2010年1月24日日曜日

夜間発酵パン、黒豆煮、トマトスープ、鮭とほうれん草のクリームパスタ、ほうれん草と卵のスープ

どうも過発酵が続くので再度パン作りです。冷蔵庫に入れてもダメだったので、今回はイーストを半分ほど減らしました。そうそう。去年もこんな感じで試行錯誤しながら、結局毎週作ったんだっけ。

黒豆も仕込みます。前回はアルデンテ黒豆になってイマイチだったのでこれもまたリベンジ。作り方は土井勝式です。実家の母もお勧めとのこと。ただしクギはなし。

翌朝。うん。全然発酵してない。

黒豆はひたすら煮るのみ。8時間だよ。8時間。もう二日掛かりを覚悟。

例によって超手抜き成型。

それからトマトスープです。ニンジンタマネギトマト缶にスープの素を投入して

ブレンダーでクラッシュ!野菜ジュースだな。こりゃ。

パンの完成。ようやくそこそこ満足の行くものができました。

夜はパスタ。本当は鮭のフライにしようと思ったんですが、時間とパン粉がないので方向転換。

塩コショウしておいて

バターで焼きます。この後フタして蒸し焼き。

黒豆完成。7時間ほど煮たんですが、小型羊羹のようなもっちりウマウマの甘煮ができましたよ!ヒャッホーと思ったら子供と妻に不評。柔らかすぎるってさ。チッ。でもこれは美味いっすよ。

そうこうしているうちに鮭とほうれん草クリームソース完成。実は鮭の匂いが気になってこの時点でタイムを大量投入。

平行して卵・ほうれん草スープ。これはアンパイです。和風出汁とチキンだしの両方が入るのがいい感じ。

パスタも完成。タイムがかなり効いていてですね。

妻は、ちょっとクリーム系とタイムは合わないわね。とか言いながらまあ何とか完食。子供たちはちょっと変な味と言いながらも完食。きわどいところでした。

夜間発酵パンリトライ、ポテサラ

おお。これは高尾山に行った日ですよ。自分でパンを作って持って行きました。気合入ってたなあ。まあ楽しかったですけどね。

前回過発酵で失敗したので、今回は生地が捏ねあがった後にいきなり冷蔵庫に入れてみました。(前回は北の部屋に設置しただけ)

で、翌朝。いやあ。これも過発酵気味ですよ。

気を取り直して例によって手抜き成型。伸してバスバスと切るだけ。楽なんだな。これが。家族は嬉しそうじゃありませんがね。

二次発酵が終わってオーブンを余熱中。

ポテサラです。好きなんすよ。ポテサラ。

クラアアァァァッッッッッッッッッッッシュ!

マヨネーズで和えて完成。慣れれば楽なもんです。芋の皮をむくのが一番面倒くさい。

パン完成。この後高尾山に行きました。

久しぶりの夜間発酵パン、スープ、金時豆甘煮

久しぶりに夜間発酵パンを作ります。一年前は毎週のように作ってたんですけどね。最近は月に一度作ればいい方。飽きた?

粉は450g。多めに仕込んでみました。

袋でくるんで北の部屋に。確か去年の2月頃は、冷蔵庫に入れるまでもなく北の部屋で大丈夫だったはず。

翌朝。やっちまった感が漂う過発酵具合。

別途水に浸しておいた金時豆は順調のご様子。

超手抜きの成型です。手でドンドン伸してケッパーで等分しただけ。楽だわ。このまま二次発酵に突入。味が変わるわけじゃないしね。

朝食用のクリームスープ。

ブロッコリー付き。確かパンは過発酵でイマイチでしたね。市販の大したことない食パンレベルかな。そうそう。この日からパンの焼き方を変えました。今まではパンの調理本を参考にして230度12,3分で焼いていたんですが、今回からは電気オーブンレンジに付属のレシピ本を参考にして190度20~25分。エラい違うがな。結果は、う~ん、という感じ。どっちもどっちです。でも、少なくとも見た目の美味しさはレンジ付属本の勝利。やはりこちらを優先すべきだったかも。

金時豆はひたすら煮ます。

2,3時間ほどで完成。柔らかい煮豆の出来上がり。オヤツに最適でした。あたくしは豆を甘く煮たのが大好きなんですよ。

これは昼に過発酵パンを片付けた時のフィリング。これをつけると美味しくいただけました。

以上。

パン、クラムチャウダー、焼き芋

実はよく覚えていません。でも確か美味かったな。カキ入りのクラムチャウダーだったと思います。

パン。


左は白菜をブレンダーで砕いたもの。いいスープが出ます。右はニンジンとジャガイモ。

食後のオヤツ用に焼き芋も作っておきます。美味しそうでしょう。でもそんなに美味しくない。どうしてかな。芋が古いとダメなのかな。

淡々とパン作成。

バターで小麦粉と炒めることしばし。

牛乳とウィンナーを入れて、

仕上げる直前にアサリとカキを投入。

美味かった記憶があります。

焼き芋、ツナ・ケッパーのトマトパスタ、小松菜のイタリア風炒め

これはもう2週間前の料理データのようです。

まずは焼き芋。オヤツに作りました。グリルで焼いたものです。

美味しそうでしょう。でも、そんなに美味しくなかったよ。どうやら芋が古かったのが原因。後は焼き方かなあ。やはり電気代を気にしつつトースターで焼く方がマシな気がします。

夕食です。まずはツナ・ケッパーのトマトパスタ

タマネギを荒く刻んで

ああああああああああああああああああ

とブレンダーで削ります。30秒でタマネギペースト完成。楽だわ。

ホールトマトとタマネギペーストを炒めます。

あとはツナとケッパーを投入して塩コショウで調味して完成。

小松菜のイタリア風炒め。EVオリーブオイルを暖めて荒いにんにくのみじん切りを投入。EVオリーブオイルは熱しすぎないのが大事。

洗って水気を切った小松菜をと投入

オイルを絡めるイメージで炒めます。

合間にワインのお湯割り。古代ローマではワインを水やお湯で割っていただいていたとのこと。

パスタをソースで和えて完成。

以上。

2010年1月21日木曜日

クロード・ランズマン 高橋武智訳「SHOAH」作品社

映画「SHOAH」で語られた言葉やフランス語字幕のテキストを書籍化したものです。内容はユダヤ人ホロコーストの関係者(生き残りのユダヤ人、ドイツ人、傍観していたポーランド人など)のインタビュー。

「夜と霧」にも衝撃を受けましたが、これもまたヘビーな本です。

しかしまあ、ホロコーストを前にしては人は沈黙するしかないという気がします。なぜこうなったのか。自分がそこに居合わせたとしたら何ができただろうか。いや、何か出来たのだろうか。と、ひたすら反芻する他はない。

周りを見回してもアウシュビッツ的なものやことに遭遇することの多いこと。人は規則に従って他人を押し潰すことに何のためらいもないのだなあ、ということがよく分かる。自分の頭で考え、自分で正しいと思うやりかたで生き延びるのはなかなか難しいことなのです。それがホロコーストと何の関係があるのか。私には、ホロコースト的なものが、今、近くで息づいているように思えてなりません。ホロコーストとわれわれは、思ったよりも近い距離にいる。私はそう考えます。

2010年1月20日水曜日

アルマン・マリー・ルロワ 上野直人監修 築地誠子役「ヒトの変異〜人体の遺伝的多様性について」みすず書房

★★★★☆☆:面白いが遺伝子原理主義には注意

原題はずばり「ミュータント」。人類の歴史に現れた突然変異や最近の分子生物学の実験の成果を紹介しつつ、個体としての人間がどのように発生しているのかを説明している本です。

例えばナントカという症状があって、それはカントカという物質が体内で生成されない人が発症する病で、なぜ生成されないかというと遺伝子がドウコウしているから。云々。そしてその遺伝子を持つ人は何万人に一人。

まあ何というか気の滅入るような本でした。とにかく全体を貫く決定論的なトーンがやれやれという感じ。どういうことかといえば、ヒトは生まれた時に遺伝子によって将来が決められているのだ、例えばXXという遺伝子を持つヒトがナントカ病にかかる確率はXパーセント、みたいな。いや、そんなにはっきりとは言ってませんけどね。とにかく人は誰でも、大なり小なり突然変異を持っているのであって、まあ無事に生きられるのも単なる偶然。宝くじに当たったようなもの。やれやれ。と、ここまでいうと言い過ぎかもしれませんが。

呆れたのは最後の章。美について語っているのですがその内容のまた貧相なこと。いわゆる美人、美男というのは平均顏であるというのが定説なわけですけど、それを根拠にして美とは突然変異を免れた偶然への憧れではないか、とのたまう。ああ。何というか貧しい発想か。じゃあ音楽の美は何だ。大自然の美は何だ。ピカソの美は何なんだ。

確かに分子生物学の成果は教養とし大事だとは思いますが、この本を書いた人はあまり生真面目に過ぎるようです。うつ病一歩手前じゃないか、とすら思いましたね。

多分、この人は分子生物学以外のことは見えなくなってるんじゃないか、そんな気がします。社会で苦労してい生きてる人にとっては、うん。遺伝子の話は分かった。確かに面白い。でも、だから何なんだ。それがどうした。オレの給料上がるんか。子供が幸せになるんか。そういう感慨がわいてくるんじゃなかろうか。

役に立たない学問などいらない、そんな低レベルのことを言ってるわけではありません。将来、遺伝子治療が難病を直す可能性だってあるしね。そうじゃなくて、人生というのはさまざまな観点から捉えられるべきものではないか、と。人生が遺伝子だとかホルモン物質で成り立ってるわけじゃありませんから。科学的思想に凝り固まってると、人生の機微を見失うことになると思われます。まあ、逆にいえば人生なんてのはフィクションだ、そんなことも言えなくはない気もしますけど。

山は楽し

私は自他ともに認める超インドア派で、どこかに出かけるといっても都心の書店や電気屋やショッピングセンターなどをうろつきつつ、ファミレスあたりで食事して帰る、というのが典型的な土日の過ごし方だったりするのですが、先週の日曜に何をとち狂ったか子供を連れて高尾山に行ってみたのです。妻無しで。

なんでかというと妻に用事があってどうせ子守をしなきゃならんと。で、先々週にオアゾ丸善は訪問済みで、さすがに二周続けて丸善はない。でも他に行くところがあるかといって思い当たる場所もなし。このままでは近所の公園でボール遊びして終わりになりそうだけれども、それもイマイチだなあ、というわけで、思い切って高尾山に行くことにしたのです。

結論からいうとこれが大成功。疲れたし人だらけだったけど楽しかった。

妻に付き合って山に登ったことは何度かあったのですが、正直あんまし楽しくなかった。ただ妻の後ろを歩くだけですからね。 景色がいいったってアラスカに行ったわけじゃないし。何も考えずに坂を上るだけじゃじきに飽きちゃう。やはり山は自分で計画すべきですよ。楽しさが断然違う。行程、スケジュール、装備。地図を見て歩く道を決める。これが楽しいのです。いやまあ高尾山なんですけどね。でも気持ちはちょっとした冒険です。油断すると高尾山でも遭難する可能性はあるからね。子連れで、しかも素人がリスクは冒さないけどさ。その可能性だけでちょっとしたスリルも感じられ、これがまた冒険気分を盛り上げる。

登山なんて何が楽しいんだ。あんなもの。交通費はかかるし、よほど遠くに行かなきゃテレビで見るような大自然には触れられないし、雑木林にじいさんばあさんが歩いてるばかりじゃないか。まあそうなんですけどね。でも弁当水筒と地図持って野山を歩くっつうのはやはりちょっとした冒険。今、手持ちの食料と水と衣料だけで、地図という情報だけで俺は山の中にいるのだ、この緊張感が楽しい。腹減って食べる飯がおいしい。山道を歩くのが楽しい。なんか祖先の生活に戻ったようで、生きる緊張感と喜びを味わうことができます。

次回はわたし用の山コンロを買って山で子供とラーメン食べる予定。今から楽しみです。

2010年1月18日月曜日

沖縄にて

電車の窓から外を眺める。快晴だ。海が近づいている雰囲気がする。乗客も少なく、とても気分がいい。雲と稲の生い茂る田園風景が車窓を流れて行く。目的地は沖縄。仕事があるのだ。一時間ほど電車に揺られて、海辺の町に到着する。

わりと大きな港があって、錆びたトタン屋根の、大きなバラックがいくつも立ち並んでいる。水揚げした魚の加工でもするのだろう。出刃包丁で魚の頭を落とし、はらわたを掻き出すのだ。仕事をしているのはこの町のおばさんたちだ。私は彼女たちの作業を想像する。空想の中のおばさんたちはとても手際がいい。

海の上には長方形の錆びた鉄板が綺麗に並んで浮かんでいた。畳一枚ほどの大きさで連なっている。沖の方に小さな島が見える。鉄板の並びはその島まで続いていた。この上を歩けば島までたどり着けそうだ。私はあの島に用事があるのだ。何の用事だったかは忘れてしまったが、いずれ思い出すだろう。とにかくあの島に行かなければならない。

港で網の手入れをしていた漁師に念のため聞いてみたら、鉄板に乗っても大丈夫だ、と教えられた。でも空はもう薄暗い。これから鉄板の上を歩くわけにもいくまい。何しろ海の上を歩くなど生まれて初めての経験だ。

明日島に行くことにして、酒を買いに出た。軽く呑んで眠ろう。せっかく沖縄にきたのだから。酒は浜辺で売っていた。砂浜に棚が置いてあり、酒が並んでいる。遠くに店の灯りが見える。あそこで精算するのだ。月明かりに海の波が照らされている。私は棚の前でサントリー・オールドにするかジョニ赤にするかでひとしきり悩んでいる。

翌日、鉄板の上を歩いて小島に向かう。朝なんだか昼なんだか分からない。うす曇りの天気だ。少し波で揺れるが、かなり安定していて歩きやすい。下を覗いてみると、鉄板の裏から綱が海底に延びているのがわかる。海底まで光は届かないが、どうやら何かと結び付けられているらしい。綱には海藻が絡み付いている。竿をだせば釣りもできるだろう。

しばらく歩くと島までは思ったよりも距離があることが分かる。何の準備もなしに歩くのは危険だ。私は途中で引き返すことにした。装備と情報が不足している。だいたい鉄板を渡って島まで歩くなんて聞いたこともない。もう一日様子をみよう。

次の日。私は海にもぐり、泳いで鉄板の脇を観察する。水中から海面を見上げると、鉄板がぷかぷかと海の上をたゆたっている。しばらくの間私は鉄板の脇を泳ぐ。すると突然、鉄板がある方向にむかってじわじわと動きだす。潮の流れに押されて次第にそのスピードは早くなり、見る間に早足で歩くほどのスピードになる。綺麗に整列して一方向に流れる赤茶けた鉄の板。そうか。入り江に格納されているのだ。そして入り江にキチンと片付けられるのだ。私は鉄板を避けながら泳ぐ。避けられないほど速いスピードではない。泳ぎながら私は考える。今はまだいい。でもサメが襲って来たら鉄板の上に飛び乗らなければダメだな。私はその時に備えて全身を引き締める。でも。と私は考える。鉄板を噛み砕くほどのサメが来たらどうしたらいいだろう。到底逃げおおせることはできないだろう。でもまあ、その時はその時だ。なんとかなる。

カリフォルニアでマリファナ合法化の動きがあるらしい

CNNで聞きました。医療関係限定だったかしら。100%聞き取れないのが辛いところ。規則なんて、法律なんて、そんなもんじゃ。

確か大麻吸って退学になった学生がいましたね。あと実名晒されて社会生活終わった人とか。かわいそうというか、なんと言うか。杓子定規にやるなよ。と思いますね。悪いものは悪い。でも。そりゃそうだけどさ。ってところを残しておかないと息苦しくてしょうがない。

カール・R・ポパー 内田・小河原訳「開かれた社会とその敵 第一部」未来社

★★☆☆☆☆:現代的意義には疑問

「利他主義と矛盾しない個人主義」と民主主義、すなわち近大欧米の基本思想を擁護した本。第一部ではプラトン批判を通じて西洋の古代全体主義を批判しています。第二部ではマルクシズム批判を展開するとのこと。

良い本だとは思いますが、むしろ気になったのが冷戦崩壊後の日本に生きる私とポパーさんとの問題意識の相違です。まず、端的に言ってなんでそんなにプラトン批判に熱が入るのかが分からない。私にとってはプラトンは昔の偉い人。教養の対象であって、現代に息づいてる思想家ではない。プラトンがカースト制の全体主義国家やスパルタ的国家運営を支持していたからといって真剣に批判しようというモチベーションは湧かない。なんか理由があったんでしょう。確かにスパルタは一時的には強国だったわけだし。それだけ。

では何でポパーさんが一生懸命になっていたのか。それはこの本が書かれた年代からすれば当然でして、すなわちナチズムと共産主義の台頭。特に社会主義がかなり怪しい魅力を放っていた時代です。だから全力で民主主義を擁護しているわけです。

それは分かる。でも頭で分かっても、身に染みて問題意識を共有することはできまへん。

やはり時代が違うということですね。マルクシズムのリアリティが相対的に激減する一方、アメリカの帝国主義もまたほころびを見せつつある。資本主義が社会主義に対して勝利を納めたものの、貧富の格差など別の問題を生み出している。今はむしろ資本主義とどうやって上手くやっていくか、そこが問題になっているのだと思います。

明らかに民主主義は全体主義よりもマシな思想です。しかしその対立よりも経済の方が主要な関心となっている。経済、すなわち人間のより直接的な欲望が世界を動かしている。どうも相変わらず国家間の関係というのはシビアだし、しかも昔より複雑になってきているんじゃないかなあ、という気がしてなりません。

2010年1月16日土曜日

鳥の水炊き

かなり乱暴に作って、写真も取らなかったのに、かなり美味かったのでメモとして残します。

塩大さじ1。ネギ一本。しいたけ6個。パック出汁600ml分(1パック)。チキン出汁600ml分。鶏肉水炊き用400g。牡蠣7,8個(市販の剥き牡蠣1パック。必須ではないかも)。白菜山盛り(ここがミソ)。水適当。以上をじわじわと煮ます。他に適当に野菜を入れても美味いはず。仕上げによく洗ったもやしを投入(これも効きます)。それからうどんを硬めに別茹でして、水で締めておきますよ。

鍋に火が通ったらそのまま卓上に鍋として持ってゆくだけ。うどんを皿に取って、そこにだし汁と具を投入、生しょうゆで適宜味付け。ウマーな鳥の水炊きの完成でした。

2010年1月14日木曜日

ライブハウスで

学生時代の友人とライブハウスへ行くことになった。演奏するのはその友人。どうやらバンドを始めたらしい。彼は営業で好成績を納めるタイプの、押し出しの強いビジネスマンである。弁が立ち頭の回る現実主義者だ。バンド活動などという屈折した趣味があるとは。ちょっと信じられないな、と私は思う。

彼に車で拾ってもらうことになった。私は大きな商業施設の広場で彼を待っている。なんだか見覚えがある場所だと思ったら、吉祥寺東急の前だった。冷たいタイル貼りの地面に、ぽつりぽつりと細い円柱が見える。吉祥寺にしては人通りが少ないな、と私は思う。

彼が現れる。相変わらずエネルギッシュだ。再会の挨拶もそこそこに、彼の友人のバンに乗りこみライブハウスに向かう。車中は広々している。バンというより小型のバスだ。車中で私は尿意を催す。少し焦りながら、ライブハウスについたらまずはトイレに行かなければ、と思う。

信号待ちをしていると、外からわめき声が聞こえてきた。窓から覗くとサラリーマン風の男が、われわれの前で止まっている信号待ちの車に向かって早く進めとわめいていた。半分「キレ芸」のような怒り方だったので、大して気にならなかった。本気で怒っているわけではないのだ。

ライブハウスに到着した。私はすぐにトイレ向かった。廊下の壁沿いにトイレのドアがある。ライブハウスというより場末の映画間のような雰囲気だ。床はリノリウム貼りで、清潔ではないが不潔な感じもしない。トイレのドアを開けると、顔がごつごつと腫れあがった男が二人、床に座りこんでいた。青い顔は内出血の色のようだ。でも痛がっている様子は見えない。ただ静かに、諦めたように座っているだけだ。トイレの壁沿いには小部屋がいくつもある。床との間に隙間があるため、部屋それぞれに人がいて体育座りしていることが分かる。十人ほどいるようだ。二人をなぐったのはこの男たちだ。尿意はもう消えていた。私は静かにドアを閉める。トイレを出ると自分の足が汚れていることに気がつく。茶色い液体のようなものを踏みつけたのだ。そのことが私に恐怖にも近い感情を引き起こす。私は必死で足の汚れをリノリウムの床にこすり付け、取ろうとする。

「演奏の上手い奴らはトイレで散々殴られるんだ。嫉妬だろうな」と友人が当たり前のように言う。

場所が変わり、私は友人のバンドの演奏に立ち会っている。ライブハウスというより屋外だ。いや。吉祥寺東急の前だ。間違いない。いつの間にか待ち合わせ場所に戻っていたのだ。友人のバンドのはずだが友人は見当たらない。私の知らない女の子が歌っている。しかし演奏は全く耳に入らなかった。何も聞こえないのだ。何か歌っていることは確かだ。でも何も聞こえてこない。

そこにライブハウスの主人らしき人が来た。顔馴染みらしい客に挨拶をしたりスタッフに指示を出したりしている。私の手元に古新聞の束が二つあった。重い束だ。私はライブハウスの主人に古新聞の捨て場所を尋ねた。「倉庫に置いてください」と主人が答えた。私は古新聞を持って教えられた場所に向かう。主人が私の運び方を褒める。「腰が入っていてよろしい」とのことだ。私は何も考えずに古新聞を運ぶ。指示に従うことにはすっかり慣れているのだ。

2010年1月12日火曜日

岩波文庫「無門関」

★★☆☆☆☆:よく分からんけど面白いといえば面白い

仏とは何か。乾いた糞の塊りである。糞かきベラという方が有名だがそれは誤訳らしいです。

ある高僧は人差し指を立てて話すのが常であった。弟子の一人ががそれを真似たところ、その高僧は弟子の人差し指を切ってしまった。痛さに泣きわめく弟子を前に、高僧が人差し指を立てて見せた。弟子はいっぺんに悟ってしまった。とかとか。まあ流し読みですけどね。禅というのは洒落てるのかなんなのか、よくわからないですね。私の悟りは遠いようです。

吉田茂「回想十年」読了

★★★★★☆:昭和~平成の自民党がよく分かる

読み終わって、吉田茂=自民党なのだ、という感慨を持ちました。アメリカと上手につきあいながら、両国が共存共栄するというスキームを確立したのが吉田翁だった。今の自民党も、吉田茂さんの生きた時代と状況こそ違えど同様の路線からぶれることはない。吉田茂の考えのいくつかは時代遅れになっているものの、道路に関する考え方、農政に関する考え方、いずれも今の自民党の基本路線に重なるように思えます。

今でも彼の発想が生きているその理由は、やはり吉田茂が真っ当な常識人として健全な方向性を打ち出したからだし、そして何と言っても戦後日本をなんとか復興させなければいけないという気概というか迫力というか、魂が自民党に受け継がれたからではないか、と思いました。

ただ、いかんせん時代が変わってきてます。冷戦も終わり、アメリカの強欲資本主義に対する反感がじわじわと広がるなか、アメリカとの属国的軍事同盟をどう利用するか。どのように共存共栄に持って行くのか。本当にお互いのためになっているのか。そこは再考の余地があるのではないかと思われてなりません。

そして自民党に目を向けてみれば、気概のある政治家はどこへやら。アメリカ、資本家、既得権益層だけではなく、日本の国益を本当に考えている人がいるのだろうか、と危ぶまれるばかり。まあ、民主だってアレですけどね。

岩波文庫オイディプス王とかちくま書房アーサー王物語とか

まあぼちぼち読んでます。オイディプス王は読むのは初めてです。でもフロイトのエディプスコンプレックスはじめ西洋文学、思想、評論で引用されまくりの比喩使われまくりの話であり、当然結末も分かって読むわけで、そういう意味では残念な読書でした。明らかに傑作なだけに残念感も強い。まあ仕方がないですけどね。

アーサー王物語。はっきり言ってかなり乱暴な展開、内容。でも確かにパワーがあります。駄作とは決め付けられないまま、ぼちぼちと楽しく読んでます。エクスカリバーとか円卓の騎士とかあまりにも有名エピソードも楽しい。

アバター見た(感想詳細)

まずは映像の美しさですね。奇をてらわずにセンス良く3Dを利用したらこんなにスゴイぞ、と。臨場感が半端じゃありません。筆舌に尽くし難いとはこのことです。まあとにかく見ていただく他はない。百聞は一見に如かず。映画の歴史が変わったのではないか。そんなことを思わされました。

これから3Dがメジャーになって行くと、DVD化を待つのではなく、ぜひとも映画館で見なきゃ、という映画が増えますね。間違いない。

以下ネタバレあり。

もちろんストーリーも良くできてます。2Dで見ても及第点以上でしょう。面白いのは、強欲資本主義とアメリカ海兵隊が、最終的にガイア思想的宗教を持つ原住民に破れること。始めから正義は原住民側にあるのです。最後に元アメリカ海兵隊の主人公はアメリカ人であることを捨て、原住民と同化してアメリカ軍と戦います。そして現代的兵器で自然を蹂躙したアメリカ軍は破れ、強欲資本主義のエグゼクティブたちはエイリアン呼ばわりされて追い出されることになる。

野暮は承知で書きますが、これ、アメリカ人の自己批判ですね。反覇権主義、反強欲資本主義が明らかです。アメリカでは生理的に嫌悪されたんじゃないかしらん。そうでもないのかな。むしろアメリカの知識人にはかえってその辺りが受けたか。その可能性もありますね。

最初はエンターテインメントをこんな風に解釈するのはイケてないか、と思ったんですげど、でもウェブをパラパラとみる限りジェームズ・キャメロンのメッセージが入ってることには間違いないなさそうなので、敢えて書いた次第です。

だって大企業のCEOやらマネーゲーム会社の社員が何億円もの年収を受け取る一方で、何千人もの社員がクビになる社会ですよ。強欲資本主義的価値観に疑問を持つのは当たり前だと思うな。貧困層の若者は軍隊に送られる仕組みが出来ているというし、軍隊での兵士の自殺率は異常に高いというし。と、ここまで行くとアバター解釈としては行き過ぎだな。反省。

まあ、アバターでは、アメリカの流価値観に対立しているのはガイア思想的自然賛美なので、また比較的人口に膾炙したのかもしれません。美しい映像と大迫力の戦闘シーンにシビレながらも、アメリカというのも大変な国であるなあと、そんなことを思いました。

2010年1月11日月曜日

見た見たアバター

半信半疑で行ったのですが、もうスゲー感動。映画館を出てしばらくは顔面ヒクヒク体シビシビでした。これは映画館で3D版見るしか。シガニー・ウィーバーとか海軍大佐とかハマりまくり。また後日詳細を投稿します。