チキンステーキです。結構難しいんですよ。ホントに。皮をパリッと焼いて、肉はジューシーに焼き上げる。かなりの難易度。なめちゃあいけません。
鶏肉を室温に戻し、塩と黒コショウをしっかりまぶして、皮目を焼きます。それから裏返してふたをし、ふたたび火を通します。
うむ。成功。子供からも好評。
この日は、このチキンステーキを持って狭山公園にピクニックに行きました。人口密度も薄く、楽しかったです。子供たちはイベントで笛やらストラップを作ってもらってご満悦。やはり外で食べる弁当は最高です。
モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
小平市は都立薬用植物園に行ってきました。
お弁当はカツサンド。カツは国産豚薄切りを重ねて揚げます。20分くらいで作業は終わります。慣れこそものの上手なれ。
しかしサンドウィッチというやつは、市販品(コンビニ系サンド)の不味さはどういうことかと思います。
町のパン屋さんのサンドウィッチも、コンビニ系のサンドと比べれば美味い。
どうしてあんな味になってしまうのか。
タマゴサンドでもツナサンドでも、自分で作ってごらんなさい。コンビニとは比べ物にならない美味さ。今回、事情(ツナがないことが直前で判明)があったため、キュウリサンドなどというイレギュラーなものを作りましたが(スライスキュウリ、スライスさらしタマネギ、マヨネーズタップリ)、十分美味かった。
植物園ではGRDIIIを楽しみました。ナニゲに撮ってもいい感じの写真が撮れます。疲れたけど、楽しかった。
ほぼ衝動買いです。評判の良さに惹かれてしまった。
きっかけ。この間お弁当持ってピクニックに行ったんですが、その時D80を持って行こうと思いつつ、忘れてしまった。ということがありました。
Nikon D80。衝動買い傾向があり、かつ気前のいい父から貰ったマシンで、かなり良いモノです。普段は安い単焦点の35mm f2.0を装着(D80実効52mm)してマニュアルモードで使っています。撮るのは料理写真がほとんど。しかもblogアップが最終目的だから、画像サイズは超小さくて問題なし。宝の持ち腐れとはこのことよ。
まあ、それはともかく、気合いを入れて撮るぞ!というときはもうD80しかないんですが、当然そんな状況は限られてくる。しかも重い。この重さは「さあ撮るぞ!」という気持ちにはばっちり応えてくれる質量、すなわち頼もしさそのものなのですが「なんとなく子供の写真みたいなのもたまには撮ってみっか」という気持ちには少々荷が重い。
ということで、ピクニックに持って行けなかったのです。D80。ゆるーい感じで持って行こうとしたら、持って行けなかった。そこでなんとなくわだかまりが解けた。デジイチに縛られる必要はないやろ、と。もうコンパクトデジカメでええやないか、と。
ああ。思い起こされるのはかつて衝動買いしたPENTAX Optio M60。なぜ、さらにコン(パクト)デジ(カメ)なのか。再び過ちを犯すのか。何度でも間違えるさ。だって人間だもの。
とにかく、妻にはバッチリ皮肉を言われました。またデジカメ買うの?なんで?なんで?と。そう。私はOptioを愛すことができなかったのです。確かに気楽に使えるカメラです。しかし、楽しく持ち運ぶようなこともなく、世界が広がることもなかった。残念なことです。思えばお互いにとって不幸な出会いでした。1000万画素という数字に血迷った。ああ。すべてはわたくしの責任。
ま、いいや。
やはり愛です。物もそれを作った人がいる以上、客観的な物質以上の存在なのです。気持ちを込めて作られたものとは、心が通うことがある。残念ながらOptioとは心を通わせることができなかった。道具は積極的に語ることがありません。こちらから意義を見出す他はない。私はOptioに優れた意義を見出さなかった。見出そうとしなかった。触ってみた。少しは楽しんだ。まあ、こんなもんだろ。それで終わり。Optioのアウトプットも、わたくしを激しく揺さぶるものではなかった。Optioとワタクシの交流は、非常に薄かった。
ま、いいや。
GRDIII。これよさげです。全然悪くない。筋が通ったコンデジです。こう使ってくれ。そうすれば、オレ(GRDIII)はちゃんと仕事をする。思想が感じられる。これはいい。
不思議なもので、GRDIIIを触ってみてD80の良さを改めて確認しました。やはり性能的には格が違う。反応速度、フォーカス速度、画質、すべてにおいて、一級のコンデジを上回っている。
機械の裏に作りだした人がいる以上、機械との交流もあなおろそかにしては豊かな人生を送ることはできないのではないか。カメラをいじりながら、そんなことを考えたりしました。
最近私は、禅に強い親近感を持っており、この本も興味深く読んだのですが、その一方で昨今禅が流行らない訳が分かったような気がしました。
秋月さんは、どうしても俗世間から禅を離したかったらしい。禅とは凡人には及び難いものだ、とやたらに強調する風がある。そりゃあそうかもしれませんが、これでは敷居が高くなるばかりです。ヨガのように、とりあえず美容の柔軟体操と思ってやってみたらよろしい、などというノリは一切なし。それどころか、一旦悟ったからといってそこに安住しているようではイカサマ禅だ。オラオラ。どや。と厳しい。まあ、だからこそ魅力的だ、ということもあるんですけどね。
しかし、繰り返しになりますが、これでは最近の人は近寄らないだろうな、という気がします。親鸞の本願ぼこり批判もありますし、宗教を悪用したり、安易に流れる風潮に危機感を持つのも分かりますが、もう少し間口を広げたらどうか、と。既存宗教も、葬式ばかりに頼らず、どんどん営業しなければいかんのではないか。
私も最近、ちょっと禅の在家修行ができる寺はないかと探してみましたのですが、近場にないんですね。曹洞、臨済の寺はあっても坐禅会の案内は出ていない。かといって、そこを押して修行に潜り込ませて欲しいというほどの気概は持ち合わせない。既存宗教。やる気が感じられません。
いいですね。少しは分かりやすいし、生き生きと親鸞の思想が語られている。専門家からすれば、好き勝手書きやがってと怒るのかもしれませんが、この位でちょうどいいですよ。
空即是色は間違い
確かに。そのとおり。感心した。反論しようと思えばできなくはないけど、これはどうやらスマナサーラさんの勝ち。
色即是空は正しい、と。物質なんて虚しい。空なんだ。そのとおり。じゃあ、逆に空は物質だと言えるか?空というのは実践的な認識である。空を認識すると世界は変わる。ということは空とは世界観も含めた言葉である。物質が空に見える人の世界は、もはや物質の世界ではない。で、この空イコール物質かというと、違うんじゃないの?というのがスマナサーラさん。色が空だというのは真実だけれども、空は色とは別でしょうが、と。
正しいね。まあ、それを包含する解釈もできなくはないけれど。
仏教は原理主義であるべき。慈悲の原理主義は誠に結構。いやむしろ中途半端に慈悲の心を起こすべきではない。
これまた正しいと思うな。はは。日本の宗教者にはこんなことは言えませんか。
まあ、般若心経はこれはこれで一つの文化だし、歴史もあるし、いろんな解釈もできるし、ということで価値があるとは思いますけどね。むやみにありがたがる必要はないよ、と。懐疑と反省は大事な態度だと思います。
でも、大乗仏教に対する批判も的を射ているのかも知れないけれど、そんなこと今更いいじゃん。と思いますね。日本ではとにかくそんな風に発展してきたんだから、しょうがないじゃないか。
しかし、スマナサーラさんは大した人だと思います。
追記2010/06/06)
でもやはりひろさちやさんの方が上かなと思えます。スマナサーラさんの般若心経は小乗の理解だ。こじつけ気味、極端に走り気味な感じ。
これはいいですね。学者じゃない、批評家という立場が奏功したのでしょう。想像力を働かせつつ、大胆に親鸞について書いてあります。こうでなくちゃ。
親鸞の時代は今よりよほど飢えと死が身近にあった。その中で親鸞は何を思って専修念仏を説いたのか。親鸞の思想は現世軽視の退廃的な宗教とどう異なっているのか。知と信の関係という切り口からみた親鸞。
親鸞の思想に宗教の解体を見るあたり、やり過ぎだと感じる人は多いでしょうが、私はありだと思います。現代的意義を親鸞に見出す限り、止むを得ないか、と。
非常に面白い親鸞評でした。ややむつかしかったですけどね。私の力不足です。
「世界最大最強」の戦艦。しかし、時代が違った。もはや役に立つことなく、なすすべもなく航空機に爆撃され沈没した「最強の」戦艦。その戦艦を巡る若い戦士たちの物語。人の人生にはどんな意味があるのだろう、と思っても詮無い問が浮かび、少なからず涙が出ました。
前半はアダムとイブの話や原罪をベースに不安が語られます。当然ピンと来ない。私は自分のことを決して高く評価するものではありませんが、むやみに罪深い存在であるなあなどとは考えません。そりゃあ肉も魚も食べるし、褒められるようなことも滅多にしない。いや、むしろロクでもないことばかりしてるかもしれない。でも、だからといってお前は罪深いと言われても困る。仏教なら一切衆生悉有仏性。煩悩を落とせば誰でも悟ることができる。心塵脱落脱落心身。原罪といわれてもねえ。
語られるのはあくまでキリスト教+近代西欧フレームワークでの不安について。ピンと来ないまま読了。
「死に至る病」はかなり好きなんですけどね。
ジャガイモのニョッキです。忘れもしない。レシピに騙された日。おっと。私のやり方が間違っていた可能性はあります。しかし、それにしてもユルユル過ぎた。卵一個は多すぎなのではないか。他のレシピを見てもそう思わずにはいられない。
確かに茹であがったジャガイモの水分は多かったのです。しかし、ここに卵一個を投入。
もう生地はユルユルでした。
ソースは前回の反省を踏まえてチーズ入りこってり味で。
茹であがったニョッキを投入。なんだかソバガキ状態ですよ。スプーンですくって投入したぐらいですからね。
チャイを作成。
まあ、ひどい出来ではなかったですけどね。どうもイマイチな感じでした。残念。
タイトル通りの内容てんこ盛り。面白いのでニヤニヤしながら読んだのですが、途中でもうおなかいっぱい。このエネルギーは肉食人種ならではと感心しきり。
難解。解説になってない。キーワードをベースに好き勝手に書いてる。正法眼蔵が晦渋なのである程度は仕方がないとは言え、これではどうも。
いただけないのは、親切心も、読者に理解して欲しいという気持ちも、熱意も伝わらないこと。一般向けにこんな本を書いてはいけない。
良識ぶる気もありませんし、美的でないと眉をしかめるわけでもありません。むしろ私は見た目とか礼儀作法をうるさくいう人間を好まない。
じゃあ何で人の食べる様をことさらあげつらうか。
それは明らかに違和感があるからです。いい大人が、人前で食事するのに足を組んで食べてる。しかも少なからぬ大人がそうしてる。あれれ?という気がする。昔からそうだったっけ。しかも、お世辞にもカッコイイとは思えない。
お作法に則らなくても、アンニュイにでも、カッコよく食べることは可能でしょうに。
どうみてもアレは「ついで」のスタイルです。試しに左手にハンバーガーを持った彼らの右手に携帯を持たせてごらんなさい。実にしっくりくるではありませんか。彼らは自分の考えにとらわれたり、携帯にとらわれながら、ついでに食事しているわけです。あれじゃあ消化に悪いね。
吉行淳之介がどこかで食事という行為の、性行為とも比べられる生々しさを語っていました。むき出しの生の活動です。別の生命を、咀嚼し、嚥下するという行為。それが食事。これを上の空で済ませるというのは、どうももったいないように思えてなりません。
そりゃあマックとか松屋の牛丼とかサプリメントに、そんな生々しさはありませんがね。でも、それはパッケージ化され、イメージ商品となったからであって、マックや牛丼屋の影で多数の牛が殺されているのに違いはない。そうでなくとも、自らの身体に栄養を与える行為です。真剣に行われたっていいじゃありませんか。
食育が大事だというけれども、大人があれじゃあ駄目ですわな。
食事というのは生きるという不思議を味わうことのできるまたとない機会だと思えば、毎度毎度の食事も退屈はしません。日々是れ修行なり。
全巻読了。東京大空襲、硫黄島、広島、長崎は涙を禁じ得ませんでした。
表題の通り、不景気の世の中、安定した職業である公務員への庶民のルサンチマンに働きかけた本。
私は基本的に公務員叩きには同情的だったのですが、さすがにこれを読んで呆れた。自己の保身ばかりを考えた組織が生み出した手当の数々。こりゃ亡国の域だわ。
ドラッカーが世界一優秀だと褒めた日本の官僚はどこへ行ったか。税金に寄生する自己目的化した組織。それが公務員。それが官僚。マズいよ。これは。こうなったら国家財政も一度破綻しちまって、公務員に反省してもらった方がいいんじゃないか。でもそうなったら今度は財政破綻手当が出たりしてね。って本当にありそうでシャレにもならん。