2010年4月11日日曜日

西武遊園地、プリキュアショー

西武遊園地に行ってまいりました。

ユルいんですよね。そのユルさが好き。ユルさ故に人が少ない。その少なさが好ましい。

と言っているユーザーばかりだと商売にならないので、西武もいろいろやっているわけですが、まあ、ダメなんじゃないかね。はは。こういう体質というか土着の雰囲気っつうのは変わらないというか。垢ぬけなさ。それもまたよし。諸行無常。ってそんなことを言ってたら妻に怒られたんですけどね。西武沿線は価値を高めて欲しいとは思いつつ、なんか練馬のジジババ的な雰囲気も悪くはないな、という感もあって、そこはアンビバレンツな住人の気持ちなわけですよ。ムツカシイもんですね。

といいつつ、幼稚園、小学生にとってはまだまだ夢の遊園地。スゴく楽しそう。子供たちが楽しめる遊園地じゃないとダメだよね。そういう意味ではまだまだ西武遊園地も堪えているようです。

春。桜。休日も閑散とした遊園地ですが、さすがに人が多い。

プリキュアショーも楽しみました。

知らなかったけど、この手のショーってストーリー仕立てだったんですね。シナリオも練られていて、結構面白いです。

頑張れプリキュア。

帰り際。子供たちは名残惜しそうにしていました。遊園地を一緒に楽しめるのもいつまでかなあ。その切なさもまた老朽化した遊園地とジャストフィット。頑張れ!西武遊園地!

2010年4月7日水曜日

植島啓司「偶然のチカラ」集英社新書

★★★☆☆☆:軽い

感想。最近の新書は何だか薄い気がする。もちろん、内容が。

確かに面白いですよ。たくさんの興味深いエピソード。見やすい強調フォント。すらすら読めて、楽しめる。

でも、何が言いたいのか。最後の数章を読めば足りる。要するに「思い詰めるなくよくよするな。なるようになるさ」。完全に同意するものの、新書一冊読んだ結論としては何だかなあ。

江原ナントカとか細木ナントカを、あれはあれで誰かがやらねばならない仕事だから、と弁護するあたりも、宗教を研究した人にしてはあまりに凡庸な意見。うーん。マンダム。何ともはや。以上。

猪木武徳「戦後世界経済史」中公新書

★★★★☆☆:よくまとまってます

新書にしては厚いですが、サラリと読めました。この人は大秀才ですね。複雑な事象を分かりやすくまとめることが出来る。

若干内容が表面的な気はしましたが、それはトレードオフというものでしょう。この本は入り口。概説。細かいところは各人の問題意識で各人が深化させたらよろしい。

しかしまあ、起きたコトを説明するのも難しいのに、経済理論を振り回してまことしやかに未来を語る専門家には気をつける必要がありますね。特にTヘイゾー。今思えば、ありゃほとんど詐欺の領域だったように思えてならない。

秋月龍珉「誤解された仏教」講談社学術文庫

★★★★★★:どんぴしゃ

仏教思想には親近感を持っているのですが、一つだけ納得いかなかったんですよね。輪廻転生。前世の業(カルマ)を引きずって、生まれ変わる。んなの信じられないよ。

脳みそ削れば別の人。脳が焼ければ意識はない。私はそう思う。無味乾燥ではあるけれど。火葬場で灰になって千の風に舞ってるかもしれない。それを情緒的に取るか即物的に取るかは人の勝手。死んだら意識はない。輪廻もない。もちろん死んだ後のことは分からない。でも、少なくとも生まれ変わるってのはありそうにない。

でも仏教は輪廻を説く。分からない。なぜそこだけ独断的なのか。他の経説は理論的なのに。

この本を読んでスッキリしました。

悟って「後生を受けず」とした釈尊が輪廻を信じていたわけがない。輪廻は当時のインドで支配的だった思想を援用した方便だと。説法を分かりやすくするために輪廻を使ったのだ。仏教は「今」かつ「ここ」だ。この瞬間に、ここで、非我=無にさらされてあるのが私なのだ。一瞬一瞬が新しい私だ。直前の私の業(カルマ)から、次の瞬間の私が縁起するのだ。そうか。それで分かった。

後は、アートマン=ブラフマンすなわち梵我一如は仏教ではない。という主張。仏教は無我だ。梵我一如を超えるのだ。なるほど。そうか。

古代ギリシャ人が感じた存在の驚異は、インドではアートマンとして梵我一如の思想に結実した一方、キリスト教の近代ヨーロッパでは超越論的主観となり存在が忘却された。

仏教では、アートマンを超え、超越論的主観を超え、無の境地に至ったのであった。うーむ。感心しきり。

私は不勉強で秋月さんという方を今まで知らなかったのですが、宗教家としても思想家としてもスゴイ人です。素晴らしい。この人の本に出会えてよかった。

2010年4月5日月曜日

ハワード・ジン著 鳥見真生訳「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」あすなろ書房

★★★★★★:必読かも

最近の私のアメリカに対するイメージが、嫌米とでも安易に名付けたくなるような単調なものだったので、そんなに単純な話でもないだろう、と自己を諌めようとしていた矢先、この本と出会ってしまいました。

そうだったのかアメリカ。いや、何となく知ってはいたけど、これほどひどい歴史だったとは。

トンデモ本ではありません。一般には伏せられていた事実を淡々と書いているだけ。富豪が金を儲け、インディアンと貧乏人と黒人が踏みにじられてきた歴史。アメリカの奴隷解放運動も自由と平等の旗印も、高尚な思想から生まれた「目的」だったのではなく、たまたま都合良く手近にあった「手段」に過ぎなかった。アメリカという国の目的はただ一つ。富裕層の更なる発展。すなわち金儲け。

アメリカと一緒に繁栄してきた事実は認めるし、感謝をしないでもない。しかし、彼等が何を考えているか、彼等の目的がどこにあるのか、理解する必要がありそうです。

小泉竹中改革が日本をダメにした理由は、彼等がアメリカの犬に過ぎなかったからだ、私は今さらながらそう確信するものであります。

秋月龍珉「「無門関」を読む」PHP研究所

★★★★★☆:個人的には結構衝撃の出会い体験

以前「無門関」を読んで狐につままれたようなバカにされたような気になっておったのですが、これを読んで少し納得しました。深い意味があったんだ。当たり前か。でも「無門関」。ただ読んでも分からんよ。

とはいえ、相変わらずヘンテコなところに放り出されたような気になるのは禅ならではでしょうか。

昨今何となく現実の理不尽さと人間の愚かさ、醜さに直面し、混乱したような、俺はマシだという思い上がったような、嫌な気分で過ごしていたのですが、ハタと盲点を付かれたような気分です。混乱は相変わらずですが、少しは足が地についたか。

悟りの道は遠い。悟ればいいのか、という話もあるけれど。

頼住光子「シリーズ・哲学のエッセンス 道元」NHK出版

★★★☆☆☆:まあまあ

道元の「正法眼蔵」というのは非常に晦渋でなかなか歯が立たない本です。あまりに難しくて、単なるコケおどしじゃなかろうかなどと思ったりもするのですが、どうやらそうでもない。折に触れて読んでは、ああ。分からん。と歯がゆくなる本です。

これはその道元の解説本。

悪くはないと思います。しかし、やはりビンと来ない。「正法眼蔵」の難しさは言語の限界を超えた真理を語ろうとしているのが理由だ、と。それはそうかもしれませんが、でもそれって解説本の自己否定では?

頭では禅は分からんというのは完全に同意しますがね。

よくあるパターンですが、道元が神格化され過ぎているとまた理解が遠のく。「正法眼蔵」ってのは、禅の公案やお経をベースにした言葉遊びという側面もあるので、道元=屈折したインテリ(?)という切り口がないと、理解が難しいと思われるのは私だけだろうか。

安藤健二「封印作品の憂鬱」洋泉社

★☆★☆★☆:評価不能

一度は放映されたものの、諸般の事情から封印されてしまい、二度と日の目をみることのなくなったアニメや特撮作品を追ったルポです。作者と制作側のすれ違いや思惑のズレ、利権なども関わっていて、業界の裏事情が透けて見える。Amazonでの評価がわりと高かったので図書館で借りてみました。

結果。面白みが感じられない。この程度の理不尽さ、愚かさ、不幸なすれ違いなど珍しくもなんともない。

とすれば悲しむべきはむしろ私の純真さが失われたことかもな。

マスコミや制作側にいると、また見え方が違うのだろうな、と思いました。なので厳しい評価は控えています。ま、そんなところで。

西田幾多郎「善の研究」岩波文庫

★★★★★☆:傑作と思います

時折読み返してます。

知とは、自己の理想に従って現実を改変し、現実に従って自己の理想を改変するものである。また、真理とは我々の客観的事実を統一したものである。もっとも有力にして統括的なる表象の体系が客観的真理である。そして、真理を知るとは自己の経験を統一することに他ならない。しかも、真理を知った自己はそれまでの自己よりも大きい。ゆえに知は力である。

引用が長くなりました。そう。知ることはすなわち力なんですよね。単に情報を得ている、知っている、それだけでも強い(人に先んじることができる)わけですが、正しく現実を見据えるのも、それだけでまた力なのです。

後は、経験なくして自己はないとか、西洋哲学ではなかなか言えないことをさらっと書いていて溜飲が下がる。西洋思想は相対化される必要があります。

前田専学「ブッダを語る」NHKライブラリー

★★★★☆☆:読みやすくて分かりやすい

仏教に関しては断片的な情報が多く、いまいち全体像が掴めないな思っていたら、これを読んで疑問が解消しました。そうか。ブッダ自身が体系的、形而上学的な認識に不可知論的態度をとっていたのか。なんだ。それを早く言ってよ。

ブッダの足跡をたどりつつ、当時のインド社会や思想状況の描写などもあったりして興味深い本でした。

後は「聖☆おにいさん」に出てきたエピソードも多く親しみが持てます。といってもいい加減な本ではありません。ブッダへの敬意と愛が感じられる良書です。

2010年4月4日日曜日

ウィンナーとキノコの卵炒め、圧力鍋買った、さんまの骨まで煮、野菜炒め

これは朝食です。キノコとウィンナーの卵炒め。古くなりかけていたシイタケが案外いい味を出してました。

夕方。圧力鍋を衝動買いです。

以前から「そろそろ買おうか」などと妻と話してはいました。豆を煮るのも早いというし、塊り肉も早くホロホロに煮あがる、とのこと。魚も骨まで柔らか。

普通の鍋だと、豆を煮るのにモノにもよりますが数時間から6,7時間かかる。塊り肉は2時間。魚の骨まで柔らか煮はいつになったらできるやら。圧力鍋あったらいいよね。

でも、逆を言えば時間をかければ何とかなるわけです(魚以外はね)。だったらまあ、そんなに急いで買う必要もない。それに経験上、どうせ買うならキッチン周りは高いものがよい。包丁にせよ鍋にせよ。高めの投資覚悟でじっくりいいものを選ぼうじゃないの。というわけで、Webで調べては高いものは高いんだなあ、と呟く毎日だったのです。

でも今日何気に衝動買い。ええやんけ。しかも超安いもの。なんと3000円弱。かつ小さめのサイズ。18cm。3.2L。はい。はっきり言って禁じ手です。調理用具は、定評のあるよい(=高い)ものを、しかもワンサイズ大きめのを買うのが成功パターン。まさに大は小を兼ねる。それが賢い選択。

でもね、今回に限っては、この衝動買い、正解かも?と思ってます。まず、問題なく圧力鍋の機能が使える(当たり前だ)。それに、3.2Lあれば、4人前は確実に作れる。子供が成長期に入ると別かもしれないけれど。それは別のおかずでカバーするさ。

やはり、圧力をかけて調理するという機能があるかどうか、そこに大きな差異が出るのであって、それ以上の差異はよほど使い込まないと分からないのかもしれません。ペラペラの鍋と無水調理多層鍋の違いは、圧力鍋と通常鍋との違いと比べると、絶対的には案外小さい差異だったりして。

上手い比喩とは思いませんが、(1)ペラペラの安鍋と(2)無水鍋、(3)安い圧力鍋と(4)高い圧力鍋を乗り物に例えると、(1)ママチャリ、(2)KLEINのロードバイク、(3)原付バイク、(4)750ccの大型バイク、ってなことになりますかね。高い圧力鍋を使ったことがない(かつバイクに詳しくない)ので自信はないけれど。よい自転車とはいえ、やはり原付のバイクの便利さは捨てがたいだろうし、750ccあったら楽しいかもしれないけれど、原付で十分使えるね、みたいな。伝わったかな。まあいいや。

ということで早速さんまの煮ものを作ってみました。

結果。15分加圧ではまだ背骨に違和感ありました。大人は食べられるけど子供は無理。大人も歯の間に挟まるとつらい。でも小骨は完全にOK。子供も骨があっても気にならない!といって食べましたよ。でもね。楽。簡単。早い。これはいい。次回は20分に挑戦です。

それから野菜炒め。大量のチンゲンサイとモヤシとブタコマです。生協の牡蠣風味調味料、ナンプラーで味付けして、片栗粉で軽くとろみを付けました。アンパイの味です。

それからモヤシの味噌汁。美味かったです。

ポテサラコロッケ、ロコモコ、野菜スープ

前日のポテサラ。翌日には味がぼやけてイマイチな感じになっていたのでコロッケにしてしまいました。

まあまあってところでした。

続いてロコモコ。要はハンバーグライスです。羽田空港の看板で見かけたのが印象に残っていたのです。

ぐぐってみたところ、まあなんだかこいつも適当な料理みたいです。まずは玉ねぎをブレンダーでクラッシュして、半分をハンバーグの種に、半分をソースの材料にします。

ソースは適当。にんにく、玉ねぎ、ケチャップ、赤ワイン、醤油とみりん。ひたすら煮詰めるだけ。

卵が多すぎて(肉500g弱に二個入れたら)ユルユル。非常に取り回しが面倒でしたが、ちゃんと焼けてくれました。

ソースに肉汁を入れて仕上げ。でも味が決まらない。首をかしげてしまうような味でした。妻に食べさせてみたら、レモン汁を入れてみてはどうか、と。お!それだ!大さじに1杯ほど入れたらばっちり和風ソースになりました。大当たり。後は卵焼きを作ってご飯に乗せて頂きます。

野菜がないので適当野菜スープとともに。ロコモコ美味かったです。

ツナポテサラ、牛佃煮、かき菜おひたし、もやしサラダ

かなり頑張っていろいろ作ったわけですが、なぜか食卓の風景は非常に貧相だったことを記憶しております。なぜだろう。よく分からない。ま、見かけはともかく、味は良かったので問題はありませんでしたけど。

ポテサラはいつもの手順。明日も食べたかったので多めに作ってます。

次は牛佃煮。牛蒡と玉ねぎを切って、牛肉を炒めます。

肉に火が通ったら牛蒡と玉ねぎを投入。醤油酒みりん1:1:1の混合液をダボダボ。途中で味覚が醤油味にマヒしちゃったのですが、佃煮だからいいかとダボダボダボダボ。

 

かなりしょっぱいものが出来上がってしまいました。まあ味は悪くなかったけれど。

芋が茹であがったのでうで玉子とツナを投入してクラッシュ。マヨネーズと塩で調味します。後はかき菜を茹で、モヤシをさっと茹でて、

かき菜はお浸し。モヤシはサラダに。ポテサラとともに盛りつけます。

どうすか。なんとも貧相な食卓。おかしいなあ。結構な品数なのに。

ポテサラと牛佃煮は、たっぷりタッパに詰めました。頼もしいこと。

朝)トマト・ウインナースープ、ツナチーズトースト、チャイ 夜)すき煮丼

若干鬱気味で更新が滞りがちです。まあこんなWebの更新が滞ろうが誰も困りゃしないんだけどさ。

D80には料理写真が溜まり、iPodには駄文が溜まる。でも、料理写真をアップロードしてコメントを付ける、iPodの駄文を転送する、その一手順が煩わしい。それが鬱。プリキュアのOPの耳コピは楽しかったですけどね。

めげずに行きます。まずは朝食。トマトスープ。

チャイとツナチーズトーストとともにいただきます。チャイは三つしか映ってませんが、家族四人でおいしく頂きました。

昼に何やったか覚えてないな。夜はすき煮。個人的には結構苦手としているジャンルです。

要するに醤油とみりんと酒を1:1:1で調味すれば味が決まるはず。しかし、それが難しい。牛肉を炒めた後、冷蔵庫にある野菜を何でもかんでも(人参牛蒡白菜エリンギシメジねぎ)大量に投入。しっかり煮詰めます。

ご飯にかけておいしく頂きました。うん。この手の料理は水を入れすぎない(ほとんど入れない)のがコツと見つけたり。

2010年3月31日水曜日

ハートキャッチプリキュアOP ピアノ耳コピ

調子に乗って耳コピ完成させました。

2010年3月30日火曜日

パン、チャイ、謎炒め、大豆ポテサラ(残り物)、ササミカツ

まあ、なんというか。パンです。はい。

ピーマンとエリンギ炒め。チャイが救いかな。

昼に、妻がサンドウィッチを作りました。支援ということでササミカツを投下。

揚げ焼きします。

そうそう。この日は娘の幼稚園時代の友達といっしょに家族で小金井公園に行ったのであった。その子も今は中国は上海に。

通常発酵パン、キノコソースパスタ、大豆ポテサラ

何の変哲もない料理写真。こう続けてるとさすがに飽きます。アップロードする体力がもったいないというか。でも、酒を飲みながらのんびり自分のBlogを眺めるときは、料理のが気軽でいいんです。

まずは通常発酵パン。夜間発酵より楽。あたりまえだけど。

朝食ですね。チャイとパンとレタスサラダとスクランブルエッグ。


こっちは夕食。キノコトマトパスタ、卵とわかめのスープ、

そしてツナポテ大豆サラダ。大豆は麺棒でクラッシュしてあります。不思議と粘りが出ましたね。



以上っす。

2010年3月29日月曜日

宇野弘蔵「経済原論」岩波全書

★☆★☆★☆:評価不能

科学が反証可能な仮説で成り立つものであるとすれば、経済学は科学たり得るのでしょうか。その理論は反証可能なのでしょうか。

反証可能でないとすれば、それは単なるドグマではないでしょうか。

この本を読んだ感想も、経済学とは単に社会を経済という側面から解釈する、言わば金の解釈学に過ぎないのではないか、というものでした。欲望やカオスが描かれていない。当たり前じゃないか。経済学が欲望の分析などするわけがない。それはそうかもしれません。しかし、経済学が、経済を対象にした時点で、経済学は現実離れしたものになったのかもしれない。

それに、竹中ヘイゾーのように専門用語をひけらかし、相手を貶めるために、自分に都合よく話を持って行くために、経済学を使っているのをみると、コイツ本当にダメだな、としか思えません。まあ、経済学のせいではありませんけどね。

以上。

ストレスについて

この間自分の持ち物を整理していたら、日記を書いていたノートが出てきました。確か4,5年前のノート。うお。何書いてたっけ。黒歴史発掘してしまったか。と思って恐る恐る開いてみたら、いやいや黒歴史どころか。懐かしや。意に染まぬ仕事ばかりさせられて苦しんでいた時期の自分がそこにおりました。ああ、苦労してたな。耐えていたなあ。

具体的にどう苦労していたか。自分の精神衛生状態を悪化させないために詳しくは書きませんが、簡単に言えば仕事中毒の上司と無駄で非効率な仕事の山。夜中の呼び出し電話。無駄な徹夜。云々。

そうそう。私も上司に言われました。「無駄だとか非効率的だと言って文句言うけどさ。今の時代、仕事があるだけでありがたいとおもわなきゃ」。何という社畜根性でしょう。無駄だろうがなんだろうが関係ない。なぜなら仕事こそが俺の存在意義。生きる意味=仕事となった生真面目な上司。

こういう上司がそこそこ有能だったりするとホント迷惑なんですよね。有能であるがゆえに明らかに無駄な仕事は振ってこない。95%の完成度を95.8%にするために、本当に深夜遅くまで頑張って仕事してる。

でも、あなたにとって、周りの人間にとって、その仕事は本当に大事なんですか?明日死ぬとして、その仕事が完成しなかったことを後悔しますか?後悔しないんだったら、テキトーに切り上げちゃいなさい。後悔するなら、あなたの人生にとってもっと大事なものを見つけるべきじゃありませんか?あなたが死ぬときに思いが残るのは、そんなしょうもない仕事なんですか?

まあ、いいや。

しかし、今思ってもあの頃はシンドかった。私は何とか自分で状況を変えましたが、その過程でも強いストレスがあった。よく「嫌ならやめればいいじゃないか」と軽く言う人がいますが、簡単な話ではありません。景気もいまいちだったし(今もだけど)、子供もいたしね。人材の流動化がどうしたこうしたという時代は終わり、長く一箇所に勤めた方が特だという風潮にもなっていた。追い込まれる人、動けなくなる人だっているに違いない。

具体的なもの作りでは優秀な日本人も、こと抽象的な作業となるとダメになるなあ、という気がします。どうしようもない細かいことをひたすらやってる。相手が物なら、作り込めば作り込むほど良くなりますが、こと抽象概念や数字が相手となると、完成度などただの上司の自己満足。

あ、話がストレスからずれましたね。しかも、私の思考回路がストレスの原因への道に踏み込もうとしている。話をもとに戻そう。

しかしストレスというのは非常に御しがたい対象です。逃げようとすればするほど囚われる。忘れようとすればするほど思い出す。

ストレスが激しいとき、以前はがばがば酒飲んで寝ていたのですが、最近の私のストレス解消方は適切な量の飲酒とヨガになってきました。とても健全。まあ、とにかく、ストレスというのは厳しいものです。ストレスに潰されることがないよう、上手く逃げ道をさがしましょう。私の思うところ、安全な逃げ場は自分自身なんじゃないか。そこに安住の地を見つけなければ、ストレスからは逃げられないんじゃないか、という気がします。どこにいようがそこが神秘のパラダイス。存在とは不可思議の極楽なのだ、と。まあ、難しいんですけど。