2010年3月26日金曜日

小確幸2010/03/26

こういうのいいですね。懐かしの「よかった探し」です。

というわけで私の「よかった探し」。

 ・顧客にズバッ!と当たり前のことを言ったら、チームメンバーからチラッと尊敬のまなざしで見られた(気がする)。夕方。信頼関係について。

 ・数学系の書物を読了。一皮むけた気分。

 ・サブウェイのサンドウィッチが安かったのでチーズポテトと一緒に昼に食べた。おいしかった。

 ・夕食が寿司(スーパーのだけどね)。しかも第三のビール付き。

 ・上の娘が楽しそうにピアノの練習をした。

 ・下の娘が、あぐらをかいた私の足をガンガン踏んできた。痛かった。

 ・風呂に入って歯を磨いた後に酒を飲みながら、録画した「Mr. and Mrs. スミス」見た。しかもそのあとにポニョを少し見た。アンジェリーナ・ジョリーいい。ポニョ幸せ。

 ・そして何より、明日は休み!

こうしてみると、いっぱいあるんだなあ。私の「よかった」こと。

マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著 マハリシ総合研究所監訳「永遠の真理の書 バガヴァッド・ギーターの注釈 超越瞑想と悟り」読売新聞社

★★★★☆☆:ワリとイケてる

かなりキワモノな本なのですが、結構感心しました。インド思想やるじゃん。思想というより宗教か。

ええと、どこが面白かったか。やはり非西洋思想の面白さですね。厄介な主観客観フレームワークもないし、病的なまでのロジック信仰もない。存在の神秘を、なんのてらいもなく書いている。西洋哲学なら超越論的主観とかややこしいことを言い出して果てしない議論に突入するところを、純粋意識とか宇宙意識とかサラッと書いてるし。

おいおい。超越論的主観と宗教的意識を一緒にしていいんかい。いいんですよ。そんなもん。はっきり言って似たようなもんだよ。

後は怒りについての記述とか、世界を成り立たしめるいろんな動的エレメントの記述がいいですね。ダルマとかグナとか。

宗教だからこその恣意的かつ空想的世界観です。結構いい線行ってるなあと思いました。実践面でいっても、キリスト教の道徳よりよほど大人な感じがします。

やはり、西洋宗教よりも身体に立脚してる気がしますね。足が地についてる。ここは大きな違いだと思うな。

小乗仏教と似た感じもありますね。まあ、ブッディズムもインド思想の一つだから、当たり前か。

なかなか興味深い本でした。

2010年3月24日水曜日

ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」エンターブレイン社

★★★★★☆:ストレス解消です。お風呂に入りたくなる

出勤前に、あわただしくWebをチェックしていたところ、古代ローマ人が日本の浴場にタイムスリップして云々する漫画がマ ンガ大賞を取った旨の記事を見ました。ほほう。これは期待できそうだな、と。こういう現実離れした設定は聖☆おにいさんという成功例もあり期待が持てる。ぜひ買ってみよう。

というわけで昼休み。職場の近くの書店巡りです。まずは一軒目。設定の印象が強烈過ぎて本のタイトルとか作者名とか出版社とかすっかり忘れています。当然探しても見つからない。

「すみません」

「はい」

「ええと、ローマ人が風呂に入ってどうこうするマンガってありますか」

「・・・あ!はいはい。ちょっと待ってください」

(探しに行って戻ってきた)

「すみません、切らしてるみたいで」

「そうですか。ありがとうございます」

これで通じるんだ。ははは。と二軒目。ざっと探しても見当たらない。

「すみません。ローマ人が風呂に入るマンガってありますか」

「え!?ローマ人?風呂?ちょっとそれだけでは・・・。作者とか分りませんか?」と人の良さそうな(おそらく)店長さんが困ったように。

「分らないんですよ。すみません」とこっちも苦笑。仕事場に戻りました。

その後Docomo M-ZoneのWiFiを使ってiPodで作者、タイトル、出版社を調査。結局近所の書店にはないことが判明。帰宅途中、最寄り駅の書店で「テルマエ・ロマエ」を購入しました。書店のおばさんに「カバーかけますか?」と聞かれて、何でわざわざマンガにカバーかけるよ?とスゴい違和感。「はい?なんとおっしゃいました?いえいえ。要りません」と嫌な感じで断りましたが、改めて表紙を見るとおばちゃんには気になったんだろうな、と得心。別にいいのに。

内容。ウィスキーをすすりながら楽しく読みました。癒された。こういうマンガは好きです。

ってよく考えると、私の好きなマンガ家って女性が多いんですな。「テルマエ・ロマエ」しかり「聖☆おにいさん」しかり西原理恵子しかり大島弓子しかり。男の漫画家はドキツイか仕掛けがキツかったりして最近はあまり好まない。子供の頃は好きだったんですけどね。ドラゴン・ボール、北斗の拳、魔少年ビーティー。ああいくらでも出てくるな。ジャンプ黄金時代。なつかしや、なつかしや。

2010年3月23日火曜日

M・ブーバー著 野口啓祐訳「孤独と愛〜我と汝の問題」創文社

★★★☆☆☆:名著の品格が漂います。私は批判的に読んだけど。汎神論的キリスト教や神秘主義的キリスト教に興味がある人にお勧め。といってもその枠には収まりません

「我と汝」「我とそれ」という二つのキーワードをベースに、人間の実存を語った宗教的哲学書です。

学生時代に岩波文庫版を流し読みしたことがあって、何となくよい本だったイメージがありました。木との対話のところとか、客観主義や唯物論を超えた神秘思想っぽい雰囲気が気に入ったのだと思います。

しかし今回ナニゲに読み返してみたら一筋縄ではいかない難解な著作であることが分かりました。まず、そもそも、何でまた「我と汝」なのか。そこに違和感。学生時代には引っかからなかったところです。

我とか汝とか、そんな言葉を日常的に使いますか。普通の日本人は絶対使わないと思うな。私。わたくし。小職。僕。オレ。自分。おのれ。手前。拙者。余。日本語にはいろんな一人称があるけれど、「我」は使わないでしょう。あ、関西の人が「なにしとんじゃワレ」というのは別ですよ。だいたいこれ、二人称だしね。

では原題はどうなっているかと言えば「Ich und Du」。英語で言えば「I and you」。すなわち、奴らは始終 "Ich" とか "I" がどうするこうする言ってるわけです。常に主語としての一人称が文章や話し言葉について回る。

一方日本ではどうか。時と場合によって一人称がコロコロ変わります。友人にはオレ。対等あるいは目上の人には私。仕事では小職。一人称がない文章も珍しくはない。先ほどの関西人じゃないけど、二人称にワレとかジブンを使うことすらある。つまり、日本語の一人称には以下の二つの特徴がある。

1.一人称を決めるのは、相手との関係あるいは言葉の文脈である。(例え友人と話していても、上司がいれば私。)

2.一人称と二人称が入れ替わることがある。我(ワレ)。手前(テメー)。己(おのれ)。自分(ジブン。関西で)。(世界でこんな言語があるのかしら)

ブーバーさんに戻ります。彼は「我と汝」を根源語とか言ってるんですが、日本人の私にはすんなり入れない。「我」なんて堅苦しい文語の一人称でしょう。あるいは関西におけるいささか品に欠ける二人称。「私」だってそりゃあ大事な言葉だけど、根源語とも思えない。仕事では私でも、家に帰ればオレになる。娘の友だちと話す時は「オジサン」さ。

いやいや、そんな皮相な理解じゃダメですね。あなたと私という構造は普遍的なものであって、言語が違うとか呼び方がどうだとかは本質的な話ではない。

そんなあなたにはソシュールをお勧めします。人間の意識、思考、世界には言語の構造が大きく関わっている。確かに抽象化されアナロジーと化した「私」と「Ich」は同じように見える。しかし、その実体は大きく異なる可能性がある。例えば「私生活」の「私」とか「公私」の「私」というニュアンスが「Ich」にあるか。あるいは逆に「なにしとんじゃワレ」の「ワレ」をドイツ語に適切に訳せるか。そこにはやはり断絶があると思われる。言語体系を相関付けた時、私と"Ich"が対応すろのは確かだけれども、そこに差違があるのは間違いない。

そしてブーバーさんの「汝」は人間や自然の神性(汎神的概念であるブラフマンまで出てくる)であるわけですが、究極的にはそれはユダヤ・キリスト教の神と結びついている。

一日中 "Ich" だの "I" だの "Je" だの言って、不滅の霊魂としての自我と人格神という思想を持つキリスト教を信仰している西欧人が、「我と汝」が根源的言葉であって、汝ってのは究極的には神だと言う。どうですか。ついていけます?頭では理解できる。でも、得心はいかない。話半分でしか聞けません。我と汝が根源語で、汝は神である、と。最初から結論が出ていたようにしか思えない。

というわけで、興味深くはありますが、いまいちピンとこない本でした。

2010年3月22日月曜日

とある田舎へ

妻の用事に付き合って、家族全員でかなりの山奥に一泊することになりました。

行ったのは妻が小学生時代に育った場所。滅茶苦茶不便なところではありませんが、相当田舎の方です。

こだまに乗って到着。バスに揺られること40分。

到着。上の写真は妻の育った家。もはや人は住んでおらず、荒れてしまっています。

ご覧の通りの山の中。

沢がきれいです。

ここからしばらく集落はなし。人が住んでいない区間に続いています。

不思議に落ち着く感じがしました。決して過疎化しているわけではありませんが、やはり人口密度は相当薄い。すぐそばにいくつもの山がどっしりと構えていて、谷間にはきれいな水が流れています。山遊びも川遊びもできる。登山の途中にバスで通り過ぎるような荒れた山林ではなく、人が住んでいる山という感じがします。ところどころ、現役で林業をしているスペースも見られる。平地ではありませんが、決して険しい土地ではありません。

妻は懐かしい懐かしいといってそこかしこを歩いていました。まさに「私の山、私の川」という感覚だそうです。「小学校に通うとき、宿題を忘れたことに気がついてここであわててやってたのよね」と妻が指差したのは大きな丸太。その丸太はここ数日のうちに切られたものでした。昔から林業が行われていたということでしょう。

この日、一家で私の義理の父が借りている家に泊まりました。トイレは工事現場に置いてあるタイプのもの。水道は山水。電気は通じていますがガスはカセットコンロです。テレビは映らない。風呂は焚き木+ドラム缶風呂。さすがに4人家族では入れないので、下の温泉で風呂は済ませています。

家は古い平屋。たまたま暖かい日で、冬眠していたらしいカメムシやらテントウムシが這い出して子供たちに踏みつけられていました。わざとではありませんけどね。子供たちは虫を見て大騒ぎ。

窓からは当たり前ですが山が見えました。普通に窓から山の見える生活。ああ。これはいいな。いいもんだな。と思いました。東京で妻が、窓に映る家の影に何とか山とか名前を付けて喜んでいる気持ちがよく分かりました。このあたりで育った彼女にとっては窓から山が見える生活がルーツなのです。

私はといえば、小さい頃にそれなりの田舎に居たことはありましたが、そこはあっという間に工業団地として整備されてしまいました。ということで、いわゆるド田舎で育った経験はありません。周りの田んぼは広かったけれど。そんな私ですが、山に囲まれた、虫の這い出る工事現場のトイレ付きの平屋で食事をしていると、なんだかとても自然な落ち着いた気持ちになりました。理屈を越えた落ち着きです。なんだか田舎暮らしに惹かれる人が多いのも分かるような気がしました。

夜はとにかく暗くて静か。懐中電灯を持って子供と夜の散歩に行きましたが、早々に子供は怖がってしまい、すぐに家に戻るハメに。近所に熊だのいのししだのが出るそうです。狸くらいには会えるかと思ったのですが。

家に戻って歯を磨いて布団へ。疲れていた私はすぐに眠り込みました。

夜中のこと。ふと目が覚めました。激しい雨が屋根を叩き、風が吹き荒れる音。雷も聞こえます。枕もとのiPodをみると午前3時ちょうど。

明らかに都会とは異なる世界にいる、という気持ちがしました。慣れの問題でしょう。落ち着かない悪夢とイメージとともにウトウトしつつ、ドビュッシーを聴きながら、半分目覚め、半分眠りながら朝を迎えました。朝は晴れ。

不思議と楽しい一泊旅行でした。これといったイベントがなかったにも関わらず、子供たちも大満足。これはもう一度行かねばなるまい。まだ何か大事なことを見逃している。理解していないものが、まだある。何となくそんな気がしています。

追記: 考えてみれば毎日がキャンプ。毎日が山遊び、川遊びです。これは楽しい。DNAレベルで私の心に響いたのも分かります。

2010年3月19日金曜日

嫌韓とかいう根強い風潮もあるけれど

日本の「韓国企業に学べ」ブーム、韓国の反応は・・・ を読みました。韓国を見習えとする日本経済新聞の社説への韓国の戸惑いを描いた、日本人心をくすぐる謙譲の美徳あふれた反応です。

それにしてもWebの世界での嫌韓の雰囲気はスゴいです。戸惑うほどです。2chを見て韓国を嫌いになった、という人も多いと思われる。ライバルってのは分かるけど、日本のネットでの韓国嫌いアジテーションは相当です。

私は韓国の方若干名と仕事したことがありますが、皆さん純朴でまじめな感じで、とてもいい印象が残っています。実際、私以外の複数の人も、キムさんいいねえ。とか言っていたので、おそらくは私の印象に間違いはない。まあ、むやみに一般化する気はありませんが、ネットでの嫌韓の雰囲気は異常だと思う。あれは本来の韓国像どうこうというより、日本の若者のフラストレーションが爆発している先がたまたま韓国である、そんな気がする。

ということで私は、嫌韓や韓国叩きを見るたびに、日本が自信を失っているんだなあ、という風に感じます。表現は悪いけれども、日本が韓国を圧倒している事実があれば、わざわざ韓国を叩かないわけでしょ。韓国が日本を圧倒しているということはないけれども、少なくとも日本は元気を失い、韓国企業やら韓流コンテンツはテレビを流れている。

戦前の日本を正当化するにせよ、右寄りに日本を讃えるにせよ、そこに韓国を絡めるというのはどうも筋違いという気がしてならない。矛先が誤っているんじゃないか。敵は本能寺じゃないですかね。本能寺がどこかはしらないけれど。

2010年3月18日木曜日

会田雄次「アーロン収容所」中公新書

★★★★★★:傑作です

笑いあり涙ありの収容所生活の記録。重要な戦後の資料であるとともに、一級の文学的エッセーでもあります。

日本人の国民性を読み取ってニヤリとするもよし。西欧人の人種差別意識に触れてその植民地主義価値観に疑問を持つもよし。アジアの人との交流にホッとするのもよし。人種、民族に関する分析や、社会学的分析に啓発されるのもよし。様々な読み方ができます。

巻を置く能わずで一気に読みました。お勧め。

ジャック・デリダ著 増田一夫訳「マルクスの亡霊たち」藤原書店

☆☆☆☆☆☆:一般的日本人には価値なし

精神=ガイスト=亡霊というキーワードにシェイクスピアなどの古典を絡めながら、冷戦崩壊後のマルクス主義について語られた本です。まあ言葉遊びですね。極東の日本に住み、アメリカ流資本主義を問題視する私にはインパクトなし。言っちゃあ悪いけど、マルクス主義はもはや結構どうでもよい。それよりも日本流の家族、世間主義の復興に期待したい。

しかし一時期の学者のマルクス主義への思い入れは異様ですね。吉田茂の共産主義なんてダメじゃないか、という素朴な直感が結局は正しかった。いや、あれはスターリンがいけない、フルシチョフが。ダメです。結果が全て。ロシアの悪夢の官僚主義と弾圧とインフラの弱体化こそが事実。西洋の思想家も余計なところにカロリー使って大変だなあと思います。

後、ドゥルーズ、デリダあたりのフランス現代思想ってかなり意味不明です。単語と文章からしてさっぱり分からん。フーコーまでならまだ日本語として読めるんですけどね。こんなの有難がってもしょうがないんじゃないかしらん。この時代に日本で読む意味があるのかね。

まあ、当方のおつむが足りないだけという可能性も多いにあるので、引き続きチャレンジしてみますけど。

谷徹「これが現象学だ」講談社学術新書

★★☆☆☆☆:コアな文系学生限定

熱心さは伝わってくるものの、果してこれがどれだけの人に届くのかね、とちょっと冷めた目で見てしまいました。

結局西洋哲学というのは、遠い国の、まったく異なった思想、宗教を背景として持つ人たちの産物ですから。

まず普通に理解するのが大変。だってキリスト教ですよ?全能の人格神とか三位一体とかそんなの分かりませんよ。でもそれが分からないと確実に西洋哲学はわからない。タチが悪いのは、フッサールまでの西洋哲学は確かに客観的普遍的なように見えるのですが、実はかなり歪んだ西洋的バイアスがかかっている点です。主観とかロゴスとかね。まさに西洋のキーワードです。

そこんところ、エポケーとか現象学的還元で分からないのかね。

この本、真っ向から現象学を紹介してるんですが、若干息苦しい。熱意の上滑りという気もしてしまう。だって厳密な学の基礎付けなんてモチベーションが理解できます?できたとして興味持てますか?

文系学問の宿命なのかもしれませんが、教授の皆さんももう少し自由に好き勝手に思い入れ含めて書いてもいいんじゃなかろうか、と愚考します。そういう意味では竹田青嗣さんなんかはいい仕事してると思いますね。

2010年3月16日火曜日

中村逸郎「帝政民主主義国家ロシア〜プーチンの時代」岩波書店

★★★★★☆:読む価値あり。スリリングで面白い

良書です。プーチンのロシアが、市井の人々のインタビューとともにありありと迫ってきます。

今のロシアは、まさにカフカ的世界のようです。つまり最大限に非効率的な官僚主義。カフカの小説と異なるのは、ロシアの官僚が非効率的なだけではなく、腐敗している点にあるとすら言えます。また、既得権益層が頑張ったおかげでかつての社会主義的システムはまだまだ強固であり、官がダメなら民で、などという選択肢もない。官しかない。しかもその官が絶望的。非効率的な官によるサービスの独占。市民は悲惨な状況に置かれています。

具体的には、官僚が新興企業から賄賂を貰い、旧国有財産を安く横流ししたり、不透明な案件に税金を投入したり。しかも、市民が新興企業の活動で迷惑をこうむったと官僚に訴えても、当然なにもしてくれない。

他にも悲惨なのはロシアの居住環境。建物を診断する公的機関によって修繕が必要とされた、老朽化した公共アパートが、いつまでたっても修繕されることがない。暖房が壊れたまま、冬を越さざるを得ない人々。ロシアで、ですよ。室内でのマイナス5度や10度は当たり前。しかも、そのアパートは、何人もの家族が住んでいるにも関わらず、極めて狭く、トイレやキッチンは共用。住民同士はまさに一触即発の関係にあり、実際共同アパートでの殺人事件はよくあるという。

市民が当然受けられるはずの、生活に必須の公共サービスが、何年も棚上げされるのが当たり前になっていて、市民は諦めと怒りとともにその状況を受け入れている。

この社会環境で希望の矛先となっているのが、実行力があり、清廉なイメージを持つプーチンというわけです。官僚機構が絶望的であり、なにも期待できない。市民は最終的なよりどころとしてプーチンへの直訴に向かい、訴えることによって満足感を得る。でも、当然ながら実際には現状が改善されることはありません。実際、プーチンが清廉で公平で市民のことを優先して考えている証拠は、息のかかったマスコミから発信される情報以外はどこにもない。

プーチンの高い支持率が、実は危うい基盤に成り立っていることがよく分かります。そうだったのかロシア。スリリングで面白い本でした。

2010年3月15日月曜日

ダスグプタ著 高島淳訳「ヨーガとヒンドゥー神秘主義」せりか書房

★★★☆☆☆:まあまあ

最近朝と晩に、柔軟体操を兼ねて見よう見まねでヨガもどきのポーズを取っていることもあって、図書館でタイトルを見かけてナニゲに借りてみました。

期待してなかったのですが意外と良書でした。まず神秘主義を対象としながらも理路整然と記述している。それからバランスがいい。ヒンドゥー、ヨガ、仏教の概説が手短に、それでも要点を抑えて書かれています。ダスグプタさん、どうやらその道の大家だったようです。1926年の講演がもとになってできた本とのことでずいぶん昔の本なのですが、古びてない。これは失礼しました。

後は西洋の物質主義、欲望主義の批判が気持ちいいです。読んで何となく居住まいを正してしまった。インドの宗教や思想は面白い。以上。

池田元博「プーチン」新潮新書

☆☆☆☆☆☆:読む価値なし

きっかけはゴルバチョフ回想録。今のロシアはどうなっているのか、プーチンというのはどういう存在なのか。気になって読んでみました。

感想。表面的な内容だった気がします。プーチンとはどんな人間か。いったい何を考えているのか。あまり説得力を持った解説はありませんでした。まあ無い物ねだりをしてもしょうがないので、皮相な情報なりに整理してみると、プーチンとはどうやら優秀な官僚であって、運と時代の流れが彼を大統領の地位にまで推し進めたらしいと。

これも皮相な印象ですが、いろんな意味で中道というか極端ではない人みたいですね。そこそこいいことをするし、そこそこダークな面もある。ロシアの成金を、一方では弾圧して他方では上手く使っている。それから強力なリーダーシップとマスコミに対する実権を握ったこと。これらがプーチンがロシアの人々から支持される理由のようです。

いずれにせよエリツィン後の混乱を何とか収め、国民の支持を受けていることは評価できるでしょう。この新書から得られた情報はこんなもんでした。

追記
その後、中村逸郎「帝政民主主義国家ロシア〜プーチンの時代」を読みました。それと比べるとこの新潮の「プーチン」はダメダメです。余りにも浅く、表面的。読む価値なし。

2010年3月14日日曜日

ヨガは下痢を救うのか

訳の分からないタイトルで申し訳ない。しかし誰かから、ヨガが本当に下痢を救うのか、とまじめに問われれば、そうだろうね。と答えます。ことにその下痢が心因性のものであれば、100%。ヨガは下痢を救う、と私は確信するものであります。

心因性の下痢とは何かと言えば、ストレスで腹が下るとか、その手のやつです。

仮に心因性の下痢が存在する、と想定しましょう。また、私はヨガは心因性の下痢を救うと考える。とすれば私にとっては、必然的にヨガは下痢の原因となる心の問題を解決するものである、こういう命題が成立することになります。どうですか、この三段論法。まったく客観的ではありませんな。しかしまあ、心と体という関係を前提として考えたとき、もっとも先鋭的なところに踏み込むのはヨガである、と私は強く考えるものであります。

なんだか訳の分からない投稿になってきましたな。ま、いっか。

電車でiPodであわただしく更新するのと、酒を飲みながらのんびりキーボードを叩くのとでは、文章からして違ってきますね。

さて。ヨガです。

それはあらゆる筋肉を使い、ほぐすものです。

そして筋肉には二種類が存在する。一つは自分の意図どおりに動く筋肉(随意筋)。もう一つは意図どおりには動かない筋肉(不随意筋)。

例えば腕の筋肉は意識したとおりに動く(と思われる)。目の前にあるコップを取ろうと思えば、腕の筋肉が動く。モノを拾おうと思えば、足と手の筋肉が動く。一方、内臓の筋肉は考えても動かない。心臓の鼓動は意志では止まらない。

しかし、ヨガがあらゆる筋肉を使うものであるとすれば、常識的には制御不能であるはずの筋肉を使うことが出来ることになる。

しかるに、神経性の下痢は内臓の動きがマズいがために発生するものである。

ゆえに、その内臓の動きを制御することができれば、下痢は起こらない。

どうですか。このスキのないロジック。

実際、熟練のヨガの行者は意識的に心臓の鼓動を止めることができると、わりと信頼できる筋の、複数の本で読んだことがある。例えばヨガをたしなんでいたジャック・マイヨールは、潜水時に脈拍が相当減少していたらしい。そして数々の伝説が、ヨガ行者の不思議な技や、苦行を伝えている。

すなわち、人体の不随意筋をコントロールすることによって、人は常識的には考えられないようなことができる。

常識的には考えられないと言っても、昔の日本人は汗をかくかどうかを意識的にコントロールしていたらしい。あるいは女性の生理の日程をある程度までコントロールしていたという話もある。とすれば、昔の常識では不随意筋や体の調子のコントロールも、それなりに出来ていたことになる。

下痢は別に常識外の事象ではない。すなわち、人は下痢をコントロールできる。あ、でもヨガの前に暴飲暴食を止める必要がありますけどね。

下痢はもういいか。

結局何が言いたいかというと、心身のズレが引き起こす問題とか、心と体の問題ってのは、心と体を分けたその時点で不可避的に発生しているものであって、本来であれば心も体も一つ。仏教的に言えば無であり、西田幾多郎的に言えば絶対矛盾の自己同一であって、そもそもそこが出発点なんじゃないかと思うわけです。自然に考えれば、心は身体であり身体は心。我とか意志とか、そんな虚しいものが苦を産み、生を痛々しいものにしている、とそんな気がしてしょうがないと思うのです。

なんとなく(私的に)スッキリしたところで、以上。

2010年3月13日土曜日

崖の上のポニョ

ポニョです。この間テレビ放送したのを、気が向いたときに少しずつ見てます。甲類焼中のお湯割りを啜りながら。

この映画をテレビでしみじみ見ると、細かいところを本当にきちんと作ってることに気がつきます。表情の一つ一つ、風景。究極の職人芸って感じですね。スゴイっす。

2010年3月12日金曜日

「俺たちに明日はない」

ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイが出てるやつです。

人物の描写が秀逸です。ストーリーもなかなか。若さと勢いで人生を駆け抜けた二人の、ほろ苦い(どころじゃないか)青春ストーリー。

今見ても十分楽しめました。佳作です。

田中克彦「ノモンハン戦争」岩波新書

★★★★☆☆:学者の良心

ノモンハンといえば村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」なわけですが(そうか?)、これは近代モンゴル史の第一人者による、迫力のある研究です。著者のの人としての良心と気概、そして真実を求める迫力が伝わって来ました。良書です。

デイヴィット・ハルバースタム「ベスト&ブライテスト(上)(中)(下)」朝日文庫

★★★★★★:アメリカを考える上では必読。読みにくいのが玉に瑕

ベトナム戦争という悲惨な事態の発生とその泥沼化を追った凄いルポルタージュです。硬い翻訳と政治家の名前の奔流に苦労しますが、そんなことはおかまいなしにグイグイ引き込まれます。間違いない傑作です。

ベトナム戦争?何か昔の話だよね。しかも日本には関係ないし。そんな風に思って気軽に読み出した私はすぐに考えを改めました。こりゃあ深い。普遍的な問題を提起するルポルタージュだ、と。

絶対に正しい自由な民主主義に対する絶対悪としての共産全体主義。冷戦構造と軍拡競争。その悪の組織たる共産主義政権がベトナムを飲み込もうとしている。そんな現状と乖離した安直なスキームと、アメリカ的価値観の押し付けに、最終的にはとんでもなく高い代償を払うことになりました。しかもアメリカが得たものは多くの若者の戦死と、世界からの批判だけ。

文官と軍官の衝突。隠蔽と偽装工作。見たいものしか見ない人たち。自分たちの方法論と成功体験に固執し泥沼にはまり込むエリートたち。戦局を拡大させたジョンソン大統領がエリートではなかったのもまた救いがない。その後を次いだニクソンも実に凡庸。

残念ながらベトナム戦争は、傲慢で優秀なエリートによる民主制も決して万能ではないという証左のようです。自分の見たくないものは見えないという人間の弱さと、権力への固執、それから驕りと油断。あまりにありふれた人間的な欲望が、悲惨な結果を引き起こす。エリートだろうが生え抜きだろうが、その事実は変わりません。

ゴルバチョフ回想録とこれを読んだ感想は、やはり投票による民主制というのは最低限のラインだなあ、というものでした。ファシズムは安直で手っ取り早そうだけど間違ったところに行ったら破滅は必定。人間は絶対に間違える。指導者が間違えた時に、一人一人がちゃんと投票で指摘しないと、民主主義は絶対に正常に機能しないと思います。自民党(&大企業&アメリカ)に任せてれば、なんのかんの言ってもそこそこの政治が行われていた時代は終わった。優等生っぽいことを言って恐縮ですが、これからは選挙を通じて一人一人が意思表示をしていかないとマズいと思いましたね。無関心と無介入だと、とんでもないところに連れていかれるかもしれませんぜ。小泉竹中がいい例で。

2010年3月11日木曜日

プロジェクト試論(アフォリズムによる)19

システム設計書には二つの意味がある。一つはあるべき姿の記述。もう一つは「現にそうなってしまった」事実の反映。つまりソフトウェアの設計とは、設計時においては未来の記述であり、メンテナンスにおいては過去の記述なのである。

したがってソフトウェアの設計を、ハードウェアの設計のアナロジーで捉えることは誤りである。ソフトウェアの設計はもっと柔軟で、後の変更がきく。そして実装時に創造力を発揮する余地が大きい。

実際、ソフトウェアの開発においては、常に設計よりも実装のほうが優れている。いや、むしろ設計どおりでは動かないはずのものが、実装された段階で動き出すのだ。

ここから導かれる教訓が二つある。

完璧なソフトウェア設計はありえない。(デマルコはここで誤りを犯している)

ソフトウェアの設計は実装とその結果を常に反映し続けるべきものである。

厳密に言えば、実装は終わっても設計に終わりはないのだ。コード=設計とすれば実装は完了する。しかし、コードの持つ意味は、時間とともに変化しうるから。

常識的には受け入れがたいことだが、これは真実である。

2010年3月9日火曜日

アカデミー賞

アバターは賞を取れませんでしたね。アメリカ自己批判っぽいメッセージ性が嫌われたんじゃないのかね、という印象です。妻も、そうかもねえ、なんて言ってました。なんだろうな。アメリカってのも複雑な社会ですな。受賞作品はアレだし。いろんなアメリカがあります。

ロマノ・ヴルピッタ「ムッソリーニ」中公叢書

★★★★☆☆:イタリア人の見たムッソリーニ。第二次世界大戦時の日独伊の体制がファシズムという言葉で一括りにされたりしますが、ものごとはそんな単純ではないといのが分かります

ムッソリーニ。名前は聞いたことあるけど。詳細は全く知りませんでした。ファシズムという言葉にもリアリティなし。先入観ほとんどなし。

読んでみると面白い。ムッソリーニさん、なかなかカッコいい生き方をしたようですね。国のことを真剣に考えていた。ファシズムといえば全体主義、独裁主義の代名詞ですが、実際にはムッソリーニは止むなく独裁体制を取っただけであって、むしろ直接民主制を目指していた模様。反対派の弾圧もかなり甘かったようです。マキァベリズムとすらも言えません。女性関係以外は清廉で使命感に燃えた立派な政治家だったようです。

私の理解では、ファシズムとは直接民主制を土台としたエリートによる寡頭政治。エリートといっても、民衆への教育を通じて優秀な人を育てるという健全な発想です。その意味では日本の官僚システムも一種のファシズムですわな。昨今の官僚が優秀かどうかはさておき。

男尊女卑を言明しているあたりは現代には受け入れられないでしょうが、特にそれほど変な思想とは思えない。別にいいんじゃないの。ムッソリーニ的ファシズム。ヒットラーのファシズムはヤバイですけど。何ごとも運用次第です。

それから日本、イタリア、ドイツが戦争を始めるに至った経緯や、ドイツの考え方も興味深い。やはりこれらの国はイギリス、フランス、アメリカの圧力を受けてワリを食ってたんですね。しかし、ドイツには黄禍論が根強く、アメリカを敵に回まわしたくなかったということもあり、日本の参戦を喜ばなかったとか。逆にムッソリーニは日本のサムライ文化に強い親近感を抱いていたとか。歴史は面白い。

ファシズムで思い起こされるのはチャーチル(だったか)の言葉。「民主主義は最悪の思想だが、それよりましなものがない」という旨の警句です。この人、ムッソリーニを高く評価していたらしい。しかし、ファシズムよりもダメだが民主主義を選ぶ、という判断は正しいセンスだと思います。寡頭政治はいつかは腐敗するんだよね。多分ね。