悪漢小説の最高峰。凄いっす。
最近仏教とかきれいな本ばかりを読んでいるこたもあって、精神衛生上もよかった気がします。清すぎる水に魚は住めない、と。
モットーは「健全な精神は健全な胃腸に宿る」「生きてるあいだは上機嫌」
主張として「原発は営利企業に任せるべきでなく、もんじゅは絶対に廃炉!」「税金には気をつけろ!」
もう一つ、福島原発作業員の方々ならびに早野先生に国民栄誉賞を。
サブ・ブログという位置づけで、細々更新しています。
悪漢小説の最高峰。凄いっす。
最近仏教とかきれいな本ばかりを読んでいるこたもあって、精神衛生上もよかった気がします。清すぎる水に魚は住めない、と。
どうせトンデモ本だろう、さあ貶してやろうと最初からバイアス掛けて読んでみたのですが、裏切られました。全然悪くない。縁起の説明など秀逸といってもよい。ははあ。これは失礼いたしました。
しかし、フロイト、アドラー、ユング、トランスパーソナル心理学のあたりは完全に蛇足とみました。唯識一本でいいですよ。西洋のパラダイムと安易にアナロジーで比較してはダメだと思います。そこには見過ごせない壁がある。お互いを理解するため、見かけ似ているところではなく、違いをはっきりさせた方がよろしいか、と。
これは感心。感嘆。ひろさちやさんの力量を見ました。すごい。平易な言葉で、これほど深く嘆異抄に踏み込めるか。感動ものです。
高さんの解釈も感動的です。失くなられた長男との対話が胸を打つ。
山崎さんのは講演仏教。心に響かず。
最近どうも朝早く目が覚めてしまってひょっとしたら鬱じゃないかしらん、などと考えていたのですが、これはどうも本当に鬱じゃないか、と思い始めました。これが一週間~ひと月くらい続くのか。。。まあ、私の場合はそんなに深刻な症状じゃないんですけどね。タブンね。
鬱になると嫌なニュースが目につくし、読んだら読んだで嫌な気分になる。自分と周りの人間にむやみと腹が立つ。
それから不思議と酒が美味く感じられる。でもこれは前向きな現象ではなくて、体が酒による逃避を求めているわけです。すなわち酒量が増え、酔って寝るから睡眠不足が増え、さらに心身の疲労が溜まるという悪循環。
人生とは苦である。すなわちそもそもマイナスである。だから、別に苦を恨む必要もなく、自己を無にしてゆったりと生きればよいのですが、これもまた鬱だとなかなかしんどい認識です。
もう少し我慢だ我慢だ。少なくとも人になるたけ当たらないように気をつけよう。
恥ずかしながら知りませんでした。もちろん、単語位は知っていましたけど。こんな騒ぎがあったとは。
やはり社会主義は人間の愚かさを度外視している時点でダメなんだな、というのが私の感想。民主資本主義が辛うじて何とか行ってるのは、賢いエリートや優秀な人よりも、玉石混淆の民衆の方がブレが少ないからかしらん。たとえ個別の判断は怪しくても。
面白かったのですが、興味のエリアから少し離れていたのと、途中でお腹いっぱいになったため、半分強で投了。
いいです。単純に読み物としておもしろいし、しかもためになる。ひろさちやさんは秋月さんのお墨付きでもある。ちょっと不思議。秋月さんも年を取って丸くなられたのか。それとも、秋月さんはご自身の著書から感じられるよりは柔らかい人なのかも。
何となくかみ合わない進化論の会話から、社会論、学問論へ。ここからが面白い。エンゲルスの意義を訴える吉本隆明さん。しかし今西さんは、あんなもの西洋的思想と価値観に染まったもんで今時通用しない、とあっさり否定。大家がそれを超える大家にポカリとやられるのが傍目に大変面白い。
進化は成るべくして成るという今西さんに、吉本さんが、もう少し論理的に説明できないかと突っ込むものの、あんたの言う論理は西洋の論理や。なるべくしてなるも、立派な論理や。との切り返し。見事。
今西さんの前では、吉本隆明もかたなしと私は読みました。やはり、フィールドワークを経て、実際に見て、聞いて、感じてきた人の言葉は違う。養老孟司さんの安定した思想も、長年の解剖作業の成果なのだろうな、と思います。体を使う人は違う。吉本隆明さんも、一流の学者、批評家だと思いますが、ここは今西さんに一本というところでしょうか。
しかし、これが五年前に読んでいたらまた感想は違っていたかもしれません。今西さんは、完全に、しかも自然に肩肘貼らずに、西洋を相対化している。これはやはり、非西洋的なアプローチで結果を出してきた大家だからこそできたのだと思う。昔の自分にそれが理解できただろうか、と想像してみると、はなはだ心もとない気がします。
まあ、とにかく非常に興味深い本でした。
いや、感動しました。訥々と語る様子に引き込まれた。文字通り生きた思想に触れた気がしました。細かいところがどうというのではなく、とにかくその迫力。そこに人間がいた。生きていた。それだけで圧倒。当たり前のことです。誰だって生きている。でも、本当に生きている人が、どれほどいるか。
死ぬことばかり考えていた戦時中。陸軍に志願したものの、病気が見つかって入れなかった。病気を直して入隊したら戦争が終った。戻って仕事をしても虚しい。いっそ死のうかと思っていたところに、かつて尊敬していた禅師との出会いがあった。人に歴史有り。人生というのは不思議なものです。
禅を学ぶには師匠につかなければいかん、と言われますが、これを見てそうだろうな、と思いました。テレビ越しでも分かります。やはり本人の口から出る言葉は力が違う。本だけではつらい。じゃあどこで師匠に会えるか。こればっかりはどうすかね。運ですかね。犬も歩けば棒にあたる。しかしどこを歩けばいいのやら。人生これ迷い道。歩けど歩けど訳のわからぬ偶然にぶつかるばかり。
小平市は都立薬用植物園に行ってきました。
お弁当はカツサンド。カツは国産豚薄切りを重ねて揚げます。20分くらいで作業は終わります。慣れこそものの上手なれ。
しかしサンドウィッチというやつは、市販品(コンビニ系サンド)の不味さはどういうことかと思います。
町のパン屋さんのサンドウィッチも、コンビニ系のサンドと比べれば美味い。
どうしてあんな味になってしまうのか。
タマゴサンドでもツナサンドでも、自分で作ってごらんなさい。コンビニとは比べ物にならない美味さ。今回、事情(ツナがないことが直前で判明)があったため、キュウリサンドなどというイレギュラーなものを作りましたが(スライスキュウリ、スライスさらしタマネギ、マヨネーズタップリ)、十分美味かった。
植物園ではGRDIIIを楽しみました。ナニゲに撮ってもいい感じの写真が撮れます。疲れたけど、楽しかった。
ほぼ衝動買いです。評判の良さに惹かれてしまった。
きっかけ。この間お弁当持ってピクニックに行ったんですが、その時D80を持って行こうと思いつつ、忘れてしまった。ということがありました。
Nikon D80。衝動買い傾向があり、かつ気前のいい父から貰ったマシンで、かなり良いモノです。普段は安い単焦点の35mm f2.0を装着(D80実効52mm)してマニュアルモードで使っています。撮るのは料理写真がほとんど。しかもblogアップが最終目的だから、画像サイズは超小さくて問題なし。宝の持ち腐れとはこのことよ。
まあ、それはともかく、気合いを入れて撮るぞ!というときはもうD80しかないんですが、当然そんな状況は限られてくる。しかも重い。この重さは「さあ撮るぞ!」という気持ちにはばっちり応えてくれる質量、すなわち頼もしさそのものなのですが「なんとなく子供の写真みたいなのもたまには撮ってみっか」という気持ちには少々荷が重い。
ということで、ピクニックに持って行けなかったのです。D80。ゆるーい感じで持って行こうとしたら、持って行けなかった。そこでなんとなくわだかまりが解けた。デジイチに縛られる必要はないやろ、と。もうコンパクトデジカメでええやないか、と。
ああ。思い起こされるのはかつて衝動買いしたPENTAX Optio M60。なぜ、さらにコン(パクト)デジ(カメ)なのか。再び過ちを犯すのか。何度でも間違えるさ。だって人間だもの。
とにかく、妻にはバッチリ皮肉を言われました。またデジカメ買うの?なんで?なんで?と。そう。私はOptioを愛すことができなかったのです。確かに気楽に使えるカメラです。しかし、楽しく持ち運ぶようなこともなく、世界が広がることもなかった。残念なことです。思えばお互いにとって不幸な出会いでした。1000万画素という数字に血迷った。ああ。すべてはわたくしの責任。
ま、いいや。
やはり愛です。物もそれを作った人がいる以上、客観的な物質以上の存在なのです。気持ちを込めて作られたものとは、心が通うことがある。残念ながらOptioとは心を通わせることができなかった。道具は積極的に語ることがありません。こちらから意義を見出す他はない。私はOptioに優れた意義を見出さなかった。見出そうとしなかった。触ってみた。少しは楽しんだ。まあ、こんなもんだろ。それで終わり。Optioのアウトプットも、わたくしを激しく揺さぶるものではなかった。Optioとワタクシの交流は、非常に薄かった。
ま、いいや。
GRDIII。これよさげです。全然悪くない。筋が通ったコンデジです。こう使ってくれ。そうすれば、オレ(GRDIII)はちゃんと仕事をする。思想が感じられる。これはいい。
不思議なもので、GRDIIIを触ってみてD80の良さを改めて確認しました。やはり性能的には格が違う。反応速度、フォーカス速度、画質、すべてにおいて、一級のコンデジを上回っている。
機械の裏に作りだした人がいる以上、機械との交流もあなおろそかにしては豊かな人生を送ることはできないのではないか。カメラをいじりながら、そんなことを考えたりしました。