BBSを作ってみました。いかんせん訪問者が少ないこともあり、ブログのコメント/トラックバックにはほとんどフィードバックがなく、せっかくコメントいただいても埋もれてしまうからです。いっそ集約してしまえ、と。また、ブログの方は承認制にしてありますが、BBSは自由に匿名で投稿できます。緩い感じで管理しようと思っています。ご意見、ご感想を書き込んでやってください。
モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
2010年2月11日木曜日
2010年2月10日水曜日
高山岩男「世界史の哲学」こぶし文庫
★☆☆☆☆☆:ある意味面白いと言えなくはないものの、読む価値はない
引用6割、一般論2割という象牙の搭にいる人特有の論攷です。すなわち、いまいち。
人文系学者が何かを書くにあたっては、叙述の客観性を重視せざるを得ず、また人文系学問の客観性とは、取りもなおさず昔のえらい人がどこで(どの本の何ページで)何を書いたかということになるのは仕方がないのかもしれませんが、退屈だし内容も薄くなってしょうがない。哲学を語るに当たって客観性にとらわれるのもまた皮肉な話しです。結局哲学学者には自分の哲学は語れないということか。
気を取り直して続けますが基本的に内容が浅い気がします。
「単なる時間ならば自然界にも存在する」。故に時間それすなわち歴史ではなく「歴史はひとり我々人間にのみ存する事柄で」あり「単なる時間性から区別せられるべき歴史性の本質が(略)人間的なる物に求められるのは当然である」。
小難しい言い回しだけれども、あきれるほどの一般論。歴史は人間的なものです、と。あったりまえじゃん。
「歴史は理想主義的精神を俟って初めて成立するものである」
そうか?なんか素朴な思い込みっぽいぞ。そうじゃない歴史も考えられるんじゃないか?
そしてこの人は時間性に加えて空間性が歴史に影響を与える、と続けます。まあそれはいいとして、「日本人は地理的条件の影響を受け、民族憎悪の感情を持たず、好戦的でない」などと言い出すんですね。朝鮮の人が聞いたら呆れるんじゃないか?
それから「内的・主観的な時間と、物理的・客観的時間の根拠として歴史的時間がある」といってるのですが、一見もっともらしいものの、これもまた安直な考えだなあ、と思います。だから何だ?系のフレームワーク認識です。
田邊元などは「過ぎ去り必然と化して行く過去が流出し、未だ来ぬ未来が流入するという矛盾の成立する絶対無の場。それが時間の成り立つ現在である」旨のことを言っています。人間の実存と歴史性両者に開かれた優れた時間洞察だと思います。これに比べればこの本は浅い浅い。
以上。
ライプニッツ「単子論」岩波文庫
★★★☆☆☆:短いしね
究極の微小単位である単子(モナド)から始まり、論理を突き詰めて世界を説明したものです。哲学書といえば長くてひたすら難解であると相場は決まっていますが、これは比較的平易な言葉で短く要点を書いているので読みやすい。
モナドには窓がないとか、予定調和とか、「千の風になって」思想に親しみを持つ日本人にも比較的感情移入しやすい理論だと思います。でも神の宇宙論的存在証明とかあるし、やっぱ少し厳しいかな。哲学ファンタジーだと割り切れば面白いと思います。
森孝一「宗教から読む「アメリカ」」講談社選書メチエ
★★★★☆☆:読む価値あり。タイトルどおりの、良質な情報が得られます
初詣、お盆、葬式仏教などのテキトーでゆるい宗教的態度しかもたない平均的日本人である私からすると、キリスト教がアメリカ社会と個人へ与えてきた影響の大きさにはけっこう驚かされます。
もちろん、諸外国では宗教がシリアスな存在感を持っていることは知っていました。例えばアメリカの大統領は敬虔なクリスチャンであることが好まれるとか、無宗教者は警戒される(だからとりあえず外国人に宗教を聞かれたらブッダと答えておけ)とか、神が世界を創造したと本気で信じているアメリカ人は結構多いとか。
しかし、そんなトリビアなレベルの話ではありません。アメリカのアイデンティティ、アメリカの未来と過去、政治、人種問題、全てにキリスト教が深く関係しているのです。そのことがよく分かりました。実際驚いた。無知でした。
意外だったのは、全米ライフル協会ってのがありますね。ライフルを持つ自由を保証せよという日本人からすれば恐ろしい集団なわけですが、あの協会はキリスト教的にはコンサバティブで、政治的にも古き良きアメリカを志向するコンサバティブ。そしてアメリカ流強欲資本主義には反対しているのだそうな。へぇ。
なぜそんなことに私が驚いたかというと、わたくしの勝手な思い込みがありまして、強欲資本主義とライフル協会というのは私の中で一枚岩だったのです。ともにアメリカの資本主義と自由を代表する存在と思ってたのがひっくり返された。まあ私の認識が浅すぎた、それだけの話なんですけどね。
それに一言でキリスト教といっても、プロテスタントありカソリックありバプテストありアーミッシュありモルモン教あり、ホンネとしての人種差別もあったり、さらにリベラルだコンサバだのがあって実に大変なようです。
アメリカというのはつくづく金と宗教が動かしている国なのだなあ、と感心することしきりでした。
2010年2月8日月曜日
「田邊元全集8 歴史的現実 他」筑摩書房
★★★★☆☆:戦犯的哲学者という位置付けが残念だけど、力のある人。懺悔する必要はなかったのではないか
田邊元というのは旧京都帝国大学の哲学の教授です。西田幾多郎の教え子でそれなりに有名な人です。この講演は、佐藤優氏によれば、戦時中「お国のために死ね」と学生を鼓舞したものであり、学生たちもこの本を抱えて死地に赴いたとのことです。
そうだったのか田邊元。そんな戦犯すれすれの思想家だったのか。と思って読んでみました。
「歴史的現実」
歴史に関する考察に始まり、歴史の前提となる時間とは何か、という議論。そして時間性と否応なく関わる個人と種族(民族)、人類の関係についての論攷。論旨は明確。思考は強靭。迫力もある。安直な戦争賛美の思想ではないな、と思いながら読み進めると、以下の箇所に出くわしました。
個体はそれを否定するにせよ肯定するにせよ、種族(民族)と離れては生きていけない。そして種族に関わることで個体は永遠的な理念たる人類と関わることができる。すなわち「個体が間にはいって種族を人類に高める大切な働きをする」のであり、「個人は種族を媒介にしてその中で死ぬことによって却って生きている。その限り個人がなし得る所は種族のために死ぬことである」。出た。本当だ。文字通り「国のために死ね」と言ってる。国のために死ぬことによって、個体は却って生きることができるのだ、と。こりゃあ完全にアウトだなあと思いながら読み進めると、最後の最後にこんな叙述がありました。
今日我々の置かれて居る非常時に於いては、多くの人が平生忘れてゐた死の問題にどうしても現実に直面しなければならぬ。皆さんのやうに一朝召される時は銃をとつて戦場に立たねばならぬ若い人々はもとより、私共のやうな銃後の非戦闘民と雖も、今日の戦争に於いては生命の危険を免れる事が出来ない。死は考へまいとしても考へざるを得ない真剣な問題となる。
解説によると、旧京都帝国大学の学生たちは非常な感動と緊張の面持ちでこの講演を聞いたそうです。つまりこの講演は死に直面してその死の意味を問い続けなければならなかった若い学生たちに向けられていたのです。
若者たちの悲壮な空気を想像すると、この講演の意味も分かるような気がします。単に若者たちを鼓舞した無責任な講演ではない。死に向かう学生たちに、君たちが死ぬとしても、その死は決して無駄ではないのだと彼らを励ます講演だった。そして明らかに彼もまた死を覚悟している。この講演は、戦争下で行われた優れた哲学者の真摯な思索であることには間違いない。そう考えると何かしら胸に迫るものがありました。
「史学の意味」
いい小論です。歴史について考えていたことが整理できて、私としては非常な時間の節約になりました。私は、歴史が何らかの必然的な終局に向かっているといった、キリスト教的、あるいは唯物史観的考え方は直感的に間違っている気がしてならなかったのですが、それが理論的に裏打ちできたような気がしてスッキリでした。
つまり、物質的なあり方や、経済のあり方が歴史と人間を規定することもあろう。あるいはそれよりは弱い仕方かもしれないけれど、理念や思想が歴史と人間を規定することもあるだろう。でも、どちらかが一方的に歴史と人間を必然的に定めてしまうと考えると、それは間違いである。史学というのは、それが既に定まってしまったという意味で必然でありながらもダイナミックに変遷しうる過去を、本当の姿で捉えようとする努力に他ならず、それに当たっては過去という必然をベースに、未来という未だ来たらぬものに向かって行くという自由が前提になければならぬ、と。全くその通りだなあ、と思いました。この人はやはり本物ですね。
「政治哲学の急務」
自分より立場の下にある者を利用して甘い汁を吸おうと考える者がいる限り、プロレタリア独裁はありえないだろう。人間の欲望や矮小さへの洞察が欠けているところがマルクシズムの致命的な点である。
あはは。それだ。その通り。サラリーマンやってると分かります。資本家、リーダーに唯唯諾諾と従う人間の多いこと。社長が白だといえば黒いものも白くするのがプロレタリアートではなかろうか。だとすればプロレタリア独裁など夢のまた夢。
もちろん全てのプロレタリアがそうだとは思わない。しかし人は風向きによって声の大小が変わるもの。生き延びたければリーダーに追従するのが安全。戦いのさなかでリーダーに背くことはチームの崩壊を意味する。とすれば集団生活を通て生存競争に勝ち抜いてきた人間には、リーダーに従うという性向が備わっているのではなかろうか。
あるいはかつての日本会社家族主義のように、資本主義的な価値観をベースに富の公平な再配分を考えるリーダーもいるでしょう。
ならばプロレタリア独裁を期待してもしょうがない。現状圧倒的な支配力を持つ資本主義をベースに考えるのがよほど現実的であろう。日本社会に着実に食い込みつつあるアメリカ流強欲資本主義をいかになだめるか。いかに社会全体を利する方向に持って行くかが重要でしょう。今こそマルクシズムだとのたまう学者連中のナイーブなこと。四十代以前の人間にはマルクシズムという言葉にほとんどリアリティは感じないのではなかろうか。
「死生」
敗戦の色濃い昭和十八年頃の講演です。死への恐怖をどう克服するか。かつての西洋思想には二通りの死についての態度がみられる。一つはストア哲学の考え方。死は生と同じ自然の延長であり、恐れを抱くような対象ではない。もう一つはハイデガーの考え方。人はそもそも死に臨んだ存在であり、死を意識、覚悟しながら生きるべきである(スゴい端折って要約してしまった)。だが、その両者いずれも死から解放してくれる考え方とは思われない。第三の道として、死を決意し、もはや自分の命はないものと考える立場がある。もし本当にこの境地に立つことができれば、死が怖くなくなるのではないか。
とまあ乱暴に要約すると、大したことないように見える主張なのですが、原文は非常に迫力がありますね。やはりあの時代、誰しもが死を覚悟していたことが伝わってきます。ただごとではないですね。今の時代から振り返ると。ああヤダヤダ。特攻の精神。軍国主義。怖い怖い。と思えるかもしれませんが、もし自分があの時代に生きていたらどうだったろうかと想像せざるをえません。やはり悩みながらも祖国のために死を決意していたのではなかろうか。そして自分の死の意味を、苦しみながらも考えていたのではなかろうか。吉本隆明だったか養老猛司だったか、敗戦を知った時になんだ俺が戦争に行く前に負けやがってと悔しく思った、という文章を読んだ記憶があります。多少なりとも闘争的な性格を持った若い男であればそう考えていたのではないでしょうか。
まあこの辺で。ずいぶん私の思考にヒントを与えてくれました。この手の本では珍しく知的興奮を感じることができた。田邊元はやはり優れた思想家です。現在この人の本がほとんど刊行されてないのは損失だと思いますね。
世界SF全集10「ハックスリー/オーウェル」早川書房(2)「1984」
★★★★★☆:ハラハラドキドキの傑作
有名な作品ですが今回初めて読みました。これは凄い小説です。アゴタ・クリストフの「悪童日記」以来の衝撃がありました。
極度の監視・洗脳社会を描いています。最後までハラハラしどおし。読後の余韻もかなりのものでした。象徴的、悪夢的な社会を描いたSFということで、語ろうと思えばいろいろ語れるのでしょうが、まあさしあたりしばらくは私はあの世界をそのまま受け入れて、心の中で反芻したいと思います。
世界SF全集10「ハックスリー/オーウェル」早川書房(1)「すばらしい新世界」
★★★☆☆☆:それなり
人間を人工的に生産することが可能となった社会を描いた近未来SF小説です。生産する人間の身体的特徴と階級をあらかじめ決定し、その後に徹底して思想を刷り込むことによって階級社会を固定化し、平和と幸福を実現したユートピア。そこに異端的な人が上流階級の血を引く野蛮人を連れて来て一騒動。とこう書くとドタバタSFみたいですがそうではなく、いたってシリアスな作品です。
現実にはあり得ないユートピアを描きながら、人間はどう生きたら幸福なのか。人間の社会はどうあるべきなのかを小説は問いかけているのです。ですがいまいちピンとこなかったです。正直。
なぜだろう。一つは小説としてのパワーの問題ですね。確かによくできた小説だとは思いましたが、1984と比べれば迫力が違う。それから価値観も違いますね。ドン・キ・ホーテじゃないけれど、いつの話だというような中世ヨーロピアンな肉欲否定とキリスト教的受難の発想。東洋の私には感情移入は厳しい。まあ面白かったんですけどね。
2010年2月6日土曜日
小金井公園、チキンカツ丼
最初は山に行く予定だったんですけどね。先日雪が降ったもんで。東京近郊の山の状況を妻がチェックしたら、軒並み積雪10cm以上とのことでした。雪が積もると、もう登山の難易度が跳ね上がりますからね。ムリ。
というわけで平地にピクニックに行くことにしました。
で、小金井公園に行ってみたんですが、広々として気持ちのよい公園だったんですけど、とにかく風が強くてね。寒くて。
とにかく寒々しくて、大変でしたよ。
おー寒。
これは江戸東京たてもの園。千と千尋の神隠しのモデルになったとかならないとか。この写真のたてものじゃありませんがね。
あー。寒かった。でも子供にとっては強い風もまた楽しからずやって感じらしい。
帰る途中、タイヤキを買い食いなんかしたりして、何とか家に帰りました。たどり着いた家の暖かかったこと。
で、チキンカツ丼。しっかり出汁をとって、
ミズナを入れます。これは味噌汁用。
別途取り分けた出汁にタマネギとしょうゆ、みりん、砂糖を入れます。参考にしたのはcookpad。
グラム65円の鳥胸肉を観音開きにして塩コショウ。
小麦粉まぶして
らん液まぶしてパン粉をつけます。
揚げ焼きして完成。
出汁を暖めて、卵をゆっくり流しいれます。
チキンカツを切って、
ご飯に乗せて、卵出汁をかけてチキンカツ丼完成。美味かったもんねー。
きのこチキンクリームパスタ、アスパラポテサラ、雪だるま
ポトフ
そうそう。確か「かいじゅうたちのいるところ」を見た日の料理ですよ。豚のかたまり肉が安かった。
タマネギ、ローリエ、豚肉をひたすらゆでます。
あとはキャベツとミズナを投入。くったくたになるまで煮ます。確かチキンスープの素も入れました。
じゃがいもは1時間も煮込めば溶けてしまうので別茹で。
二時間煮込んで完成。豚肉ホロホロで美味いんだな。これが。
シルバニア遊び、煮豆
トヨタ社長の会見
「崖の上のポニョ」をメインにテレビザッピングしてたら、ニュースステーションでプリウスのブレーキ問題についての豊田章男社長の会見を見たわけです。
何となく耳に残った言葉。「今の時期に、この私が出てきた理由は何かと申しますと」・・・。
あれ?
この私。ほかならぬこの私。このやんごとなき豊田家の直系の私が恐れ多くも下々の民衆の媒体たるマスコミの前に顔を出したその理由。マスコミのスポンサーとして、絶大な情報操作を行いうる、トヨタの社長。そのわたくし。
はぁ?おまえ誰だよ。トヨタの社長?豊田喜一郎の孫?そうですか。へぇ。だから、何だよ。
下々の私にもそう言う権利はあるわけだよね。
おっと。感情的になってしまった。
まあ別に張り合う気なぞありませんがね。絶対に勝てないのは分かってるし。誰も私の味方にはならない。
でもなんというか、正直この言葉に世襲がイケない理由が現れているような気がしましたね。
豊田喜一郎がこの言葉を聞いたら何と言うか。知ったこっちゃないですけどね。でも私ならこう言うな。ナニサマだ。黙ってろ。と。
正直、プリウスのリコール問題は騒ぎすぎだと思う。業種は違えども同じエンジニアとしてはね。あのくらい「問題」じゃないでしょう。レクサス(?)のスティッキーガスペダル(アクセルがフロアマットで戻らなくなることをCNNでこう言ってた)と時期が重なったのが運が悪かったと思う。しかし、この社長の言葉はイケてないね。幼稚さすら感じたし、このヒト何かの勘違いしてるのでは?とも思った。
トヨタが奥田なんちゃらの次の社長に豊田章男を立てたのは、危機の時代に豊田家直系のリーダーとして、その求心力に期待したからだという日経の記事を覚えています。そんなもんかね。と思いましたが、今はただ「危機の時代には真の力量を備えたヒトが活躍するが、平時には世襲の地盤看板を持った人間が幅を利かせる」という旨のマキアベッリの言葉を思い出すばかり。
諸行無常ですよ。
2010年2月4日木曜日
久米邦武編著 水澤周訳「特命全権大使 米欧回覧実記 〜1アメリカ編」慶応大学出版局
★★★★☆☆:志のあった日本人。読む価値あり
19世紀後半に大使として海外に派遣された、日本の一大外交団の日誌です。これが地味に面白い。
久米さんの問題意識は、今後日本という国が生き延びるためには欧米列強のよいところをどんどん吸収して発展して行かなければならない、という点にあります。そうしなければ日本は植民地化され、属国化してしまうかもしれない、という強い意思もそこには含まれている。
でもって、彼は彼なりにアメリカの現状を観察し(一巻)、考察を加えているのですが、これがいいのですよ。まっとうに是々非々で考えていて、当然久米さんの知識の限界や当時の時代制約はありつつも、アメリカのいいところ、悪いところ、特徴はなにか。日本ではどうすべきか。きちんと考えている。バランス感覚がいい。古びない。
例えば、以下のような記述がありました。(正確ではありません)いわく、
アメリカはイギリスとの独立戦争を経てから王権制や君主制に対する強い反感を持っている。彼らの徹底した民主主義信奉はそこから来ているが、その結果(いろいろあって)金持ちや有力な市民が政治に影響を与えるなど、若干の腐敗も見られる等々(書いててかなり自信がなくなりましたが、要するにしっかり見ているなあ、ということです)。
あるいはキリスト教や既成宗教を手厳しく批評するところとか、非常に興味深い。
天才的というわけでも、斬新でもないんですが、明治の日本人が見た当時の欧米というのは興味深いの一言に尽きます。
さっきから興味深いとか面白いとか伝わらないことばかり言っていて恐縮ですが、この地味な面白さというのはなかなか伝え難い。一巻だけ読んで終わりにしようと思っていたんですが、全巻読破するつもりになっています。
2010年2月2日火曜日
マックス・ウェーバー「職業としての政治」岩波文庫
★★★☆☆☆:まあまあ。現代性もある
政治家になりたい人、政治家と関わる人にとっては必読の本かもしれません。政治を職業とするということは、とりもなおさず私利私欲と公的な利害とのバランスをつけることであり、うまくやって行くためにはセンスが必要となります。日本のマスコミでは、政治家と金との関わりを蛇蝎のように嫌うトーンの記事が多いわけですが、そんなに簡単な話じゃあなかろうと私は日々思っており、ウェーバーもその辺かなり現実的な捉え方をしております。いや、別に当たり前のことだと思うんですよね。もちろん金権汚職政治を認めるわけじゃないけれど、グレーゾーンは絶対にある。そこをどう解釈するか、意見は分かれるはず。
まあ、基本的に斜め読みでしたがね。政治家になるつもりもないし、こちらから積極的にお近付きになりたいわけでもないので。
一つはっとしたのは、国家の裏には暴力があり、国家は暴力を正当化できる唯一の機関だ、という旨のルカーチの言葉です。ああ。そうだろうな。植草一秀さんのことを思い出すまでもありません。国家と選挙権を持つ人との間には、常に緊張関係がなければヤバイな、と思いました。
「かいじゅうたちのいるところ」見た
昼食時、狭いベランダで山用ストーブとクッカーを並べ、インスタントラーメンを作ってやってなんとかご機嫌を取った後、見に行ったのがこの映画。何度か読み聞かせをしていたので原作は知っています。あのシンプルな絵本をどうやって90分の映画にもって行くのか。はたしてアニメ以外に免疫のない長女はこの映画に耐えられるか。次女は着ぐるみに怯えてしまうのではないか。
結果。子供たち問題なし。長女は感動したとのこと。次女は怖くて少し涙をこぼしていましたが最後まで鑑賞。私はといえば、なるほどねえと感心。そうきたか。見事。あのストーリーの背景にある子供の熱狂と不安、そして気持ちの揺れを見事に描いています。家族の描きかたも子供の描写も見事でした。子供がリアルでしたね。ああ。そうだ。子供ってこうなんだよなあ。
子供はいつだってかまって欲しいし、親に甘えたい。家族が大好きだから。でも親は仕事だとか人間関係にかまけて十分にかまってはくれない。姉ももう外を向いていて、小さい弟とは遊んでくれない。どうしてだろう。こんなに大事な家族なのに。どうしてみなお互いにもっと仲よく楽しく暮らさないんだろう。親にとってはかわいい子供。愛情だって注いでいるつもりです。でも子供からみればいつだって足りない。だから反抗する。どうしてお母さんはわかってくれないんだ。どうしてそんなどうでもいいことにとらわれてるんだ。もっと家族を、僕を大事にしなきゃダメなのに。でもお母さんにだって事情があります。仕事をしなければ食べていけないし、大事な人間関係もある。社会と関わって行かなければ暮らしていけない。姉はもう子供っぽい弟に構っている時間はない。友だちも大勢いるし、ボーイフレンドもできた。でも子供にはそれが分からない。分からないからひどいことを言う。狂ったように暴れる。一人で無茶苦茶に遊ぶ。
家族を愛してやまない子供と親、そして家族から羽ばたこうとする姉との葛藤が、あのかいじゅうたちのファンタジーだったのです。どうしてこうなったんだ。なんで皆仲よく暮らさないんだ。かいじゅうの叫びは子供の叫びです。かいじゅうたちの葛藤は家族の葛藤です。そしてかいじゅうたちのファンタジーを通して子供はいやされ、大人になっていく。原作の雰囲気を残しながら、深い洞察もそこに含まれています。非常にいい映画でした。お見事。
とベタ褒めで終わりたかったのですが一つ問題が。
この映画、とにかく画面が揺れるのですよ。全編を通して手で撮影している様子。急きょ映画に行った関係で良い席が取れず、私は子供と離れて最前列で見たのですが、はっきり言って眼が疲れた。だってほぼ全視界が始終グラグラグラグラグラグラグラグラしてますからね。もうたまらん。少し気持ち悪くなりました。幸い子供たちは微妙に離れた席だったためか無事だったもよう。私から二つ離れた席の小学生くらいの女の子も顔を手で覆ったりひんぱんに姿勢を変えたりしていたから、おそらく年のせいではあるまい。この映画を観るときはなるべく良い席をおすすめします。
2010年2月1日月曜日
iPad!
以前モバイル通信手段の購入を検討して若干の失敗を納めたその教訓。デジタル系のガジェットを買う時にはそのポテンシャルを買え。現在の延長で考えるな。すなわちそのツールは何かしらの生活の変化を引き起こすはず(引き起こさないなら最低限のものでよい)。その変革後の世界を想定し、買うかどうかを判断するのだ。
といっても未来なんか分からないですよね。というわけでさしあたり現在の延長から考えてみる。iPad。まず重いっすね。700グラム。立って使うのは厳しい。電車の中で立ってる時に取り出すか?取り出さないと思うな。大きさ。うん。WEB巡回するのに良さそう。電子書籍は?コンテンツ次第ですね。マニアックな人文系学術書が読めると好印象。後はDVDとか見られればいいんですけどね。自分でエンコードすればいける?ちょっと面倒くさいな。あと覗き見防止スクリーンは必須ですね。それはすぐにでも発売される気がする。
さて、iPad。私の生活に何らかの変革を起こすだろうか。うーん。正直疑問。Word、Excelを今よりストレスなく開けそうなこと、それからWebが見易くなるであろうことは期待できますが、それで何か変わるかな。うーん。変わらない気がしてきたぞ。iPodで十分。そんな気がしてきた。まあアプリ次第ですけどね。3月まで状況注視です。
2010年1月27日水曜日
櫻部建 上山春平「仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ>」角川文庫
★★★★☆☆:仏教思想を語る本がもっとあってもいい
個人的には仏教の思想、特に原始仏教思想はわりとしっくりくる思想です。宗教ということであればやおよろずの神もそうですけどね。大晦日には寺に行き、正月には神社に行く。実家の仏壇にはホトケになった祖父の骨が置いてあって、居間にはアマテラスオオミカミの神棚がある。応接間には天神様=菅原道真公の掛け軸。全く違和感なし。今のわが家にはないけれど、父がホトケになれば仏壇ぽいものを置くだろうし、そうなれば神棚もついでに置くことになるかもしれません。ついでというのも失礼な話ですが、自分の中では矛盾しない。
まあそれはともかく原始仏教思想の一つ、アビダルマの解説本です。アビダルマの位置づけなど細かい話については割愛するとして、面白かったのは無常についての話でした。
アーガマ経典=阿含経には以下のような叙述があるとのことです。「すべては無常である、無常なものは苦である、苦であるものは無我である」。よく分からないわけですが、櫻部建氏によれば「無常なのに常にあると思っているから苦しい。苦しいのは自己であるが、そもそも無常なものに常を見出そうとして苦しむ自己など常住不変な主体ではない。故に自己などない」という意味だそうです。深い。
私なりに解釈してみるとこうなります。
自我が存在するから苦しいのか。それとも苦しいから自我が存在するのか。ひょっとしたらむしろ後者ではないのか。つまり感性的なインプットがあると、それを何とか整理しなければならない。その雑多なインプットを整理するための入れ物として、自我があるのではないか。すなわち自我とは苦の原因ではなくてむしろ結果じゃなかろうか。
普通は私がいるからあの山は存在するのだ、などと考えません。山の存在の原因は私ではない。まず山があって、次にそれを見ている私がいる。では苦しみはどうか。まず苦しみがあって、次に私がいるのではないか。
でも苦しみがそれ自体で存在するわけではないじゃないか。苦しむためにはその苦を受ける存在があるはずだ。だからその苦しみを生きる主体が、苦しみよりも先んじているのではないか。
苦しんでいる存在。西洋ではそれを自我とか主観と呼ぶわけですが、その裏にはキリスト教的なバイアスが潜んでいる。つまりキリスト教の救済の対象としての魂です。彼らは自我ありきで考える。
でも苦しみというのは苦しいと考えたから苦しい、というようなものではない。ただ苦しいのである。もちろん苦しいことを考えれば苦しくなるに決まっている。しかしなぜ苦しいことを考えざるをえないのか。そこが問題である。つまり、苦しみとは自我とはまた別の自発的な源泉を持っている。じゃあその自発性とは何か。
西洋風にいえば、それは自我を超えた自己意識、つまり超越論的意識に求められるわけですよ。超越論的意識が苦しみを構成している、と。やや牽強付会か。まあいいや。
しかし原始仏教ではどうやらそうは考えない。むしろ、我苦しむ故に我あり。つまり苦が先にある。じゃあ苦を生み出しているのは何か。実はそんなものはない。となるわけですな。だって無我なんだもの。だから我とか自己とかそんな言葉は空に過ぎないんだ。単に世の無常を悟らない無知があって、それが自我だとか何だとか空しい言葉を言ってるだけなんだ、と。常に存在する我などない。無我だ。
じゃあどうやったら苦しみから逃れられるのか。といえば集滅道の話になる(多分)のですが、それはまた別の話。
どうですかね。西洋の超越論的意識という考え方もアリだと思いますが、仏教の無我の思想も全然通用すると思いますね。卑近な例で言えば、オレオレと自我を意識してる時間よりもぼけっとしてる時間の方が長いしね。まあそんなところです。
小沢一郎騒ぎ
それから優秀な人を雇う、あるいはひきつけておくためにも金はいる。優秀かつ私欲のない人よりそれなりに欲があって優秀な人を探す方が早い。金があれば人が集まる。人が集まれば仕事が増える。そしたらまた人を増やす必要がある。人が増えれば金がいる。人を一人雇えば一千万かかる。
金を投資されたら感謝する。見返りも考慮する。考慮しない人に金は集まらない。投資して効果があれば人はまた投資しようと思う。
だから金があればなにかと上手くまわる。それが政治家の世界ではなかろうか。私の妄想か。そうだったらうれしいのだけど。
妄想は続く。だったら政治家の誰しも何かしらグレーな資金運用があるはずだ。私のささやかな家計だって妻にかなりを任せている。全部把握しようとは思わない。把握できると思う。でも他にやることがある。私の知らないところで妻がへそくりしたって分かりはしない。ましてや何人もの人が関わる政治家稼業。資金の動きを把握できるわけがない。
どこかの週刊誌で見ました。小渕さんの娘さんが誰からか高級腕時計をごっつぁんしたそうな。さもありなん。不思議とも思わない。
で、何で今小沢攻撃か。自民だって叩けばいくらでも埃が出るはず。西松献金騒ぎ、鳩山母献金騒ぎ、なぜ彼らがことさらターゲットなのか。検察はいろいろネタを持っていて、流れによってネタを使い分けているんじゃなかろうか。検察もまた官僚ではなかったか。官僚主導の政治を辞めさせようとする民主に、何か含むところはないのか。
あるいはアメリカから離れようとする小沢を疎ましく思う大物(妄想)の利害がそこに一致してないか。郵政貯金を外資系金融機関に流そうとする勢力は動いていないのか。アメリカの赤字国債=不良債権の購入とは無関係か。自民党は吉田茂以来、アメリカと密接な親分子分関係がある。そこに何か関係はないのか。
話は飛びますがCNNによると、かの国ではゴールドマン・サックスが社員に数億ドルのボーナスを払う一方、ウォルマートでは一万人をレイオフするそうな。もはや欲望の醜さしか感じられませんが。そんな国が長期的に持続するのだろうか。そんな国と付き合うにしても距離を置くことを考えてもいいのではなかろうか。今の日本社会の閉塞感はアメリカと無関係なのだろうか。
いや、ぶっちゃけ民主党政権ってのは民主的な革命じゃないか、と思うんですよ。アメリカからのプレッシャーだとか国内の反発見てると、かえって民主党政権ってのはすごいことなんじゃないかと思われてならない。感情的に反発する人はいつでもいるけれど、組織的な反民主の動きってのは珍しい。うん。面白いじゃないの。自民党にはとにかくうんざりだし、アメリカも何だか悲しい社会だし、だったらこれまでの流れを変えちゃった方がいいんじゃないか。
また話は飛びますが、軽い左派的なメッセージの入ったアバターがヒットしたところをみると、アメリカの一般人もアメリカ流価値観には嫌気がさしてるんじゃないですかね。どうでしょう。
以上、妄想でした。
2010年1月26日火曜日
なんかむつかしい本読んだ
いわゆる立派な大学の先生が書く本が立派かといえは、そんなことはないわけですが、何を言いたいのかさっぱりわからない本を書く先生が、なぜだか大御所というか、権威だったりするのはよくあることです。不思議なもんです。
その手の本には明らかに特徴があって、引用と一般論に毛の生えたレベルの議論が8,9割を占めています。Aはこう言った。一方Bこう。またCはこう言っている。Aの意見はナントカカントカの視点が欠けているといわざるえまい。何だ。言いたいことはそれだけかい。
それはいわば思想の採集標本です。きちんと整理されている。知性も統一性も感じられる。でも、全ては静止している。王様がまとっているのは死んだコトバだ。子供なら素直に言うのかもしれません。でも大人になってしまうと、しがらみもあるし、人のことをどうこう言うのもアレだし、ということで、まあ黙ってればいいや、となってしまいますね。
それとも私がバカだけだろうか。その可能性は全く捨てきれない。実はもっと奥深い思想が隠れているのかもしれない。それとも王様は実は裸なのかもしれない。
「純粋理性批判」を読めば、あるいは「デカルト的省察」を読めばわれわれは超越論的主観性を生きることができます。その言葉をありありと、生き生きと把握することができる。しかし一旦ある種の批評に扱われてしまうともうダメです。単なる論理の操作対象となる。空虚な記号と化してしまう。対象より上に立とうとした時点で批評はダメになってるんじゃないか。そんな気がしてなりません。
バベル見た
難解な映画です。途中までは、なんだなんだなんなんだ?という感じ。タイトルからして「話が通じない」ことがキーになっているわけですけど、理詰めで言えばちょっと違う。モロッコの片田舎に置き去りにされたブラピにはバベル的状況ですけど、聾唖の少女にとっては言葉が通じないわけじゃない。どうやら論理的に理解するタイプの映画ではありません。
三つのストーリーが時間的に混乱しつつ交錯するという作りからしてムツかしい。悪夢的なメタファーが飛び交う現代の神話といったところでしょうか。
印象的なシーンが多いのですが、個人的にツボにはまったのが、モロッコから子供の待つ家に電話したブラピが、子供の他愛のないおしゃべりを聞きながら慟哭するあたり。すっげー共感しました。
そういえば映画全体に子供(菊池凛子含む)への温かい視線が感じられましたね。登場人物はみな子供を愛している。恐らくは映画監督も。その辺も大いに救いでした。