今BSでスティーブ・マクイーン特集やってるんですが、カッコいいですなあ。高校生からカッコいいと思っていたなあと思い出す。私の若いころのオジサンアイドルは、デ・ニーロ、イーストウッドとこの人でした。
今の時代に出現したらダサダサのあり得ない恰好なんですけど、なんかカッコいい。存在感がある。山本監督も言ってましたが演技に見えないんですな。
また映画も微妙にB級っぽくて素敵。60~70年代アメリカン映画の王道。結構好きです。
モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
2010年11月13日土曜日
表現としてのファッションの考察
またしてもファッションに関する考察です。このブログで「ファッションとは表現である」旨のことを度々言ってるわけですが、ファッションが表現である以上、その表現を受け取る人に配慮せざるを得ないということはあります。具体的には「お客さんに寒々しい印象を与えないためのファッション」とか「まわりの人に失礼にならないためのファッション」といったものが存在するわけです。
表現は他者を前提とした活動です。他者がいて始めて表現が成立するワケ。だから表現としてのファッションを意識したとき、そのファッションが他者に与える印象を考慮せざるを得ない。いくら「ランボー」「コマンドー」スタイルに憧れているといっても、上半身裸でアーミーナイフをぶら下げて街中を歩くわけにはいきません。確かにそれもまた表現の一つでしょう。しかし、そこには他者の考慮が漏れている。他者を考慮しない表現は、いわゆる「イタイ」表現になってしまう。
ただ、受け取る人の感性もさまざまです。「イタイ」服装であったとしても、それをちゃんと評価する人もいないとは言えない。あるいは逆に「穏健で品の良い」服装であったとしても、それを鼻で笑う人がいるかもしれない。
でも、おそらくは「中庸」というものがあって、8割の人間が不快感を持たないラインというものがあるに違いない。だから、ファッションとは批判的である(と想定した)他者の目を意識しつつ、6~8割の人間が許容するであろうラインを狙って、なおかつ個性を表現するものである、と定義できるかもしれませんね。
表現と対象、自分、他者は、必然的にズレていくものです。環境、時間が移り変わるとともに、表現はズレていく。発信する側も変わっていくし、受け取る側も変わっていく。そのズレを意図的に裏切ったり、見事に裏切られたりしながら、表現と意味とのズレを楽しむのがファッションのあり方なのかもしれません。
表現は他者を前提とした活動です。他者がいて始めて表現が成立するワケ。だから表現としてのファッションを意識したとき、そのファッションが他者に与える印象を考慮せざるを得ない。いくら「ランボー」「コマンドー」スタイルに憧れているといっても、上半身裸でアーミーナイフをぶら下げて街中を歩くわけにはいきません。確かにそれもまた表現の一つでしょう。しかし、そこには他者の考慮が漏れている。他者を考慮しない表現は、いわゆる「イタイ」表現になってしまう。
ただ、受け取る人の感性もさまざまです。「イタイ」服装であったとしても、それをちゃんと評価する人もいないとは言えない。あるいは逆に「穏健で品の良い」服装であったとしても、それを鼻で笑う人がいるかもしれない。
でも、おそらくは「中庸」というものがあって、8割の人間が不快感を持たないラインというものがあるに違いない。だから、ファッションとは批判的である(と想定した)他者の目を意識しつつ、6~8割の人間が許容するであろうラインを狙って、なおかつ個性を表現するものである、と定義できるかもしれませんね。
表現と対象、自分、他者は、必然的にズレていくものです。環境、時間が移り変わるとともに、表現はズレていく。発信する側も変わっていくし、受け取る側も変わっていく。そのズレを意図的に裏切ったり、見事に裏切られたりしながら、表現と意味とのズレを楽しむのがファッションのあり方なのかもしれません。
2010年11月12日金曜日
剣先イカトマトパスタ、チキンクリームスープ、イワシのオリーブオイル焼き
トマトソースを作ります。オリーブオイルとにんにくを温め、トマト缶を二つ、塩少々。これだけ。ひたすら弱火でくつくつと煮ていきます。

その間に野菜を刻んでおきます。赤ピーマン、緑ピーマン、玉ねぎ。

トマトソースの様子を見計らって野菜投入。

次に頑張ってイカを捌いて、投入。鍋を移し替えます。

次に頑張ってイカを捌いて、投入。ビタクラフトは後で使うので、ペラペラ鍋にソースを移し替えます。

トマトソースと平行して手羽元を圧力鍋で調理しておりました。手羽元17分、白菜を投入してさらに3分。仕上げに、例によって小麦粉を寝かせた牛乳を混ぜただけ。

それからイワシです。子供は食べないだろうと思って親の分だけ。

頑張って手開きにしたのを、

オリーブオイルとにんにくで焼き蒸ししました。→レシピ
美味かったっす。最近冒険しないせいか外れがない。ふふふ。

その間に野菜を刻んでおきます。赤ピーマン、緑ピーマン、玉ねぎ。

トマトソースの様子を見計らって野菜投入。

次に頑張ってイカを捌いて、投入。鍋を移し替えます。

次に頑張ってイカを捌いて、投入。ビタクラフトは後で使うので、ペラペラ鍋にソースを移し替えます。

トマトソースと平行して手羽元を圧力鍋で調理しておりました。手羽元17分、白菜を投入してさらに3分。仕上げに、例によって小麦粉を寝かせた牛乳を混ぜただけ。

それからイワシです。子供は食べないだろうと思って親の分だけ。

頑張って手開きにしたのを、

オリーブオイルとにんにくで焼き蒸ししました。→レシピ
美味かったっす。最近冒険しないせいか外れがない。ふふふ。
2010年11月11日木曜日
2010年11月10日水曜日
白菜スープ、イワシ梅煮、じゃこチャーハン
寒さを増すとともに気合が入ってきた料理です。でも、一時期あんなにハマっていたパン作りはやらなくなったなあ。やっぱり大変だし時間がかかるもんな。また気が向いたらやるかもしれませんけど。
さて、今回は白菜スープ、イワシ梅煮、じゃこチャーハンです。最近うまそうなイワシと出会う機会が多かったため、ぜひ食べたかった。子供の嫌いなイワシ。わたしは大好き。
まずは白菜スープです。水少なめ、白菜山盛り、塩少々で、圧力鍋はイワシに占領されているので普通の鍋でぐつぐつ茹でます。白菜がくたっとしたら豚肉を刻んだのを入れて再びぐつぐつ。

仕上げる15分ほど前にスープの素と醤油で調味で完成。

次に梅煮です。レシピはクックパッドを参照。結果的に当たりレシピということが判明しています。梅を刻んで、

酒、醤油、砂糖を入れて、

不退転の決意でイワシを捌いて筒切り。鍋に放り込んで、

二十分加圧。中骨はまだ固いですが、小骨はサクサク。

次にじゃこチャーハンです。ネギとピーマンを刻んでじゃこと混ぜて、

卵を入れて混ぜます。(画像は2人前)

あとは中華鍋をカンカンに熱して一気呵成に仕上げるだけ。

小確幸な夕食でした。
さて、今回は白菜スープ、イワシ梅煮、じゃこチャーハンです。最近うまそうなイワシと出会う機会が多かったため、ぜひ食べたかった。子供の嫌いなイワシ。わたしは大好き。
まずは白菜スープです。水少なめ、白菜山盛り、塩少々で、圧力鍋はイワシに占領されているので普通の鍋でぐつぐつ茹でます。白菜がくたっとしたら豚肉を刻んだのを入れて再びぐつぐつ。

仕上げる15分ほど前にスープの素と醤油で調味で完成。

次に梅煮です。レシピはクックパッドを参照。結果的に当たりレシピということが判明しています。梅を刻んで、

酒、醤油、砂糖を入れて、

不退転の決意でイワシを捌いて筒切り。鍋に放り込んで、

二十分加圧。中骨はまだ固いですが、小骨はサクサク。

次にじゃこチャーハンです。ネギとピーマンを刻んでじゃこと混ぜて、

卵を入れて混ぜます。(画像は2人前)

あとは中華鍋をカンカンに熱して一気呵成に仕上げるだけ。

小確幸な夕食でした。
iPadでゲームですか
最近電車やカフェでiPadを見かけることが多くなりました。大体あれですね。産経新聞見たり、何か(本?Web?)読んでたりそんな使い方が目に留まります。後はマンガとかゲーム。そんなに熱心に観察しているわけではないけれど。
しかし、マンガとゲームに偏見はありませんが、iPad+マンガ・ゲームには違和感を持ってしまうのは私だけでしょうか?多分(面白くはないけれど)適切な比喩として、電車でノートPC広げてソリティアやるか?みたいな。バッテリーもったいなくね?みたいな。使い方間違っているとまでは言わない(わたしには言えない)けれど、違和感からは逃れがたい。
電車でゲームするのは分かります。退屈だからゲームしよう。そりゃそうだ。PSP、DS、iPhoneだったら違和感もありません。しかし、これがiPadだと変ですよ。だって、デカイもの。隣でパリッと決めたリーマンが、立派な皮ケースに入ったiPad取り出して、画面を指で縦横無尽にコスってました。何やってるかと思えばゲーム。なんだかなあ、と思ってしまう。
繰り返しますが、わたしはマンガ・ゲームをバカにするタイプではありません。日本のマンガは本当に凄いと思う(関係ないけれど、クリエーターさんたちがちゃんと報われているのか、及ばずながら心配もしている)。ゲームだってファミコン、スーファミの時代にお世話になったし、今でも強力なコンテンツだと思う。しかし、iPadでするとなると・・・ねぇ・・
なんつーか、オーバースペックな感じです。あーモッタイナイっちゅうか。
でもね、確かに「じゃあ何に使うんだよ」と言われたら困っちゃいますね。(わたしはiPadは持ってませんが)
無線LANサービスと契約してWebでも見たらどうか。ブログの更新。産経新聞。情報収集。電子書籍。へ。なんだ。偉そうなこと言って大した使い方できないじゃないか。そう言われてしまうと、わたしもうつむいて画面のasahi.comをコスるしかない。(iPad持ってないけど)
だってしょうがないじゃないか。使えないんだもの。
実はiPadはこと文章のインプットデバイスとしては、かなりイマイチなんですな。操作感は確かに凄い。革新的だ。でも、文章打てなきゃしょうがないよね。ってこれは私の感想。Bluetoothのキーボード持ち歩くくらいなら、ノーパソ買う。Linuxノートがあれば情報収集はもちろん、OpenOfficeで簡単な報告書の草稿が作れる。ブログの更新だってできる。プログラミングだってできる(本当にやってます)。iPadじゃ、ムリ。
じゃあ、あのiPadは何に向いたインプットデバイスなのか。
やっぱ、ゲームじゃん?
ははあ。そういうことだったのか。
だったら冒頭のリーマンお兄さんにはあやまらなければいけません。あなたは正しいお兄さんでした。大変失礼しました。
ということで、もしiPadでゲームしている人に違和感を持ったとしても、それは正しいことをしているのですから、ちゃんと「正しいことをしているんだなあ」と思いましょう、とそういうことですかね。
しかし、マンガとゲームに偏見はありませんが、iPad+マンガ・ゲームには違和感を持ってしまうのは私だけでしょうか?多分(面白くはないけれど)適切な比喩として、電車でノートPC広げてソリティアやるか?みたいな。バッテリーもったいなくね?みたいな。使い方間違っているとまでは言わない(わたしには言えない)けれど、違和感からは逃れがたい。
電車でゲームするのは分かります。退屈だからゲームしよう。そりゃそうだ。PSP、DS、iPhoneだったら違和感もありません。しかし、これがiPadだと変ですよ。だって、デカイもの。隣でパリッと決めたリーマンが、立派な皮ケースに入ったiPad取り出して、画面を指で縦横無尽にコスってました。何やってるかと思えばゲーム。なんだかなあ、と思ってしまう。
繰り返しますが、わたしはマンガ・ゲームをバカにするタイプではありません。日本のマンガは本当に凄いと思う(関係ないけれど、クリエーターさんたちがちゃんと報われているのか、及ばずながら心配もしている)。ゲームだってファミコン、スーファミの時代にお世話になったし、今でも強力なコンテンツだと思う。しかし、iPadでするとなると・・・ねぇ・・
なんつーか、オーバースペックな感じです。あーモッタイナイっちゅうか。
でもね、確かに「じゃあ何に使うんだよ」と言われたら困っちゃいますね。(わたしはiPadは持ってませんが)
無線LANサービスと契約してWebでも見たらどうか。ブログの更新。産経新聞。情報収集。電子書籍。へ。なんだ。偉そうなこと言って大した使い方できないじゃないか。そう言われてしまうと、わたしもうつむいて画面のasahi.comをコスるしかない。(iPad持ってないけど)
だってしょうがないじゃないか。使えないんだもの。
実はiPadはこと文章のインプットデバイスとしては、かなりイマイチなんですな。操作感は確かに凄い。革新的だ。でも、文章打てなきゃしょうがないよね。ってこれは私の感想。Bluetoothのキーボード持ち歩くくらいなら、ノーパソ買う。Linuxノートがあれば情報収集はもちろん、OpenOfficeで簡単な報告書の草稿が作れる。ブログの更新だってできる。プログラミングだってできる(本当にやってます)。iPadじゃ、ムリ。
じゃあ、あのiPadは何に向いたインプットデバイスなのか。
やっぱ、ゲームじゃん?
ははあ。そういうことだったのか。
だったら冒頭のリーマンお兄さんにはあやまらなければいけません。あなたは正しいお兄さんでした。大変失礼しました。
ということで、もしiPadでゲームしている人に違和感を持ったとしても、それは正しいことをしているのですから、ちゃんと「正しいことをしているんだなあ」と思いましょう、とそういうことですかね。
2010年11月8日月曜日
自由が丘に行ってみた
何を血迷ったか自由が丘に行ってまいりました。

何でかっていえば、自由が丘ならおもしろい服でもないかしらと思ったので。いやあ、変わったな>自分。
実はわたくし、「自由が丘」というブランドがある(「吉祥寺」とか「秋葉原」と同じ意味で)ことすら知らなかったんですね。妻に自由が丘でも行ってみたら?と言われたとき、何それ?食えるの?ってなもんでした。月並みな表現ですが。で、行ってみた。どうだったか。

はい。ダメでした。若い女性(MAXで幼児ママさん)ターゲットがほとんどと見た。男性用の服は大して面白いものはなかったように思います。といっても、全店見たわけじゃありませんがね。散歩した限りでの話。それからもちろん、わたしのお財布&好み基準での話です。
しかしまあ、興味を引いたのは「自由が丘」という存在です。さすがに「光が丘@練馬」とは違うぜ。当たり前か。しかし「なんだなんだこのおしゃれスポットは!」って感じですね。こんな世界があったのか。住宅街と多数のファッション系店舗が共存している。デパートのフロアを全部地上に展開して、店舗ごとに解体して、住宅街に楽しそうにちりばめた感じ。散歩すると、あるわあるわ、オシャレなお店、カフェ、レストラン。流行りの服を来た若い子が嬉しそうにショップ・カフェ巡りしている模様。まさに「オシャレ女子のためのテーマパーク」とでも言いましょうか。ちなみにバカにしているわけではない。しかしまあ、自由が丘、どうしてこうなった。と感心しきりでした。

ナニゲに不動産の店を覗くと(ハッキリとは覚えていませんが)3LDKで家賃が40~50万しよる。どうなっているのか。一体どこから金が出てるんだ。
結局、もの凄い金額の資本が投下された街なのだ、ということでしょう。
さて、この街を「吉祥寺」と比べると興味深い気がします。あんまり吉祥寺に詳しいわけじゃないけど。どちらも「おしゃれ」というブランドなわけですけど、吉祥寺の方が猥雑な感じがあります。生活感もある。やや人生に疲れた系のオッサンも普通に歩いてる。自由が丘にも飲み屋街がありましたが、吉祥寺ほど猥雑な感じは無さげ。また、自由が丘を歩く人生に疲れた系のオッサンは、吉祥寺にいるよりももっと疲れているように見える。昼間っから呑むとしたら吉祥寺だよね。という感じがします。ホロ酔いオジサンはちょっと自由が丘歩けない気がするから。
ま、ハッキリ言って好みじゃありませんがね。作られた感、うすっぺらい感があって、味わいがないっつーか。どうせご縁がない街だからいいんですけど。でも、おもしろい街だとは思いました。一度行ってみる価値はありますね。

何でかっていえば、自由が丘ならおもしろい服でもないかしらと思ったので。いやあ、変わったな>自分。
実はわたくし、「自由が丘」というブランドがある(「吉祥寺」とか「秋葉原」と同じ意味で)ことすら知らなかったんですね。妻に自由が丘でも行ってみたら?と言われたとき、何それ?食えるの?ってなもんでした。月並みな表現ですが。で、行ってみた。どうだったか。

はい。ダメでした。若い女性(MAXで幼児ママさん)ターゲットがほとんどと見た。男性用の服は大して面白いものはなかったように思います。といっても、全店見たわけじゃありませんがね。散歩した限りでの話。それからもちろん、わたしのお財布&好み基準での話です。
しかしまあ、興味を引いたのは「自由が丘」という存在です。さすがに「光が丘@練馬」とは違うぜ。当たり前か。しかし「なんだなんだこのおしゃれスポットは!」って感じですね。こんな世界があったのか。住宅街と多数のファッション系店舗が共存している。デパートのフロアを全部地上に展開して、店舗ごとに解体して、住宅街に楽しそうにちりばめた感じ。散歩すると、あるわあるわ、オシャレなお店、カフェ、レストラン。流行りの服を来た若い子が嬉しそうにショップ・カフェ巡りしている模様。まさに「オシャレ女子のためのテーマパーク」とでも言いましょうか。ちなみにバカにしているわけではない。しかしまあ、自由が丘、どうしてこうなった。と感心しきりでした。

ナニゲに不動産の店を覗くと(ハッキリとは覚えていませんが)3LDKで家賃が40~50万しよる。どうなっているのか。一体どこから金が出てるんだ。
結局、もの凄い金額の資本が投下された街なのだ、ということでしょう。
さて、この街を「吉祥寺」と比べると興味深い気がします。あんまり吉祥寺に詳しいわけじゃないけど。どちらも「おしゃれ」というブランドなわけですけど、吉祥寺の方が猥雑な感じがあります。生活感もある。やや人生に疲れた系のオッサンも普通に歩いてる。自由が丘にも飲み屋街がありましたが、吉祥寺ほど猥雑な感じは無さげ。また、自由が丘を歩く人生に疲れた系のオッサンは、吉祥寺にいるよりももっと疲れているように見える。昼間っから呑むとしたら吉祥寺だよね。という感じがします。ホロ酔いオジサンはちょっと自由が丘歩けない気がするから。
ま、ハッキリ言って好みじゃありませんがね。作られた感、うすっぺらい感があって、味わいがないっつーか。どうせご縁がない街だからいいんですけど。でも、おもしろい街だとは思いました。一度行ってみる価値はありますね。
2010年11月7日日曜日
再びファッションについての考察
メンズ・ノンノを眺めながら美容師さんにカットしてもらっていた時のこと。「お。XXさんもファッションに興味が出てきましたか」などと揶揄されつつ、とりとめもなく会話していたら、七部袖のシャツについて印象に残るコメントがありました。美容師をしていると、長袖の服ではどうしても袖に毛が付いてしまう。いちいち袖をまくるのも大変だし、暖房も効いてるから、本当は冬でも半袖で問題ないのだけど、それではお客さんから見てあまりに寒々しいと思われるので、七部袖が便利なのである、でも、冬だと七部袖でも何だか寒々しい印象を与えるんじゃないかと少し気にしている。ということでした。それを聞いて私は、なるほど服装というのは、やはりそれを見る他人に対する思いやりということなのか、と思ったのですが、ひるがえってメンズ・ノンノのモデルさんたちを眺めていると、どうもそればかりではないなあ、とも思われました。
前にこのブログで「好むと好まざるとに関わらず、服装とはそれを着る人の表現なのだ」と書きましたが、さしずめ美容師さんのスタンスは「お客さんに対する気配りの表現」としての服装になるでしょうし、メンズ・ノンノのモデルさんのスタンスは「今、これを着るべし」という流行の先端の表現に、またコスプレなどというのも、ある種のターゲットに向けて特化された独特の表現ということになるでしょうか。
「表現としてのファッション」と通常の「言葉による表現」との違いを考えてみると、表現と自分との「距離感」と「持続」にポイントがありそうな気がします。
まず「距離感」とは何か。言葉による表現は、さまざまなものが対象となりえます。例えば客観的な事象の表現。この場合、ほとんどが自分とはあまり関係のないことについての表現になります。その表現とは普通、意見であったり、評価であったりしますが、その表現(意見、評価)は決して自分そのものではない。つまり「自分」と対象の表現とが離れている。
もちろんその人なりの対象の表現=意見、評価を通じて、その人が露わになるということはありそうですが、普通は、言葉による表現とは、まず自分がいて、その自分とあい対するものとしての対象についての表現です。
それに対して、服による表現はまさに肉体としての自分と密着しているわけです。確かに「自己」とは「対象化された身体」ではありません(それはすでに自己にあい対している)。しかし、肉体そのものは、働き、動く自分に他なりません。表現としてのファッションは、それを「働き、かつ動く自己がまとっている」という意味では、今、ここを生きている自分に密着した表現であると言えると思います。自分のまとった何かが表現しているわけで、そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとファッションは案外近いのかもしれません。
それから「持続」。ファッションによる表現は、その衣をまとっている限り続きます。つまりファッションとは、それをまとったら脱ぐまで持続する表現である、ということが言えます。
ということで、表現としてのファッションにどう関わるのか。否応なく、その態度が問われてしまう。んなもの、どうだってええよ。という人から、服カモン。とジャブジャブと金と時間を使う人までさまざまでしょう。このように、服があって、服をまとう人がいる以上、服とそれを着る人に何かしらの関係が生じてしまうのです。
まず、ファッションとは誰か(主体=生きる意志)の表現であり、その表現は、その誰かが服を着ている間持続しているものであるから、不可避的に表現(=服)と表現する人(服を着ている人)との間にズレが生じてしまう。例えば、ファッションによって人が値踏みされてしまうという状況があったときに、そこにどうしてもズレが生まれてしまう。つまり、みっともない服をボサッと着ているからこいつはダメだと思われたとしても、実は知恵のある高潔な人かもしれません。逆もまた然り。
そういう意味では、表現としてのファッションが、常に「自分」を裏切るとすれば、ファッションとは自己の否定である、と言えそうです。われわれはファッションを通じて自己を否定しながら、あるいは他者から否定されながら生きているのです。
カッコいい服、好きな服を着ることによって、否応なく自分を否定することになる。逆に、どうでもいいよ、と服を着ることによって、それはそれで自分を否定することになる。
しかし、好きな服を着て自分を否定することと、しょうがなく服を着て自分を否定するのとでは、その後が違ってくる。
どういうことか。
好きな服を着て自らを否定した後では、さらにその服に似合う自分になりたい、なろうという意志(表現=服と同一化したいという意志)が働くことになる。すなわち、好きな服を着るということは、好きな服(好きな表現)に追いつこうとする自分がいることになる。そういった意志は、やはり自分を高める方に働く。つまり、好きな服を着ることによって、自分が高められる。
一方、どうでもいい服を着ることによて否定される自分とは、どうでもいい服よりもマシな自分である。つまり、どうでもいい服によって、自分が貶められることになるんですね。残念ながら。どうでもいい服を着るということは、まず最初に相手に見くびられることを覚悟していることになる。最初からナメられることになる。ということは、相手に見くびられることを覚悟して他者に臨むことになる。
ということは、最初からハンデを背負って、そのハンデに闘争心(あるいはコンプレクス)を持って向かう人と、最初から「この人やるんじゃない?」と思われながら向かう人とに分かれることになる。
となると、ですね。最初から「ひょっとして出来る人?」と思われると、最初から「大丈夫?」と思われる人とでは、全然その後の評価が違うんですね。同じ事をしても、最初に好印象だった人は「さすが」と思われるし、最初に「?」な印象だった人は「やっぱりね」と思われる。
この構図って、要するに「肩書き」がある人とか「二世」とかが自然に評価されるって構図と同じなんです。
残念ながら、見た目は大事、というのが結論ですな。
はい。疲れたので、おしまい。
前にこのブログで「好むと好まざるとに関わらず、服装とはそれを着る人の表現なのだ」と書きましたが、さしずめ美容師さんのスタンスは「お客さんに対する気配りの表現」としての服装になるでしょうし、メンズ・ノンノのモデルさんのスタンスは「今、これを着るべし」という流行の先端の表現に、またコスプレなどというのも、ある種のターゲットに向けて特化された独特の表現ということになるでしょうか。
「表現としてのファッション」と通常の「言葉による表現」との違いを考えてみると、表現と自分との「距離感」と「持続」にポイントがありそうな気がします。
まず「距離感」とは何か。言葉による表現は、さまざまなものが対象となりえます。例えば客観的な事象の表現。この場合、ほとんどが自分とはあまり関係のないことについての表現になります。その表現とは普通、意見であったり、評価であったりしますが、その表現(意見、評価)は決して自分そのものではない。つまり「自分」と対象の表現とが離れている。
もちろんその人なりの対象の表現=意見、評価を通じて、その人が露わになるということはありそうですが、普通は、言葉による表現とは、まず自分がいて、その自分とあい対するものとしての対象についての表現です。
それに対して、服による表現はまさに肉体としての自分と密着しているわけです。確かに「自己」とは「対象化された身体」ではありません(それはすでに自己にあい対している)。しかし、肉体そのものは、働き、動く自分に他なりません。表現としてのファッションは、それを「働き、かつ動く自己がまとっている」という意味では、今、ここを生きている自分に密着した表現であると言えると思います。自分のまとった何かが表現しているわけで、そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとファッションは案外近いのかもしれません。
それから「持続」。ファッションによる表現は、その衣をまとっている限り続きます。つまりファッションとは、それをまとったら脱ぐまで持続する表現である、ということが言えます。
ということで、表現としてのファッションにどう関わるのか。否応なく、その態度が問われてしまう。んなもの、どうだってええよ。という人から、服カモン。とジャブジャブと金と時間を使う人までさまざまでしょう。このように、服があって、服をまとう人がいる以上、服とそれを着る人に何かしらの関係が生じてしまうのです。
まず、ファッションとは誰か(主体=生きる意志)の表現であり、その表現は、その誰かが服を着ている間持続しているものであるから、不可避的に表現(=服)と表現する人(服を着ている人)との間にズレが生じてしまう。例えば、ファッションによって人が値踏みされてしまうという状況があったときに、そこにどうしてもズレが生まれてしまう。つまり、みっともない服をボサッと着ているからこいつはダメだと思われたとしても、実は知恵のある高潔な人かもしれません。逆もまた然り。
そういう意味では、表現としてのファッションが、常に「自分」を裏切るとすれば、ファッションとは自己の否定である、と言えそうです。われわれはファッションを通じて自己を否定しながら、あるいは他者から否定されながら生きているのです。
カッコいい服、好きな服を着ることによって、否応なく自分を否定することになる。逆に、どうでもいいよ、と服を着ることによって、それはそれで自分を否定することになる。
しかし、好きな服を着て自分を否定することと、しょうがなく服を着て自分を否定するのとでは、その後が違ってくる。
どういうことか。
好きな服を着て自らを否定した後では、さらにその服に似合う自分になりたい、なろうという意志(表現=服と同一化したいという意志)が働くことになる。すなわち、好きな服を着るということは、好きな服(好きな表現)に追いつこうとする自分がいることになる。そういった意志は、やはり自分を高める方に働く。つまり、好きな服を着ることによって、自分が高められる。
一方、どうでもいい服を着ることによて否定される自分とは、どうでもいい服よりもマシな自分である。つまり、どうでもいい服によって、自分が貶められることになるんですね。残念ながら。どうでもいい服を着るということは、まず最初に相手に見くびられることを覚悟していることになる。最初からナメられることになる。ということは、相手に見くびられることを覚悟して他者に臨むことになる。
ということは、最初からハンデを背負って、そのハンデに闘争心(あるいはコンプレクス)を持って向かう人と、最初から「この人やるんじゃない?」と思われながら向かう人とに分かれることになる。
となると、ですね。最初から「ひょっとして出来る人?」と思われると、最初から「大丈夫?」と思われる人とでは、全然その後の評価が違うんですね。同じ事をしても、最初に好印象だった人は「さすが」と思われるし、最初に「?」な印象だった人は「やっぱりね」と思われる。
この構図って、要するに「肩書き」がある人とか「二世」とかが自然に評価されるって構図と同じなんです。
残念ながら、見た目は大事、というのが結論ですな。
はい。疲れたので、おしまい。
コロッケ大成功
2010年11月5日金曜日
鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか」NHKライブラリー
★★★★☆☆:ファッションを巡る優雅な省察
最近服に興味を持ち始めたということもあって、久しぶりにこの手の本を読んでみました。鷲田さんは哲学系の人ですが、普通の文献収集哲学学者とは違って自ら考えて発信する貴重な方です。また、その思想には温かみがあるんですな。いわゆる文化人、学者たちの中では好きな人です。
ということで期待して読んで見ましたが、正直ピンと来なかったですね。見ればどうやらファッション系の雑誌に連載されていた、とのこと。なるほど。レベルが違うわけだ。つまり、最近お気に入りの服を見つけたただけのただのおじさん(私のこと)とファッションについて最新のモードを追いながら精緻に考えた人との違いです。ここ5、6年ほどきちんと鏡を見たことがなく、少し前までは服装なんか本当にどうでもよかった私には、ちょっと入れなかったですね。ま、本自体ははっとさせられるような考察も多くて、悪くなかったのですが。
もう一つ違和感があったのは、この本で流行と不可分のものとしてファッションが扱われているという点です。これはどうやら時代の違いもありそうです。この本が書かれたのはおそらくバブル期。ブランド指向やら逆に清貧の思想(ありましたね)やら、ファッションやスタイルにいろんな流行が現れては消えて行った時代です。今のわたしは心の底から流行に興味がありませんが、それはひょっとしたら、中学、高校時代にバブル期の雰囲気を感じたせいで「流行」すなわち「消費させるために意図的に仕組まれた欲望のターゲット」に不信感を持ったのかもしれません。
当時は、何でも売り込め、流行を作って消費を引っ張れ、という時代だったのではないでしょうか。
今はそんな雰囲気はまったくありません。バブリーな雰囲気は当然ありませんし、ひょっとしたらファッションのターゲットが細分化されたおかげで、ファッションというものにあまり頭を使わなくてもよくなったということがあるかもしれません。つまり、服に興味が興味がなければユニクロ、無印に行けばいいわけです。そこそこの服がお手頃価格で手に入る。またそれらを着るのに「敢えてユニクロで統一してるんだ。俺は服なんかどうでもいいんだ」という主張もほとんどいらなくなった。興味がないんだったら、安心してユニクロ、無印を着ていればいいんですよ。そんなありがたいご提案があるわけ。
もちろん、金をかけたいならかければいい。ブランド品だってあるし、古着という選択肢だってある。いろんなスタイルを選べるわけですね。このような社会では、つまり「私は古着が好き」「オレはユニクロでいいよ」と自然体で話せる社会では、おそらく流行=刹那的な欲望のメインストリームは強い力を持ち得ない。だから、流行に振り回される雰囲気がなくなったんじゃなかろうか。
逆に言えば、流行に左右されず、好きな服を好きなように着てもいいのが今の時代と言えるかもしれません。
さて、ファッションに対して人がどういう態度を取るかというと、大きく3パターンに分けることができるのではないかと思います。
一つは本当にファッションに興味がない人。「ファッションに興味がない」というスタイルをまとっているのではなくて、本当に興味がない人です。(かつての私)
次に、好むと好まざるとに関わらずファッションに気を遣っている人。仕方ないと思いながらそれなりに楽しんで(あるいは本当はイヤだけど)服装に気をつける人。
最後に、ファッションが本当に好きな人。
上記で言えば、二番目に該当する人が多いのではないかと愚考します。わたしの妻なんかも「化粧はまわりの人に対する礼儀だ」という旨のことを言ってました。彼女が化粧を好んでしているのか、それともいやいやしているのかは分かりません。おそらく両方ではないかと思います。また、周囲に不快感を与えないためにファッションに気を遣うのだ、という考えも聞いたことがあります。それは裏を返せば、ファッションに気を遣わないと不快感を表明する仲間がいる。だから服装に気を遣わないと仲間に入れないということにもなりそうです。仲間外れにされないために、いじめられないためにファッションに気を使う。さほど悲壮感はありませんが、人間関係においてファッションがシビアな役割を担っている、ということはありそうです。
わたしはと言えば、かつては「はた迷惑上等。ファッションに掛ける金などない!」という立場でしたが、今は何となく「ファッション」というキーワードが理解できてきた、という状況です。気に入った服を着ることは嬉しい。素直にそう楽しめるようになりました。もちろん流行はまったく意識しません。気に入った布地で織られた気に入った型の服。それを着て出かけると、なかなかハッピー。それだけのことです。「ファッション」という大仰な言葉は似合いそうにない。しかし、それだけのこととはいえ、気に入った服を着るのは実に楽しい。
気に入ったモノに囲まれるのはなかなか幸せなものです。しかし、服のもたらす幸福感はやはり良い道具がもたらすそれとは違ってくる。お気に入りの道具がもたらす幸福感は、徐々に自分の手に馴染んで、ついには身体と一体化するものではないでしょうか。息の合ったパートナーのような、空気のような必要不可欠の存在。
服がもたらす幸福はやはり少し違う。いわゆる道具(料理道具、工具)と服は、何が違うか。まず服は「何のために」という問いが二次的となっているモノです。単に暖を取るためではない。単に隠すためではない。心地よいというのは重要ですが、それだけが目的でもない。服とは多かれ少なかれ、その人のスタイルとなるものです。好むと好まざるとに関わらず、服装はそれを着る人の表現になる。若い男がレギンスに半ズボンを着るのも表現ですし、ユニクロ上下を着るのも、あるいはサラリーマンが紺のスーツを着るのもまた「没個性」の表現です。だから制服=表現という構造からは誰も逃げられない。
でも、そのような表現としての服も、決して押し付けがましいものではありません。見るだけで圧倒されるような服も、不愉快になる服も少ないし、気に入らなければ目を逸らせばいい。それに、そもそも他人の服装などあまり気にしない。とすると、服装とは何よりもまず自分に対する表現ではないかと思われます。
気に入った服を着ていると、姿勢がピンとします。当然、テンションも上がる。すると、服というのは身体を覆い隠すだけではなく、身体と同一化することによって、精神までをも高めるような、そんなモノなのではないかと思います。
何か長くなってしまったので中途半端ですがこの辺で。
最近服に興味を持ち始めたということもあって、久しぶりにこの手の本を読んでみました。鷲田さんは哲学系の人ですが、普通の文献収集哲学学者とは違って自ら考えて発信する貴重な方です。また、その思想には温かみがあるんですな。いわゆる文化人、学者たちの中では好きな人です。
ということで期待して読んで見ましたが、正直ピンと来なかったですね。見ればどうやらファッション系の雑誌に連載されていた、とのこと。なるほど。レベルが違うわけだ。つまり、最近お気に入りの服を見つけたただけのただのおじさん(私のこと)とファッションについて最新のモードを追いながら精緻に考えた人との違いです。ここ5、6年ほどきちんと鏡を見たことがなく、少し前までは服装なんか本当にどうでもよかった私には、ちょっと入れなかったですね。ま、本自体ははっとさせられるような考察も多くて、悪くなかったのですが。
もう一つ違和感があったのは、この本で流行と不可分のものとしてファッションが扱われているという点です。これはどうやら時代の違いもありそうです。この本が書かれたのはおそらくバブル期。ブランド指向やら逆に清貧の思想(ありましたね)やら、ファッションやスタイルにいろんな流行が現れては消えて行った時代です。今のわたしは心の底から流行に興味がありませんが、それはひょっとしたら、中学、高校時代にバブル期の雰囲気を感じたせいで「流行」すなわち「消費させるために意図的に仕組まれた欲望のターゲット」に不信感を持ったのかもしれません。
当時は、何でも売り込め、流行を作って消費を引っ張れ、という時代だったのではないでしょうか。
今はそんな雰囲気はまったくありません。バブリーな雰囲気は当然ありませんし、ひょっとしたらファッションのターゲットが細分化されたおかげで、ファッションというものにあまり頭を使わなくてもよくなったということがあるかもしれません。つまり、服に興味が興味がなければユニクロ、無印に行けばいいわけです。そこそこの服がお手頃価格で手に入る。またそれらを着るのに「敢えてユニクロで統一してるんだ。俺は服なんかどうでもいいんだ」という主張もほとんどいらなくなった。興味がないんだったら、安心してユニクロ、無印を着ていればいいんですよ。そんなありがたいご提案があるわけ。
もちろん、金をかけたいならかければいい。ブランド品だってあるし、古着という選択肢だってある。いろんなスタイルを選べるわけですね。このような社会では、つまり「私は古着が好き」「オレはユニクロでいいよ」と自然体で話せる社会では、おそらく流行=刹那的な欲望のメインストリームは強い力を持ち得ない。だから、流行に振り回される雰囲気がなくなったんじゃなかろうか。
逆に言えば、流行に左右されず、好きな服を好きなように着てもいいのが今の時代と言えるかもしれません。
さて、ファッションに対して人がどういう態度を取るかというと、大きく3パターンに分けることができるのではないかと思います。
一つは本当にファッションに興味がない人。「ファッションに興味がない」というスタイルをまとっているのではなくて、本当に興味がない人です。(かつての私)
次に、好むと好まざるとに関わらずファッションに気を遣っている人。仕方ないと思いながらそれなりに楽しんで(あるいは本当はイヤだけど)服装に気をつける人。
最後に、ファッションが本当に好きな人。
上記で言えば、二番目に該当する人が多いのではないかと愚考します。わたしの妻なんかも「化粧はまわりの人に対する礼儀だ」という旨のことを言ってました。彼女が化粧を好んでしているのか、それともいやいやしているのかは分かりません。おそらく両方ではないかと思います。また、周囲に不快感を与えないためにファッションに気を遣うのだ、という考えも聞いたことがあります。それは裏を返せば、ファッションに気を遣わないと不快感を表明する仲間がいる。だから服装に気を遣わないと仲間に入れないということにもなりそうです。仲間外れにされないために、いじめられないためにファッションに気を使う。さほど悲壮感はありませんが、人間関係においてファッションがシビアな役割を担っている、ということはありそうです。
わたしはと言えば、かつては「はた迷惑上等。ファッションに掛ける金などない!」という立場でしたが、今は何となく「ファッション」というキーワードが理解できてきた、という状況です。気に入った服を着ることは嬉しい。素直にそう楽しめるようになりました。もちろん流行はまったく意識しません。気に入った布地で織られた気に入った型の服。それを着て出かけると、なかなかハッピー。それだけのことです。「ファッション」という大仰な言葉は似合いそうにない。しかし、それだけのこととはいえ、気に入った服を着るのは実に楽しい。
気に入ったモノに囲まれるのはなかなか幸せなものです。しかし、服のもたらす幸福感はやはり良い道具がもたらすそれとは違ってくる。お気に入りの道具がもたらす幸福感は、徐々に自分の手に馴染んで、ついには身体と一体化するものではないでしょうか。息の合ったパートナーのような、空気のような必要不可欠の存在。
服がもたらす幸福はやはり少し違う。いわゆる道具(料理道具、工具)と服は、何が違うか。まず服は「何のために」という問いが二次的となっているモノです。単に暖を取るためではない。単に隠すためではない。心地よいというのは重要ですが、それだけが目的でもない。服とは多かれ少なかれ、その人のスタイルとなるものです。好むと好まざるとに関わらず、服装はそれを着る人の表現になる。若い男がレギンスに半ズボンを着るのも表現ですし、ユニクロ上下を着るのも、あるいはサラリーマンが紺のスーツを着るのもまた「没個性」の表現です。だから制服=表現という構造からは誰も逃げられない。
でも、そのような表現としての服も、決して押し付けがましいものではありません。見るだけで圧倒されるような服も、不愉快になる服も少ないし、気に入らなければ目を逸らせばいい。それに、そもそも他人の服装などあまり気にしない。とすると、服装とは何よりもまず自分に対する表現ではないかと思われます。
気に入った服を着ていると、姿勢がピンとします。当然、テンションも上がる。すると、服というのは身体を覆い隠すだけではなく、身体と同一化することによって、精神までをも高めるような、そんなモノなのではないかと思います。
何か長くなってしまったので中途半端ですがこの辺で。
偉いぞ新潟県警
ひき逃げ事件放置 被害者妻が証拠発掘 新潟県警ミス
ミスが偉いってんじゃありませんよ。誤りを認めたこと。
誤りを認めるってなかなかできませんからね。
そりゃ当り前のことですけどね。でも、当り前のことができないのが人間です。ましてや官僚組織。誤りを認めるなんて大したもんだ。礒野宏三副署長さんですか。相当な誠実さを感じます。褒めすぎか。でも、組織の中に誠実な人間がいなければ、絶対できないと思うな。何かあってもみんな及び腰になってさ。心の中では「おかしい」思っていても、声を上げることができない。結局うやむやにしてしまう。なかったことにしてしまう。それが組織。それが組織に属す人間。
ま、なかなかいい話だと思いました。
ミスが偉いってんじゃありませんよ。誤りを認めたこと。
誤りを認めるってなかなかできませんからね。
そりゃ当り前のことですけどね。でも、当り前のことができないのが人間です。ましてや官僚組織。誤りを認めるなんて大したもんだ。礒野宏三副署長さんですか。相当な誠実さを感じます。褒めすぎか。でも、組織の中に誠実な人間がいなければ、絶対できないと思うな。何かあってもみんな及び腰になってさ。心の中では「おかしい」思っていても、声を上げることができない。結局うやむやにしてしまう。なかったことにしてしまう。それが組織。それが組織に属す人間。
ま、なかなかいい話だと思いました。
2010年11月3日水曜日
暴力について考えた
暴力について。
んなこと考えたくはないんだけど、少しばかり集中して考えてしまった。
普段、われわれは暴力とは縁遠い世界で平穏に暮らしているわけですが、時には日常に暴力性がむき出しになって現れることもあります。たとえば酒場でのおっちゃん同士のケンカとか、誰かに因縁つけてる若い衆とか、あるいは殺気を漂わせているヤクザを見かけるとか。そんな人間の暴力性を見ると、あちゃー、ヤベーって思うわけです。まず巻き込まれないようにしなきゃ、とか、警察呼ばなきゃとか。
「国家の本質は暴力である」と言ったのは確かルカーチ。かなり怪しい記憶ですが。しかし、近所のおっきな赤い国を眺めていると、言い得て妙としか言えませんな。翻って我が国はどうか。一応近隣諸国よりは少しはマシな法治国家ではあるようですが、なかなかキワドイところがあるんじゃないか。よくよく見れば冷や汗ものの事件は少なくない。軽犯罪法なんかヤバいっすよ。誰だって警察に引っ張ることができますからね。しつこいですが、植草一秀さんの件しかり、最近あった検察の証拠でっち上げ事件然り、冤罪事件の多いこと、多いこと。油断はできません。
なんでこんなことになるかっていうことを考えると、組織の「本来の目的」の「転倒」が原因の一つじゃないか、と思います。つまり、本来は「国民の安全を守るための」警察が「自らの組織を守るために」活動している。例えば政治家や権力者に色目を使うとか。あるいは検挙率だとか警察組織内部の数字を上げるために、無害なオタクを軽犯罪法で挙げるとか。自分の組織を維持するのが第一の目的となっている。
毎度警察ばかり例に挙げていて、わが子の登下校を見守っていただいている近所の駐在さんには申し訳ないとは思いますが、警察ばかりではなく、わたしはやはり組織というものは本来危険だと思うんですな。組織に組み込まれた人間は多かれ少なかれ無思考になる。敢えて問うてみることがなくなる。ウザがられるだけだから。それからもちろん自分の生活を考えなきゃいけない。家族を食わせなきゃいけない。ということは、組織が繁栄、持続してもらわないと困る。だから組織のために頑張るしかない。そこまではいいんですが、そんな組織がいったん暴力性を帯び始めると、普通のオジサン、オバサンが実に非人間的なことをやり始める。そこが組織の怖いところです。
人間は本来暴力性を帯びている生き物であるから、必然的に国家は暴力的にならざるを得ないのでしょう。そして集団的暴力を以って個人の暴力性を抑圧するのが国家である、と。ルカーチがそう言ったかどうかは知りませんけど。
そう考えると、あまり油断して生きるとマズイことになるよな、と思いながら生きざるを得ないわけですが、それはそれでスリリングで楽しいと言えなくもない、と思える我が国は、まだまだずいぶんマシな国であると思いますし、今の状態を悪くしないためにも、国家という暴力的存在が変な方向に走らないように、しっかり監視しなければいかん、と思う昨今です。
んなこと考えたくはないんだけど、少しばかり集中して考えてしまった。
普段、われわれは暴力とは縁遠い世界で平穏に暮らしているわけですが、時には日常に暴力性がむき出しになって現れることもあります。たとえば酒場でのおっちゃん同士のケンカとか、誰かに因縁つけてる若い衆とか、あるいは殺気を漂わせているヤクザを見かけるとか。そんな人間の暴力性を見ると、あちゃー、ヤベーって思うわけです。まず巻き込まれないようにしなきゃ、とか、警察呼ばなきゃとか。
「国家の本質は暴力である」と言ったのは確かルカーチ。かなり怪しい記憶ですが。しかし、近所のおっきな赤い国を眺めていると、言い得て妙としか言えませんな。翻って我が国はどうか。一応近隣諸国よりは少しはマシな法治国家ではあるようですが、なかなかキワドイところがあるんじゃないか。よくよく見れば冷や汗ものの事件は少なくない。軽犯罪法なんかヤバいっすよ。誰だって警察に引っ張ることができますからね。しつこいですが、植草一秀さんの件しかり、最近あった検察の証拠でっち上げ事件然り、冤罪事件の多いこと、多いこと。油断はできません。
なんでこんなことになるかっていうことを考えると、組織の「本来の目的」の「転倒」が原因の一つじゃないか、と思います。つまり、本来は「国民の安全を守るための」警察が「自らの組織を守るために」活動している。例えば政治家や権力者に色目を使うとか。あるいは検挙率だとか警察組織内部の数字を上げるために、無害なオタクを軽犯罪法で挙げるとか。自分の組織を維持するのが第一の目的となっている。
毎度警察ばかり例に挙げていて、わが子の登下校を見守っていただいている近所の駐在さんには申し訳ないとは思いますが、警察ばかりではなく、わたしはやはり組織というものは本来危険だと思うんですな。組織に組み込まれた人間は多かれ少なかれ無思考になる。敢えて問うてみることがなくなる。ウザがられるだけだから。それからもちろん自分の生活を考えなきゃいけない。家族を食わせなきゃいけない。ということは、組織が繁栄、持続してもらわないと困る。だから組織のために頑張るしかない。そこまではいいんですが、そんな組織がいったん暴力性を帯び始めると、普通のオジサン、オバサンが実に非人間的なことをやり始める。そこが組織の怖いところです。
人間は本来暴力性を帯びている生き物であるから、必然的に国家は暴力的にならざるを得ないのでしょう。そして集団的暴力を以って個人の暴力性を抑圧するのが国家である、と。ルカーチがそう言ったかどうかは知りませんけど。
そう考えると、あまり油断して生きるとマズイことになるよな、と思いながら生きざるを得ないわけですが、それはそれでスリリングで楽しいと言えなくもない、と思える我が国は、まだまだずいぶんマシな国であると思いますし、今の状態を悪くしないためにも、国家という暴力的存在が変な方向に走らないように、しっかり監視しなければいかん、と思う昨今です。
2010年11月2日火曜日
卵あと混ぜケチャップチャーハン
2010年11月1日月曜日
卵ご飯先混ぜケチャップチャーハン
ご飯先混ぜ方式でケチャップチャーハンを作ってみました。
火を通した具と卵、ライスを混ぜます。この時点では軽く塩コショウ。最後に調味しないと、味が馴染んで塩分過多になりがちなのです。

その後、ビタクラフトをカンカンに熱して、オリーブ油を多めに引いて炒めます。焦げ付くことなく無事完成。

出来はややしっとりした感じ。パラパラにはなりませんでした。おそらくは卵が多すぎた。後はテフロン加工ではないので、長時間炒めるのに抵抗があったのも理由かもしれません。
ケチャップと粉チーズを塩梅して頂きます。
味はまあまあでしたが、子供にはオリーブオイルの風味が気に入らなかったとのことです。
うちはやはり卵ご飯後混ぜ方式で確定かな。
火を通した具と卵、ライスを混ぜます。この時点では軽く塩コショウ。最後に調味しないと、味が馴染んで塩分過多になりがちなのです。

その後、ビタクラフトをカンカンに熱して、オリーブ油を多めに引いて炒めます。焦げ付くことなく無事完成。

出来はややしっとりした感じ。パラパラにはなりませんでした。おそらくは卵が多すぎた。後はテフロン加工ではないので、長時間炒めるのに抵抗があったのも理由かもしれません。
ケチャップと粉チーズを塩梅して頂きます。
味はまあまあでしたが、子供にはオリーブオイルの風味が気に入らなかったとのことです。
うちはやはり卵ご飯後混ぜ方式で確定かな。
2010年10月31日日曜日
第二回 聖地大泉祭り
カメラ忘れたので文章だけ。わたくしがカメラを忘れたとしても、恐らくはその模様は次々にBlogにアップされるでしょうから、よしとしましょう。
しかし凄いですわ。正直、祭り自体のコンテンツは特にどうということもない。しかし観客(子連れや大友[おおきなお友だち])の熱気、それから(恐らくは)東映関係の社員の方の「ここはいっちょう頑張ったろう」という心意気。そして何よりものすごい人の数。すべてがプリキュア、ゴセイジャー目的ですよ。凄いね。子連れが6割。大友の男女、女女、男男(だんじょじょじょだんだん)関連が4割。それが否応なくお祭り気分を盛り上げる。
塗り絵、スタンプラリー(西武でやってたのと同じ)、フレッシュプリキュア、ハートキャッチプリキュアの撮影会(11時から15時くらいまでやってましたね。中の人、本当に御苦労さまです)、さまざまな展示。
プリキュア3D上映会は、あと一歩のところで整理券が切れて、子供たちと涙をのみました。「プリキュア3D良かったよ」という大友の声を耳にはさんで、このわたくしもぜひ見たかったんだけどなあ。ま、次の映画は恐らく3Dだろうから、少なくとも子供は3Dプリキュアを見られるであろう。しかし時代は変わるよ。The Times They Are a-Changin'
とにかく、みんなで作ろう、盛り上げようという手作り感覚が良かった。それからプリキュアと戦隊モノのコンテンツとしての強さに驚いた一日でした。力をもらった気がします。
しかし凄いですわ。正直、祭り自体のコンテンツは特にどうということもない。しかし観客(子連れや大友[おおきなお友だち])の熱気、それから(恐らくは)東映関係の社員の方の「ここはいっちょう頑張ったろう」という心意気。そして何よりものすごい人の数。すべてがプリキュア、ゴセイジャー目的ですよ。凄いね。子連れが6割。大友の男女、女女、男男(だんじょじょじょだんだん)関連が4割。それが否応なくお祭り気分を盛り上げる。
塗り絵、スタンプラリー(西武でやってたのと同じ)、フレッシュプリキュア、ハートキャッチプリキュアの撮影会(11時から15時くらいまでやってましたね。中の人、本当に御苦労さまです)、さまざまな展示。
プリキュア3D上映会は、あと一歩のところで整理券が切れて、子供たちと涙をのみました。「プリキュア3D良かったよ」という大友の声を耳にはさんで、このわたくしもぜひ見たかったんだけどなあ。ま、次の映画は恐らく3Dだろうから、少なくとも子供は3Dプリキュアを見られるであろう。しかし時代は変わるよ。The Times They Are a-Changin'
とにかく、みんなで作ろう、盛り上げようという手作り感覚が良かった。それからプリキュアと戦隊モノのコンテンツとしての強さに驚いた一日でした。力をもらった気がします。
2010年10月29日金曜日
貨幣博物館、Mujiミールでお茶
営団地下鉄三越前駅から徒歩5分の貨幣博物館に行ってまいりました。入場料は無料。個人情報も提出する必要なし。展示はかなり充実しています。そこかしこに警備員の方が立っておられるのも物々しくて雰囲気があります。おお。そうか。大判小判を展示してるんだもんな。すなわち警備員さんは不可欠のオブジェとなるわけ。貨幣に興味がない人がナニゲに入っても楽しめる場所です。

上の子は金貨や小判に興味深々。GOLDが好きなのね。やっぱり綺麗だからか。それとも高価だからか。他にもいろいろ興味が向くらしく、クイズにチャレンジしたり、紙幣の細かい作り込みに感心したり。下の子は例によって早々に飽きてましたけどね。アカデミックなコンテンツにはまだ早いようで。
それなりに楽しんだ後、銀座にご用事のあった妻と有楽町Mujiで合流です。無印良品というブランドにはわりとスルドイ目線を向けるわたくしですが、ムジのフラッグシップ店たる有楽町Mujiはワリと好きですね。考えてみればMujiの文房具とかは普通に愛用しているもんな。やはりいろいろとモノがあって楽しい場所です。

Mujiのレストランでカフェ。味はまあまあ。学食をちょっとだけオシャレにしたって感じで、気を使う雰囲気はまったくなし。子供連れでも問題ないところがポイント高いですね。

上の子は金貨や小判に興味深々。GOLDが好きなのね。やっぱり綺麗だからか。それとも高価だからか。他にもいろいろ興味が向くらしく、クイズにチャレンジしたり、紙幣の細かい作り込みに感心したり。下の子は例によって早々に飽きてましたけどね。アカデミックなコンテンツにはまだ早いようで。
それなりに楽しんだ後、銀座にご用事のあった妻と有楽町Mujiで合流です。無印良品というブランドにはわりとスルドイ目線を向けるわたくしですが、ムジのフラッグシップ店たる有楽町Mujiはワリと好きですね。考えてみればMujiの文房具とかは普通に愛用しているもんな。やはりいろいろとモノがあって楽しい場所です。

Mujiのレストランでカフェ。味はまあまあ。学食をちょっとだけオシャレにしたって感じで、気を使う雰囲気はまったくなし。子供連れでも問題ないところがポイント高いですね。
2010年10月28日木曜日
ファッションについての考察
うさとで買った服を着るのが楽しい今日この頃です。30台半ばを過ぎてファッションに目が覚めてしまった。いや、そんな大げさなもんじゃないか。むしろ、30台半ばを過ぎてユニクロ(※)から脱しつつある。主体的に服を選びつつある。そんなところ。
(※)「ユニクロ」は固有名詞ではありますが「普通のそこそこ安くて質が良くてデザインのよい服」の代名詞としてお考え下さい。
そりゃあユニクロだって気に入らなかったわけではありませんでしたが、いかんせんユニクロ。何というか、チノパンかくあるべし。シャツかくあるべし。ゆえに、Don't think.そんな感じですな。楽しくて着るんじゃない。まあ、こんなもんか、と思って着る。服なんかこだわってないもんね、という主張が却って必要となる。それがユニクロ。
でも、今は違います。気に入った服を選んで、買って、着る。楽しいじゃん。ということで、これまで「ファッションが趣味」だとか「服に金を使う」という感覚が理解できなかったのが、ようやく分かってきました。しょせん、おじさん。ファッションに金を使うなど、客観的費用対効果が疑問である、と思っていたんですけど、いやいや楽しいんだから費用対効果なんかどうでもいいよ、という感じです。(ま、しかしファッション雑誌にあるようなジャケット一着10万とかオカシイと思いますけどね。)
さて、自分の気に入った楽しい服を着るとどうなるか。まず、銀座、渋谷、あるいは吉祥寺などというソレっぽい場所に行くときに気後れがしなくなった。前はどこかに「ユニクロですみません」という意識があったようです。おしゃれなおじさんを見ると、ユニクロ上下のおじさんよりもやはり「正しいおじさん」であるなあ、と思えるんですね。そりゃそうですよね。近所のスーパーや秋葉原に買い物に行くならともかく、銀座に行くのに「オレ、ファッションには興味ないもんね」というのはいささか力んだ考え方と言わざるを得ない。「ファッションやぶさかではない」という服装と態度の方がしっくりくる場所が世の中にはあるわけ。
若さ由来の反骨精神、あるいは「服なんかどうだってええよ」という気概の現れとして、敢えてユニクロ、無印というのはアリだと思いますけど、そんな主張も年を取ってくるとなかなか厳しくなってくる。若くてスタイルのいい若者の「敢えてユニクロ」は鑑賞に耐えるとともに、そこに主張を感じられるわけですが、おじさんの「敢えてユニクロ」は見た目がそもそもいかがなものか、ということになるし、仮に主張を感じたとして「はた迷惑」ということになる。
後はやはり気に入ったものをまとうってのは何といっても気分がいい。いきなり一般化しますが、気に入ったモノが手近にあると、人間って落ち着くものですよね。居心地がいいんです。例えば道具。鍋なんかでも、安いペラペラの鍋で焦げつかせながら調理するのと、いい鍋を正しく使って調理するのとでは料理の楽しさが違う。包丁だってそうですね。DIYが趣味の人なら、よい工具を買うと幸せになれるでしょう。装飾品だってそうです。気に入った絵のレプリカを部屋に掛ける。なかなか気分がいいものです。つまり、人間ってモノに囲まれて生きているし、そのモノたちとは何らかのメンタルな交流があるわけ。交流じゃなくて、一方的なのかもしれないけれど、やっぱりいい道具を大事に使えば、道具だってそれに応えてくれるとか、そういうことはありますよね。
だから、気に入った服を着て過ごすのが気分がいいのは当然のことですね。人は服を着て生きているんだから、そこに気を配れば少し生活が変わってくる。気分が変わってくる。ファッションにちょっとこだわってみると、微妙に世界が変わってくるわけで、それはそれでなかなか楽しいことである、と思いながら過ごす昨今です。
(※)「ユニクロ」は固有名詞ではありますが「普通のそこそこ安くて質が良くてデザインのよい服」の代名詞としてお考え下さい。
そりゃあユニクロだって気に入らなかったわけではありませんでしたが、いかんせんユニクロ。何というか、チノパンかくあるべし。シャツかくあるべし。ゆえに、Don't think.そんな感じですな。楽しくて着るんじゃない。まあ、こんなもんか、と思って着る。服なんかこだわってないもんね、という主張が却って必要となる。それがユニクロ。
でも、今は違います。気に入った服を選んで、買って、着る。楽しいじゃん。ということで、これまで「ファッションが趣味」だとか「服に金を使う」という感覚が理解できなかったのが、ようやく分かってきました。しょせん、おじさん。ファッションに金を使うなど、客観的費用対効果が疑問である、と思っていたんですけど、いやいや楽しいんだから費用対効果なんかどうでもいいよ、という感じです。(ま、しかしファッション雑誌にあるようなジャケット一着10万とかオカシイと思いますけどね。)
さて、自分の気に入った楽しい服を着るとどうなるか。まず、銀座、渋谷、あるいは吉祥寺などというソレっぽい場所に行くときに気後れがしなくなった。前はどこかに「ユニクロですみません」という意識があったようです。おしゃれなおじさんを見ると、ユニクロ上下のおじさんよりもやはり「正しいおじさん」であるなあ、と思えるんですね。そりゃそうですよね。近所のスーパーや秋葉原に買い物に行くならともかく、銀座に行くのに「オレ、ファッションには興味ないもんね」というのはいささか力んだ考え方と言わざるを得ない。「ファッションやぶさかではない」という服装と態度の方がしっくりくる場所が世の中にはあるわけ。
若さ由来の反骨精神、あるいは「服なんかどうだってええよ」という気概の現れとして、敢えてユニクロ、無印というのはアリだと思いますけど、そんな主張も年を取ってくるとなかなか厳しくなってくる。若くてスタイルのいい若者の「敢えてユニクロ」は鑑賞に耐えるとともに、そこに主張を感じられるわけですが、おじさんの「敢えてユニクロ」は見た目がそもそもいかがなものか、ということになるし、仮に主張を感じたとして「はた迷惑」ということになる。
後はやはり気に入ったものをまとうってのは何といっても気分がいい。いきなり一般化しますが、気に入ったモノが手近にあると、人間って落ち着くものですよね。居心地がいいんです。例えば道具。鍋なんかでも、安いペラペラの鍋で焦げつかせながら調理するのと、いい鍋を正しく使って調理するのとでは料理の楽しさが違う。包丁だってそうですね。DIYが趣味の人なら、よい工具を買うと幸せになれるでしょう。装飾品だってそうです。気に入った絵のレプリカを部屋に掛ける。なかなか気分がいいものです。つまり、人間ってモノに囲まれて生きているし、そのモノたちとは何らかのメンタルな交流があるわけ。交流じゃなくて、一方的なのかもしれないけれど、やっぱりいい道具を大事に使えば、道具だってそれに応えてくれるとか、そういうことはありますよね。
だから、気に入った服を着て過ごすのが気分がいいのは当然のことですね。人は服を着て生きているんだから、そこに気を配れば少し生活が変わってくる。気分が変わってくる。ファッションにちょっとこだわってみると、微妙に世界が変わってくるわけで、それはそれでなかなか楽しいことである、と思いながら過ごす昨今です。
登録:
投稿 (Atom)













