 or 資産一億を超えてこないと、こんな服小中学生の娘には買えないけどなー。流行に左右されない定番服で、大事に使ってくれるなら、大学生以上になったら検討してもいいが。

ということで、(小中学生までは)こういう服を買うって、ありえないからな。と妻と二人で娘を諄々と洗脳しているのでありました。あくまで参考にとどめるべきであり、ユニクロ、しまむらで「なんかそれっぽいもの」を選ぶべきなのだ、と。正しい両親だと思う。

メンズのファッション誌もヒドいんだよねー。シャツ2万~。パンツ3万~。靴6万~。アウター7万~。(あくまでわたしの感覚)。あんな世界観を信じてしまうからリボ払い地獄だとかカード破産に陥るヤツが出てくるんだよなー。子供たちには妥当な金銭感覚を持ってもらうと思っているのでありました。金は絶対友人に貸すな、誰からも借りるな、とかね。

大事なことなのであります。

2011年7月16日土曜日

うーむ。これを先に見ればよかった。
アイロンのかけ方 ワイシャツ編

2011年1月23日日曜日

「500日のサマー」見た

私の大嫌いなオシャレ恋愛映画ですが、妻が勧めてきたのは珍しいということで見てみました。

結果。

いや、面白かったですね。セリフがいい。展開がいい。90分という時間もちょうどいい。退屈せずに楽しく見終わりました。

そして決して本筋ではありませんが、印象に残ったのがファッション。みな服のセンスがよかった。当たり前か。はは。

主人公がタイを付け、シャツを7分にまくった上にニットのベストやカーディガンを着ているあたり、お。オシャレじゃないの。と思って感心して見入ってしまいましたね。ちょっと崩しつつも品のいいカジュアルなナレッジワーカー。カッコいいじゃん。オレもこれやってみようかな。なんて。でもま、うちの業界じゃありえないな、などと我に返りつつも。

この主人公(ジョセフ・ゴードン・レビットという俳優)ですが、なで肩で足もそんなに長くなくて、「日本にも似た人がいなくもない」顔立ち。私としては、オレもこんな着こなし合わなくもないんじゃね?とか思ったんですが、映画を観終わった後で、やはり無謀に近いのではないかなあ、などと思ってしまいました。いやあ。でも諦めないぞ(笑)

ま、いいや。映画を見るとしても、こんな楽しみもあるなあ、ということを思います。

2011年1月9日日曜日

ファッション雑誌(OCEANS)買った


OCEANSというファッション雑誌を買ってみました。自腹で買った初めてのファッション雑誌!記念すべき一冊です。

本木雅弘(おくりびと!)の表紙にひかれてUOMOも検討したんですけど、なんかバブリー?な臭いがしたので今回は見送り。かたやOCEANS。例によってイケメン外国人が表紙でオエッとしましたが「街のおしゃれなオッサン」特集を評価。頑張ってるオッサンたちがいっぱい掲載されていて参考になりそうだったもので。心なしかUOMOより堅実な感じも好印象です。

で、内容。やはり特集が良かったですよ。さすがにあれだけサンプルがあると、これはカッコイイな、と思えるスタイルがありました。古着とユニクロを上手くコーデしているお兄ちゃんが取り上げられてるところなんか、うれしいじゃないですか。ま、オレがやったらダメだろうけどね。

さてさて。わたくしもぼちぼち頑張ってみようかな、と思っております。

2011年1月4日火曜日

銀座のファッションショップ

本日、所用で有楽町に寄った折に、軽く敷居の高い系のファッション店を覗きました。

さすがにいい歳して古着屋とかエスニックファッション店(うさとなど一部を除いて大抵ジャンク風味入ってる)ばかり通っていてはいかんのではないか。イマドキのオシャレな店にスッと入って物色する、そのくらいの貫禄があって不思議ではない年齢ではないのか!

最近別件で刺激を受けたりもしていたので、ちょいと頑張って行ってみたワケ。

服装はTimberlandの定番ブーツとユニクロのチノパン、古着屋で購入したシャツとカーディガン(両方とも結構お気に入り)、アウターにはユニクロのフェイクレザージャケット(シルエットはユニクロとしては悪くないのですが、アウターにユニクロというあたりが痛恨)。無謀とも微妙とも言える出で立ち。

まずはSHIPSです。有楽町線の有楽町駅出てBICカメラ側から信号渡ってすぐ。お。SHIPSだ。なんか聞いたことある!行ってみようよ!一緒に来た妻に言うと「ちょっと!わたし子連れでSHIPS入るのイヤよ。あんた一人で行ってきて!」(妻はなぜだかブランドに詳しい)ということで単独での入店。怖いもの知らずの肝試し状態。

お、店員がオシャレだ(当り前)。ヤバい、ヤバいぞ(なぜ?)。あ、あのお客さんもかなりオシャレだ。どうしよう(冷や汗)。でも、なんだか普通のオシャレじゃないおっさん客もいるぞ。あ、あそこにも!そうだ!BICカメラから近いからだ!観光客がナニゲに入っちゃう店なんだ!ということでおのぼりさんを演じつつ(誰も気にしてない)、一気にリラックス。

ワリとじっくりセール品を観察することができました。

SHIPS。モノとしてはヨサゲですが、あまり好みではありませんでした。品のよいトラッド系とでも言うんですかね。といってもMcGREGORよりも軽くて都会っぽい感じ。まだまだボキャブラリーが少ないので困る。お。あの赤いフランネルの格子柄Pコートって立川談志師匠が着てたやつじゃないか?などなど。価格帯は40%OFFのセールなら何とか買ってもいいかな?というレベルでした。10分ほどざっと見てスルリと店を出ました。いやあ、緊張した。でも、年の甲というか、仕事で若い連中使ってるからか、店員にビビルことはありませんでした。年とってありがたいと思ったことはあまりないんですが、こればかりは助かった。店員に何かをお願いしたり、断ったりするのが楽だ。年とって楽になったことの一つ。

それからマロニエゲートなる建物。東急ハンズの入ってるビルです。UNITED ARROWSを筆頭としてJOURNAL STANDARDなど冷や汗が出まくるようなブランドが入っています。賢明にも妻は子供を連れてモスカフェへ退避。さあ。行ってみよう。と単身乗り込む。

結果。とにかくUNITED ARROWSに圧倒された他はよく覚えておりません。というかUNITED ARROWSスゴすぎ。何がスゴイかというと、まず客層が違うね。20万男、30万男がウロウロしてるって感じ。しかも単に金を掛けてるってだけじゃない。センスや落ち着きが違う気がしました。店員にはビビらないけれど、客にビビッた。もちろん、価格にもビビった。セールかつ相当思いつめないと買えない価格帯。モノはどれもカッコイイですよ。しかし、予算のレベルが違う。うすら寒い感じで店を後にしました。

UNITED ARROWSに比べると他は小物でしたね。乱暴ですが品質も五十歩百歩と言ってしまいましょう。提示するビジョンも似通っているような。店員さんも若くてカワイイもんです(男だけどね)。あちらも、お。オジサン頑張ってるな、というイイ感じで接客してくれましたし。UNITED ARROWSさえクリアすれば、何とかなる。ってUNITED ARROWSにビビりすぎたな。今思うと若干悔しい気も。

ま、ビルの中は温かかったから、痛恨のユニクロアウターを脱いで、ワリとお気に入りのカーディガン(ノーブランドだけど結構いい感じ)で動けるので気楽だったし、U A以外の店は結構楽しめましたよ。

最終的にセールのコートを買って終了。それなりに満足した1日でした。以上。



え?何のコートを買ったかって?

えーとですね。ファッションに興味を持った初心者の買うタイプなのですね。40手前の男は普通買わない。年季の入ったファッション玄人からは苦笑・失笑を浴びかねないタイプなのですね。だから、黙っておきます。はい。すみません。

2010年12月30日木曜日

高円寺行ってきた

古着屋とかエスニック系ファッションのおもしろい店はないかしらと思いながらWebをつらつら見ていると、高円寺が面白いらしいという情報を発見しました。

そうか。高円寺か。これまでの人生で聞いたことのない地名です。しかしまあ、試しに行ってみっか。と12月のある日に行ってみたんです。エスニックではありませんが、それなりに変テコな服着て。

西武線で新宿。新宿から中野。中野から一駅。中野駅のホームで寒風に吹かれながら乗り換えの電車を待っていると、なぜだかワリと「遠いところまで来てしまった感」がありますね。近くて遠い街、高円寺。その都心からの絶妙な距離感が、高円寺という独自の場所を醸し出しているのかもしれません。

とにかく中野から一駅。JR高円寺の南口を出てすぐに気がつくのは商店街が元気なこと。人通りが多い。若者が多い。若者といっても大学生以上って感じですね。それから渋谷原宿と違ってあからさまな欲望はあまり感じられなかった。アートとかファッションとかその辺にこだわりがあるっす。という雰囲気でしょうか。わたし的には結構しっくり来ましたね。若者が多かったけど、落ち着いて散歩できました。

古着屋も小奇麗な店から何だか怪しい店まで様々。一日来てぶらっと歩いただけですから、あまりコアな店までチェックできていないのですが、ジャンクから本格物までいろいろありそうです。足を使えば掘り出し物や気に入った服が探せそう。これは楽しい高円寺。

2時間ほど街を歩いて、4千円ほどのパーカー(妻によればそれなりに名の通ったブランドらしい)、千円のドイツのトレーナーを購入(いずれも古着)。まずは安くて楽しいショッピングでした。

ある意味では一昔前の秋葉原のような感じですかね。もちろん訪問する人の種別はまったく異なります。そのターゲットも片やパソコン電化製品、片やファッション関係と大きくことなりますが、そのモノへのこだわりと「お買い得」商品を楽しむ感覚には共通点がありそうです。結構ディープな高円寺という街。じっくり馴染んで行きたいと思えました。

古着は楽し

うさと服によってファッションに目覚めてしまったわたくしですが、最近は楽しく古着系の店を巡っています。

古着のどこがいいか。まず価格に惹かれますね。例えば人が何年か着た5万円の服が1万で手に入る。5万円の服だから、やはりモノがいい。流行に左右されない型の服や、面白系の服なら今でも楽しく着ることができる。大変リーズナブルだと思います。ものによっては10万円は下らないような服が1万円で手に入ったりするのもまた楽しからずや、です(ま、勝手に「これは10万円は下らないだろう」と思い込んでるだけってのはありますけどね)。

わたくし、普通のPコートや普通の革ジャンといった定番系の服やアメカジ(よく分からないけど)があまり好きじゃありません。エスニックとか変わった型、模様の服が好き。となると、どうしても定番系の回転が多くなる古着屋では、必然的に選択肢が限られてくる。なかなか当たりにはめぐり逢えない。それでもデパートやユニクロでやたら高い服や、仕掛けられた流行の服を選ぶよりは数倍も楽しいですね。たまに面白い服に出会えると、嬉しさもひとしおです。

この間、池袋の古着屋を回っていて店員さんと話をしたんですが、その話がやはり面白い。皆さんファッションに哲学がある(当たり前かもしれないけれど)。自分はどのようにファッションに関わっているのか。はっきりした(それでいて押し付けがましくない)人生観をお持ちになっておられる。なかなか好感が持てます。

ということで、まだまだしばらくは、楽しく古着屋を巡っていることと思いますね。

2010年12月24日金曜日

ファッションの効用

この間、古着屋がその辺りにあるということで池袋の繁華街に行ったんです。北口の怪しいあたり。

で、地図を片手にブラブラ探していて思った。やはりちゃんとした身なり、おしゃれをしていない人をあそこで見かけると、ハッキリ言って身の危険を感じますな。だらしないカッコした人がふらふら歩いてくるだけで怖いよ。マジでヤ●ザさんじゃないかしら、と思います。いわんや、いわゆるヤンキーファッションをおいてをや。ビビるよ。親子でヤンキースタイルかよ。殺気に満ちた池袋北口。勘弁してください。ホントに。

結局古着屋さんはなかったし。いやはや。

ま、ともかく、ファッションには、やはり相手にリラックスしてもらうという明らかな効用があるようです。身をもって知りましたわ。

2010年11月30日火曜日

念珠買った



この間電車に乗っていて、席が空いたので有難く座らせてもらったんですが、両隣がガタイのいいオッサンサラリーマンで、非常に窮屈だった、ということがありました。チキショー。痩せろや。などと思いながら肩をすぼめて本を読んでいたんですけど、ふとそのオッサンを見ると、左手にブレスレッドを付けていたんですね。これがわりとオシャレな感じで和んだ。何だか浮ついてない感じ。これってアリかも。

妻に話を聞いてみたり、Wikipedia:腕輪念珠で調べてみたら、どうやら最近流行っているそうですね。パワーストーンなどと称して。そう言えば若い子が付けてるのを見て、何だ?若さに似合わず仏教徒か?などと思ったことがあります。

というわけで、最近仏教に生きているわたくしも、せっかくだから買ってみよう。オシャレアイテムにもなるしな。とばかりに仏壇仏具屋に行って買ってみました。すると結構並んでたんですね。おしゃれアイテムとして買ってく人も多いみたい。店員さんもなれた感じでお勧めしてくれました。わたしとしては、パワーストーンとか何とかご利益系を期待するのはあまり好きではないので、木の材質をチョイス。ファッションアイテムとしては地味ですが、妻に見せたところ評価まずまずで一安心。

いや、アクセサリというか、勝手仏教徒としての心意気というか、付けているとなかなか気分がいいもんです。こういう内面から盛り上げてくれるのもまた、古来からのファッションの意義なんでしょうね。

2010年11月13日土曜日

表現としてのファッションの考察

またしてもファッションに関する考察です。このブログで「ファッションとは表現である」旨のことを度々言ってるわけですが、ファッションが表現である以上、その表現を受け取る人に配慮せざるを得ないということはあります。具体的には「お客さんに寒々しい印象を与えないためのファッション」とか「まわりの人に失礼にならないためのファッション」といったものが存在するわけです。

表現は他者を前提とした活動です。他者がいて始めて表現が成立するワケ。だから表現としてのファッションを意識したとき、そのファッションが他者に与える印象を考慮せざるを得ない。いくら「ランボー」「コマンドー」スタイルに憧れているといっても、上半身裸でアーミーナイフをぶら下げて街中を歩くわけにはいきません。確かにそれもまた表現の一つでしょう。しかし、そこには他者の考慮が漏れている。他者を考慮しない表現は、いわゆる「イタイ」表現になってしまう。

ただ、受け取る人の感性もさまざまです。「イタイ」服装であったとしても、それをちゃんと評価する人もいないとは言えない。あるいは逆に「穏健で品の良い」服装であったとしても、それを鼻で笑う人がいるかもしれない。

でも、おそらくは「中庸」というものがあって、8割の人間が不快感を持たないラインというものがあるに違いない。だから、ファッションとは批判的である(と想定した)他者の目を意識しつつ、6~8割の人間が許容するであろうラインを狙って、なおかつ個性を表現するものである、と定義できるかもしれませんね。

表現と対象、自分、他者は、必然的にズレていくものです。環境、時間が移り変わるとともに、表現はズレていく。発信する側も変わっていくし、受け取る側も変わっていく。そのズレを意図的に裏切ったり、見事に裏切られたりしながら、表現と意味とのズレを楽しむのがファッションのあり方なのかもしれません。

2010年11月7日日曜日

再びファッションについての考察

メンズ・ノンノを眺めながら美容師さんにカットしてもらっていた時のこと。「お。XXさんもファッションに興味が出てきましたか」などと揶揄されつつ、とりとめもなく会話していたら、七部袖のシャツについて印象に残るコメントがありました。美容師をしていると、長袖の服ではどうしても袖に毛が付いてしまう。いちいち袖をまくるのも大変だし、暖房も効いてるから、本当は冬でも半袖で問題ないのだけど、それではお客さんから見てあまりに寒々しいと思われるので、七部袖が便利なのである、でも、冬だと七部袖でも何だか寒々しい印象を与えるんじゃないかと少し気にしている。ということでした。それを聞いて私は、なるほど服装というのは、やはりそれを見る他人に対する思いやりということなのか、と思ったのですが、ひるがえってメンズ・ノンノのモデルさんたちを眺めていると、どうもそればかりではないなあ、とも思われました。

前にこのブログで「好むと好まざるとに関わらず、服装とはそれを着る人の表現なのだ」と書きましたが、さしずめ美容師さんのスタンスは「お客さんに対する気配りの表現」としての服装になるでしょうし、メンズ・ノンノのモデルさんのスタンスは「今、これを着るべし」という流行の先端の表現に、またコスプレなどというのも、ある種のターゲットに向けて特化された独特の表現ということになるでしょうか。

「表現としてのファッション」と通常の「言葉による表現」との違いを考えてみると、表現と自分との「距離感」と「持続」にポイントがありそうな気がします。

まず「距離感」とは何か。言葉による表現は、さまざまなものが対象となりえます。例えば客観的な事象の表現。この場合、ほとんどが自分とはあまり関係のないことについての表現になります。その表現とは普通、意見であったり、評価であったりしますが、その表現(意見、評価)は決して自分そのものではない。つまり「自分」と対象の表現とが離れている。

もちろんその人なりの対象の表現=意見、評価を通じて、その人が露わになるということはありそうですが、普通は、言葉による表現とは、まず自分がいて、その自分とあい対するものとしての対象についての表現です。

それに対して、服による表現はまさに肉体としての自分と密着しているわけです。確かに「自己」とは「対象化された身体」ではありません(それはすでに自己にあい対している)。しかし、肉体そのものは、働き、動く自分に他なりません。表現としてのファッションは、それを「働き、かつ動く自己がまとっている」という意味では、今、ここを生きている自分に密着した表現であると言えると思います。自分のまとった何かが表現しているわけで、そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとファッションは案外近いのかもしれません。

それから「持続」。ファッションによる表現は、その衣をまとっている限り続きます。つまりファッションとは、それをまとったら脱ぐまで持続する表現である、ということが言えます。

ということで、表現としてのファッションにどう関わるのか。否応なく、その態度が問われてしまう。んなもの、どうだってええよ。という人から、服カモン。とジャブジャブと金と時間を使う人までさまざまでしょう。このように、服があって、服をまとう人がいる以上、服とそれを着る人に何かしらの関係が生じてしまうのです。

まず、ファッションとは誰か(主体=生きる意志)の表現であり、その表現は、その誰かが服を着ている間持続しているものであるから、不可避的に表現(=服)と表現する人(服を着ている人)との間にズレが生じてしまう。例えば、ファッションによって人が値踏みされてしまうという状況があったときに、そこにどうしてもズレが生まれてしまう。つまり、みっともない服をボサッと着ているからこいつはダメだと思われたとしても、実は知恵のある高潔な人かもしれません。逆もまた然り。

そういう意味では、表現としてのファッションが、常に「自分」を裏切るとすれば、ファッションとは自己の否定である、と言えそうです。われわれはファッションを通じて自己を否定しながら、あるいは他者から否定されながら生きているのです。

カッコいい服、好きな服を着ることによって、否応なく自分を否定することになる。逆に、どうでもいいよ、と服を着ることによって、それはそれで自分を否定することになる。

しかし、好きな服を着て自分を否定することと、しょうがなく服を着て自分を否定するのとでは、その後が違ってくる。

どういうことか。

好きな服を着て自らを否定した後では、さらにその服に似合う自分になりたい、なろうという意志(表現=服と同一化したいという意志)が働くことになる。すなわち、好きな服を着るということは、好きな服(好きな表現)に追いつこうとする自分がいることになる。そういった意志は、やはり自分を高める方に働く。つまり、好きな服を着ることによって、自分が高められる。

一方、どうでもいい服を着ることによて否定される自分とは、どうでもいい服よりもマシな自分である。つまり、どうでもいい服によって、自分が貶められることになるんですね。残念ながら。どうでもいい服を着るということは、まず最初に相手に見くびられることを覚悟していることになる。最初からナメられることになる。ということは、相手に見くびられることを覚悟して他者に臨むことになる。

ということは、最初からハンデを背負って、そのハンデに闘争心(あるいはコンプレクス)を持って向かう人と、最初から「この人やるんじゃない?」と思われながら向かう人とに分かれることになる。

となると、ですね。最初から「ひょっとして出来る人?」と思われると、最初から「大丈夫?」と思われる人とでは、全然その後の評価が違うんですね。同じ事をしても、最初に好印象だった人は「さすが」と思われるし、最初に「?」な印象だった人は「やっぱりね」と思われる。

この構図って、要するに「肩書き」がある人とか「二世」とかが自然に評価されるって構図と同じなんです。

残念ながら、見た目は大事、というのが結論ですな。

はい。疲れたので、おしまい。

2010年11月5日金曜日

鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか」NHKライブラリー

★★★★☆☆:ファッションを巡る優雅な省察

最近服に興味を持ち始めたということもあって、久しぶりにこの手の本を読んでみました。鷲田さんは哲学系の人ですが、普通の文献収集哲学学者とは違って自ら考えて発信する貴重な方です。また、その思想には温かみがあるんですな。いわゆる文化人、学者たちの中では好きな人です。

ということで期待して読んで見ましたが、正直ピンと来なかったですね。見ればどうやらファッション系の雑誌に連載されていた、とのこと。なるほど。レベルが違うわけだ。つまり、最近お気に入りの服を見つけたただけのただのおじさん(私のこと)とファッションについて最新のモードを追いながら精緻に考えた人との違いです。ここ5、6年ほどきちんと鏡を見たことがなく、少し前までは服装なんか本当にどうでもよかった私には、ちょっと入れなかったですね。ま、本自体ははっとさせられるような考察も多くて、悪くなかったのですが。

もう一つ違和感があったのは、この本で流行と不可分のものとしてファッションが扱われているという点です。これはどうやら時代の違いもありそうです。この本が書かれたのはおそらくバブル期。ブランド指向やら逆に清貧の思想(ありましたね)やら、ファッションやスタイルにいろんな流行が現れては消えて行った時代です。今のわたしは心の底から流行に興味がありませんが、それはひょっとしたら、中学、高校時代にバブル期の雰囲気を感じたせいで「流行」すなわち「消費させるために意図的に仕組まれた欲望のターゲット」に不信感を持ったのかもしれません。

当時は、何でも売り込め、流行を作って消費を引っ張れ、という時代だったのではないでしょうか。

今はそんな雰囲気はまったくありません。バブリーな雰囲気は当然ありませんし、ひょっとしたらファッションのターゲットが細分化されたおかげで、ファッションというものにあまり頭を使わなくてもよくなったということがあるかもしれません。つまり、服に興味が興味がなければユニクロ、無印に行けばいいわけです。そこそこの服がお手頃価格で手に入る。またそれらを着るのに「敢えてユニクロで統一してるんだ。俺は服なんかどうでもいいんだ」という主張もほとんどいらなくなった。興味がないんだったら、安心してユニクロ、無印を着ていればいいんですよ。そんなありがたいご提案があるわけ。

もちろん、金をかけたいならかければいい。ブランド品だってあるし、古着という選択肢だってある。いろんなスタイルを選べるわけですね。このような社会では、つまり「私は古着が好き」「オレはユニクロでいいよ」と自然体で話せる社会では、おそらく流行=刹那的な欲望のメインストリームは強い力を持ち得ない。だから、流行に振り回される雰囲気がなくなったんじゃなかろうか。

逆に言えば、流行に左右されず、好きな服を好きなように着てもいいのが今の時代と言えるかもしれません。

さて、ファッションに対して人がどういう態度を取るかというと、大きく3パターンに分けることができるのではないかと思います。

一つは本当にファッションに興味がない人。「ファッションに興味がない」というスタイルをまとっているのではなくて、本当に興味がない人です。(かつての私)

次に、好むと好まざるとに関わらずファッションに気を遣っている人。仕方ないと思いながらそれなりに楽しんで(あるいは本当はイヤだけど)服装に気をつける人。

最後に、ファッションが本当に好きな人。

上記で言えば、二番目に該当する人が多いのではないかと愚考します。わたしの妻なんかも「化粧はまわりの人に対する礼儀だ」という旨のことを言ってました。彼女が化粧を好んでしているのか、それともいやいやしているのかは分かりません。おそらく両方ではないかと思います。また、周囲に不快感を与えないためにファッションに気を遣うのだ、という考えも聞いたことがあります。それは裏を返せば、ファッションに気を遣わないと不快感を表明する仲間がいる。だから服装に気を遣わないと仲間に入れないということにもなりそうです。仲間外れにされないために、いじめられないためにファッションに気を使う。さほど悲壮感はありませんが、人間関係においてファッションがシビアな役割を担っている、ということはありそうです。

わたしはと言えば、かつては「はた迷惑上等。ファッションに掛ける金などない!」という立場でしたが、今は何となく「ファッション」というキーワードが理解できてきた、という状況です。気に入った服を着ることは嬉しい。素直にそう楽しめるようになりました。もちろん流行はまったく意識しません。気に入った布地で織られた気に入った型の服。それを着て出かけると、なかなかハッピー。それだけのことです。「ファッション」という大仰な言葉は似合いそうにない。しかし、それだけのこととはいえ、気に入った服を着るのは実に楽しい。

気に入ったモノに囲まれるのはなかなか幸せなものです。しかし、服のもたらす幸福感はやはり良い道具がもたらすそれとは違ってくる。お気に入りの道具がもたらす幸福感は、徐々に自分の手に馴染んで、ついには身体と一体化するものではないでしょうか。息の合ったパートナーのような、空気のような必要不可欠の存在。

服がもたらす幸福はやはり少し違う。いわゆる道具(料理道具、工具)と服は、何が違うか。まず服は「何のために」という問いが二次的となっているモノです。単に暖を取るためではない。単に隠すためではない。心地よいというのは重要ですが、それだけが目的でもない。服とは多かれ少なかれ、その人のスタイルとなるものです。好むと好まざるとに関わらず、服装はそれを着る人の表現になる。若い男がレギンスに半ズボンを着るのも表現ですし、ユニクロ上下を着るのも、あるいはサラリーマンが紺のスーツを着るのもまた「没個性」の表現です。だから制服=表現という構造からは誰も逃げられない。

でも、そのような表現としての服も、決して押し付けがましいものではありません。見るだけで圧倒されるような服も、不愉快になる服も少ないし、気に入らなければ目を逸らせばいい。それに、そもそも他人の服装などあまり気にしない。とすると、服装とは何よりもまず自分に対する表現ではないかと思われます。

気に入った服を着ていると、姿勢がピンとします。当然、テンションも上がる。すると、服というのは身体を覆い隠すだけではなく、身体と同一化することによって、精神までをも高めるような、そんなモノなのではないかと思います。

何か長くなってしまったので中途半端ですがこの辺で。

2010年10月28日木曜日

ファッションについての考察

うさとで買った服を着るのが楽しい今日この頃です。30台半ばを過ぎてファッションに目が覚めてしまった。いや、そんな大げさなもんじゃないか。むしろ、30台半ばを過ぎてユニクロ(※)から脱しつつある。主体的に服を選びつつある。そんなところ。

(※)「ユニクロ」は固有名詞ではありますが「普通のそこそこ安くて質が良くてデザインのよい服」の代名詞としてお考え下さい。

そりゃあユニクロだって気に入らなかったわけではありませんでしたが、いかんせんユニクロ。何というか、チノパンかくあるべし。シャツかくあるべし。ゆえに、Don't think.そんな感じですな。楽しくて着るんじゃない。まあ、こんなもんか、と思って着る。服なんかこだわってないもんね、という主張が却って必要となる。それがユニクロ。

でも、今は違います。気に入った服を選んで、買って、着る。楽しいじゃん。ということで、これまで「ファッションが趣味」だとか「服に金を使う」という感覚が理解できなかったのが、ようやく分かってきました。しょせん、おじさん。ファッションに金を使うなど、客観的費用対効果が疑問である、と思っていたんですけど、いやいや楽しいんだから費用対効果なんかどうでもいいよ、という感じです。(ま、しかしファッション雑誌にあるようなジャケット一着10万とかオカシイと思いますけどね。)

さて、自分の気に入った楽しい服を着るとどうなるか。まず、銀座、渋谷、あるいは吉祥寺などというソレっぽい場所に行くときに気後れがしなくなった。前はどこかに「ユニクロですみません」という意識があったようです。おしゃれなおじさんを見ると、ユニクロ上下のおじさんよりもやはり「正しいおじさん」であるなあ、と思えるんですね。そりゃそうですよね。近所のスーパーや秋葉原に買い物に行くならともかく、銀座に行くのに「オレ、ファッションには興味ないもんね」というのはいささか力んだ考え方と言わざるを得ない。「ファッションやぶさかではない」という服装と態度の方がしっくりくる場所が世の中にはあるわけ。

若さ由来の反骨精神、あるいは「服なんかどうだってええよ」という気概の現れとして、敢えてユニクロ、無印というのはアリだと思いますけど、そんな主張も年を取ってくるとなかなか厳しくなってくる。若くてスタイルのいい若者の「敢えてユニクロ」は鑑賞に耐えるとともに、そこに主張を感じられるわけですが、おじさんの「敢えてユニクロ」は見た目がそもそもいかがなものか、ということになるし、仮に主張を感じたとして「はた迷惑」ということになる。

後はやはり気に入ったものをまとうってのは何といっても気分がいい。いきなり一般化しますが、気に入ったモノが手近にあると、人間って落ち着くものですよね。居心地がいいんです。例えば道具。鍋なんかでも、安いペラペラの鍋で焦げつかせながら調理するのと、いい鍋を正しく使って調理するのとでは料理の楽しさが違う。包丁だってそうですね。DIYが趣味の人なら、よい工具を買うと幸せになれるでしょう。装飾品だってそうです。気に入った絵のレプリカを部屋に掛ける。なかなか気分がいいものです。つまり、人間ってモノに囲まれて生きているし、そのモノたちとは何らかのメンタルな交流があるわけ。交流じゃなくて、一方的なのかもしれないけれど、やっぱりいい道具を大事に使えば、道具だってそれに応えてくれるとか、そういうことはありますよね。

だから、気に入った服を着て過ごすのが気分がいいのは当然のことですね。人は服を着て生きているんだから、そこに気を配れば少し生活が変わってくる。気分が変わってくる。ファッションにちょっとこだわってみると、微妙に世界が変わってくるわけで、それはそれでなかなか楽しいことである、と思いながら過ごす昨今です。

2010年10月18日月曜日

服に金をかけるということ

若い頃からファッションにはほとんど関心がありません。そこそこの定番ブーツ、定番ジーンズ、定番シャツを買うだけ。すなわち頭はまったく使わない。金もさほど使わない。特にユニクロが定番化してから顕著になりました。安い。かつ特徴のない汎用的デザイン。モノによっては品質もいい。おまけに、ユニクロってワリと行ったり買ったりするのが楽しいんですな。だからもう、ホント何も考えずにユニクロ一本。そんなファッションライフです。

それに、そもそも最近は「もうモテなくていいや」って思ってる。すなわちファッションにこだわる原動力の根源が失われてしまったわけ。んで、ぼーっと外に行く服を着たら妻に「ちょっとあんた!何それ。やめなさいよ!チノパンにジャージは無理!」とか「いや、その上下が黒ってないわ。ありえない」とか言われる。ええ?そうなん?よく分からんけどな。という状態です。言われて、しみじみ鏡を見て、ま、変といえば変?でもためらわずに外行っちゃうけどな?とちょっとヤバめ。つーか普段鏡すら見ないし。みたいな。

ちなみに妻は地味系なんですけどそれなりに服には気を使っています。パート先やボランティア先などでナニゲに服装がチェックされてしまうのだそうだ。思い起こせば、ママトモさんたちを見てもオシャレな人が多いようです。ということで、妻はもともとMuji指向、ゆる系指向の人でさほど服には気を遣わないんですけど、最低限みっともなくない格好をしようと努力している模様です。

私もまあ、興味はないことはないんです。例えば美容院に行ってメンズノンノ読むのは楽しいですね。おお。君ら本当に細いなあ。何だ?そのカッコ?半ズボンにストッキング?それがカッコいいの?モテるの?とか。私より2、3才上の美容師さん(若く見える。おしゃれ。二児の父)も「昔は金掛けましたけどねえ。今はユニクロにRight’on重ねるくらいっすよ」などとおっしゃる。そうっすよねえ。ファッションに頭も金もかけてらんないっすよ。いかんせんおっさんにはコストパフォーマンスが悪すぎる。つーか似合う服がない。それだったらユニクロのチノパンにユニクロシャツでええよ、と。

で、例によって話は唐突に展開しますが、この間うさとという手織り系、草木染め系の服のブランドの、展示会に行ったんですね。展示会と行っても、普通の民家の二階でやってるみたいな、6畳と4.5畳をつなげた程度の小さな会場です。この「普通の民家」というのはほとんど比喩ではありません。一階を店舗に改造した木造の一軒家。一階は自然食品、自然系服飾品を扱っている小さなお店です。マクロビオティックとかヨガとか(ヨガはなかったかな)東洋医学とかそれ系です。そんな店の二階。店の小上がりで、子供がちゃぶ台でおやつ食べてる。そんな和み系のお店です。

この「うさと」の服。妻が一着持っていて、なかなかセンスがいいんです。ぱっと見地味なんだけど、不思議とおしゃれ。ダサくない。流行とは一切無関係でありつつ、銀座あたりを散歩してもしっくり来る感じ。ということで「うさと」の展示会、あんたも来る?と妻に誘われて当日。

妻とチャリ漕いで行ってみたら、お姉さん・おばさんパワー充満な感じの店内でした。NPOとかボランティアに取り組むおばさん、お姉さんをご存知ならお分かりかと思うんですが、みなさんコミュ力(りょく)があって、ある価値観(あるいは弱い使命感)で結びついてて、女性だから人間関係が強力で厳しそうですが、前向きで足が地についたポジティブさ、たくましさがあるっていうか、そんな雰囲気。

で、そんな熟女パワーの渦巻く雰囲気の中、ノンポリ(ポリシーなし)のおじさんであるわたしが、ふらふら服を眺めるているんですが、これがなかなかおもしろい。まずユニクロに並んでる商品とモノが違う(当たり前だ)。デザインは当然ちょっとユニクロやRight’on、バーバリー、NewYoker(要するにデパートやイオン等の複合ショッピングモールに入ってるような店舗)では見られないタイプ。アジアっぽい感じです。でも、奇を衒った安物っぽい雰囲気は全然ない。タイやベトナムの金持ちおじさんが着ている感じかなあ。でも、タイ・ベトナム風というわけではなく中国山間部と日本の田舎、インディオも入ってる感じ。汎アジアチックとでもいいましょうか。それでいてシルエットもいい感じです。腹の出たおじさんにも似合う型あり、ウェストラインすっきりという型もあります。しかも、ナチュラルな癒し系でありながら洗練されている。

気になるお値段は、ユニクロに比べれば高い(当たり前だ)けど、デパートに入ってるようないわゆるブランドの商品からすると全然リーズナブル。具体的にはシャツとパンツが一万円~一万七千円くらい。コートが二万~。高いけど手が出ないほどではない。

でも、ちょっとあれかな、オレ、もうモテなくてもいいし。とワリと他人事な感じで服を眺めてたら、手の空いたコーディネーターさん(?)がいらっしゃって、わたくしにいろいろ「うさと」の服を着せてくれたんですね。まいったなあ、こういうの慣れないし、照れるなあ、などと思いながらも上下を何着か試着していると、だんだんと着心地だとかデザインだとかが、もの凄く気に入ってきたんです。着ていて楽だ。動きやすい。デザインもおもしろい。太ってても痩せてても似合う服だし。うん。これ、いいじゃないすか。妻からもあんたなかなか似合ってるわよ。森に住んでる人みたい。とお声がかかる。へぇ。そうかな(照れ)(褒められてるんか?)。コーディネーターさんからも「宗教関係の人みたいですね」とコメント頂いたり(多分褒められてない)、気分は盛り上がる一方。結局上下セットを3万弱で購入してしまいました。

で、家に帰って子供に着替えて見せて「ムササビ!」などとポーズを取ってウケを狙ったんですけど、そんなことはともかく気に入った服があるっていうことは楽しいものだなあ、と久しぶりに思った次第です。そういえば遠い昔にもこのワクワク感があった記憶があります。もはやハッキリとは思い出せませんが、それは多分小学生時代ではなかろうか。勝手に「カコイイ」と思い込んでいた服。それは例えばただの黒いシャツだったり(子供心に黒がカッコよかった)とか、初めて買ってもらったボストンバッグとか。服やバッグ(あるいはアーミーナイフ)にワクワクして、モノから貰ったエネルギーを燃やして生きていた子供の頃。

ずいぶん年をとったけれど、小学生のころと同じように服にテンションをあげてもらったり、服から元気をもらうことができるのだなあ。

小学生から大人になる途中で、結局オレなんかそんなに服似合わんやんけ。とか所詮「布」やんけ、とか、物事を即物的に捉え始めてからは、あまり惹かれなくなったモノ(服)についての情熱が、再び湧き上がってきたこと、そしてその対象が服飾であったということは、子供時代の気持ちを思い出すとともに、このオレが服に興味をもつとは、何か「わたくし的歴史」におけるちょっとした革命のようだなあ、という感慨もあり、なかなか興味深い心境の変化だと思っています。

もう一歩下がって反省してみると、どうも最近物欲が旺盛である、という警戒心もありつつ、でも物欲を楽しみながら生きていると、それはワリと楽しいから、これはこれで結構なことではないか、と思ったりもする今日この頃であります。