2010年11月7日日曜日

コロッケ大成功

「んまかったなー」といまだに思い起こす、普通のコロッケ(肉多め)です。しかし美味かった。また作ろう。

材料です。玉ねぎ、にんじん(細かく刻んだもの)、クリームスープ用の牛乳です。ホワイトソースは使いません。事前に30分ほど小麦粉を牛乳に馴染ませておいて使えばダマにもならず、脂っぽくなくてヘルシーなのです。



合挽き肉200グラムと炒めて、軽く塩コショウ、ナツメグ多めで。



別茹でしたジャガイモと混ぜます。



子供に丸めてもらったものにパン粉を付けます。



少なめの油でフライに。



これは付け合わせのカキのクリームスープ。



完成したコロッケ。うまかったっす。

2010年11月5日金曜日

肉じゃが

久しぶりに肉じゃが作りました。レシピはCookPad

吉田類の酒場放浪記」見てると、どうも和食が食べたくなる。関係ないけどこの間放送された「吉田類の今日は始球式」はかなり良かったですね。家族で楽しみました。

レシピについては、ま、特筆することはありませんや。

ジャガイモ、にんじんを色が変わるまで炒めて、しらたき入れて、だし汁、砂糖、みりん、酒、醤油(第一段は少なめ)をざばっと投入。最後に醤油で調味して完成。



かなり、美味かったです。

鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか」NHKライブラリー

★★★★☆☆:ファッションを巡る優雅な省察

最近服に興味を持ち始めたということもあって、久しぶりにこの手の本を読んでみました。鷲田さんは哲学系の人ですが、普通の文献収集哲学学者とは違って自ら考えて発信する貴重な方です。また、その思想には温かみがあるんですな。いわゆる文化人、学者たちの中では好きな人です。

ということで期待して読んで見ましたが、正直ピンと来なかったですね。見ればどうやらファッション系の雑誌に連載されていた、とのこと。なるほど。レベルが違うわけだ。つまり、最近お気に入りの服を見つけたただけのただのおじさん(私のこと)とファッションについて最新のモードを追いながら精緻に考えた人との違いです。ここ5、6年ほどきちんと鏡を見たことがなく、少し前までは服装なんか本当にどうでもよかった私には、ちょっと入れなかったですね。ま、本自体ははっとさせられるような考察も多くて、悪くなかったのですが。

もう一つ違和感があったのは、この本で流行と不可分のものとしてファッションが扱われているという点です。これはどうやら時代の違いもありそうです。この本が書かれたのはおそらくバブル期。ブランド指向やら逆に清貧の思想(ありましたね)やら、ファッションやスタイルにいろんな流行が現れては消えて行った時代です。今のわたしは心の底から流行に興味がありませんが、それはひょっとしたら、中学、高校時代にバブル期の雰囲気を感じたせいで「流行」すなわち「消費させるために意図的に仕組まれた欲望のターゲット」に不信感を持ったのかもしれません。

当時は、何でも売り込め、流行を作って消費を引っ張れ、という時代だったのではないでしょうか。

今はそんな雰囲気はまったくありません。バブリーな雰囲気は当然ありませんし、ひょっとしたらファッションのターゲットが細分化されたおかげで、ファッションというものにあまり頭を使わなくてもよくなったということがあるかもしれません。つまり、服に興味が興味がなければユニクロ、無印に行けばいいわけです。そこそこの服がお手頃価格で手に入る。またそれらを着るのに「敢えてユニクロで統一してるんだ。俺は服なんかどうでもいいんだ」という主張もほとんどいらなくなった。興味がないんだったら、安心してユニクロ、無印を着ていればいいんですよ。そんなありがたいご提案があるわけ。

もちろん、金をかけたいならかければいい。ブランド品だってあるし、古着という選択肢だってある。いろんなスタイルを選べるわけですね。このような社会では、つまり「私は古着が好き」「オレはユニクロでいいよ」と自然体で話せる社会では、おそらく流行=刹那的な欲望のメインストリームは強い力を持ち得ない。だから、流行に振り回される雰囲気がなくなったんじゃなかろうか。

逆に言えば、流行に左右されず、好きな服を好きなように着てもいいのが今の時代と言えるかもしれません。

さて、ファッションに対して人がどういう態度を取るかというと、大きく3パターンに分けることができるのではないかと思います。

一つは本当にファッションに興味がない人。「ファッションに興味がない」というスタイルをまとっているのではなくて、本当に興味がない人です。(かつての私)

次に、好むと好まざるとに関わらずファッションに気を遣っている人。仕方ないと思いながらそれなりに楽しんで(あるいは本当はイヤだけど)服装に気をつける人。

最後に、ファッションが本当に好きな人。

上記で言えば、二番目に該当する人が多いのではないかと愚考します。わたしの妻なんかも「化粧はまわりの人に対する礼儀だ」という旨のことを言ってました。彼女が化粧を好んでしているのか、それともいやいやしているのかは分かりません。おそらく両方ではないかと思います。また、周囲に不快感を与えないためにファッションに気を遣うのだ、という考えも聞いたことがあります。それは裏を返せば、ファッションに気を遣わないと不快感を表明する仲間がいる。だから服装に気を遣わないと仲間に入れないということにもなりそうです。仲間外れにされないために、いじめられないためにファッションに気を使う。さほど悲壮感はありませんが、人間関係においてファッションがシビアな役割を担っている、ということはありそうです。

わたしはと言えば、かつては「はた迷惑上等。ファッションに掛ける金などない!」という立場でしたが、今は何となく「ファッション」というキーワードが理解できてきた、という状況です。気に入った服を着ることは嬉しい。素直にそう楽しめるようになりました。もちろん流行はまったく意識しません。気に入った布地で織られた気に入った型の服。それを着て出かけると、なかなかハッピー。それだけのことです。「ファッション」という大仰な言葉は似合いそうにない。しかし、それだけのこととはいえ、気に入った服を着るのは実に楽しい。

気に入ったモノに囲まれるのはなかなか幸せなものです。しかし、服のもたらす幸福感はやはり良い道具がもたらすそれとは違ってくる。お気に入りの道具がもたらす幸福感は、徐々に自分の手に馴染んで、ついには身体と一体化するものではないでしょうか。息の合ったパートナーのような、空気のような必要不可欠の存在。

服がもたらす幸福はやはり少し違う。いわゆる道具(料理道具、工具)と服は、何が違うか。まず服は「何のために」という問いが二次的となっているモノです。単に暖を取るためではない。単に隠すためではない。心地よいというのは重要ですが、それだけが目的でもない。服とは多かれ少なかれ、その人のスタイルとなるものです。好むと好まざるとに関わらず、服装はそれを着る人の表現になる。若い男がレギンスに半ズボンを着るのも表現ですし、ユニクロ上下を着るのも、あるいはサラリーマンが紺のスーツを着るのもまた「没個性」の表現です。だから制服=表現という構造からは誰も逃げられない。

でも、そのような表現としての服も、決して押し付けがましいものではありません。見るだけで圧倒されるような服も、不愉快になる服も少ないし、気に入らなければ目を逸らせばいい。それに、そもそも他人の服装などあまり気にしない。とすると、服装とは何よりもまず自分に対する表現ではないかと思われます。

気に入った服を着ていると、姿勢がピンとします。当然、テンションも上がる。すると、服というのは身体を覆い隠すだけではなく、身体と同一化することによって、精神までをも高めるような、そんなモノなのではないかと思います。

何か長くなってしまったので中途半端ですがこの辺で。

偉いぞ新潟県警

ひき逃げ事件放置 被害者妻が証拠発掘 新潟県警ミス

ミスが偉いってんじゃありませんよ。誤りを認めたこと。

誤りを認めるってなかなかできませんからね。

そりゃ当り前のことですけどね。でも、当り前のことができないのが人間です。ましてや官僚組織。誤りを認めるなんて大したもんだ。礒野宏三副署長さんですか。相当な誠実さを感じます。褒めすぎか。でも、組織の中に誠実な人間がいなければ、絶対できないと思うな。何かあってもみんな及び腰になってさ。心の中では「おかしい」思っていても、声を上げることができない。結局うやむやにしてしまう。なかったことにしてしまう。それが組織。それが組織に属す人間。

ま、なかなかいい話だと思いました。

2010年11月3日水曜日

暴力について考えた

暴力について。

んなこと考えたくはないんだけど、少しばかり集中して考えてしまった。

普段、われわれは暴力とは縁遠い世界で平穏に暮らしているわけですが、時には日常に暴力性がむき出しになって現れることもあります。たとえば酒場でのおっちゃん同士のケンカとか、誰かに因縁つけてる若い衆とか、あるいは殺気を漂わせているヤクザを見かけるとか。そんな人間の暴力性を見ると、あちゃー、ヤベーって思うわけです。まず巻き込まれないようにしなきゃ、とか、警察呼ばなきゃとか。

「国家の本質は暴力である」と言ったのは確かルカーチ。かなり怪しい記憶ですが。しかし、近所のおっきな赤い国を眺めていると、言い得て妙としか言えませんな。翻って我が国はどうか。一応近隣諸国よりは少しはマシな法治国家ではあるようですが、なかなかキワドイところがあるんじゃないか。よくよく見れば冷や汗ものの事件は少なくない。軽犯罪法なんかヤバいっすよ。誰だって警察に引っ張ることができますからね。しつこいですが、植草一秀さんの件しかり、最近あった検察の証拠でっち上げ事件然り、冤罪事件の多いこと、多いこと。油断はできません。

なんでこんなことになるかっていうことを考えると、組織の「本来の目的」の「転倒」が原因の一つじゃないか、と思います。つまり、本来は「国民の安全を守るための」警察が「自らの組織を守るために」活動している。例えば政治家や権力者に色目を使うとか。あるいは検挙率だとか警察組織内部の数字を上げるために、無害なオタクを軽犯罪法で挙げるとか。自分の組織を維持するのが第一の目的となっている。

毎度警察ばかり例に挙げていて、わが子の登下校を見守っていただいている近所の駐在さんには申し訳ないとは思いますが、警察ばかりではなく、わたしはやはり組織というものは本来危険だと思うんですな。組織に組み込まれた人間は多かれ少なかれ無思考になる。敢えて問うてみることがなくなる。ウザがられるだけだから。それからもちろん自分の生活を考えなきゃいけない。家族を食わせなきゃいけない。ということは、組織が繁栄、持続してもらわないと困る。だから組織のために頑張るしかない。そこまではいいんですが、そんな組織がいったん暴力性を帯び始めると、普通のオジサン、オバサンが実に非人間的なことをやり始める。そこが組織の怖いところです。

人間は本来暴力性を帯びている生き物であるから、必然的に国家は暴力的にならざるを得ないのでしょう。そして集団的暴力を以って個人の暴力性を抑圧するのが国家である、と。ルカーチがそう言ったかどうかは知りませんけど。

そう考えると、あまり油断して生きるとマズイことになるよな、と思いながら生きざるを得ないわけですが、それはそれでスリリングで楽しいと言えなくもない、と思える我が国は、まだまだずいぶんマシな国であると思いますし、今の状態を悪くしないためにも、国家という暴力的存在が変な方向に走らないように、しっかり監視しなければいかん、と思う昨今です。

2010年11月2日火曜日

卵あと混ぜケチャップチャーハン

今度は卵後混ぜチャーハンです。すなわち最初に卵を炒めて、それからご飯を投入する方式。

何よりも、炒め工程までの準備を済ませておくのが肝要です。

まずは野菜を刻んで軽く火を通しておきます。



それからハム。



室温に戻した卵と材料を並べて・・・



一気呵成に仕上げます。



見た感じパラパラしてないけど、そこそこの出来でした。少なくともべっちゃりではない。

味は子供にも好評。



付け合わせはウィンナーとキャベツとなすのスープです。

それなりに小確幸な夕食でした。

2010年11月1日月曜日

卵ご飯先混ぜケチャップチャーハン

ご飯先混ぜ方式でケチャップチャーハンを作ってみました。

火を通した具と卵、ライスを混ぜます。この時点では軽く塩コショウ。最後に調味しないと、味が馴染んで塩分過多になりがちなのです。



その後、ビタクラフトをカンカンに熱して、オリーブ油を多めに引いて炒めます。焦げ付くことなく無事完成。



出来はややしっとりした感じ。パラパラにはなりませんでした。おそらくは卵が多すぎた。後はテフロン加工ではないので、長時間炒めるのに抵抗があったのも理由かもしれません。

ケチャップと粉チーズを塩梅して頂きます。

味はまあまあでしたが、子供にはオリーブオイルの風味が気に入らなかったとのことです。

うちはやはり卵ご飯後混ぜ方式で確定かな。

2010年10月31日日曜日

第二回 聖地大泉祭り

カメラ忘れたので文章だけ。わたくしがカメラを忘れたとしても、恐らくはその模様は次々にBlogにアップされるでしょうから、よしとしましょう。

しかし凄いですわ。正直、祭り自体のコンテンツは特にどうということもない。しかし観客(子連れや大友[おおきなお友だち])の熱気、それから(恐らくは)東映関係の社員の方の「ここはいっちょう頑張ったろう」という心意気。そして何よりものすごい人の数。すべてがプリキュア、ゴセイジャー目的ですよ。凄いね。子連れが6割。大友の男女、女女、男男(だんじょじょじょだんだん)関連が4割。それが否応なくお祭り気分を盛り上げる。

塗り絵、スタンプラリー(西武でやってたのと同じ)、フレッシュプリキュア、ハートキャッチプリキュアの撮影会(11時から15時くらいまでやってましたね。中の人、本当に御苦労さまです)、さまざまな展示。

プリキュア3D上映会は、あと一歩のところで整理券が切れて、子供たちと涙をのみました。「プリキュア3D良かったよ」という大友の声を耳にはさんで、このわたくしもぜひ見たかったんだけどなあ。ま、次の映画は恐らく3Dだろうから、少なくとも子供は3Dプリキュアを見られるであろう。しかし時代は変わるよ。The Times They Are a-Changin'

とにかく、みんなで作ろう、盛り上げようという手作り感覚が良かった。それからプリキュアと戦隊モノのコンテンツとしての強さに驚いた一日でした。力をもらった気がします。

思ったことメモ

「人生の本質は四苦八苦である」「苦集滅道」というけれどわれわれの人生はワリと小確幸(TM村上春樹)で成り立っているじゃないか。仏教ってあんまりペシミスティックじゃありませんか。いや、仏教じゃないな。これまでのブッダの解釈者たちだな。

と思ったら「苦」と訳されている言葉のもとの意味は「思い通りにならないこと」らしい。ということは、人生は「苦である」ではなく、人生は「思い通りにならない」というのが正しい解釈。そうであれば納得がいく。

苦だけじゃない。たとえ思い通りにならなくても、今、そこに幸せがある。

2010年10月29日金曜日

貨幣博物館、Mujiミールでお茶

営団地下鉄三越前駅から徒歩5分の貨幣博物館に行ってまいりました。入場料は無料。個人情報も提出する必要なし。展示はかなり充実しています。そこかしこに警備員の方が立っておられるのも物々しくて雰囲気があります。おお。そうか。大判小判を展示してるんだもんな。すなわち警備員さんは不可欠のオブジェとなるわけ。貨幣に興味がない人がナニゲに入っても楽しめる場所です。



上の子は金貨や小判に興味深々。GOLDが好きなのね。やっぱり綺麗だからか。それとも高価だからか。他にもいろいろ興味が向くらしく、クイズにチャレンジしたり、紙幣の細かい作り込みに感心したり。下の子は例によって早々に飽きてましたけどね。アカデミックなコンテンツにはまだ早いようで。

それなりに楽しんだ後、銀座にご用事のあった妻と有楽町Mujiで合流です。無印良品というブランドにはわりとスルドイ目線を向けるわたくしですが、ムジのフラッグシップ店たる有楽町Mujiはワリと好きですね。考えてみればMujiの文房具とかは普通に愛用しているもんな。やはりいろいろとモノがあって楽しい場所です。



Mujiのレストランでカフェ。味はまあまあ。学食をちょっとだけオシャレにしたって感じで、気を使う雰囲気はまったくなし。子供連れでも問題ないところがポイント高いですね。

2010年10月28日木曜日

ファッションについての考察

うさとで買った服を着るのが楽しい今日この頃です。30台半ばを過ぎてファッションに目が覚めてしまった。いや、そんな大げさなもんじゃないか。むしろ、30台半ばを過ぎてユニクロ(※)から脱しつつある。主体的に服を選びつつある。そんなところ。

(※)「ユニクロ」は固有名詞ではありますが「普通のそこそこ安くて質が良くてデザインのよい服」の代名詞としてお考え下さい。

そりゃあユニクロだって気に入らなかったわけではありませんでしたが、いかんせんユニクロ。何というか、チノパンかくあるべし。シャツかくあるべし。ゆえに、Don't think.そんな感じですな。楽しくて着るんじゃない。まあ、こんなもんか、と思って着る。服なんかこだわってないもんね、という主張が却って必要となる。それがユニクロ。

でも、今は違います。気に入った服を選んで、買って、着る。楽しいじゃん。ということで、これまで「ファッションが趣味」だとか「服に金を使う」という感覚が理解できなかったのが、ようやく分かってきました。しょせん、おじさん。ファッションに金を使うなど、客観的費用対効果が疑問である、と思っていたんですけど、いやいや楽しいんだから費用対効果なんかどうでもいいよ、という感じです。(ま、しかしファッション雑誌にあるようなジャケット一着10万とかオカシイと思いますけどね。)

さて、自分の気に入った楽しい服を着るとどうなるか。まず、銀座、渋谷、あるいは吉祥寺などというソレっぽい場所に行くときに気後れがしなくなった。前はどこかに「ユニクロですみません」という意識があったようです。おしゃれなおじさんを見ると、ユニクロ上下のおじさんよりもやはり「正しいおじさん」であるなあ、と思えるんですね。そりゃそうですよね。近所のスーパーや秋葉原に買い物に行くならともかく、銀座に行くのに「オレ、ファッションには興味ないもんね」というのはいささか力んだ考え方と言わざるを得ない。「ファッションやぶさかではない」という服装と態度の方がしっくりくる場所が世の中にはあるわけ。

若さ由来の反骨精神、あるいは「服なんかどうだってええよ」という気概の現れとして、敢えてユニクロ、無印というのはアリだと思いますけど、そんな主張も年を取ってくるとなかなか厳しくなってくる。若くてスタイルのいい若者の「敢えてユニクロ」は鑑賞に耐えるとともに、そこに主張を感じられるわけですが、おじさんの「敢えてユニクロ」は見た目がそもそもいかがなものか、ということになるし、仮に主張を感じたとして「はた迷惑」ということになる。

後はやはり気に入ったものをまとうってのは何といっても気分がいい。いきなり一般化しますが、気に入ったモノが手近にあると、人間って落ち着くものですよね。居心地がいいんです。例えば道具。鍋なんかでも、安いペラペラの鍋で焦げつかせながら調理するのと、いい鍋を正しく使って調理するのとでは料理の楽しさが違う。包丁だってそうですね。DIYが趣味の人なら、よい工具を買うと幸せになれるでしょう。装飾品だってそうです。気に入った絵のレプリカを部屋に掛ける。なかなか気分がいいものです。つまり、人間ってモノに囲まれて生きているし、そのモノたちとは何らかのメンタルな交流があるわけ。交流じゃなくて、一方的なのかもしれないけれど、やっぱりいい道具を大事に使えば、道具だってそれに応えてくれるとか、そういうことはありますよね。

だから、気に入った服を着て過ごすのが気分がいいのは当然のことですね。人は服を着て生きているんだから、そこに気を配れば少し生活が変わってくる。気分が変わってくる。ファッションにちょっとこだわってみると、微妙に世界が変わってくるわけで、それはそれでなかなか楽しいことである、と思いながら過ごす昨今です。

2010年10月27日水曜日

カレーを手で食べてみました

カレーを手で食べる。一度やってみたかったんですよね。

「よし。今日のカレーは手で食べよう!」と言ってみたら子供も喜んでました。普段手で食べて怒られている下の子も、上の子も喜んでる。手で食べるのが楽しみらしい。まあ分からなくもありませんが、不思議といえば不思議。人間って「手で食べたい」欲望でもあるのでしょうかね。あるいは「下品は楽しい」という倒錯した喜びなのか。(もちろん「手で食べる=下品」というのはあくまで日本的尺度に過ぎないわけですが)

ということでさっそく料理に入ります。まずは玉ねぎを炒めます。ワリとしっかり炒めたら、しょうが、にんにく、にんじんといった野菜群を投入。



挽き肉大量。ピーマンも投入。



なすとトマト缶を入れてグツグツ。



仕上げにルーを入れました。ルーはカレーの壷とS&Bゴールデンカレーのブレンド。



ご飯とカレーを冷ましてから、不退転の決意を持ってカレーに手を突っ込みます。これがですね、思った以上に楽しかった。



まず、カレーを手ですくってご飯にまぶすんですが、これがヌメヌメして楽しい。ねっちゃねっちゃとご飯とカレーをこねる。というか、まぶす。んで、カレーとご飯を一口分まとめて、シャベルのイメージで親指除く四本の指の上に乗せる。これを口元に運び、親指で口に押しやるわけです。美味しい。楽しい。子供たちも夢中で食べてました。ま、小さい方はカレーで汚れた手を、思いっきり服で拭いてたけどね。

手でカレー。結構おすすめです。

2010年10月25日月曜日

西田幾多郎メモ(無と意識)

最近、西田幾多郎論文集を読んでますが、この人は凄いですね。なぜ日本の思想家としてもっと広まらないか。ま、そりゃ難解だからだな。あるいは禅の宗教体験が前提されてるからか。そうだとすれば「生きる哲学」が扱えていないのが、日本の哲学研究じゃなかろうか。

しかし日本人哲学者たるもの、西洋哲学を有り難がって、細かい文献採集してるばかりじゃなくて、日本人らしい思想をぶち上げるべきなのでしょうが、ダメなんでしょうな。日本人の生真面目さが裏目に出ているのか。硬直化した学者世間の中で、異端が排斥され、エスタブリッシュな体制が安穏としているのか。

ま、関係ねーや。

ということで最近西田幾多郎を読んでますが、かなりシビれます。

「有に対する無が一つの類概念としてすべてを包摂する時、無は一つの潜在的有となる。如何なる有をも否定し果てしなきの立場に立つ時、即ち有に対して無その物が独立する時、意識の立場という如きものが現れる」(岩波論文集1、79ページ)

西洋の意識ってのはキリスト教の不死の霊魂、つまり神という「汝」に対する「我」が暗黙のうちに立てられているわけですが、西田幾多郎は東洋的「無」の直感からスタートすることで、完璧に西洋思想を相対化してるワケ。

おもしろいっすよ。

2010年10月23日土曜日

チャーハン

チャーハンです。

一気呵成につくるので写真を取ってる暇なし。先日つくった煮豚で卵・煮豚チャーハンを作りました。

参考にしたのは以下のページです。

http://self.tagigo.net/200610/07-0546.php

いや、シンプルで悪くないレシピです。

中華鍋はカンカンに熱くすること。うん。基本ですな。

油は多めで。そうだよね。でもそれをはっきり書いてあるレシピは案外少ない。

ネギは事前に卵に入れておけ。なるほど。言われてみればそうだな。

あとは一気呵成に仕上げるだけ。卵がゆるい状態でご飯を投入したので、若干パラパラ感はありませんでしたが、子供からは好評の香ばしいチャーハンが出来ました。うん。これからはこのレシピがよいなあ、と思いました。

政治はむつかしい

別にあたしは政治家じゃないので、政治的な意見がぶれたって実害はないのですが、やはり昔の政治的な思いこみや意見が、後に「必ずしもそうではなかったかなあ」と思えてしまうと、それなりに過去の自分を後悔するとともに政治というのは難しいのであるなあ、と思います。

具体的にはですね、数ヶ月前のわたくしは、アメリカはもう落ち目であるからして(これは今でもそう思ってる)、これからはアジアで仲良くすべきであろう、と思っていたんですな。中国、韓国と仲良くやっていくべきじゃないか、と。

昨今の情勢を見れば、もうこれ以上は言わずもがなですな。

中国もダメだよ。ありゃ。まだアメリカの方がずいぶんマシだ。

やっぱりアレですわ。最後に頼れるのは自国である、と思えるわけですが、ここを突き詰めるとそれそれで中庸から外れた路線に近くなるわけで、政治的判断というのは本当に難しい、と思います。何が正しいか、何が誤ってるかなんてわかりゃしません。

でも、朝令暮改でいいから、状況を見ていろいろ思ったり考えるほかはないのでしょうな。もちろん、軸がブレてはどうしようもありませんが。

むむむ。

2010年10月21日木曜日

夜の散歩

仕事の後、久しぶりに学生時代の友人XX君と呑むことになりました。「いつか合おう」「今度合おう」と年に数回メールしながら、何となく数年ご無沙汰。お互い忙しくてなかなか都合が付かなかったり、学生時代と違って共通の話題がないんじゃないかと気後れしたりであっという間に数年が経ってしまった。私の数少ない友人で(実質唯一か?)、昔はよく二人でお茶をしたもんだ。若干うらぶれた近所のマクド。懐かしや。

ということがあって、家族には今日は遅くなるよ、と一言。XX君と久しぶりに呑んでくる。ああ、そう。ほんとに久しぶりねえ。妻も彼を知っているので話は簡単。

仕事を済ませ、早めに会社を出ます。いつも物欲を誘うきらびやかな街の灯に後ろ髪を引かれながらも、まっつぐ家に帰るんですが、今日は待ち合わせの時間まで、夜の街をブラブラしてみようか、と。

通勤途中の駅で降りる感覚も新鮮。夜の街の放浪と散策です。いやあ、いいもんですねえ。夜といってもまだ6時台。野菜の入った買い物袋を抱えて帰宅を急ぐお母さんたちと会社から出て駅に急ぐお父さんたち。「日常」している人々の、あわただしい雰囲気。秋の夜、世はこともなし。人の流れに逆らって大きなショッピングモールに入ると、そこは明るいイルミネーション。きらびやかな商品がならんでいて、あわよくばと人々の物欲を誘っている。夜に出歩くはしゃいだ高校生たちや、水族館のクラゲのように電飾のあいだをさまよう若い女の子たち。夜のショッピングモールを歩く女の子には何となく寂しさを感じます。若い子が一人でベンチに腰かけている。人待ちなのか。それとも、家に帰っても何もないから、ただ時間を潰しているのか。私など、たまに散歩するから解放感を感じるのでしょうが、会社帰りにしょっちゅうウィンドウショッピングする生活というのは、それはそれで寂しんじゃないかななどと考えたり。

そういえば「グレート・ギャツビー」の最初の方にもこんなシーンがあった。都会に出た主人公が夜の街を散策するシーン。都会の夜の魅力、憧れ、そして寂しさと、ちょっとしたやるせなさが、見事に描かれていました。

しばらくブラブラと散歩して、待ち合わせの場所に到着。まだ早いかったのでプロントでビールを一杯頂きます。あー。こういうの憧れてたんだよなあ。仕事帰りに、ナニゲにバーで軽く一杯っての。ビールとちょっとしたつまみで650円くらいだったかな。プロントではMZONEが使えます。狭い机でノートパソコンを広げてasahi.com、Yomiuri Online、メールをチェック。暇つぶしにブログの草稿をパタパタと叩き、ビールをすする。プロントってワリと何でもありな雰囲気だから、バーでビールでノートPCという組み合わせも許されてる気がしてリラックス。しかしまあ、実際一人でビールを一杯呑むってのも、それほどスペシャルな体験じゃあないなあ。楽しいかと聞かれれば「それなりに」と答えるけれど、こんな機会がなきゃバーで一人ビールなんてことはしないな、と思ったり。

そうこうしているうちにXX君からメール着信。駅の東口に着いたとのこと。プロントを出た私は、刎頚の友XX君と無事東口で邂逅し、数年のブランクも感じることもなく、盃を酌み交わしたのでした。

2010年10月19日火曜日

なんだか最近

霜の話で恐縮ですけど、最近ワリとお腹の調子がいいんですよ。私がそう言うってことは、すなわち下さない、ということであります。

で、どういうことかと思って考えてみたら、最近レッグウォーマーを足首に装着するのみならず、半ズボンとか、半モモヒキとかで、太ももをあっためる感じで寝るようにしていたんですが、それが非常に効いてきた模様。

太ももの冷えも要注意ってことですな。(おそらく個人差はありますが)

子供と外食@神保町

ある休日、下の子が熱を出してしまいました。せっかくの休みだけど、まあしょうがないよね。こればっかりは。しかし家族四人で家にこもっているのも何だかストレスが溜まる。妻も人が減った方が少しストレスがない、とのことで我々のみの外出を許可。というわけで、ラーメンをエサにして上の子を連れ出しました。

行き先は神保町です。確か地下鉄の出口すぐに、そこそこ美味い喜多方ラーメンがあったハズ。子供だから有名店の行列には耐えられないし、有名店のくせのある味よりも、普通の中華屋さんとかファミレス系の、当たり前のラーメンの方を好む。当然、あわよくば書店巡りをしてやろうという私の狙いもあります。

というわけで神保町。目的の店はあっさり変わっておりました。よく覚えていませんが、何だか辛い系?とんこつ系?に変更。参ったなあ、と思ったらすかさず子供が私の手を引いて「他のところにしようよ」。子供はあまり新しい店にチャレンジするタイプじゃありません。でも、子供に任せるとファミレスになっちまうので、ここは頑張って私が探します。すなわち私も古本屋巡りどころじゃない。やれやれ、という感じで店を探します。

ほどなく、ちょっと離れたところにひなびた中華料理屋を発見。迷うのも面倒くさかったのでためらう子供を引っ張って入りました。中は超場末な感じ。客は中年のカップル(ただの仕事休憩?)の二人だけ。子供がラーメン、私は酢豚定食とビール。





何か街の中華料理って感じの酢豚でしたね。ビール中瓶が670円もしたのが残念だったけど、まあ飛び込みで入ったらこんなもんでしょう、というお店。

何というか、中途半端だなあって感じの外出でした。本もゆっくり見られなかったし。子供と街散歩ができるのはいつの日か。と言っても、大きくなると親とは外出してくれないんだろうなあ、という予感もありますが。

2010年10月18日月曜日

服に金をかけるということ

若い頃からファッションにはほとんど関心がありません。そこそこの定番ブーツ、定番ジーンズ、定番シャツを買うだけ。すなわち頭はまったく使わない。金もさほど使わない。特にユニクロが定番化してから顕著になりました。安い。かつ特徴のない汎用的デザイン。モノによっては品質もいい。おまけに、ユニクロってワリと行ったり買ったりするのが楽しいんですな。だからもう、ホント何も考えずにユニクロ一本。そんなファッションライフです。

それに、そもそも最近は「もうモテなくていいや」って思ってる。すなわちファッションにこだわる原動力の根源が失われてしまったわけ。んで、ぼーっと外に行く服を着たら妻に「ちょっとあんた!何それ。やめなさいよ!チノパンにジャージは無理!」とか「いや、その上下が黒ってないわ。ありえない」とか言われる。ええ?そうなん?よく分からんけどな。という状態です。言われて、しみじみ鏡を見て、ま、変といえば変?でもためらわずに外行っちゃうけどな?とちょっとヤバめ。つーか普段鏡すら見ないし。みたいな。

ちなみに妻は地味系なんですけどそれなりに服には気を使っています。パート先やボランティア先などでナニゲに服装がチェックされてしまうのだそうだ。思い起こせば、ママトモさんたちを見てもオシャレな人が多いようです。ということで、妻はもともとMuji指向、ゆる系指向の人でさほど服には気を遣わないんですけど、最低限みっともなくない格好をしようと努力している模様です。

私もまあ、興味はないことはないんです。例えば美容院に行ってメンズノンノ読むのは楽しいですね。おお。君ら本当に細いなあ。何だ?そのカッコ?半ズボンにストッキング?それがカッコいいの?モテるの?とか。私より2、3才上の美容師さん(若く見える。おしゃれ。二児の父)も「昔は金掛けましたけどねえ。今はユニクロにRight’on重ねるくらいっすよ」などとおっしゃる。そうっすよねえ。ファッションに頭も金もかけてらんないっすよ。いかんせんおっさんにはコストパフォーマンスが悪すぎる。つーか似合う服がない。それだったらユニクロのチノパンにユニクロシャツでええよ、と。

で、例によって話は唐突に展開しますが、この間うさとという手織り系、草木染め系の服のブランドの、展示会に行ったんですね。展示会と行っても、普通の民家の二階でやってるみたいな、6畳と4.5畳をつなげた程度の小さな会場です。この「普通の民家」というのはほとんど比喩ではありません。一階を店舗に改造した木造の一軒家。一階は自然食品、自然系服飾品を扱っている小さなお店です。マクロビオティックとかヨガとか(ヨガはなかったかな)東洋医学とかそれ系です。そんな店の二階。店の小上がりで、子供がちゃぶ台でおやつ食べてる。そんな和み系のお店です。

この「うさと」の服。妻が一着持っていて、なかなかセンスがいいんです。ぱっと見地味なんだけど、不思議とおしゃれ。ダサくない。流行とは一切無関係でありつつ、銀座あたりを散歩してもしっくり来る感じ。ということで「うさと」の展示会、あんたも来る?と妻に誘われて当日。

妻とチャリ漕いで行ってみたら、お姉さん・おばさんパワー充満な感じの店内でした。NPOとかボランティアに取り組むおばさん、お姉さんをご存知ならお分かりかと思うんですが、みなさんコミュ力(りょく)があって、ある価値観(あるいは弱い使命感)で結びついてて、女性だから人間関係が強力で厳しそうですが、前向きで足が地についたポジティブさ、たくましさがあるっていうか、そんな雰囲気。

で、そんな熟女パワーの渦巻く雰囲気の中、ノンポリ(ポリシーなし)のおじさんであるわたしが、ふらふら服を眺めるているんですが、これがなかなかおもしろい。まずユニクロに並んでる商品とモノが違う(当たり前だ)。デザインは当然ちょっとユニクロやRight’on、バーバリー、NewYoker(要するにデパートやイオン等の複合ショッピングモールに入ってるような店舗)では見られないタイプ。アジアっぽい感じです。でも、奇を衒った安物っぽい雰囲気は全然ない。タイやベトナムの金持ちおじさんが着ている感じかなあ。でも、タイ・ベトナム風というわけではなく中国山間部と日本の田舎、インディオも入ってる感じ。汎アジアチックとでもいいましょうか。それでいてシルエットもいい感じです。腹の出たおじさんにも似合う型あり、ウェストラインすっきりという型もあります。しかも、ナチュラルな癒し系でありながら洗練されている。

気になるお値段は、ユニクロに比べれば高い(当たり前だ)けど、デパートに入ってるようないわゆるブランドの商品からすると全然リーズナブル。具体的にはシャツとパンツが一万円~一万七千円くらい。コートが二万~。高いけど手が出ないほどではない。

でも、ちょっとあれかな、オレ、もうモテなくてもいいし。とワリと他人事な感じで服を眺めてたら、手の空いたコーディネーターさん(?)がいらっしゃって、わたくしにいろいろ「うさと」の服を着せてくれたんですね。まいったなあ、こういうの慣れないし、照れるなあ、などと思いながらも上下を何着か試着していると、だんだんと着心地だとかデザインだとかが、もの凄く気に入ってきたんです。着ていて楽だ。動きやすい。デザインもおもしろい。太ってても痩せてても似合う服だし。うん。これ、いいじゃないすか。妻からもあんたなかなか似合ってるわよ。森に住んでる人みたい。とお声がかかる。へぇ。そうかな(照れ)(褒められてるんか?)。コーディネーターさんからも「宗教関係の人みたいですね」とコメント頂いたり(多分褒められてない)、気分は盛り上がる一方。結局上下セットを3万弱で購入してしまいました。

で、家に帰って子供に着替えて見せて「ムササビ!」などとポーズを取ってウケを狙ったんですけど、そんなことはともかく気に入った服があるっていうことは楽しいものだなあ、と久しぶりに思った次第です。そういえば遠い昔にもこのワクワク感があった記憶があります。もはやハッキリとは思い出せませんが、それは多分小学生時代ではなかろうか。勝手に「カコイイ」と思い込んでいた服。それは例えばただの黒いシャツだったり(子供心に黒がカッコよかった)とか、初めて買ってもらったボストンバッグとか。服やバッグ(あるいはアーミーナイフ)にワクワクして、モノから貰ったエネルギーを燃やして生きていた子供の頃。

ずいぶん年をとったけれど、小学生のころと同じように服にテンションをあげてもらったり、服から元気をもらうことができるのだなあ。

小学生から大人になる途中で、結局オレなんかそんなに服似合わんやんけ。とか所詮「布」やんけ、とか、物事を即物的に捉え始めてからは、あまり惹かれなくなったモノ(服)についての情熱が、再び湧き上がってきたこと、そしてその対象が服飾であったということは、子供時代の気持ちを思い出すとともに、このオレが服に興味をもつとは、何か「わたくし的歴史」におけるちょっとした革命のようだなあ、という感慨もあり、なかなか興味深い心境の変化だと思っています。

もう一歩下がって反省してみると、どうも最近物欲が旺盛である、という警戒心もありつつ、でも物欲を楽しみながら生きていると、それはワリと楽しいから、これはこれで結構なことではないか、と思ったりもする今日この頃であります。

2010年10月17日日曜日

ナイフについて

ナイフ欲しいなあと思ってWebでブログなど見ていたら、気が重くなりましたね。なんでかって言うと例の銃刀法違反とか軽犯罪法とかいうヤツです。

Webでの盛り上がりを見る限り、どうやら2006年~2007年に警察によるオタク・ナイフ狩りが励行されたらしい。刃渡り3cmのキーホルダーナイフを警察に見とがめられ、何を言っても通らず6時間拘束され、「護身用に持っていた」などとという警察のでっち上げ調書(刃渡り3cmでどうやって護身するのよ)に無理やり署名させられた、という例など気の毒というほかはありません。

植草一秀さんが受けた屈辱を見れば一目瞭然。警察とは権力の言うがままに動く非人間的、不条理な機構であり、そんな警察がほとんど無害な男の子からナイフを没収したり、植草さんその他のひどい冤罪事件を起こしているわけです。いやあ、昔はお巡りさんを尊敬してましたけどね。どうもそんなんじゃありません。救いと言えば、インターネットという草の根媒体が、小さい声ながらそういう事実を伝えているということでしょうか。官憲を信用してはいけない。

もちろん「ナイフなんか持って歩いている奴が悪い」「挙動不審だったんだろう」。確かにそれはそうでしょう。しかし、そこに「自分もそうなりえた」「警察は恐ろしい」という想像力がなければ、事実から目をそむけた愚かな断定に過ぎないと思います。軽犯罪法に寄ると、武器になり得る器具を持っている場合に、法に問われる可能性がある、となっているようです(詳しくは知りませんが)。そうなると、たとえば杖だの壺だの七輪だって凶器や鈍器になり得るわけで、それで警察にしょっ引かれる可能性がある、と。いや、大げさに煽ってるわけではなく、カッターナイフ当然ダメ、はさみだってアウト、爪切りですら人によって連行されるとのことです。どうなっておるのか。

Webの投稿には「ナイフ持ってるようなヤツなんか、どんどん逮捕して欲しい」という意見もありましたが、どうも恐れる対象を間違っているんじゃないか。あんたの母親は毎日刃物握ってるぜ。そんな神経症的な過敏反応もどうも気分が悪い。

人生しばらく生きていると、日本の組織というのはどうやら「規則原理主義者」と「瑣末事大主義者」が強くて、「臨機応変主義者」「柔軟思考人」は潰されることが多いんじゃないか、ということを思ったりもします。

私ももう20年近く一度も職務質問を受けたことはありませんし、全く目立つことのない地味な一介のサラリーマンですが、何かあるとこの国の警察(その他組織)はヤバイぞ、そんな思いを新たにする次第です。