2009年6月7日日曜日

しょっぱい全粒粉パン、タマネギウィンナー炒め、煮〆大成功、再びパン仕込み

ええと、大恐竜展に行った朝の朝食ですね。
  
昨夜仕込んだ全粒粉パン。バゲットをイメージして塩を若干多めにしたのですが、見事しょっぱかった。
塩を馬鹿にしてはいかんですね。でもなんとか快適にいただけるレベルでひと安心。

 
あとは芋をふかしてウィンナーとタマネギを炒めました。芋は塩とかバターとかで頂いて(゚д゚)ウマー。

昼は大恐竜展。

夕食。お煮〆が食べたいと思ったんです。昼にジャンクフード食べたから。「娘に伝える私の味」のレシピによれば、具材を煮ては味を染み込ませ、引き上げ、別の具を入れてじっくり煮る、その繰り返しとのこと。ああ。なんと手のかかる料理だ。そんなのはさすがに作りにくいと思っていたんですけどやってみると案外楽でした。

まず干ししいたけを戻しておきます。それから600mlの出汁をやや濃い目にとって、砂糖100cc、しょうゆ200cc、みりん100ccを合わせ、干ししいたけを戻した水ごと入れてふつふつと火をいれておきます。決してぐらぐらさせないこと。

それからニンジン、ゴボウといった出汁がとれる野菜を入れて煮ながら鶏つくねを作ります。
 
つくねはひき肉400gに卵一個、それからしょうゆ、みりん、塩を適当に入れてこねます。かなりどろどろな感じになりますが、スプーンですくって煮汁に静かに落とすとばっちり固まってくれます。

 以上をくつくつと煮る間に
 レンコンをあく抜きして
 火が通った具を引き上げて
 どんどん煮ます。
 

里芋と焼き豆腐も同じ手順で。

で、完成。手間がかかると思ったら、案外簡単でした。結果的に手はかかってるんですが、実際には手抜き料理?位の感覚が不思議です。だって煮ながら材料を下ごしらえして、先に煮上がった具を引き上げて、下ごしらえの終わった具を入れる。最初に出汁の取れる具材を煮てしまえば、あとはグラグラ沸かせないことだけに気を付けて、ただ次々と煮ればいいのです。経済的かつ合理的な手法。しかも美味い。


アスパラ茹でてトマトを切りました。煮〆は予想以上に美味くてびっくり。根菜が腹いっぱい食べられて大満足でした。


これは明日のためのパン。久しぶりに甘めに作りました。

以上。
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国立科学博物館の大恐竜展行った

妻が徹夜で1Q84を読了したため朝からダウン。ばかめが。二人の子を連れて単身強行。

上野公園はもう人大杉。特にお隣の美術館がすごいことになってました。入場まで100分待ちの行列。さすがルーブル展。

館内はフラッシュをたかなければ撮影自由です(ただし動画は禁止)。国立科学博物館のサイトをみても特にブログに写真を掲載したら怒るよとか書いてなかったので普通に載っけてみます。

 まずは大恐竜展
正直アレ?な感じでスルー。マニアにはたまらないのかもしれません。

やっぱ国立科学博物館は常設展がいいっすよ。
 町で出会ったら逃げなきゃ
三葉虫とかね、もう釘付け。おなか減ったつまんない飽きたタコヤキ食べたい子供たちもおとなしく見てました。お父さん、人間の方が強いよね?ね?とか聞いてきて楽しい。

 
海の巨大生物たち。イカす。

 お約束のティラノサウルス。


帰路。

疲れましたが楽しかったですわ。
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2009年6月5日金曜日

アジ豆腐揚げ、ふかしジャガイモ、ピグレット、全粒粉パン仕込み、1Q84購入

今週も疲れたわい・・・

久しぶりにアジをバラしました。
 
んでもってブレンダーでミンチにして
 
しょうがをすりおろしたのと生協の大葉を刻んだのとしょうゆと酒と小麦粉と豆腐と味噌と八丁味噌入れて捏ねて、

 
揚げます。豆腐が多かったせいか、フワフワっとした感じでしたね。みそ味が効いてそこそこ美味かった。でも子供には不評に近い。おかしいな。オレの舌がおかしいのか。

以上。レシピなしのテキトー料理でした。キケンだ。アジと豆腐を始末せねば、と思ったら、適切なレシピがなかったもんで。


あとは蒸しじゃが。それから写真はありませんが小松菜を茹でてしょうゆかけただけのおひたし。

蒸しじゃがにバターやら塩つけて食べたのが一番美味かったよ。ああ。認めるよ。

 コスプレピグレット。これは何か?キュアアクアか?



翌朝のパンを仕込んで終了。冷蔵庫で寝かせます。私も一次発酵のようにぐっすりと眠りたい。

そうそう、村上春樹の1Q84を妻が購入したのです。楽しみ楽しみ。まずは妻が読んでます。次は私だ。
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2009年6月4日木曜日

b-mobile3g使用感(2)

買って1カ月経過しての感想。今後も変わるかもしれません。

(1)やはり月9時間は長い。十分すぎる。
前にも書きましたが、一日に数分のメールチェック×2回、ちょっとした調べ物という使い方だと全然減りません。実際に使ってみたところ、一か月で1時間強減っただけでした。あと8時間は弱は使えるんですねー。

しかし時間が限られている=ダラダラ巡回するわけにはいかない、と思うとWebのチェック対象って激減しますね。裏を返せば普段見なくてもいいページばかり見てるってことだな。やれやれ。いや、見なくてもいいページで当たりの情報を仕入れることもあって、一概にムダとは言えないんですが、あー時間を無駄にしたなーという巡回の方が多いのは事実。

実は月に9時間ですらオーバースペックだったか → 高くついたな、という印象につながっています。しかし、他の選択肢はないんだよなー。E-mobileチャージだってよほど神経質に使わないと高くつくし。

(2)接続時間よりもバッテリーの方が気になる
この感覚は予想外でした。ネットワークにつなげていると、バッテリーの減りが当然早い。驚くほどではありませんけどね。あくまで印象ですが、20%以下を切ったあたりからの減りが強烈な気がします。でもひょっとしたら気のせいかもしれません。もう少し使い込んでみないと。

しかし。今後バッテリーのモチ感覚と9時間/月を上手く使くことに慣れることによって、印象が好転する予感はあります。

投資した以上ブログで褒めたい、道連れ仲間を増やしたいというインセンティブは冷静に無視して、イケてる選択肢だったような気がします。ムリして言ってない。

しかしモバイル通信系の料金ってなかなか使い方を提案する域までには達していないな、という気がしますね。パケット制と定額制が基本だから差別化もできないのか。b-mobile3Gは料金体系はイケてると思うんですが、150時間は多すぎ。そしてイニシャルコストが高い。もう少し細かい選択肢が欲しかったかなー。2万円を切る価格で70時間16か月という製品があると売れると思うんだけどな。マジで。150時間16か月というのはヘビーユーザ向けという気がしまます。

私の希望する料金体系。メールチェックが中心だった月は500円程度で抑えたい。それなりに使った月ならは2000円くらい払ってもいい。だから安直ですが月に定額500円払って後は1分10円とかそんなプランがいいな。パケット課金は制御できないからイヤだ。安すぎますかね。月に1時間使って1,100円。これじゃ儲かりませんか?>通信キャリアさん。

1万円で2年間100時間使えるとか、そんなの商品ないですかね。リーズナブルな通信コスト現れよ!
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2009年6月3日水曜日

続「経済学哲学草稿」

★★★★☆☆:素直に読むと面白い

引き続き考えてみました。もはや書籍の内容とはほぼ関係がありません。

マルクスの主張にはかなり共感します。しかし行き着く先が止揚された共産主義というところは引っ掛かる。そこは短絡的な気がする。

実際、ソビエトや東欧が肥大した官僚主義と反自由主義のおかげで活力を失って行き、最終的には資本主義的を導入せざるを得なかった。その事実は強力です。

官僚主導の計画経済というのは面白い発想ではありますが、その計画も結局は官僚の欲望と政治に巻き込まれてしまい成功しなかった。官僚だって政治家だって不完全な人間だってことです。とすれば経済という巨大な欲望の絡む不可思議でカオティックな活動が上手く統制できるはずがない。

ま、そういう大局的な視点からだけではなく、個人的にも共産主義(私有財産の拒否とか計画経済とか、安直な意味での)はあまり楽しそうだとは思いません。

確かに金ばかりじゃない。でもさまざまな欲望入り乱れ競争があり、成功と失敗が繰り返される資本主義の方が楽しそうだと思う。欲望ってのはやはり人間の原動力であるわけで、その欲望が必ずしも醜い結果を生みだす訳ではない。

まず自分の才覚で最低限食って行けるだけの金を稼ぐこと。これはある意味真剣勝負のゲームなわけで、楽しいと言えなくはないんです。私にとっては。そして金を稼ぐ上で競争があって、その競争に勝つために効率的・戦略的に立ち回らなければならない。必死にならざるを得ない。これもまた面白い。

昔父が「お前公務員がいいぞ。公務員にでもなってくれれば安心するんだがな。安定してるし給料はいいし」と私に何度か言いましたが、全く興味がわきませんでした。せっかく仕事をするんだったら、もう少しスリルのある方がいい。どうせなら自分の力を試してみたい。若さゆえの無知と傲慢の感もありますが、基本的には今も変わっていません。マルクスちっくに言えば、それは自らを単なる労働力として、人間ではない単なるモノとして売り、生活費を稼ぐこと、すなわち望んで自らを疎外するという悲劇的な決意だったのかもしれません。しかし、やはり私にとってはそっちの方が面白そうだと思える。

私には欲望がある。そしてそれは私の人生を動かす巨大な原動力の一つです。明らかに。つまり単なる労働力ではありますが、私自身の欲望を持ち、それを実現しようとする意思も持っている。ちっぽけな存在でちっぽけな意思で、影響力なんかないかもしれませんが、とにかくやりたいことをやって生きてみたいと思う。

その欲望は、たとえば面白い仕事をしたい、いいものを作りたい、お金を稼いで自分の気に入るもの買いたい、自分の家族を食わせて行きたいという方向に向かっている。決して無難で安定した生活ではない。ウェルカムストレス。そうなってくると共産主義的な理想郷は私にはそぐわないように思えます。

それから金について。人間は金の使い方をコントロールすることができるはずです。あるいはまったく金にならなくても、人々の役に立ちたい、そういう人だっている。そんな人たちに期待してもいい。

要するにですね、資本主義の仕組みってそれなりに上手くできてると思うんですね。資本主義社会で生きるってのはスリリングで楽しいことなんじゃないか、と。でも、資本主義社会は巨大な金=欲望に左右される非人間的な仕組みを増幅するようなところがあると思う。ぼーっとしていると身ぐるみはがされるようなところがある。だから、資本主義社会を標榜するのであれば、セイフティネットなどの弱者救済の仕組みはちゃんとしないといけないんじゃないかと思うわけです。それから(駆け足なのでロジック弱いですけど)極端な富の集中も明らかに良くないと思う。社員の首切った経営者が何億円の報酬をもらうってどうよ。そこに金の使い方をコントロールする余地はなかったのか?あるいは外部から何とかする方法はなかったのか。

資本主義の裏には歯止めのきかない欲望が後ろにうごめいている。だから資本主義って本来うしろめたいものだと思います。そのうしろめたさを忘れてはいけないんじゃないか。

そんなことを考えました。
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2009年6月2日火曜日

「経済学哲学草稿」

★★★★☆☆:素直に読むと面白い

■「経済学哲学草稿」カール・マルクス 岩波文庫

カール・ザ「資本論」・マルクスです。ここ10年ほど積ん読状態でしたが、このたび気合い入れて読んでみました。

いや意外に現代的。マルクスさん、すみませんって感じで。

この人熱いですね。しかも言うことはかなりまとも。「世の中金だけじゃないよね」「金に目がくらんでるとロクなことにならないよね」と常識的に(常識ですよね?ね?)考える人が当たり前に考えることを書いてます。例えば・・・

給料の額は常にサラリーマンより経営者側に都合よく設定される。
商品の価格が下がればまっさきにサラリーマンの給料が減らされる。
一方で商品の価格が上がってもサラリーマンの給料は増えない。
そして金持ちはどんどん資産を膨らませて行くし、一般のサラリーマンあるいは小金持ちはどんどん貧しくなって行く。
それっておかしいんじゃないの?どうよ?

全くその通りだと思うな。

高度成長期のときには鼻で笑えたかもしれません。でも今あらためて読むと、アレレこの通りだよと思ってしまいますよ。マジで。

産業革命の後、イギリスでは女性や子供が長時間、劣悪な環境で、低賃金で働かされていたらしい。生存のための最低限の賃金しか与えられず、当然住み家も食事もヒドイもの。売春して生活費を稼ぐようなことが当たり前に行われていたように読み取れます。翻って現代の日本。

若い正社員は数字を叩き出すために馬車馬のように働かされ搾取され続ける。サラ金に手を出して破産した主婦が売春している。儲けているのは一部の金持ちばかり。

マルクスの批判が当てはまるのもむべなるかな。多少強引ではありますが。

マルクスさんって別に夢のユートピア社会をとうとうと語った人ではありません。むしろ資本主義を研究して、それがいかに労働者から生活と人間性を奪い、下劣な資本家を増幅させるか警鐘を鳴らし続けたた人です。そして、マルクスに限らず、労働者の貧困と劣悪な環境を訴えていた学者が同時代にも大勢いたようです。つまりマルクスが特に異端だったわけではないってこと。

確かに彼の指摘は現代日本に直接当てまりません。例えばマルクスの時代とは異なり、単純労働者だけではなくドラッカーのいう知的労働者がかなりの割合を占めている。単純作業によってではなく、持っている知識とか頭脳によって成果を出す仕事が増えている。また法律によって子供を働かせることが禁止されている。となれば。どうせ子供を働かせることが禁止されているなら、子供をしっかり教育させた方が将来成果を出させることができる。

さらに知的労働者の生産性は人によって大きく異なる。人が貴重なリソースとなる。玉石混交ではあるものの、優れた人材は高い給与を出しても欲しい。

昔のように単純作業に弱者を従事させて、資本家が利益を享受するような構造はなくなり、より複雑な洗練された構造が出来上がっている。

そして労働者=一般消費者=市場というターゲットが出来上がっている。一方的に搾取されるのではなく、労働者の収入が好景気/不景気を左右する要素になっている。

だからマルクスはダメだ。古臭い。というのではないです。むしろ逆にマルクスの問題意識は常に有効だし、マルクスの「こうあるべきだ」という主張は常に振り返られるべきだと思います。

現代は、マルクスの描いた理想郷こそ実現しなかったのの(ソヴィエト・東欧の崩壊)、マルクスが指摘したような貧富の差の拡大・人間性の喪失・子供の減少という事象は一層拡大しているわけです。もちろん好ましいもんじゃない。どうしてそうなったのか、あるべき世界はどうなのか、というのを今一度考えようとしたとき、マルクスの熱い態度は大事だと思いますよ。ホントに。それにブータンだとかキューバって、人間がギスギスしてないっていうからね。やっぱ金ばかりじゃないんだよ。キレイごとじゃなくてさ。金金言うなよ。もう。ホントに。いい加減にしてくれよ。

#蛇足ですが日本共産党はビミョウだと思ってます。いい意味でも悪い意味でも品の良いインテリな新興宗教って感じですからね。いや、がんばって欲しいとは思いますが。

マルクス主義。バカにできません。・・・が、立派な思想が思考停止に短絡的に結び付くのもよくあること。それだけは要注意ってことで。

まあ、とにかく、以上。
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時事ネタ(あのねのね)

私がこんなところで書いてもしょうがないことなんですが。ってそれを言えばこのサイトの投稿はすべてしょうがないのかもしれませんが。やれやれ。

あのねのねの人が銃刀法違反で事情聴取されたとのこと。また銃刀法違反のあいまい運用の犠牲者か哀れな話だと思って本文読んだら何とテレビ番組出演中に猟銃を持ったからとのこと。もうねアホかと。わが国の司法っていったいどうなっているのか。法律の運用はどうなっておるのか。呆れるよ。税金返せよ。
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2009年5月31日日曜日

お好み焼き、肉団子、野菜の鶏ササミ巻き、サツマイモ甘煮、もやしと小松菜と豚肉のオイスターソース炒め

今日は子供の運動会で大変でしたよ。

まあそれはさておき淡々と食事の記録。まずはお好み焼き。


まずはしっかり濃い目の出汁を取ります。

 これは麦だか芋の焼酎お湯割り。涼しい陽気にどんぴしゃ。

  
混ぜたり焼いたり。すりおろし長芋、余ったコーン、干した小エビが入ってます。

 
で完成。普通に美味いお好み焼きでした。焼酎のお湯割りが進んだ。

 翌日は娘の運動会。弁当用の肉団子を仕込んでから寝ます。
翌朝6時前に起床。こんなに頑張らなくてもいいんだよな。と頭では思いながらも、美味しいお弁当を作らねばというプレッシャーに追いかけられる自分がいて。

 
肉団子。昨夜仕込んだ種を丸めて片栗粉をまぶして揚げました。
サツマイモは砂糖で煮て仕上げに薄口しょうゆで調味。
肉巻きはアスパラとインゲンとニンジン(スティック)を硬めに茹でておいたのを、鶏ササミを観音開きして叩いて梅肉を叩いたものと巻いて、ビタクラフトで焼き蒸ししました。
子供からも好評。

運動会が終わって。お弁当どうだった?おいしかったでしょ?と聞いてみました。うん。おいしかった。でもみんなデザートがついてた。と少し悲しそうな娘が言う。ああああ。そんな落とし穴があったかああああ。やはり男はそういう細かいところに気か利かないのかああああ

運動会が終わった日の夕食。唯一作ったのがもやしと豚肉のオイスターソース炒め小松菜入り。汁っぽくなってしまったのであわてて最後に片栗粉でトロミを付けました。結果オーライ。

これをインスタントラーメンに乗せて娘たちに供し、大人は出来合いの寿司をつまみました。

いやあ、今週末も疲れた、疲れた。
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2009年5月30日土曜日

読書(「使える現象学」「差異と反復(上)」「龍樹」)

個人的メモな感じで。

■「使える現象学」 レスター・エンブリー ちくま学芸文庫

★★☆☆☆☆:実践的ではあるが・・・

そこまで精緻に考えるか。ついて行けない。体力的にムリ。やはり食べているものが違うからか。ゴボウとか食べてたら現象学的な思考にはついて行けないんだ。肉食わないと。

現象学的方法論で周りを見ていると、自分の周りの世界が認識の習慣で成り立っていることが分かるかもしれない。それはそれで面白いでしょうが、それに気がつくプロセスとしては現象学は大仰過ぎるし遠回りすぎかな。まあ適当に方法論をつまみ食いして簡便なフレームワークとして利用するあたりが要領がよくて賢いと思われます。アカデミックな方面から反発がきそうだけど。でも人生は短い。誤解でもいいから適当に利用した方が効率がいい。煩瑣な議論は学者の皆さんにお任せ。

何とか読了。でも後半はほとんど流し読み。

2009/7/14に再読しました。

■「差異と反復(上)」 ジル・ドゥルーズ 河出文庫

☆☆☆☆☆☆:デリダ、ドゥルーズをありがたがる必要はない

何言っているかさっぱり分からない。でも何か興味深いことを言っているような気はする。読んでて小難しいけどありがたい話が載っているような気がする。すなわち読む自分に自己満足するような感じ。それだけでも貴重かな。

同一性と差異という根本的な問題意識を徹底的に考えている感じ。時折(50行あたり1行くらい)ハッとするような箇所がある。それを手がかりにやみくもに読んでいる。到底理解できるとも思えないけど、読了すれば何かが得られそうな予感はありつつ・・・。あああ。やっぱダメ。ついて行けない。これもまた食べているものが違うからか。(安直な理由付け)

養老猛司氏が「要するに同一性なんて脳の機能だろ」というところで片づけているところをものすごい体力かけて分析し、哲学史を再構築してる感じ。付き合ってられなくなって挫折。ムリっす。

■「龍樹」 中村元 講談社学術文庫

★★☆☆☆☆:あまり心に響かない

東洋の思想はまたわけわからんですね。一切のものは空である。そしてまさにそうであるがゆえに一切のものは空ではない。みたいな。確か金剛般若経も全面的にそんな感じ。どうみても矛盾だろ。でもあまりに明らかに矛盾してるので、なんか考えてみなきゃならんのかな、と思わせる。

西洋と比べて言葉に対する思い入れ度が全く違うのがよく分かります。まあ、あっちのロゴスは神の作りたもうたものだしな。反対に、東洋では言葉に対する不信感というか言葉に限界を感じている様子。

ちょっと気になったのは、法=ダルマに関する叙述。

般若心経に「不生不滅不垢不浄不増不減」などとあって「生まれることもなければ滅することもない。汚いということもなければ清いということもない。増えることもなければ減ることもない」などと普通訳されます。東洋的でアタマではいまいちよく分からないわけですよ。対立概念を出して、両方とも違うんだと。何となく聞くと、はあそういうもんですか、と思いますが、少し考えてみるとおかしい。

で、この「龍樹」を読んでみると、仏教思想史上、法=ダルマってのが実在的に捉えられたことがあったらしいんですね。どういうことかというと、確かに個別の存在は無常ではかない。でも、極端を言えばすべての実在は無常であるかもしれないが「無常」という*コト*は普遍的に存在するんじゃないか。そうじゃなきゃ、すべては無常だなどと言えないわけですよね。言い換えると無常が常に存在しなけりゃあ「一切は無常である」という命題が真理であるとは言いえない。この無常ってのは個々のモノではないわけです。すなわち個々の実在の上にあるような存在。すなわち法。だから法ってのは個別の案件を超えて実在するんじゃないか、そういう思想です。(と私は理解しました。便宜的に。)

そう考えると、逆に「不生不滅」ってのが面白くなってくる。つまり、法なんて実在的にとらえるんじゃないよ、そういう観点ですね。(一応時代的には逆転してるんですけどね。法=ダルマ=実在、という発想はゴーダマ・ブッダ以降の解釈なので。まあその辺の細かいことはええやないか)。

つまり「生まれるということそれ自体=法」も、「滅するということそれ自体=法」も存在しないのです。ただ生まれ、滅するのは、他ならないあなたという存在なのですよ。あなたはあなたであり、生まれたとか滅するとか、汚れているとかききれいだとか、増えるとか減るとか、そういう風に簡単に一般化できない存在なのです。

だから世界の中には、色彩などというものもないし、何かを受け入れるということもないし、想うこともなければ、行動するということもない。認識することもありません。眼もなく耳もない。鼻も舌も身体も意識もない。・・・ とかと続くわけですが、これは一体何をいってるんでせうね。言葉の否定か。うむむ。

やはり般若心経は面白い。単なる言葉遊びじゃない気がする。でも仏教って論理的にシステマティックじゃないので、勉強すれば分かるっていうものでもなく、そういうあたりがまた興味深いのかもしれません。

■まとめ

やはりその50%以上を「誰それはこう言った。一方誰それはこう言った」という引用が占めている書籍は信用なりませんし、読むのは時間の無駄ですな。昔から何となく思っていたことだけど。

すなわち批評とか評論とかのほとんど99.9%以上は読むに値しない。断言しとく。ジル・ドゥルーズもそうだったよ。すみませんね。ブタに真珠で。でもこのブタも一応考えるブタでして。

中村元。仏教系の原点を当たろうとするとどうしようもない権威なわけですけど、やっぱりアカデミックな文献クリティークがメインな人のようで、はっきり言って読んでてどうかなって感じです。哲学的読解力にも疑問符がありますよ。ええ。言いますよ。ブタに真珠のブタの方かもしれませんけどね。アカデミックに評価されているからといって、その書物が私にとってどうかというのは別問題です。

やっぱり、他人の言葉に頼らず、自分の言葉をコツコツ積み上げる人の方が好きだな。ジル・ドゥルーズが凄いってのは分かるけど、衒学的な匂いが鼻につく。市井の人間には時間の無駄という気もしてしまう。ハイデガーの方がずいぶん上だと思うもの。

ああ、言ってみてすっきりした。権威は一度疑ってみるべし。
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朝食(全粒粉パン、キャベツ炒め卵のせ)

例によって淡々と進めます。

 
飽きもせずに夜にパンを仕込みます。今回は砂糖少な目にしてみました。普段粉300gに対して大匙2.5杯のところを1杯弱。ゴマバタースプレッドとイチゴジャムで食べる予定なので、パンの甘さを控えたわけです。バターは多め。バターの塊から削ったとき、何となく多めになってしまったから。しかし「バターの塊」ってなんだかグリム童話みたいな雰囲気だ。

 翌朝。OK。  切って二次発酵です。

 
焼くといい感じ。一口齧ってみると思った以上に甘さ控えめでちょっとビビりました。子供たち大丈夫かな。これまでのパンが甘すぎたってことだな。

あとはキャベツとニンジンをガッと強火+ウスターソースで炒め、真ん中に広場を作って卵を割りいれ、蓋をして蒸し焼きにしたもの。思いつきでテキトーに作ったんですが、案外美味くてよかった。

パンの方もスプレッドやらバターをつけるとちょうどいい感じ。子供も問題なし。考えてみれば市販の食事パンもそんなに甘くないですしね。

以上。
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2009年5月29日金曜日

緑茶はうまい

かなりどうでもいい話。

グラム2K円のお茶が思ったより早く切れたので今度はグラム600円くらいの有機栽培緑茶を買いました。違い?わかりゃしません。まあ高い方がマイルドでしたね。甘みも強かった気がする。でも600円のも旨い。

グラム2K円のお茶を1000円分(=50g)買ってみて、やはりこういうのは最初からいいものを試すべきだな、と思いました。まず安い方で、というやり方は大抵いい結果にならない。グラム2K円(しつこい)と言ったって、1000円分を20日で消費したから一日にすれば50円。朝二杯位のんでついでに300mlほど水筒に詰めて(色は変わりますが味は大して落ちません)、それで一日50円なんですから決して高いとは言えない。

コーヒーよりも体の負担は軽いし、いい感じで緑茶生活を楽しんでいます。

あ、それから静岡で育ったことのある妻によると、緑茶は有機もしくは無農薬栽培がお勧め、とのことでした。驚くほど大量の農薬を散布している脇を通学していたかららしいです。しかもお茶の葉っぱは洗わないんだそうで。

以上、どうでもいい話でした。
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2009年5月28日木曜日

ある日の朝食(厚揚げとキャベツのオイスターソース炒め、八丁味噌とみょうが入り味噌汁)

妻が深夜まで仕事したため朝起きられず、私が朝食を作ることに。

  
左上から時計周りに厚揚げ[油抜きして切って水分飛ばしているもの]、茹でほうれん草、ニンジン、キャベツ、みょうが、油揚げ、卵、調味料。

卵をさっと炒めていったん引き上げます。油を熱して牡蠣風味調味料を炒め、キャベツと厚揚げとニンジンを炒めてオイスターソースを投入。一品完成。

それからほうれん草とみょうがと油揚げの味噌汁八丁味噌入り。出汁をしっかり取りました。八丁味噌、通常の味噌と1:3程度で入れたら美味かった。子供が二人とも汁をお代わりしたから間違いない。(普段は具だけ食べるのだ)

まあこんなもんで。
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小手先のプロジェクトマネジメント

プロジェクトを運営する時は現場と適切な距離を取ることが重要です。

現場に近づけば、メンバーのワークロードやプロジェクトの細かい問題が見えてくるというメリットがある一方、細かい意思決定に拘泥してしまい大局的な判断や優先付けができなくなる、というリスクがあります。現場から離れるた場合はその逆のことが起こります。

メンバーのワークロードや抱えている問題にアンテナを張りつつ、大局的な優先付けができること。つまりカラダは近く、アタマは遠くに。これが理想的な距離です。

感覚を現場に近づけるためにはまず現場に密着することです。メンバーとコミュニケーションを取り、彼らが抱えている問題を理解し、彼らのワークロードと、それぞれの力量を把握する。プロジェクトを進めるに当たっては不可欠の情報です。

情報が多すぎるならフィルタすればいいわけです。フィルタするのはアタマの仕事。メンバーが細かい問題で悩んでいる。そんなことで作業が止まっているのか、とあきれることもある。でも何も入ってこないとどうしようもない。なんか細かいことをぐだぐだやってるな。チッ。と斜に構えるマネージャーには、誰にも相談なんてしません。メンバーの立場にカラダを運んで話を聞いて、カラダでメンバーの話を聞いて、アタマで現場の状況をつかむべきです。

しかしアタマの能力が優れた人=抽象的思考能力に長けた人がプロジェクトマネジメントの経験を積むと、どうしても現場の技術的な問題や判断は軽視しがちになる傾向があります。要するにこういうことだろ。だったらこうすればいいじゃないか。

でも抽象的な因果関係ではプロジェクトは動かない。下っ端メンバーはそれが体で分かっている。うまく行くはずがうまく行かない。思ってもみなかった障害が発生して慌てふためく。

そこにこざかしいマネジメントが入って*事後的に*何だドキュメントを読み込んでなかったのが原因じゃないか。何で前もってドキュメントを読まないんだ。サポートに聞けば分かったことだろう。どうしてあの時確認しなかったんだ。などとを言えば、メンバーのモチベーションは下がって行くばかりです。だからメンバーが細かいカオスの中でどうあがいているのか、マネジメントは知っておくべきなのです。

エンジニアを信頼してゆったり構える。それができるかどうかでそのマネジメントの優劣が決まります。目指す要件(設計)は共有できている。認識もあっている。どうせ細かい技術的なことは分からないんだし、任せてしまおう。信頼した以上、そいつがミスした後の始末をするのがオレの仕事だ。腹を括ること。これがマネジメントの取るべき態度の一つです。事後的に賢しらに説教すれば、メンバーの心はどんどんと離れて行くだけ。

一番マズいのは現場感覚も経験もないマネジメントです。いや、それだけではありません。多少経験を積んだとしてもこざかしい理屈でプロジェクト回そうとするマネジメントも問題だ。

何せシステムを構築する、という感覚が分かっていない、あるいはその感覚を忘れていてアタマにあるのは「ああすればこうなる」のキレイごとばかり。だからプロジェクトがどう回っているのか、定性的に評価できない。こうなってくると頭の良さ=抽象的思考能力の優秀さなどむしろ邪魔なだけです。個々のタスクの重みが分からない。メンバの仕事が正しいのかも分からない。メンバがふと気を緩めている時に何をなすべきか分からない。こんな時に彼らが思いつくのが「見える化」とか「数値化」というダメダメ方法論です。現場を取り仕切るマネジメントがこんなものを信じちゃいけません。この手の方法論は、システムの構築を分かっていないお客さんに「見せる」ためのフィクションに過ぎません。マネジメントはプロジェクトの進捗を定性的に把握した上で、顧客には定量的にその進捗を見せる能力が必要です。でもプロジェクトが分かってないから自分も数値の方を信用してしまう。顧客と一緒に数値が全てだとと思い込んでしまう。WBSが全てだと思ってしまう。

何を言ってる。数値化もしないで、WBSもなしでどうやって管理するんだ。ごもっともな反論ですな。しかし同じことを現場感覚のあるマネジメントが言うのと、こざかしいマネジメントが言うのとでは天と地ほどの違いがある。

すぐれたマネジメントはWBSや数値をプロジェクトを進めるための手段として使うことができる。逆にダメなマネジメントにはそれらが目的となってしまう。

すぐれたマネジメントはWBSを使って顧客に進捗を説明し、重要なタスクに人を割り当て、不要なタスクをリストラします(これが重要かつ困難)。ダメなマネジメントはWBS上の数字のつじつま合わせにしか意識が向かない。

ツールを作ったら作りっぱなし。単に進捗をトラッキングするだけ。遅延が出れば優先度もなにもあったものではない、徹底的にエンジニア締めつけるだけです。優先度を評価して洗い変えることもしません。というかできない。定性的に評価ができないから。タスクを消すなどもってのほか。タスクを減らす?そんなことが説明できるわけがない。むしろ増やした方が安心する。そしてどんどんタスクを作り、エンジニアに投げるだけ。

すぐれたマネジメントは数値を利用してうまく顧客の目を重要な課題に向け、どうでもよいタスクからフォーカスを外します。

ダメなマネジメントは障害の件数をカウントして上から目線でグラフ化するだけ。課題が"1"件あったとして、その"1"が気になってしょうがない。課題の内容などどうでもいい。その"1"件が消えないことだけが引っかかる。そしてそれを消せとやはりプレッシャーをかける。でも自分で消すという判断はできない。

WBSなど各種の管理ツールの裏にある、実体としてのプロジェクトが分かっていないと、まともにプロジェクトの運営ができるはずもありません。管理ツールを作り、それをメンテナンスするだけでプロジェクトを運営していると思い込んで安心する。そんな小手先のプロジェクトが幸せな結末を迎えるはずがありません。

現場を見ること。次に管理ツールを*手段として*有効に使うこと。それがプロジェクトを上手く回すコツだと私は思います。
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2009年5月27日水曜日

子供たちへ

家から駅までの通勤ルート。通学路と重なっている道があって、小学校低学年の子たちをよく見かけます。たぶん私の出勤する時間が高学年が登校する時間よりは少し早いから、低学年の子が多いのでしょう。みな小さくて可愛い。思わずにこにこしながら歩いてしまいます。彼(女)らが小さいだけ、高学年の子たちの大きさが際立ちます。これで小学生か?と思うこともしばしば。

低学年の子たち。何人かで集まって登校しているのが6~7割くらいでしょうか。ひとりで登校している子は少ない。親しい子同士で誘いあって登校しているのでしょう。

確かわが娘も頑張って友達を誘っていた。一時期何となく友達とうまく行かなかったのか、一人で登校していて気を揉んだ時期もありました。子どもたちの付き合いもまた難しいようです。

通勤途中すれ違う小学生の中に、黒人の女の子がいます。肌の色は中途半端なブラウンではなく鮮やかな黒色です。可愛いパステル調の服からすらりと伸びた黒い手足。その子が前から歩いてくると遠くからでも目を引きます。でもじろじろ見るのも失礼だから、何となく目を伏せる。でも目を伏せるのがかえって申し訳ないような気もして、やっぱり何事もなかったように前を向いたり。そんな感じでいつもすれ違っています。

そしてその子がいつも一人で登校してるんです。どうしてかな。やっぱり肌の色が違うから、友達ができにくいのだろうか。すれ違うたびに何となく気になります。お母さんは心配してるだろうな。やっぱり肌の色が違うから友達ができないのかなって。

この間、何気なくその子の顔を見てみました。どんな子だろう。どんな顔をして登校してるんだろう。おずおずと彼女の顔を見る私。なんとなく申し訳ない感じがしました。何が申し訳ないんだろう?

そして初めて見たその子の顔。ハッとしました。目が綺麗だったんです。黒い目がしっかりと前を向いていました。まっすぐに。毅然としたまなざしと表現するにはまだまだ子供っぽい。かすかに悲しみとか辛さが見てとれるような気もします。でも、何か遠くのものを、しっかりと、そしてまっすぐにとらえているような、大きくて黒い、きれいな目でした。

私はその目を見て少し安心しました。うん。大丈夫。きっといい友達ができるよ、と。肌の色なんて関係ない。確かに肌の色のことで嫌な思いをすることもあるだろう。でも嫌なことばかりじゃないと思う。大切な出会いや素晴らしい出来事はきっとある。辛いことはいくらでもあるだろう。おじさんだって辛いことばっかりだよ。でも素敵なことだっていっぱい見つけられるんだよ。その子に話しかけるわけにはいきませんでしたが、そんなことを思いました。
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2009年5月24日日曜日

キンピラとかナゾ料理とか

ズボラ主婦の適当料理」は結構強力ですね。文体が伝染るレベルのブログは珍しい。時折とは言え爆笑させられるセンスもまたスゴい。しかし、読んでて元気になるタイプのブログじゃあないですね。って人のことはまったく言えないけれど。超ユル系というか、なんか頑張ってもどうしようもないよな、ははは。みたいなブログ。アテられてしまったのか昼食のタイミングと内容がアレだったせいか、イマイチ気合が入らない夕食となってしまいました。ちなみに朝食は昨日のカレーの残り。美味かった。昼食はパン屋で買ってきたバゲットに、義理の弟夫妻から頂いたジャムやらスプレッドを塗って食べたもの。バター入りゴマスプレッド美味かった。

  
夕食は豚入りゴボウキンピラと、ナゾ野菜炒め(見切り品50%OFFパプリカと同じく50%OFF赤ピーマンとキャベツの八丁味噌炒め(隠し味がウスターソース))。結構ビミョウ。大人的にはまあこんなのもたまにはアリじゃない?レベルですが、子供的には臭い。まずい。食べたくないとのこと。決して私は寛大じゃないけど、まあ許すよ。あとは冷奴とスライスタマネギ。子供は冷奴(ちうか木綿豆腐にしょうゆかけただけのもの)を美味い美味いと食べてました。一番美味かったってさ。今日はかなり気合が入らなかったからしょうがないか。まあ昨日の疲れを取ったと思えば。さっさと寝ちまおう。

以上。
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