おもろいですなあ。
どっちもどっちなんですけどね。権力をめぐっていがみ合う、右と左。
どちらに寄るかどうかでレッテルが張られる。
どちらも信用ならん、というのが結論ではなかろうか。そりゃしらけるわな。
うむむ。間をとらなければいかんのではないか。
自衛隊の増強。核武装(おいおい、と思いながらも)。かつ、韓国、中国との関係改善が必要じゃなかろうか。言うは易し行うは難しの代表例だなこりゃ。
モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
2010年11月20日土曜日
2010年11月19日金曜日
肉じゃがっぽい
冷蔵庫あり合わせ系の肉じゃがです。多摩六都科学館行って疲れたのよ。

ネギがたっぷりあったのでネギ。あとはにんじんとジャガイモだけ。ぼーっとしてレシピ見ずにつくったので、なんとなくぼやけた味になってしまいました。しょうゆ、酒、みりん、砂糖のバランスって侮れないんですよね。本当にむずかしい。
疲れて料理をしながら思う。しかしまあ、妻も一日外に行った後でも、料理をしているわけだから、まあ大したもんだよなあとリスペクト。たまには褒めてやらないと。でも、たまに褒めると「あーらそんなことで無理して褒めなくていいのよ」とか言われたりして、そうくればこっちも「いやあ、そんなことでも褒めておかないと、他に褒めるポイントがない」なんて余計なことを言っちゃったりするんだよね。あはは。ダメだオレ。
そうこうしていると、ようやく朝から出ずっぱりの妻が帰ってきたので、追加のおかず(子供は焼き鳥、私は一日頑張ったということで刺身)を買ってきて、熱燗で一杯やりました。あー。酒が美味い。

ネギがたっぷりあったのでネギ。あとはにんじんとジャガイモだけ。ぼーっとしてレシピ見ずにつくったので、なんとなくぼやけた味になってしまいました。しょうゆ、酒、みりん、砂糖のバランスって侮れないんですよね。本当にむずかしい。
疲れて料理をしながら思う。しかしまあ、妻も一日外に行った後でも、料理をしているわけだから、まあ大したもんだよなあとリスペクト。たまには褒めてやらないと。でも、たまに褒めると「あーらそんなことで無理して褒めなくていいのよ」とか言われたりして、そうくればこっちも「いやあ、そんなことでも褒めておかないと、他に褒めるポイントがない」なんて余計なことを言っちゃったりするんだよね。あはは。ダメだオレ。
そうこうしていると、ようやく朝から出ずっぱりの妻が帰ってきたので、追加のおかず(子供は焼き鳥、私は一日頑張ったということで刺身)を買ってきて、熱燗で一杯やりました。あー。酒が美味い。
2010年11月17日水曜日
多摩六都科学館行った
妻が終日おでかけということで、子供を連れて多摩六都科学館へ行ってきました。西武新宿線花小金井駅からバスで10分弱。幼稚園から小学生まで楽しめる気楽な子連れ遊びスポットです。展示もいささか疲れてはいるものの、決して安っぽくはない。そりゃあ大人が目を吊り上げて吟味するもんでもないけれど、結構暇は潰せます。こういう場所って本当に貴重です。

最初にプラネタリウム。撮影は禁止。光が弱いせいか、上映が始まったら原則として出入り禁止です。実はわたし閉所恐怖症(そんなのあるのかな)でして、閉じ込められると何となく冷や汗が出てお腹がゴロゴロしてくる。でもまあ、絶対に出られないわけじゃないし、と自分に言い聞かせて1時間我慢。全天プラネタリウムはやはり見応えがあります。星空にあまり興味のない私ですが、しばし夜空を仰いできた人類の夢と、広大な宇宙に思いを馳せました。
その後、カフェテリアに行ってちょっと早めお昼。子供たちは大好物のラーメン、私はお腹が空いてなかったのでピザトーストを頂きました。子供はここのラーメンが大好きです。大人からすれば何ということのない味ですが、やはり外で食べるラーメンは格別な様子。ピザトーストはその辺のスーパーでピザトースト用ソース買ってきてチーズ乗っけて焼きましたって感じ。それなりの味ですが、意外にチーズがたっぷりで嬉しい。それに何より安くてよろしい。コストパフォーマンス的には満足です。

次はパズルコーナーに行きました。知恵の輪とか積木とかが置いてあります。特にイベントがなかったせいか、館内は空いていて担当のおじさん、おばさんがたっぷり子供たちの相手をしてくれました。子連れ男には大変ありがたい。心から感謝。子供たちも夢中で遊びました。係のおじさん、おばさんに「ほら!出来たよ!見て見て!」と言うと、大人なおじさん、おばさんはいちいちちゃんと「すごいねえ」「がんばったねえ」と褒めてくれる。子供も嬉しそう。

積木コーナーでは下の子が椅子を、上が高い塔を作りました。「ねえ、写真撮って!お母さんに見せて褒めて貰うんだ!」と頑張ったのが上の子。そんなことより宿題をちゃんとやる方が褒められるんだよ。と思わないでもありませんでしたが、積木で褒めてもらえる、褒めてもらおう、といういじらしさにちょっとホロり。褒めるって、子供の心の栄養なんだなあ。もっと褒めなくちゃ。と反省しきり。
私も空いた時間で「ロボット」を作成。これが結構難しくてハマります。なかなかバランスが取れない。日々のアルコール大量摂取によって震え気味のわたしの手では「ロボット」が限界でした。「老人と海」のサンチャゴではありませんが、手よ言うことを聞いてくれ!って感じ。ってそんなにカッコいいシチュエーションじゃないか。しかもあっちは巨大カジキと格闘、こっちは積木と格闘と来たもんだ。今度来たときは絶対「中国風」を完成させてやろうと心に誓う。

おみやげは知恵の輪です。ちゃきちゃきと金属を触っているとなぜか癒されます。帰りのバスと電車は「難しいねえ」「これ、本当に外れるの?」と、皆で知恵の輪をしながら乗りました。子供と濃密な時間を過ごせた、ありがたい一日でした。

秋の夕 知恵の輪解いて 誇らしげ
たっぷり褒めてあげました。

最初にプラネタリウム。撮影は禁止。光が弱いせいか、上映が始まったら原則として出入り禁止です。実はわたし閉所恐怖症(そんなのあるのかな)でして、閉じ込められると何となく冷や汗が出てお腹がゴロゴロしてくる。でもまあ、絶対に出られないわけじゃないし、と自分に言い聞かせて1時間我慢。全天プラネタリウムはやはり見応えがあります。星空にあまり興味のない私ですが、しばし夜空を仰いできた人類の夢と、広大な宇宙に思いを馳せました。
その後、カフェテリアに行ってちょっと早めお昼。子供たちは大好物のラーメン、私はお腹が空いてなかったのでピザトーストを頂きました。子供はここのラーメンが大好きです。大人からすれば何ということのない味ですが、やはり外で食べるラーメンは格別な様子。ピザトーストはその辺のスーパーでピザトースト用ソース買ってきてチーズ乗っけて焼きましたって感じ。それなりの味ですが、意外にチーズがたっぷりで嬉しい。それに何より安くてよろしい。コストパフォーマンス的には満足です。

次はパズルコーナーに行きました。知恵の輪とか積木とかが置いてあります。特にイベントがなかったせいか、館内は空いていて担当のおじさん、おばさんがたっぷり子供たちの相手をしてくれました。子連れ男には大変ありがたい。心から感謝。子供たちも夢中で遊びました。係のおじさん、おばさんに「ほら!出来たよ!見て見て!」と言うと、大人なおじさん、おばさんはいちいちちゃんと「すごいねえ」「がんばったねえ」と褒めてくれる。子供も嬉しそう。

積木コーナーでは下の子が椅子を、上が高い塔を作りました。「ねえ、写真撮って!お母さんに見せて褒めて貰うんだ!」と頑張ったのが上の子。そんなことより宿題をちゃんとやる方が褒められるんだよ。と思わないでもありませんでしたが、積木で褒めてもらえる、褒めてもらおう、といういじらしさにちょっとホロり。褒めるって、子供の心の栄養なんだなあ。もっと褒めなくちゃ。と反省しきり。
私も空いた時間で「ロボット」を作成。これが結構難しくてハマります。なかなかバランスが取れない。日々のアルコール大量摂取によって震え気味のわたしの手では「ロボット」が限界でした。「老人と海」のサンチャゴではありませんが、手よ言うことを聞いてくれ!って感じ。ってそんなにカッコいいシチュエーションじゃないか。しかもあっちは巨大カジキと格闘、こっちは積木と格闘と来たもんだ。今度来たときは絶対「中国風」を完成させてやろうと心に誓う。

おみやげは知恵の輪です。ちゃきちゃきと金属を触っているとなぜか癒されます。帰りのバスと電車は「難しいねえ」「これ、本当に外れるの?」と、皆で知恵の輪をしながら乗りました。子供と濃密な時間を過ごせた、ありがたい一日でした。

秋の夕 知恵の輪解いて 誇らしげ
たっぷり褒めてあげました。
2010年11月16日火曜日
イワシの塩焼き

この塩焼きという調理法は最強ですな。
画像が相当アンダーで、黒焦げみたいですが、本当は銀色のイワシがプシプシと焼けている、そういう様子を想像してつかあさい。ホントです。
ささやかながら料理を趣味としているわたしは、スーパーで美味そうな魚を見るたびに、ここは一つイタリアンな感じで、トマトとオリーブオイルで頂いたらどうか、とか、揚げてみたらどうか、とか、あるいは「臭み消し」などと称して珍しいハーブやエスニックな調味料を使ってみたらどうか、といろいろ考えてしまいます。ようは魚が可愛くて可愛くて、いっぱい構いたいんです。
しかし、そのわたくしへの強力なアンチテーゼというのがすなわち塩焼き。簡単で美味い。何だよ。俺が腕によりをかけて加工するよりも、塩焼きの方が断然美味しいじゃないか。ということで、塩焼きをおいしく頂くたびに、何となく悲しい気分になってしまうのです。お魚さんに一番敬意を払った調理方法とは、実はシンプルな塩焼きなんじゃないか、と。
ま、そうは言っても毎回塩焼きだとさすがに飽きるよね、ということに思い至り、再びいろんな魚レシピを探してチャレンジしてしまうんですけどね。
2010年11月15日月曜日
「タワーリング・インフェルノ」 スティーブ・マクイーン、ポール・ニューマン見た
いやあ、とにかくアンジェラ(だっけ)とお兄ちゃんが助かってよかった。子供が優先だよ。フレッド・アステア残念!スティーブ・マクイーン、ポール・ニューマン、無名の消防士、警備員さんカッコイイ!みな、ほとけ様だよ。という、全編、感情揺さぶられすぎなパニック映画でした。スゴかった。参った。
妻はポール・ニューマン見て「カッコイイ!」と感嘆の声を上げ、わたくしはスティーブ・マクイーンを見て「かっこいい!」と唸る。お互い、理解ができない。それが夫婦。それが人間。
昔見たような気はするんだけど、昔見たときとは違う感動でした。登場人物にいちいち感情移入できるからに違いない。だって40未満(多分)の若造が出てこないもの。功なり名を遂げた人々、あるいは人生の成功を謳歌している人、あるいは何もかもを捨てて本当に大事なものを見つけた人の、最後の生きざま、死にざまを正面から描写している映画ですから。脇役の人生が丁寧に描写された映画でした。かつてのわたくしには分からなかったのね。
ヒエェェという感じで、最後まで見ました。凄い映画でした。
妻はポール・ニューマン見て「カッコイイ!」と感嘆の声を上げ、わたくしはスティーブ・マクイーンを見て「かっこいい!」と唸る。お互い、理解ができない。それが夫婦。それが人間。
昔見たような気はするんだけど、昔見たときとは違う感動でした。登場人物にいちいち感情移入できるからに違いない。だって40未満(多分)の若造が出てこないもの。功なり名を遂げた人々、あるいは人生の成功を謳歌している人、あるいは何もかもを捨てて本当に大事なものを見つけた人の、最後の生きざま、死にざまを正面から描写している映画ですから。脇役の人生が丁寧に描写された映画でした。かつてのわたくしには分からなかったのね。
ヒエェェという感じで、最後まで見ました。凄い映画でした。
ミーゴレン(インドネシア風焼きそば)、チキンソテー
チキンソテーです。鳥もも肉を室温に戻します。といっても今の季節、なかなか室温には戻らないので、湯せんで温めてしまいました。それから適宜切れ目を入れます。

ミーゴレン用の野菜群。レシピは例によってクックパッド。

温めたチキンを焼きます。いい感じ。写真にはありませんが、同じフライパンでネギを炒めて、チキンステーキに添えました。

平行してミーゴレンを作ります。

半信半疑だったのですが、ワリとそれっぽい味になったので満足でした。ちなみに子供は普通の焼きそば。
以上です。

ミーゴレン用の野菜群。レシピは例によってクックパッド。

温めたチキンを焼きます。いい感じ。写真にはありませんが、同じフライパンでネギを炒めて、チキンステーキに添えました。

平行してミーゴレンを作ります。

半信半疑だったのですが、ワリとそれっぽい味になったので満足でした。ちなみに子供は普通の焼きそば。
以上です。
2010年11月13日土曜日
スティーブ・マクイーン「ブリット」見た
今BSでスティーブ・マクイーン特集やってるんですが、カッコいいですなあ。高校生からカッコいいと思っていたなあと思い出す。私の若いころのオジサンアイドルは、デ・ニーロ、イーストウッドとこの人でした。
今の時代に出現したらダサダサのあり得ない恰好なんですけど、なんかカッコいい。存在感がある。山本監督も言ってましたが演技に見えないんですな。
また映画も微妙にB級っぽくて素敵。60~70年代アメリカン映画の王道。結構好きです。
今の時代に出現したらダサダサのあり得ない恰好なんですけど、なんかカッコいい。存在感がある。山本監督も言ってましたが演技に見えないんですな。
また映画も微妙にB級っぽくて素敵。60~70年代アメリカン映画の王道。結構好きです。
表現としてのファッションの考察
またしてもファッションに関する考察です。このブログで「ファッションとは表現である」旨のことを度々言ってるわけですが、ファッションが表現である以上、その表現を受け取る人に配慮せざるを得ないということはあります。具体的には「お客さんに寒々しい印象を与えないためのファッション」とか「まわりの人に失礼にならないためのファッション」といったものが存在するわけです。
表現は他者を前提とした活動です。他者がいて始めて表現が成立するワケ。だから表現としてのファッションを意識したとき、そのファッションが他者に与える印象を考慮せざるを得ない。いくら「ランボー」「コマンドー」スタイルに憧れているといっても、上半身裸でアーミーナイフをぶら下げて街中を歩くわけにはいきません。確かにそれもまた表現の一つでしょう。しかし、そこには他者の考慮が漏れている。他者を考慮しない表現は、いわゆる「イタイ」表現になってしまう。
ただ、受け取る人の感性もさまざまです。「イタイ」服装であったとしても、それをちゃんと評価する人もいないとは言えない。あるいは逆に「穏健で品の良い」服装であったとしても、それを鼻で笑う人がいるかもしれない。
でも、おそらくは「中庸」というものがあって、8割の人間が不快感を持たないラインというものがあるに違いない。だから、ファッションとは批判的である(と想定した)他者の目を意識しつつ、6~8割の人間が許容するであろうラインを狙って、なおかつ個性を表現するものである、と定義できるかもしれませんね。
表現と対象、自分、他者は、必然的にズレていくものです。環境、時間が移り変わるとともに、表現はズレていく。発信する側も変わっていくし、受け取る側も変わっていく。そのズレを意図的に裏切ったり、見事に裏切られたりしながら、表現と意味とのズレを楽しむのがファッションのあり方なのかもしれません。
表現は他者を前提とした活動です。他者がいて始めて表現が成立するワケ。だから表現としてのファッションを意識したとき、そのファッションが他者に与える印象を考慮せざるを得ない。いくら「ランボー」「コマンドー」スタイルに憧れているといっても、上半身裸でアーミーナイフをぶら下げて街中を歩くわけにはいきません。確かにそれもまた表現の一つでしょう。しかし、そこには他者の考慮が漏れている。他者を考慮しない表現は、いわゆる「イタイ」表現になってしまう。
ただ、受け取る人の感性もさまざまです。「イタイ」服装であったとしても、それをちゃんと評価する人もいないとは言えない。あるいは逆に「穏健で品の良い」服装であったとしても、それを鼻で笑う人がいるかもしれない。
でも、おそらくは「中庸」というものがあって、8割の人間が不快感を持たないラインというものがあるに違いない。だから、ファッションとは批判的である(と想定した)他者の目を意識しつつ、6~8割の人間が許容するであろうラインを狙って、なおかつ個性を表現するものである、と定義できるかもしれませんね。
表現と対象、自分、他者は、必然的にズレていくものです。環境、時間が移り変わるとともに、表現はズレていく。発信する側も変わっていくし、受け取る側も変わっていく。そのズレを意図的に裏切ったり、見事に裏切られたりしながら、表現と意味とのズレを楽しむのがファッションのあり方なのかもしれません。
2010年11月12日金曜日
剣先イカトマトパスタ、チキンクリームスープ、イワシのオリーブオイル焼き
トマトソースを作ります。オリーブオイルとにんにくを温め、トマト缶を二つ、塩少々。これだけ。ひたすら弱火でくつくつと煮ていきます。

その間に野菜を刻んでおきます。赤ピーマン、緑ピーマン、玉ねぎ。

トマトソースの様子を見計らって野菜投入。

次に頑張ってイカを捌いて、投入。鍋を移し替えます。

次に頑張ってイカを捌いて、投入。ビタクラフトは後で使うので、ペラペラ鍋にソースを移し替えます。

トマトソースと平行して手羽元を圧力鍋で調理しておりました。手羽元17分、白菜を投入してさらに3分。仕上げに、例によって小麦粉を寝かせた牛乳を混ぜただけ。

それからイワシです。子供は食べないだろうと思って親の分だけ。

頑張って手開きにしたのを、

オリーブオイルとにんにくで焼き蒸ししました。→レシピ
美味かったっす。最近冒険しないせいか外れがない。ふふふ。

その間に野菜を刻んでおきます。赤ピーマン、緑ピーマン、玉ねぎ。

トマトソースの様子を見計らって野菜投入。

次に頑張ってイカを捌いて、投入。鍋を移し替えます。

次に頑張ってイカを捌いて、投入。ビタクラフトは後で使うので、ペラペラ鍋にソースを移し替えます。

トマトソースと平行して手羽元を圧力鍋で調理しておりました。手羽元17分、白菜を投入してさらに3分。仕上げに、例によって小麦粉を寝かせた牛乳を混ぜただけ。

それからイワシです。子供は食べないだろうと思って親の分だけ。

頑張って手開きにしたのを、

オリーブオイルとにんにくで焼き蒸ししました。→レシピ
美味かったっす。最近冒険しないせいか外れがない。ふふふ。
2010年11月11日木曜日
2010年11月10日水曜日
白菜スープ、イワシ梅煮、じゃこチャーハン
寒さを増すとともに気合が入ってきた料理です。でも、一時期あんなにハマっていたパン作りはやらなくなったなあ。やっぱり大変だし時間がかかるもんな。また気が向いたらやるかもしれませんけど。
さて、今回は白菜スープ、イワシ梅煮、じゃこチャーハンです。最近うまそうなイワシと出会う機会が多かったため、ぜひ食べたかった。子供の嫌いなイワシ。わたしは大好き。
まずは白菜スープです。水少なめ、白菜山盛り、塩少々で、圧力鍋はイワシに占領されているので普通の鍋でぐつぐつ茹でます。白菜がくたっとしたら豚肉を刻んだのを入れて再びぐつぐつ。

仕上げる15分ほど前にスープの素と醤油で調味で完成。

次に梅煮です。レシピはクックパッドを参照。結果的に当たりレシピということが判明しています。梅を刻んで、

酒、醤油、砂糖を入れて、

不退転の決意でイワシを捌いて筒切り。鍋に放り込んで、

二十分加圧。中骨はまだ固いですが、小骨はサクサク。

次にじゃこチャーハンです。ネギとピーマンを刻んでじゃこと混ぜて、

卵を入れて混ぜます。(画像は2人前)

あとは中華鍋をカンカンに熱して一気呵成に仕上げるだけ。

小確幸な夕食でした。
さて、今回は白菜スープ、イワシ梅煮、じゃこチャーハンです。最近うまそうなイワシと出会う機会が多かったため、ぜひ食べたかった。子供の嫌いなイワシ。わたしは大好き。
まずは白菜スープです。水少なめ、白菜山盛り、塩少々で、圧力鍋はイワシに占領されているので普通の鍋でぐつぐつ茹でます。白菜がくたっとしたら豚肉を刻んだのを入れて再びぐつぐつ。

仕上げる15分ほど前にスープの素と醤油で調味で完成。

次に梅煮です。レシピはクックパッドを参照。結果的に当たりレシピということが判明しています。梅を刻んで、

酒、醤油、砂糖を入れて、

不退転の決意でイワシを捌いて筒切り。鍋に放り込んで、

二十分加圧。中骨はまだ固いですが、小骨はサクサク。

次にじゃこチャーハンです。ネギとピーマンを刻んでじゃこと混ぜて、

卵を入れて混ぜます。(画像は2人前)

あとは中華鍋をカンカンに熱して一気呵成に仕上げるだけ。

小確幸な夕食でした。
iPadでゲームですか
最近電車やカフェでiPadを見かけることが多くなりました。大体あれですね。産経新聞見たり、何か(本?Web?)読んでたりそんな使い方が目に留まります。後はマンガとかゲーム。そんなに熱心に観察しているわけではないけれど。
しかし、マンガとゲームに偏見はありませんが、iPad+マンガ・ゲームには違和感を持ってしまうのは私だけでしょうか?多分(面白くはないけれど)適切な比喩として、電車でノートPC広げてソリティアやるか?みたいな。バッテリーもったいなくね?みたいな。使い方間違っているとまでは言わない(わたしには言えない)けれど、違和感からは逃れがたい。
電車でゲームするのは分かります。退屈だからゲームしよう。そりゃそうだ。PSP、DS、iPhoneだったら違和感もありません。しかし、これがiPadだと変ですよ。だって、デカイもの。隣でパリッと決めたリーマンが、立派な皮ケースに入ったiPad取り出して、画面を指で縦横無尽にコスってました。何やってるかと思えばゲーム。なんだかなあ、と思ってしまう。
繰り返しますが、わたしはマンガ・ゲームをバカにするタイプではありません。日本のマンガは本当に凄いと思う(関係ないけれど、クリエーターさんたちがちゃんと報われているのか、及ばずながら心配もしている)。ゲームだってファミコン、スーファミの時代にお世話になったし、今でも強力なコンテンツだと思う。しかし、iPadでするとなると・・・ねぇ・・
なんつーか、オーバースペックな感じです。あーモッタイナイっちゅうか。
でもね、確かに「じゃあ何に使うんだよ」と言われたら困っちゃいますね。(わたしはiPadは持ってませんが)
無線LANサービスと契約してWebでも見たらどうか。ブログの更新。産経新聞。情報収集。電子書籍。へ。なんだ。偉そうなこと言って大した使い方できないじゃないか。そう言われてしまうと、わたしもうつむいて画面のasahi.comをコスるしかない。(iPad持ってないけど)
だってしょうがないじゃないか。使えないんだもの。
実はiPadはこと文章のインプットデバイスとしては、かなりイマイチなんですな。操作感は確かに凄い。革新的だ。でも、文章打てなきゃしょうがないよね。ってこれは私の感想。Bluetoothのキーボード持ち歩くくらいなら、ノーパソ買う。Linuxノートがあれば情報収集はもちろん、OpenOfficeで簡単な報告書の草稿が作れる。ブログの更新だってできる。プログラミングだってできる(本当にやってます)。iPadじゃ、ムリ。
じゃあ、あのiPadは何に向いたインプットデバイスなのか。
やっぱ、ゲームじゃん?
ははあ。そういうことだったのか。
だったら冒頭のリーマンお兄さんにはあやまらなければいけません。あなたは正しいお兄さんでした。大変失礼しました。
ということで、もしiPadでゲームしている人に違和感を持ったとしても、それは正しいことをしているのですから、ちゃんと「正しいことをしているんだなあ」と思いましょう、とそういうことですかね。
しかし、マンガとゲームに偏見はありませんが、iPad+マンガ・ゲームには違和感を持ってしまうのは私だけでしょうか?多分(面白くはないけれど)適切な比喩として、電車でノートPC広げてソリティアやるか?みたいな。バッテリーもったいなくね?みたいな。使い方間違っているとまでは言わない(わたしには言えない)けれど、違和感からは逃れがたい。
電車でゲームするのは分かります。退屈だからゲームしよう。そりゃそうだ。PSP、DS、iPhoneだったら違和感もありません。しかし、これがiPadだと変ですよ。だって、デカイもの。隣でパリッと決めたリーマンが、立派な皮ケースに入ったiPad取り出して、画面を指で縦横無尽にコスってました。何やってるかと思えばゲーム。なんだかなあ、と思ってしまう。
繰り返しますが、わたしはマンガ・ゲームをバカにするタイプではありません。日本のマンガは本当に凄いと思う(関係ないけれど、クリエーターさんたちがちゃんと報われているのか、及ばずながら心配もしている)。ゲームだってファミコン、スーファミの時代にお世話になったし、今でも強力なコンテンツだと思う。しかし、iPadでするとなると・・・ねぇ・・
なんつーか、オーバースペックな感じです。あーモッタイナイっちゅうか。
でもね、確かに「じゃあ何に使うんだよ」と言われたら困っちゃいますね。(わたしはiPadは持ってませんが)
無線LANサービスと契約してWebでも見たらどうか。ブログの更新。産経新聞。情報収集。電子書籍。へ。なんだ。偉そうなこと言って大した使い方できないじゃないか。そう言われてしまうと、わたしもうつむいて画面のasahi.comをコスるしかない。(iPad持ってないけど)
だってしょうがないじゃないか。使えないんだもの。
実はiPadはこと文章のインプットデバイスとしては、かなりイマイチなんですな。操作感は確かに凄い。革新的だ。でも、文章打てなきゃしょうがないよね。ってこれは私の感想。Bluetoothのキーボード持ち歩くくらいなら、ノーパソ買う。Linuxノートがあれば情報収集はもちろん、OpenOfficeで簡単な報告書の草稿が作れる。ブログの更新だってできる。プログラミングだってできる(本当にやってます)。iPadじゃ、ムリ。
じゃあ、あのiPadは何に向いたインプットデバイスなのか。
やっぱ、ゲームじゃん?
ははあ。そういうことだったのか。
だったら冒頭のリーマンお兄さんにはあやまらなければいけません。あなたは正しいお兄さんでした。大変失礼しました。
ということで、もしiPadでゲームしている人に違和感を持ったとしても、それは正しいことをしているのですから、ちゃんと「正しいことをしているんだなあ」と思いましょう、とそういうことですかね。
2010年11月8日月曜日
自由が丘に行ってみた
何を血迷ったか自由が丘に行ってまいりました。

何でかっていえば、自由が丘ならおもしろい服でもないかしらと思ったので。いやあ、変わったな>自分。
実はわたくし、「自由が丘」というブランドがある(「吉祥寺」とか「秋葉原」と同じ意味で)ことすら知らなかったんですね。妻に自由が丘でも行ってみたら?と言われたとき、何それ?食えるの?ってなもんでした。月並みな表現ですが。で、行ってみた。どうだったか。

はい。ダメでした。若い女性(MAXで幼児ママさん)ターゲットがほとんどと見た。男性用の服は大して面白いものはなかったように思います。といっても、全店見たわけじゃありませんがね。散歩した限りでの話。それからもちろん、わたしのお財布&好み基準での話です。
しかしまあ、興味を引いたのは「自由が丘」という存在です。さすがに「光が丘@練馬」とは違うぜ。当たり前か。しかし「なんだなんだこのおしゃれスポットは!」って感じですね。こんな世界があったのか。住宅街と多数のファッション系店舗が共存している。デパートのフロアを全部地上に展開して、店舗ごとに解体して、住宅街に楽しそうにちりばめた感じ。散歩すると、あるわあるわ、オシャレなお店、カフェ、レストラン。流行りの服を来た若い子が嬉しそうにショップ・カフェ巡りしている模様。まさに「オシャレ女子のためのテーマパーク」とでも言いましょうか。ちなみにバカにしているわけではない。しかしまあ、自由が丘、どうしてこうなった。と感心しきりでした。

ナニゲに不動産の店を覗くと(ハッキリとは覚えていませんが)3LDKで家賃が40~50万しよる。どうなっているのか。一体どこから金が出てるんだ。
結局、もの凄い金額の資本が投下された街なのだ、ということでしょう。
さて、この街を「吉祥寺」と比べると興味深い気がします。あんまり吉祥寺に詳しいわけじゃないけど。どちらも「おしゃれ」というブランドなわけですけど、吉祥寺の方が猥雑な感じがあります。生活感もある。やや人生に疲れた系のオッサンも普通に歩いてる。自由が丘にも飲み屋街がありましたが、吉祥寺ほど猥雑な感じは無さげ。また、自由が丘を歩く人生に疲れた系のオッサンは、吉祥寺にいるよりももっと疲れているように見える。昼間っから呑むとしたら吉祥寺だよね。という感じがします。ホロ酔いオジサンはちょっと自由が丘歩けない気がするから。
ま、ハッキリ言って好みじゃありませんがね。作られた感、うすっぺらい感があって、味わいがないっつーか。どうせご縁がない街だからいいんですけど。でも、おもしろい街だとは思いました。一度行ってみる価値はありますね。

何でかっていえば、自由が丘ならおもしろい服でもないかしらと思ったので。いやあ、変わったな>自分。
実はわたくし、「自由が丘」というブランドがある(「吉祥寺」とか「秋葉原」と同じ意味で)ことすら知らなかったんですね。妻に自由が丘でも行ってみたら?と言われたとき、何それ?食えるの?ってなもんでした。月並みな表現ですが。で、行ってみた。どうだったか。

はい。ダメでした。若い女性(MAXで幼児ママさん)ターゲットがほとんどと見た。男性用の服は大して面白いものはなかったように思います。といっても、全店見たわけじゃありませんがね。散歩した限りでの話。それからもちろん、わたしのお財布&好み基準での話です。
しかしまあ、興味を引いたのは「自由が丘」という存在です。さすがに「光が丘@練馬」とは違うぜ。当たり前か。しかし「なんだなんだこのおしゃれスポットは!」って感じですね。こんな世界があったのか。住宅街と多数のファッション系店舗が共存している。デパートのフロアを全部地上に展開して、店舗ごとに解体して、住宅街に楽しそうにちりばめた感じ。散歩すると、あるわあるわ、オシャレなお店、カフェ、レストラン。流行りの服を来た若い子が嬉しそうにショップ・カフェ巡りしている模様。まさに「オシャレ女子のためのテーマパーク」とでも言いましょうか。ちなみにバカにしているわけではない。しかしまあ、自由が丘、どうしてこうなった。と感心しきりでした。

ナニゲに不動産の店を覗くと(ハッキリとは覚えていませんが)3LDKで家賃が40~50万しよる。どうなっているのか。一体どこから金が出てるんだ。
結局、もの凄い金額の資本が投下された街なのだ、ということでしょう。
さて、この街を「吉祥寺」と比べると興味深い気がします。あんまり吉祥寺に詳しいわけじゃないけど。どちらも「おしゃれ」というブランドなわけですけど、吉祥寺の方が猥雑な感じがあります。生活感もある。やや人生に疲れた系のオッサンも普通に歩いてる。自由が丘にも飲み屋街がありましたが、吉祥寺ほど猥雑な感じは無さげ。また、自由が丘を歩く人生に疲れた系のオッサンは、吉祥寺にいるよりももっと疲れているように見える。昼間っから呑むとしたら吉祥寺だよね。という感じがします。ホロ酔いオジサンはちょっと自由が丘歩けない気がするから。
ま、ハッキリ言って好みじゃありませんがね。作られた感、うすっぺらい感があって、味わいがないっつーか。どうせご縁がない街だからいいんですけど。でも、おもしろい街だとは思いました。一度行ってみる価値はありますね。
2010年11月7日日曜日
再びファッションについての考察
メンズ・ノンノを眺めながら美容師さんにカットしてもらっていた時のこと。「お。XXさんもファッションに興味が出てきましたか」などと揶揄されつつ、とりとめもなく会話していたら、七部袖のシャツについて印象に残るコメントがありました。美容師をしていると、長袖の服ではどうしても袖に毛が付いてしまう。いちいち袖をまくるのも大変だし、暖房も効いてるから、本当は冬でも半袖で問題ないのだけど、それではお客さんから見てあまりに寒々しいと思われるので、七部袖が便利なのである、でも、冬だと七部袖でも何だか寒々しい印象を与えるんじゃないかと少し気にしている。ということでした。それを聞いて私は、なるほど服装というのは、やはりそれを見る他人に対する思いやりということなのか、と思ったのですが、ひるがえってメンズ・ノンノのモデルさんたちを眺めていると、どうもそればかりではないなあ、とも思われました。
前にこのブログで「好むと好まざるとに関わらず、服装とはそれを着る人の表現なのだ」と書きましたが、さしずめ美容師さんのスタンスは「お客さんに対する気配りの表現」としての服装になるでしょうし、メンズ・ノンノのモデルさんのスタンスは「今、これを着るべし」という流行の先端の表現に、またコスプレなどというのも、ある種のターゲットに向けて特化された独特の表現ということになるでしょうか。
「表現としてのファッション」と通常の「言葉による表現」との違いを考えてみると、表現と自分との「距離感」と「持続」にポイントがありそうな気がします。
まず「距離感」とは何か。言葉による表現は、さまざまなものが対象となりえます。例えば客観的な事象の表現。この場合、ほとんどが自分とはあまり関係のないことについての表現になります。その表現とは普通、意見であったり、評価であったりしますが、その表現(意見、評価)は決して自分そのものではない。つまり「自分」と対象の表現とが離れている。
もちろんその人なりの対象の表現=意見、評価を通じて、その人が露わになるということはありそうですが、普通は、言葉による表現とは、まず自分がいて、その自分とあい対するものとしての対象についての表現です。
それに対して、服による表現はまさに肉体としての自分と密着しているわけです。確かに「自己」とは「対象化された身体」ではありません(それはすでに自己にあい対している)。しかし、肉体そのものは、働き、動く自分に他なりません。表現としてのファッションは、それを「働き、かつ動く自己がまとっている」という意味では、今、ここを生きている自分に密着した表現であると言えると思います。自分のまとった何かが表現しているわけで、そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとファッションは案外近いのかもしれません。
それから「持続」。ファッションによる表現は、その衣をまとっている限り続きます。つまりファッションとは、それをまとったら脱ぐまで持続する表現である、ということが言えます。
ということで、表現としてのファッションにどう関わるのか。否応なく、その態度が問われてしまう。んなもの、どうだってええよ。という人から、服カモン。とジャブジャブと金と時間を使う人までさまざまでしょう。このように、服があって、服をまとう人がいる以上、服とそれを着る人に何かしらの関係が生じてしまうのです。
まず、ファッションとは誰か(主体=生きる意志)の表現であり、その表現は、その誰かが服を着ている間持続しているものであるから、不可避的に表現(=服)と表現する人(服を着ている人)との間にズレが生じてしまう。例えば、ファッションによって人が値踏みされてしまうという状況があったときに、そこにどうしてもズレが生まれてしまう。つまり、みっともない服をボサッと着ているからこいつはダメだと思われたとしても、実は知恵のある高潔な人かもしれません。逆もまた然り。
そういう意味では、表現としてのファッションが、常に「自分」を裏切るとすれば、ファッションとは自己の否定である、と言えそうです。われわれはファッションを通じて自己を否定しながら、あるいは他者から否定されながら生きているのです。
カッコいい服、好きな服を着ることによって、否応なく自分を否定することになる。逆に、どうでもいいよ、と服を着ることによって、それはそれで自分を否定することになる。
しかし、好きな服を着て自分を否定することと、しょうがなく服を着て自分を否定するのとでは、その後が違ってくる。
どういうことか。
好きな服を着て自らを否定した後では、さらにその服に似合う自分になりたい、なろうという意志(表現=服と同一化したいという意志)が働くことになる。すなわち、好きな服を着るということは、好きな服(好きな表現)に追いつこうとする自分がいることになる。そういった意志は、やはり自分を高める方に働く。つまり、好きな服を着ることによって、自分が高められる。
一方、どうでもいい服を着ることによて否定される自分とは、どうでもいい服よりもマシな自分である。つまり、どうでもいい服によって、自分が貶められることになるんですね。残念ながら。どうでもいい服を着るということは、まず最初に相手に見くびられることを覚悟していることになる。最初からナメられることになる。ということは、相手に見くびられることを覚悟して他者に臨むことになる。
ということは、最初からハンデを背負って、そのハンデに闘争心(あるいはコンプレクス)を持って向かう人と、最初から「この人やるんじゃない?」と思われながら向かう人とに分かれることになる。
となると、ですね。最初から「ひょっとして出来る人?」と思われると、最初から「大丈夫?」と思われる人とでは、全然その後の評価が違うんですね。同じ事をしても、最初に好印象だった人は「さすが」と思われるし、最初に「?」な印象だった人は「やっぱりね」と思われる。
この構図って、要するに「肩書き」がある人とか「二世」とかが自然に評価されるって構図と同じなんです。
残念ながら、見た目は大事、というのが結論ですな。
はい。疲れたので、おしまい。
前にこのブログで「好むと好まざるとに関わらず、服装とはそれを着る人の表現なのだ」と書きましたが、さしずめ美容師さんのスタンスは「お客さんに対する気配りの表現」としての服装になるでしょうし、メンズ・ノンノのモデルさんのスタンスは「今、これを着るべし」という流行の先端の表現に、またコスプレなどというのも、ある種のターゲットに向けて特化された独特の表現ということになるでしょうか。
「表現としてのファッション」と通常の「言葉による表現」との違いを考えてみると、表現と自分との「距離感」と「持続」にポイントがありそうな気がします。
まず「距離感」とは何か。言葉による表現は、さまざまなものが対象となりえます。例えば客観的な事象の表現。この場合、ほとんどが自分とはあまり関係のないことについての表現になります。その表現とは普通、意見であったり、評価であったりしますが、その表現(意見、評価)は決して自分そのものではない。つまり「自分」と対象の表現とが離れている。
もちろんその人なりの対象の表現=意見、評価を通じて、その人が露わになるということはありそうですが、普通は、言葉による表現とは、まず自分がいて、その自分とあい対するものとしての対象についての表現です。
それに対して、服による表現はまさに肉体としての自分と密着しているわけです。確かに「自己」とは「対象化された身体」ではありません(それはすでに自己にあい対している)。しかし、肉体そのものは、働き、動く自分に他なりません。表現としてのファッションは、それを「働き、かつ動く自己がまとっている」という意味では、今、ここを生きている自分に密着した表現であると言えると思います。自分のまとった何かが表現しているわけで、そういう意味では、ダンスやパフォーマンスとファッションは案外近いのかもしれません。
それから「持続」。ファッションによる表現は、その衣をまとっている限り続きます。つまりファッションとは、それをまとったら脱ぐまで持続する表現である、ということが言えます。
ということで、表現としてのファッションにどう関わるのか。否応なく、その態度が問われてしまう。んなもの、どうだってええよ。という人から、服カモン。とジャブジャブと金と時間を使う人までさまざまでしょう。このように、服があって、服をまとう人がいる以上、服とそれを着る人に何かしらの関係が生じてしまうのです。
まず、ファッションとは誰か(主体=生きる意志)の表現であり、その表現は、その誰かが服を着ている間持続しているものであるから、不可避的に表現(=服)と表現する人(服を着ている人)との間にズレが生じてしまう。例えば、ファッションによって人が値踏みされてしまうという状況があったときに、そこにどうしてもズレが生まれてしまう。つまり、みっともない服をボサッと着ているからこいつはダメだと思われたとしても、実は知恵のある高潔な人かもしれません。逆もまた然り。
そういう意味では、表現としてのファッションが、常に「自分」を裏切るとすれば、ファッションとは自己の否定である、と言えそうです。われわれはファッションを通じて自己を否定しながら、あるいは他者から否定されながら生きているのです。
カッコいい服、好きな服を着ることによって、否応なく自分を否定することになる。逆に、どうでもいいよ、と服を着ることによって、それはそれで自分を否定することになる。
しかし、好きな服を着て自分を否定することと、しょうがなく服を着て自分を否定するのとでは、その後が違ってくる。
どういうことか。
好きな服を着て自らを否定した後では、さらにその服に似合う自分になりたい、なろうという意志(表現=服と同一化したいという意志)が働くことになる。すなわち、好きな服を着るということは、好きな服(好きな表現)に追いつこうとする自分がいることになる。そういった意志は、やはり自分を高める方に働く。つまり、好きな服を着ることによって、自分が高められる。
一方、どうでもいい服を着ることによて否定される自分とは、どうでもいい服よりもマシな自分である。つまり、どうでもいい服によって、自分が貶められることになるんですね。残念ながら。どうでもいい服を着るということは、まず最初に相手に見くびられることを覚悟していることになる。最初からナメられることになる。ということは、相手に見くびられることを覚悟して他者に臨むことになる。
ということは、最初からハンデを背負って、そのハンデに闘争心(あるいはコンプレクス)を持って向かう人と、最初から「この人やるんじゃない?」と思われながら向かう人とに分かれることになる。
となると、ですね。最初から「ひょっとして出来る人?」と思われると、最初から「大丈夫?」と思われる人とでは、全然その後の評価が違うんですね。同じ事をしても、最初に好印象だった人は「さすが」と思われるし、最初に「?」な印象だった人は「やっぱりね」と思われる。
この構図って、要するに「肩書き」がある人とか「二世」とかが自然に評価されるって構図と同じなんです。
残念ながら、見た目は大事、というのが結論ですな。
はい。疲れたので、おしまい。
コロッケ大成功
2010年11月5日金曜日
鷲田清一「ひとはなぜ服を着るのか」NHKライブラリー
★★★★☆☆:ファッションを巡る優雅な省察
最近服に興味を持ち始めたということもあって、久しぶりにこの手の本を読んでみました。鷲田さんは哲学系の人ですが、普通の文献収集哲学学者とは違って自ら考えて発信する貴重な方です。また、その思想には温かみがあるんですな。いわゆる文化人、学者たちの中では好きな人です。
ということで期待して読んで見ましたが、正直ピンと来なかったですね。見ればどうやらファッション系の雑誌に連載されていた、とのこと。なるほど。レベルが違うわけだ。つまり、最近お気に入りの服を見つけたただけのただのおじさん(私のこと)とファッションについて最新のモードを追いながら精緻に考えた人との違いです。ここ5、6年ほどきちんと鏡を見たことがなく、少し前までは服装なんか本当にどうでもよかった私には、ちょっと入れなかったですね。ま、本自体ははっとさせられるような考察も多くて、悪くなかったのですが。
もう一つ違和感があったのは、この本で流行と不可分のものとしてファッションが扱われているという点です。これはどうやら時代の違いもありそうです。この本が書かれたのはおそらくバブル期。ブランド指向やら逆に清貧の思想(ありましたね)やら、ファッションやスタイルにいろんな流行が現れては消えて行った時代です。今のわたしは心の底から流行に興味がありませんが、それはひょっとしたら、中学、高校時代にバブル期の雰囲気を感じたせいで「流行」すなわち「消費させるために意図的に仕組まれた欲望のターゲット」に不信感を持ったのかもしれません。
当時は、何でも売り込め、流行を作って消費を引っ張れ、という時代だったのではないでしょうか。
今はそんな雰囲気はまったくありません。バブリーな雰囲気は当然ありませんし、ひょっとしたらファッションのターゲットが細分化されたおかげで、ファッションというものにあまり頭を使わなくてもよくなったということがあるかもしれません。つまり、服に興味が興味がなければユニクロ、無印に行けばいいわけです。そこそこの服がお手頃価格で手に入る。またそれらを着るのに「敢えてユニクロで統一してるんだ。俺は服なんかどうでもいいんだ」という主張もほとんどいらなくなった。興味がないんだったら、安心してユニクロ、無印を着ていればいいんですよ。そんなありがたいご提案があるわけ。
もちろん、金をかけたいならかければいい。ブランド品だってあるし、古着という選択肢だってある。いろんなスタイルを選べるわけですね。このような社会では、つまり「私は古着が好き」「オレはユニクロでいいよ」と自然体で話せる社会では、おそらく流行=刹那的な欲望のメインストリームは強い力を持ち得ない。だから、流行に振り回される雰囲気がなくなったんじゃなかろうか。
逆に言えば、流行に左右されず、好きな服を好きなように着てもいいのが今の時代と言えるかもしれません。
さて、ファッションに対して人がどういう態度を取るかというと、大きく3パターンに分けることができるのではないかと思います。
一つは本当にファッションに興味がない人。「ファッションに興味がない」というスタイルをまとっているのではなくて、本当に興味がない人です。(かつての私)
次に、好むと好まざるとに関わらずファッションに気を遣っている人。仕方ないと思いながらそれなりに楽しんで(あるいは本当はイヤだけど)服装に気をつける人。
最後に、ファッションが本当に好きな人。
上記で言えば、二番目に該当する人が多いのではないかと愚考します。わたしの妻なんかも「化粧はまわりの人に対する礼儀だ」という旨のことを言ってました。彼女が化粧を好んでしているのか、それともいやいやしているのかは分かりません。おそらく両方ではないかと思います。また、周囲に不快感を与えないためにファッションに気を遣うのだ、という考えも聞いたことがあります。それは裏を返せば、ファッションに気を遣わないと不快感を表明する仲間がいる。だから服装に気を遣わないと仲間に入れないということにもなりそうです。仲間外れにされないために、いじめられないためにファッションに気を使う。さほど悲壮感はありませんが、人間関係においてファッションがシビアな役割を担っている、ということはありそうです。
わたしはと言えば、かつては「はた迷惑上等。ファッションに掛ける金などない!」という立場でしたが、今は何となく「ファッション」というキーワードが理解できてきた、という状況です。気に入った服を着ることは嬉しい。素直にそう楽しめるようになりました。もちろん流行はまったく意識しません。気に入った布地で織られた気に入った型の服。それを着て出かけると、なかなかハッピー。それだけのことです。「ファッション」という大仰な言葉は似合いそうにない。しかし、それだけのこととはいえ、気に入った服を着るのは実に楽しい。
気に入ったモノに囲まれるのはなかなか幸せなものです。しかし、服のもたらす幸福感はやはり良い道具がもたらすそれとは違ってくる。お気に入りの道具がもたらす幸福感は、徐々に自分の手に馴染んで、ついには身体と一体化するものではないでしょうか。息の合ったパートナーのような、空気のような必要不可欠の存在。
服がもたらす幸福はやはり少し違う。いわゆる道具(料理道具、工具)と服は、何が違うか。まず服は「何のために」という問いが二次的となっているモノです。単に暖を取るためではない。単に隠すためではない。心地よいというのは重要ですが、それだけが目的でもない。服とは多かれ少なかれ、その人のスタイルとなるものです。好むと好まざるとに関わらず、服装はそれを着る人の表現になる。若い男がレギンスに半ズボンを着るのも表現ですし、ユニクロ上下を着るのも、あるいはサラリーマンが紺のスーツを着るのもまた「没個性」の表現です。だから制服=表現という構造からは誰も逃げられない。
でも、そのような表現としての服も、決して押し付けがましいものではありません。見るだけで圧倒されるような服も、不愉快になる服も少ないし、気に入らなければ目を逸らせばいい。それに、そもそも他人の服装などあまり気にしない。とすると、服装とは何よりもまず自分に対する表現ではないかと思われます。
気に入った服を着ていると、姿勢がピンとします。当然、テンションも上がる。すると、服というのは身体を覆い隠すだけではなく、身体と同一化することによって、精神までをも高めるような、そんなモノなのではないかと思います。
何か長くなってしまったので中途半端ですがこの辺で。
最近服に興味を持ち始めたということもあって、久しぶりにこの手の本を読んでみました。鷲田さんは哲学系の人ですが、普通の文献収集哲学学者とは違って自ら考えて発信する貴重な方です。また、その思想には温かみがあるんですな。いわゆる文化人、学者たちの中では好きな人です。
ということで期待して読んで見ましたが、正直ピンと来なかったですね。見ればどうやらファッション系の雑誌に連載されていた、とのこと。なるほど。レベルが違うわけだ。つまり、最近お気に入りの服を見つけたただけのただのおじさん(私のこと)とファッションについて最新のモードを追いながら精緻に考えた人との違いです。ここ5、6年ほどきちんと鏡を見たことがなく、少し前までは服装なんか本当にどうでもよかった私には、ちょっと入れなかったですね。ま、本自体ははっとさせられるような考察も多くて、悪くなかったのですが。
もう一つ違和感があったのは、この本で流行と不可分のものとしてファッションが扱われているという点です。これはどうやら時代の違いもありそうです。この本が書かれたのはおそらくバブル期。ブランド指向やら逆に清貧の思想(ありましたね)やら、ファッションやスタイルにいろんな流行が現れては消えて行った時代です。今のわたしは心の底から流行に興味がありませんが、それはひょっとしたら、中学、高校時代にバブル期の雰囲気を感じたせいで「流行」すなわち「消費させるために意図的に仕組まれた欲望のターゲット」に不信感を持ったのかもしれません。
当時は、何でも売り込め、流行を作って消費を引っ張れ、という時代だったのではないでしょうか。
今はそんな雰囲気はまったくありません。バブリーな雰囲気は当然ありませんし、ひょっとしたらファッションのターゲットが細分化されたおかげで、ファッションというものにあまり頭を使わなくてもよくなったということがあるかもしれません。つまり、服に興味が興味がなければユニクロ、無印に行けばいいわけです。そこそこの服がお手頃価格で手に入る。またそれらを着るのに「敢えてユニクロで統一してるんだ。俺は服なんかどうでもいいんだ」という主張もほとんどいらなくなった。興味がないんだったら、安心してユニクロ、無印を着ていればいいんですよ。そんなありがたいご提案があるわけ。
もちろん、金をかけたいならかければいい。ブランド品だってあるし、古着という選択肢だってある。いろんなスタイルを選べるわけですね。このような社会では、つまり「私は古着が好き」「オレはユニクロでいいよ」と自然体で話せる社会では、おそらく流行=刹那的な欲望のメインストリームは強い力を持ち得ない。だから、流行に振り回される雰囲気がなくなったんじゃなかろうか。
逆に言えば、流行に左右されず、好きな服を好きなように着てもいいのが今の時代と言えるかもしれません。
さて、ファッションに対して人がどういう態度を取るかというと、大きく3パターンに分けることができるのではないかと思います。
一つは本当にファッションに興味がない人。「ファッションに興味がない」というスタイルをまとっているのではなくて、本当に興味がない人です。(かつての私)
次に、好むと好まざるとに関わらずファッションに気を遣っている人。仕方ないと思いながらそれなりに楽しんで(あるいは本当はイヤだけど)服装に気をつける人。
最後に、ファッションが本当に好きな人。
上記で言えば、二番目に該当する人が多いのではないかと愚考します。わたしの妻なんかも「化粧はまわりの人に対する礼儀だ」という旨のことを言ってました。彼女が化粧を好んでしているのか、それともいやいやしているのかは分かりません。おそらく両方ではないかと思います。また、周囲に不快感を与えないためにファッションに気を遣うのだ、という考えも聞いたことがあります。それは裏を返せば、ファッションに気を遣わないと不快感を表明する仲間がいる。だから服装に気を遣わないと仲間に入れないということにもなりそうです。仲間外れにされないために、いじめられないためにファッションに気を使う。さほど悲壮感はありませんが、人間関係においてファッションがシビアな役割を担っている、ということはありそうです。
わたしはと言えば、かつては「はた迷惑上等。ファッションに掛ける金などない!」という立場でしたが、今は何となく「ファッション」というキーワードが理解できてきた、という状況です。気に入った服を着ることは嬉しい。素直にそう楽しめるようになりました。もちろん流行はまったく意識しません。気に入った布地で織られた気に入った型の服。それを着て出かけると、なかなかハッピー。それだけのことです。「ファッション」という大仰な言葉は似合いそうにない。しかし、それだけのこととはいえ、気に入った服を着るのは実に楽しい。
気に入ったモノに囲まれるのはなかなか幸せなものです。しかし、服のもたらす幸福感はやはり良い道具がもたらすそれとは違ってくる。お気に入りの道具がもたらす幸福感は、徐々に自分の手に馴染んで、ついには身体と一体化するものではないでしょうか。息の合ったパートナーのような、空気のような必要不可欠の存在。
服がもたらす幸福はやはり少し違う。いわゆる道具(料理道具、工具)と服は、何が違うか。まず服は「何のために」という問いが二次的となっているモノです。単に暖を取るためではない。単に隠すためではない。心地よいというのは重要ですが、それだけが目的でもない。服とは多かれ少なかれ、その人のスタイルとなるものです。好むと好まざるとに関わらず、服装はそれを着る人の表現になる。若い男がレギンスに半ズボンを着るのも表現ですし、ユニクロ上下を着るのも、あるいはサラリーマンが紺のスーツを着るのもまた「没個性」の表現です。だから制服=表現という構造からは誰も逃げられない。
でも、そのような表現としての服も、決して押し付けがましいものではありません。見るだけで圧倒されるような服も、不愉快になる服も少ないし、気に入らなければ目を逸らせばいい。それに、そもそも他人の服装などあまり気にしない。とすると、服装とは何よりもまず自分に対する表現ではないかと思われます。
気に入った服を着ていると、姿勢がピンとします。当然、テンションも上がる。すると、服というのは身体を覆い隠すだけではなく、身体と同一化することによって、精神までをも高めるような、そんなモノなのではないかと思います。
何か長くなってしまったので中途半端ですがこの辺で。
偉いぞ新潟県警
ひき逃げ事件放置 被害者妻が証拠発掘 新潟県警ミス
ミスが偉いってんじゃありませんよ。誤りを認めたこと。
誤りを認めるってなかなかできませんからね。
そりゃ当り前のことですけどね。でも、当り前のことができないのが人間です。ましてや官僚組織。誤りを認めるなんて大したもんだ。礒野宏三副署長さんですか。相当な誠実さを感じます。褒めすぎか。でも、組織の中に誠実な人間がいなければ、絶対できないと思うな。何かあってもみんな及び腰になってさ。心の中では「おかしい」思っていても、声を上げることができない。結局うやむやにしてしまう。なかったことにしてしまう。それが組織。それが組織に属す人間。
ま、なかなかいい話だと思いました。
ミスが偉いってんじゃありませんよ。誤りを認めたこと。
誤りを認めるってなかなかできませんからね。
そりゃ当り前のことですけどね。でも、当り前のことができないのが人間です。ましてや官僚組織。誤りを認めるなんて大したもんだ。礒野宏三副署長さんですか。相当な誠実さを感じます。褒めすぎか。でも、組織の中に誠実な人間がいなければ、絶対できないと思うな。何かあってもみんな及び腰になってさ。心の中では「おかしい」思っていても、声を上げることができない。結局うやむやにしてしまう。なかったことにしてしまう。それが組織。それが組織に属す人間。
ま、なかなかいい話だと思いました。
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