2010年7月27日火曜日

内田樹「村上春樹にご用心」ARTES

★★★☆☆☆:楽しく読める

村上春樹への愛が伝わってきて楽しい本です。春樹解釈の邪魔にならず、楽しく読める。

2010年7月26日月曜日

プリキュアスタンプラリー

プリキュアスタンプラリーです。案外時間がつぶれます。夏休みの後半にもう一度あるそうで、前半は私担当、後半は妻担当です。

うれしはずかしプリキュアノート。

まずは西武新宿。

突然居酒屋風景ですが、昼食です。まあこのくらいいいだろう。暑いし。暑いとあまり酔いが回らないしな。

まあそれ以前に暑さで判断力が低下しているわけですが。


唐揚げ。悪くなかった。

おでん。完全に一人居酒屋モード。子供たちはラーメン。

角ハイボール追加。ふっふっふ。

思った通り、1時間もするとホームの熱気で酔いは醒めました。ビールとハイボールで冷えた体も順調に温められてこれは快適。

昼食後、さらに数時間かけて残りのスタンプをすべて押しました。なかなか疲れた・・・

(昼@フレッシュネスバーガー)豆バーガー、ビール (夜)漬け丼

小さい方とフレッシュネスバーガーに行きました。暑い夏、昼にビールとハンバーガーっつうのは至高です。やる気のなさがいい。体に悪そうなところがまたいい。

とはいいつつ、体が何だかしんどかったので豆バーガーを注文してみました。肉よりはね。胃にやさしい気がするもんで。

フレッシュネスの豆バーガーとか豆腐バーガーって存在としてはキワモノっぽいんですが、案外普通のテンションで注文できちゃいますよ。

夜は漬け丼です。サシミパック(あるいはサーモンとかカツオのサク)買ってきて、ジップロックで醤油とみりんに1時間ほど漬けて、別途作った酢飯に乗っけて完成。生臭みも減って美味い。

店で食べれば1,200円は下るまい。家でサクとさしみが安い日に作れば一人当たり3~400円でっせ。

2010年7月23日金曜日

「ルミンA」四日後

慎重に体調を見てます。

酒の量は変えていません。夜。350mlの缶ビール(基本は第三)を一缶。次に冷酒を0.5合程度。それから極めて薄いウィスキーのお湯割りを、とめどなく飲む。おなかが膨れるまで飲む。11時か12時に就寝。

朝六時。起床してお釈迦さまを拝み、ルミンAを一錠、水でいただいています。その後甘いアイスコーヒーを一カップ。七時までにピアノとバイオリンを練習。家族で朝食。出社。

服用三日目。深夜。足がやたら痒くなりました。

かゆみで目が覚めた。猛烈に掻いて、掻いても掻いても痒くて、藁をもつかむような思いで妻が買ってきた薬を太ももにぬったくって何とかかゆみを沈め、朝までうとうとと過ごしました。朝見てみると発疹みたいなのがあって、掻き壊して荒れた肌が赤くなっていた。

服用四日目。腕のかゆみがなくなった気がする。腕は痒くない。太ももは荒れています。

本日の夜。太ももの荒れは安定状態。腕のかゆみもない。

どうなんですかね。慎重に皮膚の具合を見ているがために、その観察行為が皮膚にいい方向に働いているのかもしれない。すなわち腕のかゆみが減ったのはルミンAが原因ではなく、観察が原因である。皮膚、体は閉鎖系ではない。計測、数値化のために実験用に孤立させた環境ではない。観察するものも、観察されるものも、同じ一つの身体である。すなわち相互作用があり得る。慎重に経過を見つめることで変わることがあるやもしれぬ。

ま、ドラスティックな変化は訪れていないものの、少なくとも(服用3日目を除き)悪い結果は出ておりません。今後注視でございます。

「自我=私=オレ=自分・・・」とは

常に遅れてきた何かなのか!

自分が何かするのではない。何かした後に自分が付いてくる。無位の真人と後付け認識とのハザマに「自我=私=・・・」が存在しているのだ!!おお!何か大事なことに気がついた気がする!

カントの、フッサールの超越論的主観は、ズレを埋めるためのファンタジーであった!カント、フッサールが考えた超越論的主観とは、無位の真人なのだ。すなわち身体!!!ニーチェの超人の入り口もそこにあるじゃないか!

河合隼雄/鷲田清一「臨床と言葉」TBSブリタニカ

★★★★★★:シビれた

河合隼雄さんの講演に行ったことがあります。旧丸善本店の別館でした。懐かしい。それだけ。

個人的に敬愛するお二方の対談ですが、そのようなバイアス抜きで素晴らしいと思いました。傑作対談です。

内田樹「街場の現代思想」文春文庫

★★★☆☆☆:おもしろい

楽しいエッセイです。うむむ、なるほどと思ったり吹き出したり。ちゃんと暇つぶし系知的エンタテインメントになり得てるのがスゴイ。

2010年7月21日水曜日

ひろさちや「お葬式をどうするか 日本人の宗教と習俗」PHP新書

★★★☆☆☆:よく分かるお葬式

今のいわゆるお葬式のしきたりや作法を、歴史的に解説し、葬式どうあるべきか柔らかく語った本です。あまりラディカルではありません。現行の葬式仏教に依存するお寺の方にあまりキツイことは言えないのでしょう。とはいいつつ、これからの時代、葬式仏教は生き残れないよというはっきりしたメッセージは送ってます。

そりゃそうだよね。葬式に数百万つかうか?そんな金あったら子供に使うぜ。うちの両親も(幸いまだ存命ですが)納得してくれると思うな。残念がるおじおばはいるかもしれないけれど、説得できないとは思わない。儀式としての葬式を軽んじたとしても、そこにちゃんとした思いがあればいいと思う。親は子孫を思い、子孫は親祖父母を思う。それこそ金銭の絡みようのない世界だと思うし。

キルケゴール「死に至る病」岩波文庫

★★★☆☆☆:学生時代の感動に敬意を評して星三つ

昔は感動したんですけどね。自己とは関係に関係するところの関係である。おお!絶望の究極のところに救いがある。そうか!

今読むとダメでした。私の頭が仏教に浸食されて来た模様です。まず「自我」と西洋人が言った途端アヤシイと思ってしまう。お前の言ってる自我ってのは救済の対象としての魂だろ?そんなものはないっての。

主客のパラダイムも人間中心主義もそこから来てる。今の欲望資本主義、自然破壊もそこから来ている。と言ったら言いすぎか。

以上。

2010年7月20日火曜日

これは怪しい

みそ煮込みうどんで接待容疑 民主・安井派運動員を逮捕

いや、普通は負けた方が逮捕されるでしょう。違うのかな。そんな印象があるのだが。非自民系なら問答無用で刺されるのか。しかも一人当たり千数百円と来た。どうにも信用ならぬ警察の動き。却って気になるみんなの党の存在感。怪しい怪しい。

2010年7月19日月曜日

かゆい季節です

かゆい季節がやってきました。とにかくかゆい。しかし「かゆい」という平仮名は悠長な雰囲気ですね。平安時代の貴族が「かゆすwww」などといってマッタリしてる、みたいな。ちょっと違うか。漢字で書くと痒い。ヤマイダレの中の羊。途端にオドロオドロしくなります。スクレイピーか。

それはともかく、さすがに余りに痒いので、かゆいなあ、と思って妻にそう言ったらちょっと漢方系の薬局に相談したら?との指摘。そうだなあ。ちょっとトータルな観点から病を考える方向の人に話を聞いてもらおうかしら、ということで妻に紹介された薬局に行ってまいりました。さすがに妻は地元の情報には強い。

で、自分の母親くらいの薬剤師さんに相談。全身がもう痒いんですよ。

最近、日焼け止め付けずに強い日差しを浴びましたか?

  ->おととい子供たちとプールに行きました

何か食べ物に心当たりは?さしみとか。

  ->自家製さしみ漬け丼食べました

酒は?

  ->毎日飲んでます

何だか指摘が鋭かったんですね。自分の心の柔らかいところを、甘いところを、エグるかのごとくに。

薬剤師さんのファーストインプレッションでは日焼けアレルギーじゃないかしらねえ(んなキーワード生まれてはじめて聞いた)。ということで、かゆみの直接原因を止めるような薬を2,3個紹介して頂いたのですが、ええっと、そんなんじゃなくて、対症療法だときりがないので、体質改善系の薬はありませんか?と聞いてみたらすごい食いつかれました。これ、いいですよ。この薬。私も飲んでますけど。いえね、少々お高いし、直接効くタイプの薬じゃないから、お勧めできなかったんですけど、体質改善ならこれ。イイですよ。と強烈に「ルミンA」をプッシュされました。ヴェテランの薬剤師さんらしく、直接的な煽情的宣伝文句はおっしゃりませんでしたが、かなりのお勧めとのこと。ほほう。ということで購入。

今調べてみても毀誉褒貶。アヤシイ薬のような気がしないでもありませんが、プラシーボ効果ということもあり、評価の割れる薬の方が面白いんじゃないかということで、ちょっと継続して飲んでみようかな、と思っております。仮説を立てて実験し、仮説を検証するというのは科学的態度ですからな。試してみよう。

2010年7月18日日曜日

釈迦仏購入

思い立って有楽町の大江戸骨董市に仏像を探しに行きました。

最近マジで仏教づいていて毎朝般若心経唱えてるぐらいですから、仏像くらいあった方がいいだろうと。気分も出るしね。

手ごろな仏像でもありゃしないかと思って見回ったんですが、思ったより、というか、思った通り、というか、適当なのはなかったです。やたら古色蒼然としたものだったり、首だけのガンダーラ仏(というのかしら)だったり。ちょっと部屋に飾って拝もうか、という対象ではない。お値段も安いのは安いけど、高いのは高い。「なあに古きゃいいんだよ。古きゃ」と、落語の火焔太鼓を彷彿とさせるような感じで、ちょいと仏像でもショッピングってなわけにはいきませんでしたね。

子供は「あのブッダ買おうよ」「あのブッダいいじゃん」などとなぜだか興奮状態で押し売りモード(聖☆おにいさんを読んでるせいで、ブッダに親近感がある模様)。なぜお前が買わせようとする。こっちはイライラモード。仏像買いに来て子供にイライラしてるようじゃいけない。それが凡夫の悲しさよ。

ざっと見回って収穫なし。有楽町無印で家族とランチ。私はビールを軸にさっさとパン単品に決定。家族はランチセットをあれこれと検討中。

せっかく仏像買いに来たんだけどなあ。ふと思い出す。丸善で仏像展示即売会やってたな、と。

で、有楽町から東京のOAZO丸善に行きまして、買いました。釈迦仏。18,900円也。

予算の二倍だけど、骨董屋で見たものより顔立ちもいいし、安っぽくないし(骨董屋で見たのは古くて何だか安っぽかった)、まあ、いいだろうと。

阿弥陀仏と迷ったんですが、なぜか子供は釈迦仏がいい、と主張。

阿弥陀仏にも未練があって、阿弥陀様はどうしてダメなの?と子供に聞くと、阿弥陀仏と釈迦仏って何が違うの?と逆に質問されました。

阿弥陀仏は極楽浄土の仏様で、釈迦仏は実在の人だよ、と答えるとだったら実在の人がいい、と。

ま、いっか。ということで釈迦仏に決定。

そう。極楽浄土の思想は有難いのですけど、正直100%身に馴染んでいないんですよ。嘘偽りないところで南無阿弥陀仏。と本心で感謝できるのですが、偶像化された阿弥陀様には違和感がまだ若干のこっている。その辺もまだ私が凡夫たるゆえんなのでしょうけど。ということで、まだ実際に受肉されたお釈迦様の方が入りやすいかしらん、などと思ったりして、お釈迦様でいいじゃないか、と。子供には、お釈迦さまには、南無阿弥陀仏ではなく南無釈迦牟尼仏と唱えるのだよ、と一応注意して、お釈迦様。南無。

早速ソーメンをお供え。子供がやたら盛り上がってて楽しいですわ。なんとなく部屋の空気も締まる感じ。

面白いもので、2,500年前に修行され、涅槃に入られた方の像が部屋にあるだけで違うものです。

ちなみに夕食はソーメンとトマトとオクラの刻んだのとゴーヤチャンプルーでした。(私が作った)

ごちそうさまでした。合掌。


ハウルの動く城見た(二回目)

見たの二回目なんですけどね。新たな発見がありました。もう、これからは、ハウルを宮崎駿の最高傑作の一つに挙げますね。

まとまってないですが、解釈メモ。

ハウル=宮崎駿さん

カルシファー=鈴木敏夫さん

動く城=ジブリ

ハウルはカルシファーと契約し、二人三脚で仕事をしている。

師匠や国王は、顧客のエライさんでしょうな。

ハウルには、どこか「本当にやりたいことはこんなことじゃないんだ」という葛藤がある。宮崎さんしかり。

しかし、宮崎さんもカルシファー(=鈴木さん)と契約し、仲良くやっていて、その現実は100%否定できない。それはそれでうまく行っているという面もある。

つまり「ハウルの動く城」=ジブリである。ジブリはカルシファー=宮崎さんと鈴木敏夫さんの二人三脚で動いているのである。

しかし、ジブリを運営することは、資本主義の社会で戦うことでもある。本当は戦いたくない。しんどいのはゴメンだ。

その葛藤が「戦争」という形で映画に表れる。生きることは、仕事は、戦争じゃない。もう戦争はもうやめなさい。ハウルの闘いは宮崎駿の社会に対する闘いである。

ジブリ=「城」は、ボケかけた魔法使いの老女によって結果的に破壊される。その老女は宮崎駿さんの母ではなかろうか。もう、やめなさい。あなたの心臓をもっと大事にしなさい。母はエゴとともに息子の心臓を抱え、いたわろうとする。

しかし、ソフィーは母から心臓を取り戻す。お母さんの役目は終わったのです。ハウル=宮崎駿はもう小さな子供ではない。女性を愛し、社会とかかわる大人なのです。そしてソフィーはハウルを愛するわけです。

最後にハウルとカルシファーの心臓はソフィーによって分けられる。ここで二人とも一旦死に、即座に再生することによって、自由になる。

自由になった二人の魂は、再び二人三脚で城=ジブリを動かす。これは二通りの解釈が可能。

  一つ目の解釈:やっぱり、しんどくてもジブリをなんとか動かしていかなければならない、という宮崎さんの覚悟。

  二つ目の解釈:二人は分けられて一旦自由になり、解放される。その後でジブリを引き継ぐのは実は別人(であって欲しい)。たとえ宮崎さんと鈴木さんがいなくなってジブリが困難な状況になっても、復活して欲しい、という宮崎さんの願い。

ソフィーとはだれか。宮崎さんを100%理解し、受け止めてくれる永遠の女性なんでしょうねえ。

って書くと身も蓋もない解釈ですけどね。野暮だったかねぇ。

でも、宮崎さんの強烈な葛藤があるからこそ、あの映画が普遍的・夢幻的傑作になりえていると思いますよ。最高傑作の一つです。

2010年7月17日土曜日

やっぱ枝豆

枝豆にビール。素晴らしい組み合わせですよ。

若いころは揚げものにビールだった。口を熱い脂(肉汁)でギトギトにしてウグウグいくビールが最高だ、と思っていた。でも、年を取るとそうでもないのよね。脂はしんどい。それが真理となる。

むしろ旬の枝豆を美味い美味いと夢中で食べて、なんとなく口がボソボソしだして、水分を補給したくなる、そんな次の瞬間にゴクゴクと飲むビールは、また格別であることだなあ、と夏になると思いますね。うん。

トンボの羽化(山川草木悉皆成仏)

ヤゴを飼ってみたのですわ。

こういうペット(?)ってのはいいです。パートタイムペット。人生(虫生)の一生涯の責任を持たされることもなく、一時的に面倒をみればそれでいい、そんな(比較的)気楽な生き物飼い。気楽で楽しい。それでいいのか、という問題はありつつも。

で、数週間赤虫とか食わせてたんですわ。まずは冷凍赤虫。当然死んでるやつ。ピンセットで摘まんでピロピロやってるとヤゴがパクッって食べるんですわ。楽しい。でもじきにそれが面倒になるもんだから、勝手にピロピロしている生の赤虫に切り替えるわけです。でも冷凍から生に切り替えたらどれほど食べるかと思えば、そんなに変わらないんですな。冷凍をぴろぴろやってたころとヤゴの食欲は変わらぬ。そうだったか。うぬぬ。などと思いながら赤虫が力なくウニョウニョする水槽をにらむ。

赤虫って昔は汚れたドブ川にいたやつですけど、最近はどうなのかね。見ない気がするけど。ドブ川に行く機会すらなくなったのか。赤虫すら住めないドブ川になったのか。前者であると思いたい。

ヤゴはヤゴで共食いしてましたね。狭い場所に詰め込まれると、お互いお布施合戦になるらしい。こんなにいっぱいいるなら、僕は不要だから、僕の体を食べて。どうせ全員生き延びることはできない。だから、僕の体を食べて少しでも長生きして欲しい。いや、赤虫はあるから。共食いしなくても大丈夫だから。そんな祈りも空しく、今日も共食いするヤゴを恨めしく眺める。

そんなこんなでヤゴからトンボへ。かなり感動しましたよ。すごいね。生命ってのは。どうしてこんなことになるのか。以下写真を連ねます。

これで一時間経ってないんだからね。人間に比べるとその時間の進み方の早いこと。0歳から18歳までを1時間で済ませるわけ。18歳(多分)のトンボを、羽が固まるのを待って外に離しました。いやあすごいね。ホント感動したよ。地味な感動だけどね。

ある日妻が小バエを叩き殺してふと言いました。「あの愛おしかったトンボも、この憎たらしい小バエも、同じ虫だよね。何が違うんだろう」。心が違うんだよね。ほとけの心か凡夫の心か。それによって命の見え方が違うのだ。

2010年7月15日木曜日

手塚治虫「ブッダ」読了「火の鳥」途中

手塚ブッダすげーって思いましたよ。あれは面白い。素晴らしい。

うろ覚えですが、しかるべきキリスト教の権威(ローマ法王とか?カソリックのトップとか?)から、手塚治虫に聖書の漫画化の依頼があったとかなかったとか。むべなるかなと思います。手塚治虫の聖書。読みたかったな。だって聖書って長いですから。マンガでなきゃ到底付き合えないですよ。ってワリと冒涜的か?教養として押さえたいと思いつつ、速読しにくいもので・・・

そんなことより手塚ブッダ。傑作ですね。感動しました。・・・それしかでてこねーや。ま、傑作の感想としては、それでいいんでしょう。

そうだ。違和感が一つありました。ブッダが教団の人に残した言葉。教団を存続させなさい(という旨)。これは違うでしょう。「自灯明法灯明」でしょう。自らを光として、真理を光として生きなさい。ブッダが教団の存続にこだわっていたわけがない。そこだけ違和感ありました。他はOK。

火の鳥。まだ途中ですが、これも素晴らしいですね。とにかく日本のマンガはすごいですよ。

高史明「少年の闇 嘆異抄との出会い」径書房

★★★★★★:スゲー

これ読むと、嫌韓だとかそんなことはどうでもよくなりますね。著者は日本人の中で育った朝鮮人であり、その出自からずいぶん苦しいご経験をされたようです。しかし、決して日本人を一般化して攻撃することもなく、朝鮮人であることに卑下するわけでもなく、あくまで独り悩み、苦しむ存在として状況と対峙している。

凄まじい貧困、暴力。悲惨な自叙伝の合間に親鸞の言葉が引用されているのが胸を打つ。傑作ですよ。

2010年7月14日水曜日

子供を怒ることについて

ぶっちゃけ体罰についてです。実際に手を振るわなくても、怒鳴りつけるとか、怒り狂って説教するとかそういうのも含めます。そういうのも体罰の一種だ、と聞いたことがある。磯野家の波平さんも正座させて説教する。それも体罰ということになる。そう定義しておきます。

というわけで、体罰について反省してみる。反省する前に世間の意見を思い起こしてみると、体罰はさすがにダメじゃないか。いや、体罰くらい良いんだ。と二極に分かれるわけです。

私は基本的に体罰はいかんと思ってました。その理由は二つ。

  一つ目の理由は、一旦体罰を許可すると暴力が正当化されてしまう。それは恐ろしいことだ、という実感を伴った拒否感。(中学生の自分の記憶に基づく。)

  それから、なんといっても暴力を正当化するわけにはいくまい、という非暴力原理主義。これはむしろ頭で考えた方。

そうやって体罰=悪という図式を絶対視して一人目を育てていると、なかなか悩ましい局面に遭遇するわけですよ。二人目になるとまた違うのだろう。でも、一人目はどうしても神経を使ってしまう。こうあるべきだ!というのが前面に出てしまう。ピリピリ育てて怒ってしまう。哀れなり長男長女。

子育てで頭に来る局面。たとえば食事の手伝いをしない。いくら言ってもしない。「手伝いをしろ」と10回も言ってみて、「ああ?」などと生返事されてマンガを読み続ける。さすがに怒鳴りつけたくなる。つーか怒鳴りつけてしまう。

そして。あああ。また怒鳴ってしまった。後悔する。

しかし、じゃあ体罰は絶対ダメとして、どうすればええんや、と。家族として食事の手伝いはさせたい。しかるに、我が子は馬耳東風。糠に釘。暖簾に腕押し。(こんなことわざがあるところをみると、昔から子供と言うのは親の言うことを聞かなかったに違いない)

さすがに怒るべきじゃないのか。いやいや、やはり怒るにしても怒鳴りつけるのはいかがなものか。でも、完全に頭に来てしまっている。で、いかんいかんと思いながら怒鳴りつけてしまう。

日々悩んでおったら、ある本を見て「やはり体罰に目くじら立てる必要はない」という尊敬すべき筋からの意見を見ました。

でも、いやいや。やはり如何に愛を以てするとは言え、暴力は暴力。体罰はいかんでしょうが。と思う。暴力を是認してはいかんのではないか。

そうは思ってみるものの、体罰を受けてなお、まあ、そういうのもアリじゃないか、と思う人間がいることは理解できる。私も父親の(記憶に残っている)唯一のビンタを思い出すが決して恨んではいない。

でも、その人には「体罰も愛があればよい」と思えた。しかし、皆が皆体罰を受けて、いやあ、あの体罰は愛の鞭であった。先生の愛であった、感謝感謝。と思うことはないであろう。

だからなるたけ怒りたくはない。しかし親にとってしてみれば、止むにやまれず子を怒鳴りつけることがある。それは、愛故にというよりも、先生が、親が、不完全な存在だからなのだ。

子供が、そういうことを、大きくなって気がついてくれれば、心にもなく怒鳴り、手を上げたあの時を許してくれるかしら。でも、それを期待してはいかんなあと思いつつ、

暴力は絶対に正当化されてはならぬ、と思いつつ、

こう言った矛盾が包摂されるのが、仏教的態度なのではなかろうか、と思います。

なぜって「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」ですから。

われわれはみな、不完全な存在。凡夫なのですから。

阿弥陀様は「しょうがないなあ」と考えられつつも、ちゃんと見ていただいているのかも知れません。

あるいは私の中の無位の真人は、情けない、とわれわれに怒っているかもしれません。

とにかくこの娑婆世界では救われることがない、それこそが凡夫が凡夫たるゆえんではないか、と。

合掌。

再読 秋月龍珉「誤解された仏教」講談社学術文庫

★★★☆☆☆:キツい

前は結構感動したんですけどね。星6つつけたし。

どこに感動したか。仏教は無神論だ!悟りだ!という言葉に感動した。そうなんか!って。特に前半は今読んでもワリといいと思う。

でも今読むとやや鼻についてしまいました。禅は優れた師につかなければ絶対に分からない!いや、そりゃそうかもしれないけどね。鈴木大拙に師事した人に言われたくありません。だったら俺は禅には縁が無いってことじゃん?師なんか探してる暇はないもの。近所には居そうにないしさ。

ちょっと残念な感じで読んでしまいました。

2010年7月13日火曜日

何でブログを書くか

何でまたこうしてマメにブログに書くかということをたまに自問します。自分でもその理由はよく分かりません。

心でうごめくマグマがその出口を探していると、たまたまブログという穴があって、そこからドロドロと噴出しているような、そんなイメージがしっくりきます。

すなわち自然(じねん)に、spontaneousに何だかどりどろりと出て行く、それがブログなんだと。

ハタ迷惑なもんです。

このようなマイナーなブログであっても、こうしてbloggerのディスクの一部を消費しておる。たまたま目に留まって読んでしまった方のお時間を頂いておる。大変な迷惑をお掛けしてるんだなあ、恥ずかしいことであるなあ、と思いながらこうしてどろどろと記述しているわけで。

そんな風に反省しながら記述するわけですが、記述するにしてもエネルギーがいるものです。

そのエネルギーの源泉は何かと言えば、ストレスなり怒りなり、何らかのネガティブな感情ではないか、とそのようなことを思います。そういうモチベーションがないと、そもそも書こうという気にならない、というか。

あるいは逆に愛とか感動とか、そういうポジティブな感情でも書けるかもしれません。しかし私はあまりポジティブな感情で物を書くことは少ない、というかポジティブな感情だと余り量が書けません。「とてもよかった!」「すごかった!」「必見(必読)!」で終わっちゃうんです。ということで、ネガティブな感情の方が、現れる時のパワーが強い。

何の因果か、と思います。

考えてみれば、お釈迦様もイエス・キリストも、敢えて自ら書いて残すということはしなかった。

多分、お釈迦様もイエス・キリストも自分で書く必要などなかったんだろうな、と愚考します。

何かしら書きつけ、つらつらと訴えるのは凡夫の仕業である。充ち足りないから書くのだ。

ゆえに、表現には、何かしら邪悪な、こすっからい、言い訳じみた、人をだますような、そういうニュアンスがどうしても付きまとう。

無心坦懐、ストレートに書く文章など、存在しないんじゃないか。というか、たまに手帳に思いついた感動をそのまま殴り書きすることがあるんですが、使い物にならんです。その時の、極めて個人的、限定的な、一時の感情ですからね。それが、一時的にどれほど高まったとしても、ただ書き殴っていては普遍性は持ちえない。普遍性を持たせるためには、客観化し、口当たりよくする必要がある。そのためにはエネルギーがいる。そのエネルギーをまかなうためには、何らかのモチベーションが必要。そのモチベーションは、何らかのネガティブな感情(怒り、ストレス)から生まれやすい。

何を言っておるのか。最近、私は仏教によってなんとなく救われた感があるんですよ。

仏教に救われた、なんて2年前の私からは想像もできない。

しかしながら、本当に救われてしまった。この辺、どうにも人に説明しにくい。でも、本当に心が少しだけ安らかになった。このことは伝えたい。

そんな風に思いつつ、数ヶ月間書けなかった。

何で私は救われたか。救われてしまうと、そんなもん、どうでもええやんけ。書くことないやんけ。と思っちゃう。

人から迫害されれば、なんとなく「私はこんなひどい目にあった!!!」と怒りにまかせて書くのでしょうが、救われた、という話はなかなか書けない。

だって、書いてしまうと怪しいじゃないですか。なんでこいつこんなこと書くんや、と。何か企んでるんちゃうか、と。

ま、そんなこともあって、仏教に出会って人生観が変わったということは、なかなか書きにくいんだなあ、とそんな風に思うこともあります。