2009年10月18日日曜日

PMだとかSEだとかPGだとか

所詮役割に過ぎないわけですよ。

役割の前に仕事があり、仕事の先に目的があるはず。とすれば目的から仕事を定義出来るはず。というか、本来は目的から仕事を定義すべきです。役割からではなく。

今回はシステム開発という狭い世界の話になりそうです。別の業界の人には伝わらない予感。

ええと気を取り直して先に進みます。つまり、PMがコードを書いたっていいし、PGが進捗資料を作ったっていい。先にあるべきは仕事であって、役割ではない。

何が言いたいか。悔しかったらコーディングしてみやがれ。どうだ。なんてことを言いたいのではありません。もちろんPMがコードを書くのは、現場の作業を理解するためにはいいことだとは思います。でも恐らくは必須ではない。

仕事の目的と人の役割が合致しているプロジェクトは幸福だと思います。しかし、必ずしも全てのプロジェクトが幸福なわけではない。別にむつかしいことを言っているわけではありません。例えばPMOという役割があります。PMのためにEXCELの資料を作ったり、メタ資料(コーディングについての資料やテストについての資料。何とか方針とか。大規模プロジェクトに必要な煙幕)を作ったりする、要はPMのパシリです。ハッキリ言って10人未満のプロジェクトには無用の存在。ところが、あるメンバがプロジェクトに入って、私はPMOだから、と自分の仕事を勝手に役割から定義してしまうという、もうどうしようもないことが現実化にあるわけです。10人未満の現場ではPMO的仕事なんてものすごい優先度が低いか恐らくは必要とすらされていない。そんな仕事やられても困る。でも私はPMO。意味のない仕事をする使命がある。勘弁してくださいよ。本当に。

それから、PMがいるがためにほとんど不要な仕事が発生することもありますね。つまりPMの思いつきってやつです。別にお客さんは求めてなかった。その仕事をしなくても済んだ可能性はあった。でもPMが思いついちゃったからやらざるを得ない。「なんかこんな感じのものを作らなくちゃダメじゃないのか」という曖昧なPMの思いつきに苦しむ現場。ホントご苦労さまです。

要はいいものを皆で作るためには、自分は何をしなければならないのか。役割だとか一般論はさておいて、そこを真摯に考える力と、遂行するスキルが必要だと私は思うのでありました。形式とか役割とか一般論から入るのではなく、今プロジェクトが必要としているのは何なのか。その目極めができないとダメじゃん。

しかし考えてみたら下流と上流という言葉ってプログラマをバカにした定義だよな。

以上。

2009年10月15日木曜日

ちょっと古いですが花王エコナ騒動について

発がん性物質が相対的に多く含まれていることが発覚したとのことでしたね。

以前このブログで、海外で問題視されているトランス脂肪酸が多く含まれるくせに「健康」エコナとはいかがなものか、と投稿しました。

http://akagi-essay.blogspot.com/2009/01/blog-post_07.html

今回の事象は私にとってはトランス脂肪酸の件と同様に思えます。正確には問題となった物質は異なるようですが、それがどんな物質だろうが事象の構造は変わらない。要するに、ある食品が、恣意的なデータを元に健康に役立つ、と売り込まれたあげく、後になって実は体によくないということが発覚した。それだけのことです。科学者はそんな乱暴な、というかもしれませんが、よくない物質が何であるかは私にとっては枝葉末節のこと。

話はズレますが、細かい言葉の定義や事象の正確さにこだわり過ぎるあまり、本質が見失われることがあります。逆もまたしかり。でも、専門家がまことしやかに「こんなことすら理解されてないだから、あの議論をしてる連中の誰も本当の問題が分かっちゃいない」などと言い出したらまゆにつばをつけたほうがいいです。

閑話休題。まあ、この手の食べ物の危険性に関する議論というのは、えてして宗教的な色合いを帯びるもので、極論や原理主義に陥りやすいので注意が必要です。私もやたらとトランス脂肪酸の害悪を喧伝するものではないし、そんなレベルでこだわってたら何も食えないじゃん、という発想も理解します。トランス脂肪酸というファクターは、ほとんど人の好き好きのレベルだという認識です。ただ、事実として発がん性を疑い、規制している国はある。だから、私はなるべく(絶対ではない)忌避している。日本人は油脂の摂取量が少ないから比較的安全だ、という異論も認める。

また話がズレました。

詰まるところエコナ騒動の本質とは何か。私の見るところ、2つのポイントがあります。

まず一つめ。データというものは、いかようにでも作れるし、またいかようにでも解釈できるということ。エコナが体にいいというデータは、体にいいものを作らなければならない、体にいいという結果出さなければならない、そんなプレッシャーを受けた開発者がウソをつくことなく(ここが重要)、真面目に作れてしまいます。つまり、そもそも体にいいというデータが怪しいものだったということだし、別のファクター(発がん性を疑われる物質)があらわれたとたんに簡単にひっくり返るような、その程度のものだった、ということです。データなどあてにならないのです。特に企業が金を出したデータは。

二つめ。安く、品質が一定していることが売りの化学処理された製品のリスクが次第に明らかになって来た、ということ。食品に関していえば、マーガリン、ショートニング、あるいはいわゆる化学調味料、保存料などの食品添加物。そして石鹸、シャンプー、衣服用の洗剤などの化学製品。あえて買わない消費者が増えたり、マスコミも控えめながらネガティブな情報を流し始めたような気がします。

化学処理を行うことで、一定の品質の商品を安価に、大量に供給できるという発想。そしてそのような化学処理された製品を、巧みなマーケティングによって、いかにも自然に優しい、体に優しい、エコである、などと売り込む方法。便宜的に花王的方法と呼びましょうか(P&G的でもヤマザキ製パン的でも何でもいいんですけどね)。私はもはやそのようなやり方が時代錯誤に思えてなりません。

いうなればマーケティング主導の失敗例。環境への負荷や、人体への影響をじっくり見極めることなく、近視眼的なデータだけで早急に商品化してしまう。

大体、自然やら人体やらへの影響を考えれば、ずうっと昔から使われている天然由来のものが体と自然にいいに決まってる。これまで自然界に存在しなかったような物質を作って、体になすりこんだり、自然に垂れ流したりして、それがいいだとか悪いだとか、簡単に言えるはずがありません。

それを押して売り込んでしまう短絡的なビジネスは、今後ゆっくりと廃れて行くのではないか、そんな気がします。だって長期的に見なければ、自然や体に副作用がないとは言えないから。エコナがいい例です。化学処理された物質には必然的に潜在的リスクが含まれている。そのリスクを何とかしないと、本当に安全な化学物質は作れないのではないか。そして、花王やらP&Gやらヤマザキ製パンが、そのリスクに立ち向かおうとしているように見えるだろうか。

もちろん成功した化学技術もあるわけで、全てを否定するわけではありませんが、短期的な売上を意識するあまり、半分ウソくさいマーケティングにかまけてるような企業には、生活やら環境を左右されたくはありませんよね。

養老孟司「養老訓」新潮社

★★★★☆☆:養老さんは面白い

まっとうなことばかり書いてあります。全くおっしゃる通りと同意するばかり。平易な文章ですが、書いてあることは結構深い。簡単に要約できるような本ではありません。

ひとつ個人的にヒットしたこと。最近の人間は規則さえ作ればなんとかなると思ってないか。規則なんか作ったところで、必ずこぼれるものが出てくる。それを何とかしようとすれば、さらに下らない規則が出来るばかり。コストがかかるばかり。規則でしばるより、いっそのこと人間を信用したほうがいいんじゃないか。

最近のセキュリティがらみの規則にうんざりしている私としては、もうその通りですよ、と激しく同意するばかりです。しかし残念ながら時代は養老氏の警告とは逆の方向に向かっています。規則やルールでがんじがらめの、息苦しい社会へ。

どうしてこんなことになってしまったのか。養老氏によれば、日本社会共同体とでもいうべきコミュニティが崩れてきているからだ、とのこと。長い付き合いを前提としたコミュニティであれば、そうそう悪いことはできない。悪いことをする奴がいると、それは共同体の迷惑だから、仕方がないので皆で文句を言った。でも、最近は共同体が無くなり歯止めが効かなくなってしまった。一人だけ儲けて逃げるとか、勝ち組とか、そういう感覚も最近のものである。共同体の中で長期的に生活するという感覚があれば、一人だけやたら金儲けをしようという発想も出にくい。共同体の消滅と共に短期的かつ利己的な発想をする人間が増えてきた。

多少強引な気もしますが、だいたいのところは受け入れられる話です。地域共同体というものが崩壊した結果、短期的な利害が社会、会社、人間関係に入り込んでしまっている。その結果ひとの迷惑や長期的な利益を考えない短絡的な行動がはびこるようになる。しかたがないから規則を作って利己的な行為を禁止するしかない。いや、利己的な行為だけならまだいい。ルールが制定されると、そのルール自体が目的となってしまう。少しでも抵触する行為は禁止。ルールは細分化され、どんどん厳しく、そしてバカバカしくなるばかり。もちろん罰則は厳格に適用。例外は認められない。息苦しい世の中です。自由主義の行き着く先は厳しい規制であったか。

養老孟司氏の分析に私が付け加えることがあるとすれば、規則大好き人間の存在をでしょうか。ルールや規則が大好きなヒトが多いんじゃないか。そしてそのようなヒトに限ってやたら声がでかいというか、規則を盾に声高に叫ぶヒトがいる、そんな印象があります。

何でまた規則なんてやっかいなものが好きか。思うに何も考えずに従っておけば安心だ、そんな幻想がありそうです。規則に従えば何とかなるだろう。その場その場の微妙な意思決定も不要だ。だって規則に従えばいいんだからな。もし上手くいかなかったとしたら、規則に従わなかった奴のせいにしてしまえばいい。とにかく規則にさえ従っていれば、リスクはない。おまけに規則を制定、運用する立場になればこれほど楽しいことはない。なぜなら、それはほとんど権力そのものだから。

ここで私は意地悪くこんな定義を思いつきます。ルールとはなにか。小心者の権力欲。あるいは小心者の思考停止である、と。

もちろん、規則の適切な運用が奏功して良い結果をもたらすことだってあるでしょう。でも私は、基本的に規則とは責任回避と思考停止のツールであると考えます。

思うに、規則とは単なるベストプラクティス以上のものであってはならない。規則を盾に誰かが声高に人を糾弾したり、爪はじきにするようなものではない。規則は人のためにあるのであって、人を押しつぶすためにあるのではない。センチメンタルな理想論かもしれませんけどね。

規則を立てれば楽になる。でも、そこには思考停止というワナがある。つまり、杓子定規な判断に逃げてしまうというワナ、それから規則を盾に人を糾弾してしまう、というワナがある。そのことに気をつけないと、規則は単に生産性を低めるだけだと思います。

それから中心にあるのは規則ではなく、あくまで人間なんだ、ということです。人間より、本来の目的より規則が優先されてしまうのは本末転倒です。足かせをつければ生産性が下がるばかり。確かに古き良き共同体は消滅したかもしれない。でも、人間への信頼を失ってはどうしようもないと思いませんか。また、周りに短期的利益を追及するような行為ばかりが目立つとしても、必ずしもあなたまでそのように振舞う必要もありません。もう少し人間を信頼したらどうか。人を信頼できる社会を作ったらどうか。人を信頼してバカをみた人がいたとしても、温かく見守ったらどうか。社会からはそんな余裕すら失われてしまっている気がしてなりません。

ちろん、振り込め詐欺にやたら引っかかるわけにもいきませんけどね。なんだかイヤな世の中になったなあ。

2009年10月12日月曜日

ハッカク断念、なすの煮物、サンマのハーブ焼き

引き続き料理リハビリです。うん。元気になってくる気がする。微妙に。

スーパーに行ったら珍しく小ぶりのハッカクが3匹299円也でして、これはさすがに惹かれると思って魚コーナーのおじさんにこれどうやって食べますか?と聞いたらう~ん・・・・・塩焼きだね。硬いからね。との深い回答。家で捌くのは難しいですか?と聞くと、苦笑しながら首を横に振るおじさん。そうかムリか。もう少し大きければ刺身が美味いんだけどねえ。これ捌いたら残らないよ。あー。うん。そうだね。ものスゴく納得してしまった。そうか。残念。というわけで予定通り生サンマを三匹買って帰りました。

そんなことよりまずはナスですよ。軽く油で炒めて、しょうゆとみりんと砂糖と酒を投入。それからだし汁を入れて厚揚げと水菜を入れて煮ます。以上。

完成でございます。

ちょっとだけよ~ん。と塩とハーブをまぶされたサンマが申しております。

250度で12分と余熱少々。レモン汁をかけるとサイコー。マジで。サンマは塩焼き!大根おろし!異論は許さん!!!と熱くなるお父さんも、これは納得するかもよ。サンマのハーブ焼きにレモン汁。美味いって。しかも後片付けも簡単だしな。

久しぶりのパンつくり、薄型テレビ到着

久しぶりにパン作りにチャレンジです。レシピと段取りは忘れてませんでしたね。うん。強力粉300g、砂糖大さじ2杯強、塩少々(有塩バターで代用するため)、ドライイースト小さじ一杯。牛乳と水、合わせて200ml。しっかり捏ねて一次発酵。

子供が暇をもてあましていたため、成型を任せます。もうヒヤヒヤ。乱暴だし雑だし。途中から見てられなくなって私はインターネッツを放浪してました。まあやたらと口を出さないのも親の仕事じゃ。

無体な感じで完成。

二次発酵中に薄型テレビが到着しましたよ。比較的小さいサイズです。古いテレビを回収してもらったりの全部コミコミで13万チョイくらいかな。倍速液晶でHDレコーダー付き。まあまあですかね。結構キレイでご満悦。子供たち大喜び。


で、パンは美味しく頂きました。雑に作っても案外問題ないもんです。以上。

料理のリハビリ)カレー

久しぶりに料理をこしらえました。病気から回復しても、しばらくの間は料理にほとんど興味が持てなかったのです。食欲はあったのですが、自分で作ろうという気には全然なれませんでした。なぜだろう。料理どころじゃねえや、そんな感覚だった気がします。自分好みの美味い料理を作るという行為は、やはり過剰なエネルギーがなけれぱ成り立たない活動なのでしょう。そういえば、グルメ雑誌にも興味がわきませんでした。美食どうでもいいというか、体にいいシンプルなものを適量食べて、クスリ飲んで寝なきゃみたいな感覚ですね。熱いうどん(ほうれん草と卵入り)、リンゴ、バナナ、あっさり和食。以上。風邪から回復しても、しばらくはそんな感じでした。

やはり、まずことさらに何かを食べたいと志向し、実際に作る準備をして、段取り組んで、料理するってのは大変なことであるな、と改めて思います。それから、美食志向や好物を作るというのは、本来生きる上では必須ではないことも分かります。要するにビタミンとか炭水化物とかが取れればよい。別にやたらと手を掛ける必要もないし、珍しい食事だって必要ない。

ま、そうはいってもやはり自分で料理するのは楽しい。せっかくの趣味であるので、リハビリも兼ねて今日はカレーを作ってみました。

時間は掛かるけれど、ほとんど手の掛からない簡単ウマーレシピです。

手羽とニンジン、塩、香辛料を投入します。このままアクを取りながら1時間以上弱火で煮込みます。

グツグツ。

一時間後。すっかりやわらかくなったニンジンを、ペティナイフでざくざく切ります。それから思いつきでピーマンとトマトを細かく刻んだのを投入。風味と酸味とコクを追加。

んでS&Bゴールデンカレーと同じくS&Bのとろけるカレーを投入。はい。完成。

いや、実はルーを投入する以前の段階で、それだけで美味いスープになってるんですね。あとはカレー粉とその他香辛料と塩で調味し、小麦粉でとろみをつければ本格カレーの完成なんですよ。そこを敢えて市販のルー。まあ、もったいないといえばもったいない。例えるならパラパラチャーハンにスープをかけて食べるみたいな。まあでも子供もいるし、楽な方に流れた私でした。

それから付け合せにインゲンと卵のサラダ。まだ本調子ではありませんが、まあこんなもんで。

007「カジノロワイヤル」見てしまった

疲れました。確かに面白かったんですけどね。派手なアクション。格闘シーン。裏切りに次ぐ裏切り。息もつかせぬすストーリー展開。壮大な無駄。過剰と疲労のエンターテイメント。言い過ぎか。

いや、面白かったんですよ。それは確か。何なら別の007シリーズを見てもいい。そんな気になりました。そのくらい面白かった。

実は最初の20分でお腹いっぱいになって、布団に入りって眠ろうとしたのですが、目が冴えて眠れなかったのです。で、もう一度見始めたのが運の尽き。サルのように最後まで見てしまいました。ああ面白かった。でもむしろ早く寝るべきだった。

昔の007ってもう少し遊びが入ってた記憶があるんですけどね。オヤジの悪ふざけというか。マンネリというか。例えるならLEON。ちょい悪スパイオヤジのモテモテストーリー。何かわくわくするスパイギミック付き。でも、この映画は余裕がなかったなあ。ボンドもずいぶん痛々しい拷問受けてたし。うーん。寝る前に見る映画は慎重に選ばなくてはいけませんね。目終わったのが12時過ぎ。しばらく目が冴えて眠れませんでした。やれやれ。

2009年10月11日日曜日

一万円の電気シェーバー

シェーバーが壊れたので新しいのを買いました。ポイントが溜まっていたので、奮発して特売で一万円のものを購入。シェーバー。一般的にとても高いのは三万円台、安いのはニ、三千円なので、一万円というのは中の下あたりの価格帯だと思います。でも、たかが髭剃り。一万円というのは感覚的には高い。だってただの剃刀なら高くても数千円ですからね。電気で動くからといって一万円は高いでしょう。

壊れたシェーバーも確か三千円程度だったと思います。やはり出してもその程度。たかが髭剃り。

でも買っちゃったんだもんね。ポイント使って。ちょっと迷ったけど。一万円の髭剃り。うれしいな。

早速家で使ってみたんですけど、当然のごとくいいんですよ。なんというか、軽い。そして深い。痛くない。三千円のシェーバーにはなかった感覚です。安物だと何度剃っても剃り残し感があったんですが、一万円のだと二、三回往復しただけでわりときれいに仕上がります。こりゃいいや。

どんな具合か。ホテルで出てくるような、使い捨ての安っぽい剃刀がありますね。二枚刃とかの。あれでお湯と石鹸使ってきっちり剃ったより、若干甘いくらいの仕上がりかな。そういう表現だと大したことないようですけど、実際にはかなりありがたいレベルの剃り具合です。だって石鹸もお湯も使う必要ありませんから。肌も痛くないし。これは圧倒的に楽です。

いやあ買ってよかった。一万円の髭剃り。こういう贅沢(?)もありってことで。

2009年10月10日土曜日

NetWalker触ってみた

ヤマダ電気の近くに寄ったのでNetWalkerを触ってみました。買ってません。まだ買いません。

わりと期待しつつワクワクしながら5分ほどいじってみた印象。うーん。微妙であります。やはりキーボードですね。大きさがなんというか中途半端。あのキーの大きさだと、私の手の大きさではほぼタッチタイプ不能。必然的に親指二本入力となるわけですが、そうなるとiPodフリック入力の方が速い。キーボードが嬉しくない。いっそフルサイズのがよかったのか。いやそれだと携帯不能だしな。いやいや、ポメラという成功(?)例もある。と思いは千々に乱れるばかり。

キーのクリック感は、悪いという前評判を聞いていたせいか、思ったよりいいという印象です。むしろ、親指二本入力前提で考えると、しっかりキーを押し込めよという明確なメッセージを感じることができて、単に安く仕上げたわけじゃないな、考えられてるな、と感じました。

さて。エディタを起動して試し打ち。うーむ。画面が小さくて起動がムズいな。エディタの起動時間はそこそこ。うん。日本語の入力方法が分からん。半角キーとかかなキー押しても変わらない。まあ時間の問題だろうから日本語はパス。とりあえず英字入力で試し打ち。うーむ。打ちづらい。慣れるとそこそこイケるだろうなという予感はありつつ、でもフリック入力のほうが速いなぁという想いが再びわいてくる。

画面の広さと、ファイラ、シェルには大変期待できるんですが、小さい画面にぎゅっと押し込まれた小さい感がオジサンには厳しい。もう少しフォントは大きくして欲しいな。まあこれもカスタマイズできるだろうから大きな問題ではなかろう。

OpenOfficeのSpreadsheetを起動。これも前評判通り重い感じ。重かったので納得、というよく分からない納得の仕方でした。

全般に今現在手放せないものとなりつつあるiPodを超えるものではないな、という印象でした。まあフェアじゃないんですけどね。iPodにはかなりの時間とそれなりの金をかけてますから。NetWalkerも時間をかければそれなりに育つに違いない。

しかし、先行者利益というか、私的にはiPodの牙城を崩すのはなかなか大変じゃなかろうか。そんな気がしました。

高給が欲しければリスクを取ればいい?

あるいは、給料が低いのはリスクのない仕事をしているからだ、という主張。

派遣社員や年収の低い正社員に対して上から目線で言われる言葉です。

大した仕事じゃないんだから、給料が安くて当然じゃないか。ついでに言えばあなたがそうなったのも自業自得だろ?自己責任さ。

一見正論ですが、この発想には想像力が欠けてます。自分の意志だけでは、未来は引き寄せられないから。それにそもそも選択肢が人によって限られているから。

極論ですが、例えばインドの乞食の家庭に生まれ、こっちの方が乞食としての稼ぎがいいからという理由だけで腕を切り落とされた子に、どんな自己責任があるでしょうか。どんなリスクが取れるでしょうか。バングラディシュで奴隷として売られるために産まれた子も同様です。

極論にすぎる。そうかもしれません。でも恐らくは人によって与えられるチャンスは違うし、取れるリスクも違ってくる。努力とも才能とも関係ないところで可能性はある程度決定されている。それは間違いないと思います。

だから、リスクを取らなかったから給料が安いとか、そんな下らない仕事をしているお前が悪いとかいうのは、あまりに傲慢な言い方だと思う。想像力が欠けていると思う。

もちろん、人によって才能も違います。私はプロ野球選手にはなれなかった。科学者にも、そしてSF作家にも。チャンスがあったとして、誰もがそれを生かせるはずはありません。だから、成功した人は、そのことを誇っていいと思います。限られたチャンスと自分の才覚を生かして成果を出したのですから。

でも個人の才覚が全てではない。色んな幸運や人脈、出資や協力に支えられて人の成功があると思う。だから成功者がリスクがどうとかいって安易に自らの傲慢さを正当化したり、うまくいってない人を見下したりするのは、その人の世界観の貧しさ、想像力の貧しさを示しているだけじゃないか。そんな気がします。

2009年10月9日金曜日

鷲田清一「待つということ」角川選書

★★★★☆☆:珍しい哲学者

久しぶりにいい本を読みました。

待つということ。ええと。ビジネスで言えば、待つ人=無能な人なんですよね。人事を尽くして天命を待つ、なんて状況はほとんどない。何かしらやることはある。ある案件で本当にやることがなくなったとしたら、別の案件で動けばいい。何もすることがなくなったら、英語の勉強をすればいい。とにかくただ待つということはあり得ない。それがビジネス。自己投資。なんと慌しいことよ。

しかし、ふとビジネスの外に出てみると、待つことの重さがあらわになります。子供が高熱を出して唸っている。病院に行って診断も受けた。クスリも貰った。後は子供の治る力を信じて待つほかはない。

あるいは母あるいは父が子を待つというシチュエーション。巣立って行った我が子の帰省を、待つともなしに待つ両親。

逆に子が母を待つということもあるでしょう。捨てられた子は、いつまで母を待ち続けるのでしょうか。

あるいは自らの病が癒えるのをただひたすら待つ、ということもあるかもしれない。

待つ他はない。そこにあるのは人の無力さです。なにも積極的な手を打てない。だから、待つしかない。本当に来るかどうかもわからない。いい知らせか悪い知らせなのか。それも実際に来てみるまでわからない。

そう考えると、待つという心の働きは、依然として人間のあり方に深く食い込むものであることに間違いない。人の力は限られているからです。

社会に出て仕事をする限り、待つという行為にはほとんど意味はありません。上司に「何でもいいから仕事しろ」と叱責されるだけです。

しかしながら人生の豊かさというのは、いかに待つか。何を待つか。待たされたとき、どういう態度を取るのか。そして何より自らの死をいかに待つのか。そこにかかっているような気がします。

この本自体は正直いってとりとめがないというかまとまりがないというか、どうみても体系的に書かれたようなものではありません。でもそれが欠陥になっていない。記述の対象が微妙にぶれながらも、核心を外堀から埋めるように、待つという心の機微が、深く分析されています。むしろ詩的な作品と理解したほうがいいかもしれましん。良書だと思います。

2009年10月8日木曜日

亀井さんの放言について

亀井さん関連ももう最後にしますが、彼の大企業が家族型経営を捨てたから世の中が荒んだ旨の発言について。

まあ例によってマスコミやらWebやらが叩いてるわけですけど、大企業の経営層が文句言うなら分かりますよ。でも普通のサラリーマンがケチつけることじゃないと思うんですよね。何故って亀井さんの発言ってのは、要するに従業員犠牲にしてまで利益出して、それでいいんか、大企業のお前ら。という大企業に対する人道的(浪花節的)な批判なわけで、一般庶民がこの発言に文句を言うのはどうも違和感があってしょうがない。

確かに企業は利益を出す必要がある。でも、きれいごとかも知れませんが、利益ってのは決して究極の目的なわけじゃなくて、社会に貢献した結果ついてくるものじゃなかろうか。だから従業員から搾取して利益を出したからといって、それは本当に価値のある利益なんだろうか。そんなことも考えてしまいます。

だからこのくらい言ったっていいじゃないか。浪花節が嫌いじゃない私なぞそう思いますけどね。少なくとも派遣社員を切りまくった経団連の御手洗よりよほど支持します。

しかし、亀井さんも外見で損してるんじゃないかな、と思いますね。同じことを小泉の進ちゃんが爽やかに言ってのけたら(絶対にあり得ないけど)大スターじゃないかしらん。亀井さんだとどう見てもドラクエの中ボスだもんな。

後はやはり墓穴を掘るのに熱心な人は大勢いるんじゃないか、と危惧してしまいますね。平社員や派遣社員が亀井発言を批判してどうするよ。そこまで経営者に媚びるか。小泉劇場で墓穴を掘った反省はどこへやら。見かけも、敵だ味方だというバイアスも、古い新しいという曖昧な評価もいったん置いて、虚心坦懐、政治家の言うことを是々非々で捉えてごらんなさい。そうしないとまた騙されてしまいますぜ。

2009年10月7日水曜日

ああ曾野綾子様

これで最後にしますけどね。例によって曾野綾子@産経新聞の記事。またスゴイのが載ってました。曰く、裁判官は素人より偉い、なんとなれば司法試験という難関を通っているし、一方素人は漫画しか読んでないような無知蒙昧な輩が多数であるから。やれやれ。

もう何もいいませんけどね。あ、一つだけ。以前二次方程式の解の公式が人生には不要だと断言したはずですが、司法試験の勉強は立派なわけね。その根拠って何?まあいいや。

私も別にいわゆる一般大衆を全面的に評価したり、無条件で賛美するわけではありませんよ。でも、少なくとも、教養のあるところを見せびらかしたり、俺は本をいっぱい読んでると威張ったり、エリート風をふかしたり、大衆の無能さをバカにする人間よりマシな人間は、その辺にいくらでもいると思うな。

しかし思うのはこういう保守的なおじさんおばさんの自信の強さはいったいどこから来るのだろう、という不思議。一つはあきらかに周りを見下していることからくるのでしょうけどね。私は正しいのである。そんな「正しい」私がこんなにまともなことばかり言ってるのに世の中おかしい。すなわち周りはバカばっかり。いやはや、すごいね。生きてて楽に違いない。だって自分に反対するのは劣った人間ばかりなのだから。敵はバカ。身方は話のわかる優秀な仲間。保守万歳。

いや、保守的な主張をバカにしてるわけではありませんよ。私は大雑把に言えば保守=現実路線と思ってます。まず保守的なスタンスのメリットデメリットを抑えるのは重要。私がバカにするのは保守思想で頭がガチガチになった滑稽なおじさんおばさんの自信満々な態度です。実におめでたい。

まあいいや。しかし、民主党も大変ですね。危ういったらありゃしない。マニフェストと現実路線とのバランスを取るのが難しいのはよく分かりますが、やはり重要なところに注力して欲しいですね。ちなみに故人献金は自民にとっても諸刃の剣でしょうな。スキャンダルに頼るな、と。お前らだって叩けば埃の出る身だろう、と。健全野党として政策面で成果をあげるべきであって、細かい献金問題で揚げ足取りをすべきでない、そこまで堕ちたか自民党、そう思う自民支持者も多いのでは?

例によってグデグデですがそれもまた産経新聞のせいなのです、と責任転嫁しておいて以上。

2009年10月6日火曜日

速読術とは

最近速読術ってあまり聞かないですね。そもそも本が読まれない時代になったからかな。

学生時代、友人が「俺は本を読むのが遅いから研究がはかどらないのだ」と、バイトで稼いだ大枚叩いて速読術講座を受けたものの、その講師にあえなく「学術書とか研究論文は速読には向きません」と言われてしまった、と話してました。むべなるかな、という気がします。

私も一応遅いながらも速読チックなことができるんですけど、速読で読める本っつーのは軽い本なんですね。もっとはっきりいうと、下らない浅はかな本。ページをめくるそばからあーはいはい、わかりましたよー。はーい、それではー、みたいな読み方ができる本。だから速読可能な本てのははっきりいってロクなもんじゃない。

速読の方法でまことしやかに言われるのが、一行一行読んで理解するのではなく、写真のようにページをありのままに写して把握するのである、というものがあります。そういう特殊能力が存在することは否定しませんが、おそらくはサヴァン症候群のような先天的なものであって、訓練で身につくとは思えません。

私の実践によれば、速読術なんてのは、ただの拾い読みです。キャプションっていうんですかね。小見出しと章の最後の結論を読むだけ。慣れて来ると途中の文字列をざっと流し読みしたり。数字が出てくるところはどうせ自身の主張を補強してるだけだから無視。そんな読み方ですよ。

まあ、好意的に言っても集中力を使って一気に斜め読みする程度のものです。だからまあとにかく読んだよ、と主張するには使えるけれど速読では身につかない。だから、速読なんてあまり価値がないんですよね、というのが今回の結論です。

遅ればせながらフリック入力は便利だ

iPodの日本語入力方法にフリック入力というのがありまして、これはどういうものかというと、テンキー方式のあかさたなという並びの文字をズラし押し、あるいは長押しすると、たとえばあ行ならあいうえお全ての文字が表示され、入力が可能となる、そんな機能なわけです。google参考リンク

慣れるとこの入力方式が速いとのことなので、ただいま練習中です。

しかし実際速いですわ。特に顕著なのは「おお」とか「ああ」とか「いう」とか同じ子音系でなりたつ単語の入力です。おお。通常の携帯方式だと10回以上タップしなければならないのが、フリック入力だと二こすりで入力できてしまいます。これは慣れるしか。

こういうのって地道に練習するしかしかないので、本の文章を写したり、テレビのアナウンスを打ち込んだり、とにかくいじるようにしてます。

この手のデバイスって、とにかく入力に慣れるが勝ちってところがありますね。パソコンだってそうだし。そういえば、昔父がFM TOWNSだったかな、富士通の国産パソコンと、これまた懐かしいオアシスっつう富士通のワープロソフト買ったとき、全然使いこなせなかったわけですけど、とにかくキーボードで文字が打ち込めることが楽しくて、やっぱり本を写したりしてましたね。親指シフトキーボードなんてのもあったなあ。独自規格の恐ろしさよ。

話があらぬ方向に脱線してしまいましたが要するにインプットデバイスに慣れるしかってのは大事であるなあ、という話でした。

2009年10月3日土曜日

キング・コング見た

どうせB級だろうと思って見てみたらやっぱりB級でしたが、超のつく方のB級でしたね。凄かった。コング強い。カッコイイ。漢(おとこ)だぜ。

いやあ、とにかく感動しました。上辺だけみればこれほど荒唐無稽な話はないのに、ちゃんとヒューマンドラマになってる。コングと女の子(アン)の交流が感動的。気がつけばコングに感情移入。コングの味方。

コングとは何か。それは男の子、そして自然そのもの。すなわち荒々しさ、優しさ、純真さ、崇高さ、美しさそのものです。コングと女の子との優しい交流。それとコントラストを見せるのは人間の矮小さと醜さ。

切ないけど爽やかな印象が残りました。いい映画だったと思います。

2009年10月2日金曜日

「資本主義はなぜ自壊したのか」中谷厳

★★★☆☆☆:あざ笑う態度で読みたい

まあ何というか、速読にちょうどいい本でした。手際のよい小泉改革批判。難しいことは何もなく、意表をつく記述もなく、サクサクと読むことが出来ます。論旨は明解、言葉も平易。正直10分ほどで読み通しました。いわゆる速読の練習台です。まあ言ってみれば、その程度の本。

途中の日本文化礼賛あたりは恥ずかしくなるくらい浅はかな感じでしたね。一神教の欧米は自然を大切にしない、八百万の神の日本は自然を大切にするだとか。ああ何たる分かりやすさ。何たる浅はかさ。そんな簡単じゃねーだろ。日本人本当に自然を大切にしてますか。かつて酷い公害を撒き散らしたのはどこの国でしたっけ。何と都合のよい日本礼賛か。江戸時代万歳もまた然り。あのさ。専門外のことに頭突っ込むのはおよしになった方がよろしいんじゃありませんかね。

うーん、何だろう、このバカにした言い方。基本的にはまっとうな主張をしてるんですけどね。全般に浅はかなんですよ。浅はかで軽い。心情的には懺悔自体は評価してあげたいんですが、いかんせん軽い。読んでで思うのはお前の世界観軽すぎやしませんか、という疑問。

まあいいや。とにかく軽い、読みやすい。小泉改革の安直な総括としては実に手頃。速読の練習にお勧めの一冊でございます。

自分の墓を掘る人々

徳政令に反対するのは誰か。そりゃ金貸しでしょうな。他には?銀行寄りの政治家、経済評論家かな。他には?うーん、他に積極的に反対する立場が思いつかないな。だって借金の期限が延びるんですよ。借金してる人にしたらありがたい話じゃありませんか。

と思ったら亀井さんに反対の人が多いんですね。明らかに金を貸すより借りる立場の人も反対してる模様。いやあ日本人というのはなんと生真面目であることか。銀行が借金の期限を延ばしたくない、というなら分かる。でも主に借りる立場の人がモラトリアム法案に反対するんですからな。期限通り金を返済させろ。期限を延ばすな。私にしてみたらほとんど理解不能ですな。

モラトリアム法くらいで経営が厳しくなる銀行なんか廃業してしまえという旨の亀井発言も、庶民の本音じゃないですか。乱暴なのは認めるが胸がすく。そのくらい言ったっていいよですよ。

規則やら仕組みやらが優先され、人を追い込んでしまう。私はそれを本末転倒と呼ぶ。モラトリアム法案で自殺から救われる中小企業の経営者だっているんじゃないですかね。

亀井さんもさぞ呆れていることと思いますよ。だって銀行から搾取されている側の人がモラトリアム法案に反対してるんだから。

でも考えてみたら格差を容認する資本主義って基本的に墓穴を掘る思想かもしれません。だってほんの一部の人が大金持になり、他の人は搾取の対象となるか、あるいは地味な生活を強いられるんですからね。まあ、地味な生活が出来れば十分ですけどね。

しかし、モラトリアム法案に対する反応をみる限り、自分にも他人にも厳しい判断をする人は多いのでしょう。それが結果的に競争のレベルを上げて良い結果を招くこともあるだろうし、人を追い詰めてしまうこともあるでしょう。どっちがいいとは一概には言えないかも知れませんが、私は気楽なほうが好みですね。

2009年9月28日月曜日

世にも悲惨な意思決定

R・ストラウス「ツァラトゥストラかく語りき」が図書館にあったので、なつかしーとばかりに借りてみました。

確か高校生の時買ったCDです。指揮者、レーベルは違いますけど。青臭い若僧が何でこんなCD買ったかといえば、そりゃあキューブリックの「2001年宇宙の旅」を見ていたく感動したからです。何かよく分からないけどスゲー。文系高校生バカウケ。

で、なぜこのブログタイトルになるかというと、昔買ったこのCDの作りが酷かったんですよ。コンプレックスを山ほど抱えた世間知らずの高校生すら(私のこと)こりゃありえないでしょ、と思ったくらい。どういうことかといえば、本当に信じられないほど音がブチブチ切れたんです。聴くに耐えないほど。傷が入ってたなら交換してもらえばいいのに。いえ。傷じゃありません。意図的にブチブチ切ってあったんです。それってどういうこと?

交響曲って、だいたい何楽章かに分かれてますよね。3楽章が終わって拍手したら周りはシンとしていて、恥ずかしくて独り青ざめてる、みたいな。4楽章が終わると会場が割れんばかりの拍手、みたいな。で次回はもうこんなことはイヤだと前もって必死で予習したりして、準備万端でコンサートに行くんだけど、いま何楽章かが気になってコンサートどころじゃない、みたいな。拍手するタイミングだけが気になってしょうがない、みたいな。何しに行ったんだお前、みたいな。

ツァラトゥストラも例外ではなく、九つの楽章に分かれています。でも、昔の交響曲と違って、次の楽章との間に休みがない。つまり楽章の区切りなんてのは楽譜にしかなくて、実際の音楽の流れには区切りがないわけです。

もうお分かりですね。そう。私が昔買ったCDには、全くご苦労さんというか、本来なら楽章の区切りなんざ聴き取れないはずの箇所に、ご丁寧にトラックの区切りを付けていたわけです。

もう、ヒドいもんでしたよ。まともに聴けないんですから。気が散ってしょうがない。リズムがズレるし、小さなプチというノイズが入るし。怒りというか悲しみというか呆れるというか、とにかくがっかりしました。

何が悲惨だといって、この曲にトラック情報を埋め込むのって結構大変だったと思うんですよ。頑張って作業されたと思いますね。しかし、実際にはその作業はCDを台無しにしただけだったわけです。だから、作業された方は、一所懸命、熟練の手腕で、極めて有能に、一つのCDを台無しにしていたわけです。いやはや何とも悲しい話ではありませんか。

物悲しいのは、程度の差こそあれ、似たような理不尽な意思決定がサラリーマン社会で行われているであろうことが、想像に難くないからだからでしょうか。

新たに借りたCDはトラック情報が埋め込まれておらず、ブチブチと切れることもなく楽しく聴き通すことが出来ました。しかし、何で誰も発売を止めなかったんだろうな。あのブチブチCD。多分sunk costに囚われたというヤツだろうな。やれやれ。

2009年9月27日日曜日

SHARP NetWalker 発売されたようで

本日はNetWalker関連の記事をダラダラ読みながら過ごしました。

さしあたりの評判をまとめると以下のようになるようですね。

よい:小さい、軽い、3秒起動、10時間持続、FireFox3が使える
悪い:高い、アプリの起動に時間がかかる、キーボードがちゃちい

iPodを衝動買いする前はかなり物欲を刺激されていたんですけど、今は冷静に見ることができます。確かに高い気がするし、キーボードが良くないとされているのも気になる。iPodの買い換え時期まで待ちだな。キーボードが良くなって、価格が35K切ってくると視野に入ってきますけどね。でもiPodには音楽や動画というアドバンテージもある。

いろいろ不満はありますが(特に文字入力)、やはりiPodは強いですね。もはやiPodのない生活は考えられない。なんだか悔しい気もするけど。