2009年5月2日土曜日

ウルメイワシハンバーグ

鶏ひき肉詰め高野豆腐の煮物でも作ろうかいと思ってスーパーに行ってみたらウルメイワシが安かったのでイワシハンバーグに変更です。ちなみに昼食は独りでバナナ一本。オヤツに軽く動物ビスケット。母と子二人は外出してましたが、同じくジャンクフード(しかもドーナツとか)を食した模様です。まあこんな日もある。

  
ウルメイワシを手で捌き、例によってチマチマとサク取りします。白子と卵巣が発達してましたね。そんな季節か。つーことは栄養はそちらに取られてしまい、決して本体の味が良い季節ではない、というのが魚類の定説ですが、果たして脂は乗ってませんでしたね。でもハンバーグだからそれもまたよし。捌ききったらブレンダーでミンチに。豆腐、パン粉、小麦粉、卵とともに捏ねて、フライパンで焼きます。隠し味にナツメグ、タイム、コショウ。

 
いい焼き色です。後はほうれん草と麩のお吸い物。

ハンバーグはハーブの隠し味(ちゃんと隠れてるε-(´∀`*)ホッ)もあって大人の味でしたね。脂が乗ってなかったせいか、肉に近い歯ごたえもあって妻と私には(゚д゚)ウマーでした。子供の評判はイマイチ。もういらないと言うのを脅して完食させました。もう毎日脅してばっかりですわ。

でもまあ概して成功であったと言うにやぶさかではない。
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バターロール、卵そぼろ、鶏そぼろ、コッペパン(コールスロー、卵フィリング、ハム)サンド

ここ数日の料理です。

やっぱ腹八分って重要だよねー。

   
まずはバターロール。やっぱり一次発酵、二次発酵具合が肝です。繰り返し言ってるようですが、今の季節、深夜冷蔵発酵でもイーストは半量で十分。二次発酵は以下の手順で計45分としています。
オーブンの保温機能40度:15分
その後室温に放置:30分 (この間にオーブンを余熱)
現在時点ではベストの発酵時間です。

  
夜は卵そぼろ、とりそぼろ、それからお吸い物とスナップエンドウ。盛り付けにセンスがないのは才能がないから。料理はしみじみ系の和食で(゚д゚)ウマーかったです。両方とも「娘に伝える私の味」を参考にして作りました。

  

これは今朝のメニュー。コッペパンの形にパンを焼いて、コールスローサラダ、卵フィリング、ハム、ウィンナを挟んで食べました。大変(゚д゚)ウマーでした。おかずパンにするときは、バター、砂糖の量は今の半量くらいでいいかも(すなわちバター15g弱、砂糖大匙1程度)。

以上。
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2009年5月1日金曜日

インプットとアウトプットについて

養老猛司氏がどこかで「人間、結局のところ y = f(x) の関数に過ぎない。つまり x を 入れれば f() という重み付け関数に従って y というアウトプットが出てくるから」と言ってますが、けだし名(迷)言だと思います。

まずは、フェアではありませんが文脈を度外視して揶揄気味に。

そりゃあまあそうだよね。うまいもの食べればうまいって言うし、食べたら排泄するし。痛ければ痛いって言うしね。受動と能動っていう切り口は変ではない。自然科学者らしい発想です。

INがあって作用があってOUTがある。原因があって(むにゃむにゃして)結果がある。あれ?でもこれってご自身が批判されていた「ああすればこうなる」の延長では?事象を解釈する人間的な尺度=ツールに過ぎないのであって、大上段から人間とは y = f(x) だと言うのってちょっとやりすぎじゃないですかね?

まあ、別に文脈全体には特に違和感はなかったので、重箱の隅をつつくのもこれくらいにしておきます。(養老猛司氏ですが、抽象的思考能力があり過ぎるのか、一見して分かりやすく抽象化されているようで実は難解な含蓄があったり、誤解を受けやすいような気がしますね。私も分かっててそこを突いてます。貶す意図はほとんどありません)

しかし、普通引っ掛かりますよね。x をインプットされたら y が出てくる。ホントか?実際、そういう前提で人間を扱う学問も実際にあります。実験心理学とか。しかし日常的に半自覚的に生きていると、反発して当たり前だと思います。

ガンの原因だって分からない。どうすれば好景気になるかも分からない。分かっちゃいるけどやめられない。見たくなくても見てしまう。見えているはずが見えてない。だったら人間がインプットとアウトプットで説明できるわけはない。

この f() に養老猛司氏の頭の良さと乱暴さが現われているように思います。何かを感覚して(むにゃむにゃして)何かを能動的に考えたり、行動したりする。この構造を y = f(x) と解釈するのはまあ面白い。しかし、突き詰めて考えると疑問がいっぱい出てきます。

x がインプットだとすると、具体的には何でしょうか。いわゆる五感ですかね。アウトプットは?思考とか行動でしょうね。何かを見て聞いて考える。そして行動する。五感で入力して思考や行動という出力が生まれる。うん。きれいに y = f(x) が出来上がった。本当に?

まず見える/聞こえるなどの五感の受容性について考えてみましょう。分かりやすいように極論で行きます。江戸時代の人間を連れてきてパソコンを見せたら何をするでしょうか?江戸時代の人にパソコンがどう見えるかも分からない。光りがチカチカする箱ですかね?一方われわれにとってみればパソコンはパソコン(これも人によって違うでしょうけどね)。となると、江戸時代の人にとってのパソコンと、現代人にとってのパソコンは、同じインプット = xになるのでしょうか?そうはなりませんね。つまり、このケースでは、現代人では y = f(x) かもしれませんが、江戸時代の人にとってみれば y = f(x''') (xスリーダッシュ)くらいになってる。つまり、インプット自体が異なるわけです。単純に「f() が違う」とだけでは説明できない。

つまり同じものなんてのはない。だから安易に y = f(x) などと一般化できるものではありません。生の x としてパソコンが与えられたとして、そのパソコンは既にその人の持っている知識や歴史から解釈されてしまった上で与えられるのです。生の x そのものが与えられるわけではない。

じゃあ、こうしてみたらどうだろう。上記の解釈ってのを別の関数にするのです。すなわち y = f( g(x) ) 。この g(x) って何だ?カントに言わせれば「想像力」となります。昔の人はちゃんと考えたものです。感心しますね。つまり生(なま)の事象は想像力によってその歴史や知識を包含したものとして実体化される。そうして初めて意識に与えられることになります。

g()が意識に与えられる以前に作用する関数なので、f() ってのは意識に与えられてから作用する関数ということにしましょう。すなわち f() = 「意思とか意識的な解釈」になるかと思います。こうして初めて思考というアウトプットが出てきます。しかしこの意思とか意識ってのがまた厄介です。意識はINPUTから完全中立できるのか?ということですね。もう少し分かりやすく言いましょう。われわれは常に五感を通じて大量の情報を得ています。f() はそこから独立しているのでしょうか。同じ暑い夏でも、暑いのは不愉快だなあと思って考えることと、暑い夏は気持ちいいと思って考えることは違いますよね。ええと。この辺論理大丈夫かな。

長くなってきたので結論を急ぎます。仕事の片手間に文章書く(本職じゃないってことですよ。念のため)というのはある意味ウルトラマンが宇宙人と戦ってるようなもので長時間もたないのです。

たぶん y = f(x) なんてことはあり得なくて、人間のアウトプットなんてf''(f'(f(g''(g'(g(x))))) 位のわけのわからないほどの相互作用やら何やらを経て出てくるものだと思います。叩いたから痛いってわけでもない。誰にどういう状況で叩かれたかによって違ってきます。

だから何が言いたいかというと、人間ってのはいろいろ複雑な世界に生きているんだから、そんな簡単に生きられないんだよね、ってことですかね。

以上。
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2009年4月29日水曜日

死について(なんか唐突ですが)

しみじみ系です。

ハイデガーの「存在と時間」で、現存在とは他でもない自らの死に臨んでいる存在である旨の記載があって、要するにこれを平易に書くと「死ぬのはお前だよ」っていう程度の意味になるかと思います。この本、本質的なレベルまでは理解できてない私に批判も賛同も出来ないんですけど、全体的に何となく違和感がある本です。上手く言葉にはできませんが、この本が刊行されたのが第一次世界大戦中(?)だったという時代背景の違いや、もちろん文化の違いが大きいかと思います。

具体的には「死ぬのはお前だ」「死はお前の死だ」という発想に違和感を感じます。正しいとは思います。でもしばらく生きていると「死ってのはオレのものじゃないよな」というかむしろ「死は愛する人の死」であり「死ぬのはお前の愛する人だ」と言われる方がピンと来る気がする。

ソクラテスがどこかで「死んで無になるなら休めることができて嬉しいし、死んでも魂が残るならそれはそれで嬉しい。ゆえに死ぬこと自体は恐怖でもなんでもない」というようなことを言ってましたが、感覚的にはそれに近い。まあ霊魂が残るとは思ってないので、死んだら要するに眠ったときのような無意識になるんだろうな、と。だったらそれは別に怖いことじゃないなと思っています。若いころは自分が死んで無になると思っただけで底知れぬ恐怖を味わったこともありました。でも今はそうでもありません。

もちろん死に向かうプロセスで苦痛があるのはイヤですけどね。それに思いが残って死んでも死に切れないというのも避けたい。まあこの辺から文章を展開すると、一瞬一瞬を全力で生きよう、明日死ぬとすれば今何をするか、という一般的な啓蒙本に近くなってくるのいったん止めます。

つまり、自分の死なんて大したことない、それよりも周りの死の方がずいぶん重い気がする。やはりかけがえのない存在ってのはあります。それは家族や友人です。自分にとってかけがえのない人の死こそが、人が生きて行くにあたって直面せざるを得ない理不尽で苦痛で悲しみに満ちた「死」だと思います。なんといっても自分の死というのは、死んでしまったら終わりですから。

逆に考えると、私だって誰かにとってはかけがえのない人です。少なくとも子供にとっては。自分の経験から言っても、子供は「お父ちゃんは明日死ぬかもしれない」と思って生きているわけじゃなくて、むしろ自分の両親に限って死ぬはずがない、と思っている。そうなると、やっぱりこれは簡単には死ねないな、と思えてきます。

話は少しズレますが「自殺はなぜいけないか」「殺人はなぜいけないのか」という質問にも、上の流れから言えば、まずはストレートに答えることができます。すなわち「誰かにとってかけがえのない人が自殺するとか、殺されるということはあってはならないから」。まあ意地悪くつつけばほつれそうな回答ですが、さしあたりそれでいいんじゃないか。それは人のものをとってはいけないとか、基本的な倫理の問題だと思います。

となるともう一つ「じゃあ本当に天涯孤独の身で、誰からも必要とされていない存在は自殺しても殺されてもいいのか」というイヤな問いを私は思いつくのですが、やはりそんな人を作ってはいけないというか、仕事なり社会の役割を負わせたり、友人なりを作ったりして、誰かにとってかけがえのない存在になるように、その人も周りも何とかしなければならないんじゃないか、と思います。

さらにズレてニヒルなことを言いますと、仕事ってのは極端を言えば誰にだって出きるんですよね。例えば総理大臣なんて誰がやってもそんなに変わらん。これ以上の喩えはいらないと思います。自分の仕事が総理大臣の仕事以上に重要でかけがえがないものだ、と思っている人は置いといて。残念ながら、組織的に効率的に仕事を進めれば進めるほど、ある立場の人がその人でなくてはならない必然性はなくなってゆく。組織が自らを守ろうとする=組織の中であるポストを得ている人が、自分と周りを守ろうとするのは、自分がいくらでも取替えのきく存在だということが分かっているからかもしれません。

逆にいえば「組織に属すること」をいくら徹底しても「その人のかけがえのなさ」ってのは生まれないってことですよね。まあ、それは極論であって、例えばイチローとかその人でなくちゃ!という役割を果たすことで周りに感動を与えたり貢献することもできなくはないので、仕事だからといってこの自分には無意味だってことにはなりませんね。

まとまってないですが以上。
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「娘に伝える私の味」はとてもよいけど

前にも少し言及しましたが「娘に伝える私の味」は実にいい本です。

図書館でなにげに借りて読んだらこれこそまさに日本のソウルフードだぜイェ!と思わせるいい本でしたので、妻に薦めてみたところ「なんか読みたくない」とのお言葉を頂いてしまいました。

なぜ?といろいろ話して見ると、どうやら私がPHP(出版社じゃないよ)とかrubyとかの解説書を妻から薦められるよりも数倍もイヤな感じのようです。要するに例によって自分の仕事にダメ出しされてる感覚のようですね。なるほどね。

私にとっては非常に楽しく読める本で、おお。このお煮しめ是非作りたい。とかかんぴょうの巻き寿司。やってみるしか!とか、卵料理どれも美味そうだな。やっぱり美味いものって癒されるよねー、と日々飽きずに眺めているのですが、しかし残念ながら妻の予感通り、夫婦生活においては地雷となりかねない内容も散見されました。

この本から読み取れる人物像は、義理の父に可愛がられ、旦那に尽くし、子供たちから尊敬されるまさに良妻賢母。そりゃあ大変なこともあったでしょう。なんたって戦争をくぐり抜けてますからね。でもそれをものともせず凛として生き延びたお母さん像が鮮やかでして。すなわち、これを世の奥さんが読んだ場合は、「どうせあたしなんか」と落ち込まれることもあるかもしれないし、下手をすれば逆ギレされて攻撃される「あんたこんなお母さんがいいんでしょう。フン!このマザコン野郎!」とか、いわんやフェミニズムとかに共感していてジェンダーとかいうボキャブラリを持つ妻においてをや、かなりのツラい状況になるんじゃないかと思わせられました。考えすぎか。そう思いたい。

この本を隠れて読み、そして泣くがいい。世のマズメシ嫁持ち旦那よ。(いや、ウチの嫁は大丈夫ですよ。ホントだってば!)
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2009年4月26日日曜日

(朝食)バターロール、カレースープ (夕食)水菜と油揚げの煮物、イナダの塩焼き、野菜サラダ

バターロールです。イーストの量はほぼ半量での冷蔵発酵。ちょうどいい
  
(写真右端)二次発酵もいい感じです。
 
焼き上がり。昨日の残りの塩豚カレーを牛乳で割ったスープとともに頂きます。カレーはまあまあ。パンは(゚д゚)ウマー。

最近、妻も遠慮なく「美味い」「まずい」と言うようになりました。朝に焼きたてパンを食べると、一次発酵に多少失敗してようが美味いといってもやぶさかでないわけですが、率直に「いまいち」と言ってくれれば、それはそれで有意義な指摘であります。まあ、今回は「美味かった」(私もそう思った)ということでOK。


  
夕食は水菜と油揚げの煮物とイナダの塩焼き、そして写真にはありませんが、レタスときゅうりとトマトのサラダ(私は新タマネギのスライスつき)。そら美味かったでっせ。ふっふっふ。
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2009年4月25日土曜日

パン、ツナフィリング、ウィンナ、アスパラ・レタスサラダ、肉うどん、カレー

朝から雨でした。結局どこにも行きませんでした。本日のイベントは妻の衝動的大掃除。畳をひっくり返して掃除しました。

では淡々と。

  
夜間一次発酵します。最近は低温でも発酵が進んでしまうので、イーストの量を減らしました。およそ3分の2くらい。いい感じです。起床して生地を切り分け二次発酵。ちょっと行き過ぎたかも。

  
焼いてる間にツナフィリングを作り、ウィンナとアスパラを茹で、レタスを刻みます。

  
あまり手が込んでないメシは当たり前に美味いんですな。NHKおさるのジョージを見た後に朝食を取りました。


昼は肉うどん。昆布と削り節から出汁を取ってかえしを混ぜて調味します。茹でたうどんを水で洗ってから出汁に投入して暖め、牛肉の薄切りを投入して軽く火を通します。美味かったー。うどんが美味いとハッピーですよ。


夜は塩豚カレー。突発的・衝動的に大掃除をしたので、市販のルー「バーモントカレー甘口」を使った手抜きのカレーです。塩豚美味いっすね。使いどころを間違えなければいい食材です。なかなか使いどころが見えないですけどね。ただ焼く、煮るだけでも美味いんですが、私にとってはなかなか御しがたい、難しい食材です。何でかな。理由は良く分からない。独特の匂い?塩味の調整?その変が難しいのかも。

まあ、以上ですわ。
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2009年4月23日木曜日

いちおう時事ネタということで

草なぎ剛氏が逮捕されました。最初にかわいそうだなと思いました。酒飲んで深夜に裸になってわめくなんて悲しすぎる。

それを「最低の男だ」とか言う官僚とか大臣とかって、人生の暗い面をまったく理解できない情けないヤローだな、と思います。

所詮はいいとこのおぼっちゃんどもか身内と保身だけを考える小心者どもの集まりか。おまえらキレイゴトばかり言ってんじゃねーよ。
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節酒の抑止力となるのは

前にちょっと体がしんどくなって節酒を試みたことがありました。

今の状況はと言えば・・・微妙。昔ほどガバガバ飲んではいませんが、間違いなく3合以上は飲んでますな。

やはりモチベーション維持が難しい。節酒をすると確かに目に見えていいことはあるのですが(体調がよくなる、小遣いがあまり減らない)、それ以上に「呑みたい」欲望が強すぎます。体調ごときが。ケッ(あざけり)くらいの勢いで呑むわけすね。

酒を呑んで酔っぱらうという行為は自分の意識を弱め、最終的には意識を失わせる行為に他ならないわけで、そういう意味では自らの死の周りで遊ぶようなものだと思います。つまり、飲酒には死への欲望(タナトス)が隠れている、というのが私の説です(マジで)。とすれば健康不安もそして死すらも飲酒への欲望を押しとどめるものではありません。

とすれば、節酒するために何が必要かと言えば、死よりも怖いものが必要ということになります。死よりも怖いものがあるか。

ここで話は突然下世話なハナシになります。

中島らもがどこかで昼夜酒を飲んでると腹が始終緩くなると書いていました。要するに早い話がしばしばウンコがもれそうになって困る、ということです。

実は私も例外ではありません。通勤電車に乗っていてそんな目にあうともう本当に地獄です。あともう少しで・・・ということがしばしばある。ギリギリの状態で駅についてもまだ気は抜けない。トイレに長い行列ができていたり、あと一歩のところでもう誰も個室から出てこない、ということがよくあります。もう冷や汗ダラダラ、心臓バクバクで死にそう。これは本当に死ぬよりもツラい状況なのです。

それから、一線を越えてしまうともう大変であろうことは容易に想像できるわけで。空にまで突き刺さるほどの薫り高い存在になって、その後は考えるだに恐ろしい状況となるはず(タクシーなんてつかまえられないだろうし、徒歩で帰れないし・・・ああ怖い。もうやめた)。ということで、何のために節酒をするかと言えば、やはり通勤中に大変なことにならないためですよ。この抑止力はスゴイ。よく分からない投稿ですが以上。
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2009年4月22日水曜日

司法は信用できないのかも

民主党小沢代表秘書の逮捕のニュースを聞いて以来、どうも日本の司法が怪しいような気がしてなりません。って遅かりし?あまりにナイーブだった?>自分

その他 参考記事)

堀江貴文氏の逮捕後初の会見

植草一秀ブログ

裁判員をバカにしてませんか(1/4)

特にホリエモン逮捕。私も当初は以下のようなストーリーでとらえていました。

→ ネットバブルに乗じて成り上がり最終的にはマネーゲームで金を儲けることに走った拝金主義の若者の逮捕。

何となく胡散臭い(見せしめ?庶民のルサンチマンを官憲が利用して出る杭を打った?単なる大向こう受けを狙った?)とは思いつつも、まあ逮捕も仕方がないかな、と考えていました。

しかし、ホリエモンのインタビューを見る限り若さ、ナイーブさ(拝金主義を未だに正当化している。いまさら別にどうでもええよ。出る杭は打たれる、といまさらしみじみ振り返っている)があるのはさておいて、やっばりそれほどの悪事はやってないんじゃないか。むしろ詐欺的だったのは宮内のほうじゃないかな。という印象を受けました。すなわちホリエモン逮捕はやはり社会の流れに乗じた司法のパフォーマンスであり、その標的にされたホリエモン、という構図が透けて見えた気がしました。

小沢秘書も植草一秀も、大衆受け(むしろ政治家受けか)を狙ってる逮捕という側面があるように思えて仕方がありません。

いずれにせよ怖いのは、解釈の余地のある法が、司法によって柔軟に解釈され、別の理由(大向こう受けするから、ある有力者がウザがってるから)で逮捕され、マスコミも単純な図式で悪玉論を発表し、何となく世間的にも「悪い」という印象が浸透してしまうという事実です。

このように一度警察や司法を疑いだすと、非常にこの国の居心地が悪くなります。有名人である、とかあるいは「普段有力者に文句を言っている」とかいう理由で些細な法律に抵触する行為をあげつらわれ、マスコミぐるみで一方的に悪人にされることもある(※)ってことですよね。まあ、100%そうかは分かんないですけど。

※ こういう構造って会社でもありませんか?リストラとかね。だからこそ官憲がこのように動いても不思議じゃない気がします。

政治的な要素はありませんが、京都舞鶴で起こった殺人事件。これも今のところ状況証拠だけですよね。それとも物証を上げる自信があるのだろうか。どうも怪しい(警察が)。いや、もちろん分からないですよ。本当のところは。千葉の事件では最初は「怪しい(警察が)」と言われていましたが、どうやら真犯人だったらしいですし(あの事件では目撃者もいたそうなので事情は違うと思いますが)。

少なくともこういう「犯人探し」活動について私は大衆を信用する気にはなれません。世間は自分と違うものをパージしたがりますし、犯人を早く見つけて安心したがる。疑わしきは罰せずという世論が形成されるなど、あまり期待できない気がします。

そうなってくるとこれって北朝鮮?って気すらしてきます。あっちは「国家」、こっちは「世間」「大衆」「上流階級のお仲間」「政治家」という違いだけで、やっていることは変わらないんじゃないか。

まあ、北朝鮮に比べれば比較的自由にやっていけるのは間違いはないわけで、あんまり極端なことを言うのもオカシイとは思います。しかし(強迫観念かもしれませんが)私にとって怖るべきは大衆+マスコミによる思考停止です。やっぱり私は集団(=自分が属する組織を「ウチ」と思っている個人の集まり)を信用することはできない。官憲、司法、会社、チーム、それを代弁しようとする人にはまず疑念を持ってしまう。こんな私に誰がした。そりゃ集団ですがな。個人的にはある意味で悪循環の状況に陥っているのかもしれませんが、やはり「何が正しか」を考えないと私は納得できないのです。因果なものです。疑心暗鬼にはなりたくないですが。

以上。
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2009年4月21日火曜日

一個人として語らない人たち

人の話や判断を聞いて「?」と思うことがよくあります。その人がどう考えているのか。その人がある人に対して、どうしたいのか。何を与え、何を期待するのか。それが見えない。つまり「会社としては」とか「世間的に」とかいう枕詞をつけないと語れない人たちです。

そんな人から「わが社としては、昨今の事情を踏まえてこのように行きたいと考えます」という感じで言われることがたまにあるわけですが、それに対して「会社の意向は分かりました。ではあなたはどう考えるんですか?」と聞いてみると反応は通りに分かれるように思います。「個人的には」とすらすら語る人と、口ごもってしまう人です

以上より、

■「個人的には」と語れる人は、自分の意見を持っている人

■口ごもる人は、自分の意見を持たない人

と結論付けてしまうのはほとんど思考停止なので、もう少し立ち入って考えてみます。


【会社と個人の関係】

会社の見解に対する個人の見解には、大きく言って以下の9パターンの関係があるでしょう。そして下記のように分類したとき、個人的な意見を言いやすい状況と、言いにくい状況があることが分かります。

(1) 会社としての見解がポジティブ かつ 個人的にはネガティブ
→ 個人的には「そんなことやりたくないよ」「いやだな」と思っているので、個人の意見が言いにくい。

(2) 会社としての見解がポジティブ かつ 個人的には無関心
→ どうでもよいので個人の見解が言いにくい

(3) 会社としての見解がポジティブ かつ 個人的にもポジティブ
→ 自分としての意見を堂々と語れる

(4) 会社としての見解がネガティブ かつ 個人的にもネガティブ
→ 個人的にも同感なのだがネガティブな自分の意見は言いにくい

(5) 会社としての見解がネガティブ かつ 個人的には無関心
→ どうでもよいので個人の見解が言いにくい

(6) 会社としての見解がネガティブ かつ 個人的にはポジティブ
→ 個人的にはポジティブなんですが・・・という形で自分の意見を言いやすい

(7) 会社としての見解が無関心 かつ 個人的にはネガティブ
→ ネガティブな自分の意見は言いにくい

(8) 会社としての見解が無関心 かつ 個人的にも無関心
→ どうでもよいので個人の見解が言いにくい(どうでもいいです、とは言いにくい)

(9) 会社としての見解が無関心 かつ 個人的にはポジティブ
→ 個人的にはポジティブなんですが・・・という形で自分の意見を言いやすい

整理すると

自分の意見をはっきり言えるパターン → (3)、(6)
歯切れが悪くなるパターン → それ以外

ということで、必ずしも自分の意見があれば言える、というものではありません。

【「会社の見解」なるもの】

もうひとつ、会社の見解単体で「?」というものはよくあります。判断の真意や基準がよく分からない場合です。表には見えない会社の都合(「売上/利益」といった数字重視あるいは「会社共同体の保身」)が背景となっていることが多いように思います。別にマスコミ向けの公式見解に限りません。

また「会社として」という枕詞の裏にその人のルサンチマンやネガティブな感情が隠れていることもよくあることです。利己的な判断が「会社として」という枕詞とともに出てくるケースもある。

【まとめ】

そもそも会社に属する一個人というのは、完全に会社と自分を同一視できる奇特な人を除いては、アンビバレンツな状況に違いありません。

一概に「会社として」「個人として」切り分けることはできませんし、上司や顧客などとの具体的な関係もあり、割り切れるものではありません。

そのような状況において、「会社」という抽象的存在に容易に同一化し、居心地よく身を預けることのできる人と、自分で考え、自分で行動することに重きを置く人との間に、違和感が生じるのは無理のないことだと思います。

と無難かつ曖昧に収束させたところでホンネ。

組織や仲間のウチに属すると日本人は強い。個人で考えて行動する人にとっては、生きにくい世の中です。私としては、一個人として語る人がもっと増えることによって、もう少し風遠しのよい社会が広がることを願っています。
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2009年4月20日月曜日

クラウドとか

日本IBM、大量リストラの背景 究極の「業界中抜き」が到来する

将来を予測しようとする記事はまず的中しません。大外れ=予測の逆を行く、ってこともあまりありませんが、記事が煽るほど劇的に社会が変わることもあまりない。アジられてあせって動く人を食い物にする人が勝つ。

例えばインターネットが与えるインパクトの予測。15年前には様々な未来予想図が描かれました。確かに「変わる」「変わる」という声は大きかったし、実際に変わりました。しかし、このような世界になると誰が予測したでしょうか。つーか、このような世界ってのはどのような世界?切り口によって見え方は全然違います。どのような予測も部分的には当たって、部分的には外れて、部分的には完全にアサッテの方向に行く。そんなもんだと思います。後は程度の大小です。

もちろん明らかに未来が変わる前触れってのはありますが、どれほど注意していても常に正しい予測を立てて動くことは難しい将来リストラされる事業部や倒産する会社に勤めていると何とかなく「怪しい」なと思うことはあります。しかし、そこで「近いうちにリストラされる/倒産する」という予測の元に次の手を打つことは難しい。実際には*事後的に*あー。やっぱりリストラされた/倒産したよ、と思うのが関の山です。

まあそれはさておき本題に戻ります。

引用先の記事を非常に乱暴にまとめると、IBMと富士通のリストラという事象から、IT業界の今後の変化が不可避である旨を述べ、その後最近よく聞くジャーゴンである「クラウド」を出して今後は「クラウドコンピューティングの台頭が予測される」、「クラウドの本質が「中抜き」と「グローバル化」であるとすれば、日本のIT業界に上流工程以外未来はない」と結論付ける内容となってます。

まあ、論理のステップが乱暴だったり、仮定に仮定を積み上げたりしているわけで、大したアレではありませんが、重箱の隅をつついてもしょうがないので何となくクラウドコンピューティングについて考えてみました。

クラウド・コンピューティング。乱暴に言ってしまえばGmailとかGoogle Appsとかでしょうね。

つーことは、いわゆるASP+データセンターの大規模なモノってところですかね。そうなるとなんか別に新しくないな。ま、ジャーゴンってそんなものだね。

ってことは、どうもそんな仕組みがIT業界全体を席巻するとは思えない、というのが正直な感想です。セキュリティの問題もあるし。Google Docsで業務回す会社ってあるの?個人でそんなことしてたらむしろ会社に怒られますよね。それから業務ったっていろいろあるし、すべてがクラウド化できるわけじゃないのは自明。

今後サーバの統合や仮想化が進んでいくことは実感としてあって、その流れてIT系の人員が不要になると言われれば、それはそうかもしれない、とは思います。でもだからと言って人員が半分に削減されるとも思えないですね(5年、10年のスパンではそうなるのかもしれませんが、そこはもう無責任予想の範囲)。ASP、グリッド、クラウド、いずれも空しいジャーゴンに過ぎないように思います。

エンジニアの必要知識を考えてみても、実は10年前とそんなには変わらないですね。UNIXアドミ、TCP/IP(ネットワーク)、C(C++)、Java(10年以上現役ですね。素晴らしい)、スクリプト言語(Perl、awk、sedなど)。

プロマネだとかITILだとかUMLだとか、エンジニアの眼を紛らわすような怪しいTipsがあふれて来ていますが、私見ですがそんなものは浅薄な技術(「なんとかHack(笑)」とか「Tips(笑)」)を売り込んで業界での主導権を握りたい大企業の下手くそな陰謀です。普遍的かつ有用な知識とは思えません。一定の経験とそれを反省して抽象化して頭の中で組み直す力があれば、そんなメタレベルの知識を頭で理解するのなんて不要。むしろ下手に頭でっかちな人間が出来上がるだけ、害悪とすら思います。そういう意味ではクラウドがどうこうするから上流工程が重要になる、というのも私に言わせれば全くのナンセンスです。「ソリューション営業」向けの記事らしいので、乱暴なのもむべなるかな、といったところでしょうか。

まあ、流行を押さえるのは重要でありつつ、でも普遍的なもの(5年~10年一線で使える知識)の方が重要なんだ、ってことですね。

以上。

2009年4月19日日曜日

葛西臨海公園、ソバ、塩豚・シメジ・ピーマン・きくらげの中華炒め、フキと厚揚げの煮物

葛西臨海公園にハゼ釣りに行きました。釣れなかったなー。ホントに。朝起きて、釣りに行くといってハイになった子供たちを脅したりスカしたりしながら着替えさせ、電車に長時間乗って葛西臨海公園へ。それだけでも結構疲れる。海に着いてからリールを竿に装着し、仕掛けを付けます。アオイソメを一匹つまみ出し、心の中で謝りながらも、自らを貫こうとする針に二本の歯を延ばしてか弱く抵抗するアオイソメを、心を鬼にして針に引っ掛けて、ぴゅーんと海に投入。この瞬間は楽しい。

前回11月に行った時は晩秋ということで、落ちハゼが釣れればラッキー、くらいのボウズ覚悟だったので、一匹も釣れなくても全然応えなかったんですけど、春になってそろそろハゼも出てくるしさすがに釣れるだろうと思って期待していったところ、全然釣れなかったのでガッカリ。人間、期待するから失望するのであって、期待しなければ失望することもない。期待したアタシがバカだった。年を取るほどに身に染むこの言葉。まあ子供たちは砂遊びして楽しそうだったのでよしとしよう。
  
昼前に撤収。昼は町のラーメン屋でラーメンを食べました。まあ不味くはなかった。美味いと言ってもいいかもしれない。目を吊り上げて、期待して食べに行ったらガッカリしたかもしれない。でもナニゲに食べた町のラーメン屋のラーメン。ナニゲに美味かった。そんなところです。やはり期待しちゃあいけないっつーことで。

  
帰宅して夕食の支度。そばをメインとすることに。昨日削り節を買ったので、そばつゆは自作です。「門外不出!?美味しいそばつゆの作り方」を参考にしました。鰹節がなかったのでイワシ・ムロアジ系の安い削り節でダイヨウしましたが、それでも「おお?!」と言えるくらいの味。これは美味い。そしてフキと厚揚げの煮 物。子供にはフキの苦味が不人気でしたが、大人にとってはしみじみと美味しかった。

  

それから塩豚ときくらげとシメジ、ピーマンのオイスター炒め(生協の牡蠣風味調味料とトウチ入り)。アレンジ系のメニューです。昨日残しておいた たけのこの先端付近を使おうと思ったのですが、一口食べたらエグみが強烈だったので断念。塩豚かなりイケる。全体にちょっとしょっぱいけど美味かったです。葉っぱ系緑黄色野菜の補足として小松菜を茹でました。別途適宜煮物に投入。これはまあ煮物に投入した小松菜って感じの味ですね。

いやあ、疲れた一日でした。でもまあよい休日だったと言うことにやぶさかではない。
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2009年4月18日土曜日

学生時代の思い出、パン、コールスローサラダ、卵フィリング、ウィンナー、塩豚仕込み、たけのこフキの煮物、治部煮

思い出話。

昔から料理は好きでしたね。学生時代にも、めったに魚捌かないのに出刃包丁持ってたし。でも、せっせと自炊してたわけでもありません。食べさせる相手がいなければつまらないですから。というか下手に自炊すると食べきれないことになる。食生活は結構テキトーでした。ツナに納豆和えて食べたり(意外と美味い)、惣菜のコロッケとゴハンだけで済ませたり。

白飯だけ炊いて、あとはキムチとか惣菜、というパターンが多かった。あるいは甘い缶コーヒーとタバコだけの朝食とかもあったな。若かった。メインは学食。暗いサークルに所属していた。サークルのメンバーと地味な学生向けの喫茶店とか、定食屋で場末ちっくなものを食べることもあった。大量の豚肉をその辺の市販の焼肉のタレで焼いたようなやさぐれた定食とか(でも美味かった)。食べたことはなかったけど、魚肉ソーセージにマヨネーズかけただけの定食もあった。他にジャンキーなインディアンパスタとか。まさに学生メシ。

昼食時には大学の周りの定食屋はいつも混雑していた。そんな定食屋で、友人たちと昼食を食べても何となく孤独を感じていました。暇なときは下宿先に篭もってビール飲みながら読書。暗くて地味でコンプレクスに満ちた学生生活。でも今思えばそれなりに充実していたような気もしてくるから不思議なものです。人生についてぐるぐると考えていて、どこにもたどり着けなくて苦しかったけれど、あの時考えたことは今の自分の肥やしになっている気がする。

インターネットがはやりだしたのは学生生活も後半の頃。テレホーダイなんてのがあった。モデム通信。回線速度は28.8kbps。市内電話料金でプロバイダーのアクセスポイントへ接続。Netscapeのv2.0。ってなつかし過ぎ。ああ、昔の友人と呑みたくなってきた。

ポテサラ作ってビール持って、下宿先のアパートの屋上に登って星を見ながら呑んだこともありました。イキなようで、実は殺伐かつ茫漠とした家呑み。今思えばBGMに般若心経が必要だったと思います。「一切は無である」みたいな。屋上でビールをあおりながら、まだ青臭かった心に虚無感が染みわたっていた。

なし崩しに時代はさかのぼって小学生の頃。家庭科でフレンチドレッシング(酢と植物油と塩コショウを混ぜたような簡単なやつ)を習って、すぐに家できゅうりとレタスのサラダを作ったことを思い出しました。両親に褒められた。こんな記憶どこに埋もれていたのやら。フナ釣り用のエサとして小麦粉練って持っていったこともあったな。スーパーのゆでうどんの方がよく釣れたけど。なんか小麦粉でエサを作るっていう工程が実験っぽくて楽しかった。これは中学生の時ですね。

高校生の頃は受験からの逃避でお菓子を作ってみたり。何やってたんだろうな。

時代は飛んで結婚する前、今の妻に冷凍コロッケを揚げて食べさせたら美味しいと感動してたこともあった。6個入り300円くらいの冷凍コロッケなんだけど、揚げたては美味いんだよねー。

嫁のメシがまずい」スレを見ていると、嫁としてはダンナが厨房に入ることを嫌うようですね。

私は結婚前に妻に料理を食べさせていた伏線もあり、容易に厨房に入らせて貰うことが出来ました。っても別に狙ってたわけじゃないけどね。

妻は「嫁のメシがまずい」スレでいうところのフツメシ8割、ウマメシ2割、あっさり薄味和食系(食材も野菜と魚中心)の人で、基本的に妻に料理を任せることにはまったく異論はありませんでした。でも、若い頃はジャンキーな食事が食べたくなることがあって、たまに私が台所に立ってそういうものを作っていました。例えば・・・って例があまり思い浮かばないな。ええと。チキンライス、ラーメン、チャーハン、ハンバーグ、チキンソテーとか。そんな感じで。

でもやはり元々料理が好きなので、いろいろ手を出しているうちに、妻の担当エリアであった和食/魚料理にも手を出すようになり、かつ妻から「料理だけじゃなく後片付けもちゃんとしなさい」と言われたことで、台所周りの掃除もきちんとやるようになったあたりから妻の態度がビミョウになってきたことに気づいたのであります。

すなわち、たまに美味いものを私が作ると無言になるんですね。不機嫌とまでは行かないけれど。失敗気味の料理の方が却って褒めてくれたりして。

何となくそんな態度が気になって、「どうよ。ダンナが料理すると楽でしょう」と水を向けてみると(まあ今思えばデリカシーがないんですが)、ダンナが料理するのは実はあまり気に入らない。自分の仕事が取られたような気がするし、自分の料理がマズイと言われているような気すらする。もっと言えば、自分を否定されているような気がする。ああ。その発想はなかった。と得心しました。それで、あんたの料理は美味いと思っているし、これはあくまでオレの趣味だからあんたは何も考えずに美味い・まずい言ってればいいから、と説得。夫婦生活っつーのは難しいもんですよ。やっぱり。まあそれが面白いっちゃあ面白いんですけどね。ええ!そんなこと考えてたの!?みたいな。

まあ、そんなことはさておいて今日の料理です。


定番の夜間一次発酵。冷やした牛乳で生地をこねてすぐさま冷蔵庫に入れたんですが、一晩経ってみれば過発酵気味ですよ。ギリギリセーフぐらい。季節が変わると違いますね。


コールスローサラダと卵フィリング。牛乳をヨーグルトで代用。ダイヨウって危険なんですが、このケースではまあ問題なし。


きゅうりを切ってウィンナ茹でて


パンにはさんだり。(゚д゚)ウマー


昼、塩豚を仕込みました。塩豚。ヤバいんですよね。正直私には使いこなせない。でもだからこそ煽られる。何とかしてこいつを美味く食ってやりたい・・・

cookpadとかに塩豚仕込んで「一週間熟成中(はぁと)」とか「つくレポ」に書いてる人がいますが、なんかヤバイ臭いがしますよ。だんなかわいそう?ってかcookpadって地雷があるから面白い?cookpad愛用者の家族の意見を聞いてみたいなー。


たけのこ食いてーと思いました。水煮たけのこが高かったので季節がら普通のたけのこにチャレンジ。皮をむいてヌカと一緒にたっぷりの水で茹でます。


それからフキ。塩で揉んで茹でて皮をむきます。


出汁を出汁パック(魚粉、昆布粉、しいたけ粉煮出し式)ではなく、ちゃんと昆布と削り節で取ってみました。といっても鰹節ではなくてイワシとかムロアジとか、そういう安い節です。やっぱ美味いね。出汁パックも美味いんだけど、雑味がある気がする。安い節でもいい感じでした。鰹節と昆布でキレイに出汁を取ると、感動的に美味いんだけどなー。さすがにそれは贅沢な気がする。でもいつかやってみよう。贅沢といってもたかがしれてるハズ。


そうこうしてるうちにたけのこが煮上がったので、フキと油抜きした油揚げを出汁で炊きます。

それから治部煮。「娘に伝える私の味」で目に留まったので作ってみました。レシピはネットで補間。この本、しみじみといい本です。料理への愛情がひしひしと感じられる。

北陸は金沢の料理です。鶏肉に下味を付け、片栗粉をまぶして茹でるのが特徴。美味かった。長女に大好評。なぜか次女には人気がなかった。なぜかな。

たけのこはエグみ強すぎ。丁寧に作業したけどダメでしたね。たけのこは初日の出端を買ったらその日の午前中にアク抜きするくらいじゃないとダメです。迷ってる暇などない!子供にも残す許可を与えました。

フキは美味かったです。かみ締めると春を感じさせる野草っぽい苦味とじんわり広がる出汁の味。一口食べてこれだぜ!!と思いました。祖母の定番惣菜の味。美味いね。でも子供には不評。まあそうだろうな。子供にはノルマを少なくした上で完食して貰いました。

全般に大人メニュー。出汁が効いて美味かったです。まあ成功、成功。
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